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2016年2月

2016年2月27日 (土)

アダム徳永追伸:2:44 2016/02/27 早漏の克服は現代の元服式です。まずは「病気だから治らない」とか「体質だから変えられない」といった、従来の間違ったイメージを頭の中から消し去ってください。早漏は単なる現象に過ぎず、決して病気ではありません。


引用


2016年5月 2日 (月)歯までガクガクと痙攣するようなオーガズム。こんな世界があるなんて!それからの私は、もう何をされても、叫びっぱなしです。私の頭と体は、ただの「女」としての欲望の命じるままに「男」としての先生をひたすら求め続けていたような気がします。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/05/post-6255.html

8:15 2016/05/02

2016年3月30日 (水)


アダム徳永

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/03/post-c463.html

10:25 2016/03/30


http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/03/post-d7c7.html


アダム徳永スローセックスをマスターしよう★プライベート講習のお問い合わせ楽器演奏者が指揮者とともに結束し、一つの壮大な音楽をつくり上げるオーケストラ。繊細な弦楽器から始まった演奏が、最後には大きなホールを揺るがすほどのクライマックスへと駆け上がっていく。実に感動的です。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/post-d649.html

5:53 2016/01/21


先日プライベート講習を受講されたご夫婦からメールが届きました。今日はこのメールをご本人の了承のもと紹介したいと思います。☆☆

アダム先生この度は親切に私ども夫婦に指導してくださりありがとうございました。実は受講後ずっと夫婦ともにものすごい眠気に襲われています。

なにか正体のわからない緊張がとけたようです。不足していた何かを解消しようとしているかのようです。

 

実はその眠気のせいで講習以来まだセックスはしていません。しかしふたりの間に出逢った頃のようなほんわかとした空気が戻っています。アダム先生にもお話ししましたが、以前夫を亡くした80歳をこえる女性から夫と良いセックスが出来なかったことへの恨みと無念のことばを聞きくことがありました。しかも別な機会に二人からです。

すでに50代半ばの私でしたが、そのとき内心とてもショックでした。そしてこのまま諦めてはいけないと思いました。夫とは一昨年まで10年間セックスレスでした。そのことがきっかけで昨年ようやくセックスを復活させることができました。

ただ1年間で5回ですが…そして今のタイミングしかないと思い以前から知っていたアダム先生のプライベート講習を問い合わせをしました。

しかし講習料金の高さに「私どものような低収入の人間が望むこと自体贅沢なのだ」と絶望に近い思いを抱きました。

そして一度はあきらめようと思いました。でもこのままでは、私は80歳の女性と同じように夫を恨むようになるかもしれない。アダム先生のような方が、この時この日本において、講習という形でセックスの貴さを伝えておられる。大変なことを決意し実行しておられる。私はその巡り合せの奇跡を感じました。そして理性的判断をやめて心の思いに従いました。

私は講習申込みのため、なにがなんでもお金を貯める決意をしました。定期支出以外すべて切り詰め、服も化粧品もいっさい買わず、美容院へも行かず、老後への貯金も停止、それでも1年はかかると思っていましたが、思わぬ臨時収入があり8カ月で目的額が溜まりようやくアダム先生のプライベート講習受講が実現しました。

講習では私たち夫婦は、セックスレスの期間以外も回数も少なく未熟なセックスであったため、先生も苦戦されました。

他の受講生の方々のような劇的なオーガズムを感じる体験はできませんでしたがなにより気持ちが楽になりました。いままで夫には1時間以上尽くしてきましたが、始めて夫から時間をかけて愛撫されたときは本当に感動しました。またセックスをしてこなかったために、互いに性的エネルギーが枯渇しているのがオーガズムを得られない原因と先生から教わりました。

そのことを夫と一緒に教えていただけたことがとても大きかったと思います。まずはお互いにエネルギーを満たしていくこと。それが今の私ども夫婦の課題です。80代になっても無念の思いを胸に秘めている女性はおそらく多いと思います。そのことをセックスで悩んでいる女性や多くの男性に知ってもらいたいです。

 

女がそのまま一生を終えるのは辛く悲しいことです。男性もまた人生の大いなる損失であることに気づいていただきたいと思います。この度はプライベート講習を受けさせていただき本当にありがとうございました。悔いのない人生を夫とともに歩めそうです。また自分の勇気と決断を誉めてあげたいと思います。

山本幸恵(仮名)54歳☆☆

幸恵さんは54歳とは思えないとても綺麗な女性でした。控えめで夫にたいしてとても献身的なのがお会いした第一印象です。ご主人は仕事一図に頑張ってこられた実直なお人柄の男性です。奥様の申し出に応えてあげる優しい方でした。正直なところご主人のセックスの未熟さがセックスレスの原因です。女性の愛し方を知らなかっただけです。講習ではご主人は熱心にスローセックスを学ばれました。ご夫婦にとって初めて愛し愛される体験された次第です。この経験が二人の人生に幸せをもたらしてくれることと確信しています。

もしあなたがセックスでお悩みなら山本ご夫妻のようにプライベート講習を受けてみてください。あまりある価値を手にすることができますよ。なぜならスローセックスは神さまからのギフトだからです。

 

ぜひ悔いのない幸せな夫婦生活を送ってください。プライベート講習のお問い合わせは以下より。

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アダム徳永追伸:2:44 2016/02/27 早漏の克服は現代の元服式です。まずは「病気だから治らない」とか「体質だから変えられない」といった、従来の間違ったイメージを頭の中から消し去ってください。早漏は単なる現象に過ぎず、決して病気ではありません。

つまり「治す」ものではなく、トレーニングという努力によって「克服」するものなのです。

それと一つ記憶から消去していただきたいものがあります。それはこれまで男性社会の中で「これをすれば早漏が治る」と信じられてきた、早漏克服法と名が付くものです。たとえば天井のしみを数える、頭の中で九九を暗唱する、早漏防止クリームを塗る、お酒を飲む、イキそうになったら玉袋を引っ張る、ペニスを乾布摩擦するといったところでしょうか。

ちなみに私はかつて、今挙げた方法をすべて試しました。

私に限らず、

早漏に悩む男性はそれぞれ

涙ぐましい努力をされます。

 

しかし期待したような効果が出ないため、

結局あきらめてしまいます。

 

さんざんいろんなことを試したものの、

早漏は一向に改善される

「体質だからもう治らない」と、あきらめモードに入ってしまいます。 これが男性から自信を喪失させるパターンです。

 しかし違うのです。何を試してみても

よい結果が出なかったのは、あなたの努力が足りなかったからでも、あなたの体質のせいでもありません。方法が間違っていたのです。いま世の中でまことしやかに語り継がれている「早漏克服法」なるものは間違い。

 私自身が積年の悩みを解決したとき、それに気がつきました。あらためではっきりさせておきます。正しいトレーニングをすれば、必ず早漏は克服できます。

 誰でも三擦り半で果てていたのを「一時間以上でも平気」に変えることができる。

 これが真実です。早漏克服の方法は

有料動画配信の『VOL.5 自由自在!!射精コントロール法 』

http://adam-tokunaga.com/1715/

で学ぶことができます。ぜひ早漏を克服しスローセックスを愛する女性と堪能してください。 

11:23 2016/02/26


 幸せのために生きる。「そんなことは他人から言われなくてもわかっていることです。」あなたはそう思うかもしれません。しかし「こんなはずじゃなかった」と、現実の結婚生活に悩んでいるご夫婦が非常に多いのが事実です。なぜ幸せを感じられないのか。それは結婚生活を漠然と考えてきたからです。

 それでもあなたは、「幸せのために結婚した」と言うかもしれません。確かにそのフレーズの中には「幸せ」という文字が入っています。しかし幸せになるための行動が反映されていたでしょうか。なぜ幸せな夫婦生活や夫婦関係が築けないのでしょうか。それは幸せの価値観が漠然としたものでしかないからです。人生にとって最も大切な幸せの概念や意識が曖昧でぼんやりしたものだからです。

 漠然とした夢は叶いません。同じように漠然とした幸せは叶いません。この当たり前の法則が結婚生活に活かされてないのです。これはセックスも同じです。

スローセックスを経験すると、快感の先に幸福感があることがわかります。この幸福感は射精の時のウッという程度の喜びとはちがいます。ジャンクセックスでは決して到達できない領域です。スローセックスの正しい技術を習得することも必要です。

しかしもっと大切なことは、夫婦が「幸せになるためにセックスをする」という意識を持つことなのです。幸せを意識して生きるということ。どうすれば幸せになるのか。そのことを真剣に意識して生きることが大切なのだと思うのです。

アダム徳永

追伸:過去のメルマガ閲覧の件でパスワードを『Adam』と記載してきました。

実は私のミスで間違っていました。正確なパスワードは『Slowsex』です。

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8:51 2016/02/25


 言葉はときに強力なイメージをもたらすことがあります。そのことを端的に示すのが「前戯」という言葉です。皆さんは「前戯」という言葉にたいしてメインディッシュの前の前菜のような印象を持っていませんか。挿入行為が「本番」で前戯は「おまけ」という印象です。

 そのために世の多くの男性は前戯に時間をかけずすぐに挿入しようとするのです。ですから私は「前戯」という言葉がもたらす悲劇を無くすために「愛戯」という表現を使っています。愛戯だと前戯と挿入という区切りを無くすことができるのです。ぜひ皆さんも前戯から愛戯という言葉に切り替えてください。ちなみにスローセックスの基本は、何だと思いますか。

それは時間を忘れて楽しむことです。しかし現実的には時間の制約はあります。疲れたから早く寝たいものです。明日に朝イチの会議があれば遅くまで起きていたくはありません。時間に縛られる事情はいくらでもあります。スローセックスをしたくてもなかなか時間をかけてはいられません。

そこでスローセックス初心者のために時間の目安についてお伝えします。愛戯30分で交接30分これがスローセックスの目標値です。愛戯30分にはフェラチオなどの女性からの愛撫は含みません。

あくまでも男性がアダムタッチや女性器愛撫にかける時間です。女性の性感脳を開花させ性感ルートを開くための最低限必要な時間です。初心者の男性にとって最初は時間が長く感じられるでしょう。

けれどもアダムタッチを正しくマスターすれば、女性はいままであなたに見せたことのないような、それはもうエロティックな官能美を披露してくれます。30分などあっと言う間です。交接30分も、激しく腰を動かすだけがセックスではありません。

 カラダがつながった状態でたゆたうようにしながらキスを愉しむのも挿入の醍醐味です。愛戯30分・交接30分の目標が短く感じられるようになったら初級コースは卒業です。今度は愛戯1時間・交接無限大を目指してください。本当のスローセックスはここからはじまります。

アダム徳永スローセックスをマスターしよう★プライベート講習のお問い合わせ

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 6:05 2016/02/24


 新婚のうちはラブラブだった夫婦が、時が経つにつれて、友達のような関係になってしまうという話はよく聞きます。ちょうど同居人のような関係が、漠然と続いている。お互いに喧嘩もなければ、特段のハッピーもない。

 100点満点中60点くらいの可もなし不可もなし。それでも世間からみたら「まだウチはましな方だ」と自分に言い聞かせたりします。離婚に至ることはないので及第点だと考える。中には友達のような夫婦こそ、夫婦生活を続けていく秘訣とまで考える人が少なくありません。これは大きな誤りです。当たり障りのない夫婦に安住してはいけないのです。夫婦と言うのは、男女の愛を築いていく関係だからです。

 同じ60点だとしても、互いに何もしないままの60点と、愛を築こうと努力を続ける60点ではまったく価値が違います。友達のような関係は安心感があるかもしれませんが、それは錯覚です。なぜなら愛し合わない夫婦に現状維持はありえないからです。家庭にセックスを持ち込まないことが夫婦円満の秘訣だと、悟ったような物言いをする男性がいたりします。悲しい話です。

夫婦関係が維持されているのは多くの場合は辛抱強い妻のおかげだったりしま。

愛の絆で結ばれてこそ夫婦です。そうでなければ結婚する意味も、夫婦生活を続ける意味もないのです。今一度自らの夫婦関係はどうかチェックしてみてください。

幸せの道を歩んでいるのかどうかお互いの関係を確認してみてください。もし何年もセックスがなく、友達のような夫婦関係が続いているとすれば、それは要注意です。

http://adam-tokunaga.com/mmagazine/

6:05 2016/02/24

 昔の日本と比べて、女性における意識も随分と変わりました。しかし家事は妻の義務という価値観はいまだに根強くあります。口には出さなくても、「妻なんだから、家事をするのは当たり前だろ」と思う男性が多数です。専業主婦が普通だった昭和以前なら、「夫は仕事で妻は家事」という図式は成り立ちました。しかしいまは共働きが当たり前の時代です。

 夫から「妻が家事をするのは当たり前だろ」と頭ごなしに言われたら「私だって仕事でクタクタよ」と文句の一つも言いたくなるはずです。「あー女って損!」と思うのはそんなときです。となると家事をめぐって夫婦喧嘩が勃発するのも時間の問題です。もしそんなことになったらお互いに損です。元凶は「家事は妻の義務」という古い価値観とその意識にあります。こんなときに大切なのは意識の転換です。家事を義務と考えるのではなく、家事をするのは、夫や子どもたちへの愛情表現と捉えてみてはいかがでしょうか。

義務というと「しなければいけない」という思いにかられます。妻にとってみれば「もう大変」「面倒くさい」と感じてしまいます。しかし家事が愛情表現となると意味合いは変わります。

 

洗濯や食事をつくることが夫や子供を愛する行為になります。そうなると家事も楽しく行うことができるようになるのです。もっともっとしてあげたいと思うようにもなります。夫も自分や家族のために毎日頑張ってくれる妻の姿を見て、自然と感謝の言葉が出てくるはずです。そうなると自然と家事の不満は消えて感謝に溢れた幸せな家庭が築かれると思うのです。ちなみに夫の皆さんにおかれては妻の献身的な努力に胡坐をかくことなく妻の苦労をこころから労ってあげてください。

そして妻の負担を減らすためにできるところからでも家事を手伝ってあげてください。

 アダム徳永追伸:過去のメルマガ閲覧の件でパスワードを『Adam』と記載してきました。実は私のミスで間違っていました。正確なパスワードは『Slowsex』です。ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。

17:11 2016/02/23 


「挿入時間が短い」というのは、女性からもっともよく聞かれる不満のひとつです。アメリカの性科学者の中には、挿入時間が1分でも女性を満足させてあげられれば早漏ではないという説を掲げる人もいます。しかしこの早漏の定義は詭弁です。

そもそも女性の膣のメカニズムから考えるとたった1分で満足させることなど不可能です。もし1分で満足するという女性がいたら、それは本当の気持ちではなく、彼女の優しさです。男性の皆さんは都合のいい早漏の定義にも、女性の優しさにも、あぐらをかいてはいけません。

日本人男性の「7割は早漏」であるという統計がありますが、「7割もいるんだ」と安心してはダメです。早漏の克服は、セックスを楽しむための必須課題です。ところで私たちが正常位と呼んでいるポピュラーな体位に早漏化させる原因があることをご存じですか。

何を隠そう数ある体位の中で、正常位がもっとも射精に突き進みやすい体位なのです。なぜかというと正常位は男性の体勢が前傾になります。

 男性の射精のメカニズムには、自律神経である交感神経と副交感神経の働きが密接に関わっています。前傾姿勢は神経を過敏にする交感神経が優位に立つのです。おまけに腰も自由に動かすことができるとなれば完全なる攻撃モードの状態に突入しやすいのです。

これだけ射精の条件が整えば、持続力に自信がない男性なら、アッと言う間に射精してしまうのも無理はありません。まさに正常位は射精位とでも呼ぶべき

危険な体位なのです。

 つまり早漏気味の男性が正常位から始めるのは自殺行為なのです。

逆に男性が仰向けになる騎乗位の場合、こんどは興奮を抑制する副交感神経が優位に立つので、男性はリラックスした状態になって、イキにくくなります。しかし女性を抱えて女性の動きを止めた状態であるという条件付きです。女性が立位の状態で腰を動かされてしまうと興奮度が高まるのでこれまた射精位にシフトしてしまいます。

 同じ性能のペニスでも、体位を変えるだけで、その持久力は驚くほど変化するのです。たったこれだけのことでも、知っていると射精をコントロールできるようになるのです。

アダム徳永スローセックスをマスターしよう★プライベート講習のお問い合わせ

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5:59 2016/02/23

 私はよく女性から「マスターベーションではイケるのに、男性とのセックスでイッたことがない。これは私がイケない体質だからなのか」という質問を受けます。もしあなたがマスターベーションでイケるのであれば、セックスでイケない体質ではありません。

「今までの男性とのセックスでは、一度もイクとこができなかった。」それはその男性の技術力不足が原因です。彼のセックスがジャンクセックスか、それに毛の生えた程度のレベルだったからです。そもそもマスターベーションのイクと、セックスでのイクでは、同じイクでも質も量も違います。

いくらマスターベーションの達人でも、感じまくって絶叫するほど、官能することはありません。

 しかしセックスでは普通にあることです。声が抑えられず、わめき散らすほどに官能してしまうことがあるのです。実はマスターベーションよりセックスのほうが、官能レベルは高いのです。だとしたらマスターベーションより、セックスのほうがイキやすいはず。なのに実際はマスターベーションでしかイケないのはなぜでしょうか。実は官能レベルが高いセックスのほうがイキにくいのです。

セスナが空へ飛び立つのに大した滑走路は必要ありません。しかしジャンボジェット機を飛ばすためには、長い滑走路が必要です。マスターベーションがセスナならセックスはジャンボジェット機です。上空に飛び立つためには長い助走距離が必要なのです。

 マスターベーションのように簡単にはイカなくなるかわりに、イクときは大絶叫となり深いオーガズムを全身で味わうことができるのです。つまり

・マスターベーションはイキやすいが、官能レベルは低い。

・セックスはイキにくいが、官能レベルは高い。ということなのです。どっちを取るかという話ではありません。

 成層圏を超えるような快感は、二人で行うセックスでしか到達できない愛の境地です。マスターベーションならイケるというあなた。あなたはセックスでも必ずイケるようになります。時間をかけて正しい技術でしっかり愛撫されれば。そのためには相手の男性に、スローセックスの技術をマスターしてもらうことが必要です。

それとあなたも彼に「もう少しこうしてほしい」「もっとそこをじっくり愛撫してほしい」と自分の希望を口で伝えられるようになること。この2つの条件がそろえば、ぜったいにイケるようになります。

いずれにしてもイクことを目標にするより、高い官能レベルを楽しめるカラダになることを目標にして、彼とのセックスを楽しんでください。そうすれば結果的にイケるようになります。

アダム徳永追伸:過去のメルマガ閲覧の件でパスワードを『Adam』と記載してきました。実は私のミスで間違っていました。正確なパスワードは『Slowsex』です。

ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。

http://adam-tokunaga.com/traning/

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17:25 2016/02/22  


世界一幸福な国デンマークの暮らし方・・第1章・・世界一幸福な国デンマークの暮らし方・日本の貧困率は世界五位・32頁・平成28年3月18日・問題解決には助けが必要・34頁・38頁・貧困をなくすには国民の連帯が必要です。その連帯とは、信用できる政府に、しかるべき税金を納めるということなのです。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/03/28318-5602.html

13:33 2016/03/18


 

世界一幸福な国デンマークの暮らし方 千葉 忠夫・はじめに・・・世界で一番幸せな国・デンマーク・3頁・第一章 『マッチ売りの少女』―― 貧困を考える、平成28年3月18日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/03/28318-2f5e.html

8:19 2016/03/18


 

2016年3月18日 (金)

泰阜村では、必要な介護サービスは充分に受けて、自宅で暮らし続けてほしいとの願いから、限度額を超えたサービスは全額村が負担することにしています。

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/03/post-acc1.html

6:15 2016/03/18


 

2016年3月11日 (金)

奄美振興の悲劇・地元民の思考は入れられない・官僚の考えが決定?!田雲川・古代より橋はかからない・奄美市名瀬崎原田雲・奄美振興事業・鹿児島県離島振興課が戦後橋と道路のネットーワークを怠ってきた、日本国税を2兆円以上無駄に使われてきた、この地点は奄美大島の真ん中これが切れているために・奄美群島の経済効果は、計り知れない・民主主義国家では・国民主権者に決定権があります。引用

日本の行政とは・日本人は無理心中をさせられる・余りにも横柄な・越権行為・自公政権は傍観している・・日本国民は・自立・自律・連帯・共生を学び近くの人々での協働をしなくては?!

2015年9月 5日 (土)

 

・龍郷町は人件費¥1億8000万円を龍郷町人口約6千人で計算すると約一年間赤ちゃんから高齢者まで一人一人¥3万円負担こんな金が払えますか?こんな予算を組んでいる龍郷町町長・議員の皆さんです?!

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2015/09/111544-0342.html

6:09 2015/09/10

3/11/2016 9:09:22 AM

9:07 2016/03/11


2016年2月21日 (日)

デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会・澤渡 夏代ブラント(著)  ・3・生きて歳をとって・221頁・221頁・自立している高齢者・




引用


・3・生きて歳をとって・221頁・

平成28年2月21日 日曜日221頁


・自立している高齢者・


デンマークでは、高齢者を「歳を取るために生きるのではなく、生きるために歳をとる」と考えています。これには「余生」という文字に込められた「残りの人生を送る」と言うようなニュアンスは感じられず、高齢期を「第三の人生」として前向きに考える人生観がにじみ出ています。

ある日、日本からの客が「歳をとることに不安はありませんか」とデンマークの高齢者に尋ねたところ、「歳をとることは嬉しいことではないけれど、歳を取らないのも困ったものだ」と、微笑みとともに答えが返ってきまいた。日本からの客に質問されたデンマーク人は男性の一人暮らし。日本人お目からみれば「なぜ子供と住まないのだろうか」と、少し気の毒に思ったのかもしれません。221・


222頁・しかし、デンマークの高齢者は子供と同居することなく、口を揃えて「できる限り自分の生活は自分で」と言い、自立した生活を送っています。子供が巣立ちした後、再び夫婦だけの生活があり、配偶者をなくして一人になっても子供と同居することはなく、お互いの生活を尊重しながら自分の生活を自分で守っています。

自立した生活を可能にし、また高齢期を前向きに考えることができる要因は、「経済的」「身体的」「精神的」な問題に左右されます。デンマークではすべての国民に公的老齢年金が支給され、生活を保障しています。また、加齢とともに健康の不安は増してきますが、「診断から臓器移植に至るまで」医療は公的医療なので、本人の負担はありません。「精神的」な問題はここの生活姿勢や家族環境で異なります。親と子、祖父母と孫の関係は一瞬にして築かれるものではなく、家族の長年の育みの成果です。長い間。子供や孫に興味を示さなかった人が歳を重ね、ふと気がつくと「訪ねてくる人が誰もいない」と、寂しげに訴えても、「後の祭り」と言うこともなきにしもあらず、です。


週末になると、わが家の前の道路を、祖父母、両親、子供の太刀のグループが近くの林に散歩に出かける光景をよく目にします。わが家の隣人のところに、子供夫婦が孫を連れて遊びに来たのでしょう。孫が元気よく先頭に立ち、大人たちはそれぞれの会話を楽しみながらゆっくりと通り過ぎていきますが、週末になると子ども連れで両親を訪ね、食事やお茶の時間をともにする光栄が多くあります。222・


223頁・私たち夫婦が今の住所に引っ越してきたのは、かれこれ30年前のこと。幼子つきで引っ越してきたのはいいけれど、周りには同じ年ごろの子供の姿が見掛けられません。それもそのはず、とおりは通称「銀婚式通り」と呼ばれ、隣近所は夫婦の銀婚式を迎える年代で、彼らの子供たちはそろそろ親元から独立していく年代でした。 


ところが今は「退職者通り」となり、右を見ても左を見ても「退職者」ばかりです。わが家の前の道に沿って20軒の家が立ち並び、そのうち四軒は配偶者を亡くした後、一人暮らしています。それぞれの家は土地600平方メートルに住居150平方メートルの家を持ち、夏ともなれば庭の手入れも大変です。斜め前に住むベッツ夫妻は妻のキャステンが80歳、夫のボーウは85歳で、それぞれの職場を15年ほど前に退職し、彼らなりの活力ある人生を楽しんでいるデンマークの中堅の退職組です。


彼らには、比較的近くに住む三人の成人した子供と10人の孫がいますが、ほとんどの週末は「誰が来る」「誰のところに行く」と頻繁に行き来があります。キャステンは数年前に大腿骨脱臼を患い何回かの手術を経験し、歩行には杖を使うようになりました。


風が強い日、私は両手に杖を持ち散歩するキャステンと道で会い、立ち話になりました。そのうちにキャステンが、「寒くなったわね。ジャンバーを閉めないと」言いながら、自分の両手が杖を支えていることに気付き、「どうしようか」という表情をしました。私はとっさに、「閉めてあげましょうか」と口に出してしまいました。キャステンは一瞬、間をおき、「いや、代わりに杖を持っていて」と言います。223・


224頁・私もこの「あたりまえの答え」があることを知っているのに、なぜ、「ファスナーを閉めてあげる」などと口に出したのだろうと、些細なことながら悔やまれました。ボーウは10年前から心臓をペースメーカーに助けられていますが、毎年、庭の片隅に野菜畑にじゃがいもとトマトを植え、その道の「通」でありことを自慢にしています。

私が二人の体調を心配すると、「この歳になればだれでもどこか故障が起きるものでしょう」と、あっさりとした答えが返ってきました。あるくより自転車の方が楽とかで、二人でよく近郊をサイクリングして健康管理をしています。私たちの人生は退職後も継続していきます。ベッツ夫妻にとっても、退職後は「毎日が日曜日」のようですが、在職中も行っていたように、毎年数回は夫婦でスペインやギリシャに旅行し、日常生活に彩を添えています。224・


弱い高齢者への援助・224頁・平成28年2月21日 日曜日・

デンマークは「福祉の豊かな国」として内外に知られ、ともすれば年寄りはみなホームに入居しているか福祉に依存しているような錯覚を持たれかねません。しかし、66歳以上の人口69万9500人中67%の高齢者は何の援助も受けず、「できる限り自分の力で」市民生活を送っています。

しかし、加齢や疾病によって自分の生活が維持できなくなったり、困難になった場合に、初めて在宅ケアや住居問題が専門家に委ねられます。高齢者介護・看護のサービスは自治体の責任であり、「心身障害を持ってもその人のライフクオリティを維持できる生活」を支えるという大きな目的があります。224・


225頁・

介護・看護サービスは家族構成、経済力に関わらずあくまで本人のニーズによって提供されます。在宅ケアのサービスを受けている人口は66歳以上の人口の約24%に当たる17万3400人で、介護付き住宅(ホーム)には9%に当たる6万2500人が入居しています(2003年の統計)。

現在のホームの入居者は、あらゆる方法で在宅ケアサービスを受けたのち、自宅での生活が限界と判断された人で、ほとんどの場合、高度の認知症を患っています。現在デンマークでは認知症の患者が8万~10万人いると言われ、マイン年二万人が新しく認知症の患者として増加しています。225・ここまで

 

 


前号・

デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会・澤渡 夏代ブラント(著)・・・ 主婦か主夫か・213頁・・218頁・ある日テレビで、国連の男女平等を担当するアメリカ人の学者のインタビューが放送されていました。番組の中で学者は、男性が子育てにかかわることは人間性を高めること。男性の育児参加は大事なことで、大いに認めなくてはならない」と発言していました。私は育児休暇中のパパたちを思い浮かべながら、「ごもっとも」と、テレビに向かって拍手をしたい気持ちでした。218・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/16220-15442-e74b.html

4:48 2016/02/21


主婦か主夫か・213頁・


16/2/20 15時44分2秒・

アダム徳永追伸:2:44 2016/02/27 早漏の克服は現代の元服式です。まずは「病気だから治らない」とか「体質だから変えられない」といった、従来の間違ったイメージを頭の中から消し去ってください。早漏は単なる現象に過ぎず、決して病気ではありません。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/244-20160227-5433.html

5:55 2016/02/27


息子アキが結婚して六年目になり、彼の娘ステファニーも四歳になりました。タニヤも歯科衛生士の資格を取り、歯科医院に就職して一年になります。アキはデータ会社のエンジニアとして常勤(週37時間)の仕事についており、タニヤは週27時間雇用で月、火、木曜日に勤務しています。タニヤの27時間勤務は、歯科医の衛生士求人内容に沿って応募した結果でしたから、勤務時間が本人のニーズにあっている、と言うことです。アキとタニヤが経済的に深刻であれば、タニヤも常勤勤務時間に当たる37時間を埋める残りの10時間を他の歯科医院で勤務することも可能ですが、彼らはステファニーの世話に時間をとれるよう、タニヤの27時間勤務を選択しました。213・


214頁・

タニヤは、勤務する日は朝7時に家を出て、帰宅は夕方6時です。

デンマークの多くの子供たちは、両親の出勤時間に合わせて早起きをしなくてはなりませんから、うかうかしていられません。就寝時間を守って親と行動をともにすることが要求されますから、ちょっとした「勤務」のようです。アキの場合、勤務体制がフレックスタイムなので、自分で勤務時間をコントロールすることができます。また、コンピューターと電話回線が会社の費用で取り付けられ、自己管理のもとに自宅勤務が可能です。

デンマークではアキのようなフレックスタイム勤務体制がここ数年多くなっていて、2001年の統計では、フレックスタイムで契約している女性は全体の18・6%でそのうち92・1%が利用し、男性は16・4%でうち89・1%が利用しています。また、自宅勤務については31・%の女性が自宅勤務可能で、そのうち81・6%が利用し、男性では31%が可能でうち82・1%が利用しています。この傾向は今後さらに増加すると言われています。

このような勤務体制は、雇用者と勤務者の信頼関係があって成立することは言うまでもありません。パパがフレックスや自宅勤務が可能なことは、ステファニーにとってとても好条件です。母親の出勤時間にあわせて早起きすることなく、朝九時頃までにパパに保育園に送ってもらうことができます。214・


215頁・平成28年2月21日 日曜日・午後三時半から四時ごろになると、コペンハーゲンから市街地にのびる高速道路は渋滞になります。一日の仕事を終え、自宅にもどる人や子供を保育園に迎えに行く親たちが急いでいるのが分かるようです。アキも三時半か遅くても四時には大勝して、ステファニーを保育園に迎えに行き、スーパーで日常食品の買い物をして帰宅するのが日課です。タニアの勤務日は帰宅が六時過ぎですから、パパが夕食を作ります。家事や育児について家庭内で誰が何を担当するのかは、誰に時間があって、また好きか、得意かにもかかわってきます。


子育てを二人で行い、買い物・料理も協力し合う姿は微笑ましい光景ですが、男性が「どこのスーパーに美味しい肉がある」「少し寒いからタイツをはかせた方がいい」と、家事や育児が日常生活にすっかり溶け込んでいる姿を見ると、現代のデンマークの若夫婦の家庭には「主婦」が二人いるような錯覚を覚えてしまいます。215・2016年2月21日(日)

パパも育児休暇・215頁・


午後の昼下がり、乳母車を押してパパたちがコペンハーゲンのソーシャルセンターに集まってきます。部屋の中には、すでに到着しているパパが、ハイハイして部屋の外に出ようとしているわが子を抱きかかえたり、子供を膝に抱いて離乳食を食べさせたりしています。テーブルにはクッキーや果物が用意されていて、くつろげる雰囲気です。ソファがあってもパパたちは、床に置いてあるおもちゃ箱と奮闘している子供たちのために、床に座り込みソファにもたれて仲間と楽しげにおしゃべりし、とてもリラックスしているようです。215・


216頁・16/2/21 5時4分14秒・

私は昨年(2004年)、「パパのプレイルーム」が発足したと耳にし、「はてさて、何のグループだろうか」と興味津々で連絡をしてみました。従来、自治体が育児休暇中の母親と子供を対象に「ママのプレイルーム」とか「ミュージックプレイルーム」を、図書館や公民館を利用して開いていましたが、「パパのプレイルーム」は耳にしたことがありません。まさか「パパの遊び場」ではないでしょう、と思いながらコペンハーゲンのソーシャルセンターを訪問してみました。

ソーシャルセンターには多様な活動があり、専門家による個人的なカウンセリング、グループカウンセリングなど市民の社会的な問題の相談に応じ、また児童・家族向けに多種のアクティビティを提供しています。216・


217頁・また、市民の自主的な活動にも部屋を貸していて、「パパのプレイルーム」も数人のパパの発案で、毎週火曜日午後一時半から五時半まで専用の部屋を利用することができます。

このプレイルームの常連のスーナは女の子のパパで、三ヵ月半の育児休暇を取りました。「あなた自身の変化がありましたか」と聞くと、「いやあ、育児はフルタイムの仕事で大変です。私が育児をして妻が仕事に復帰していますが、いい経験です。家事や育児の大変さも十分理解できるし、妻を他の視点から見ることも知りました。それに一番いいことは、子供との関係がより密接になることでしょうね。

これは今後の私の人生において、大変興味深いものだと思います」。また「育児休暇の申請をした時、上司はどう反応しましたか」と聞くと、「いい部下は逃がしたくない」と答え、問題なく許可が下りました」と笑いながら話してくれました。彼は続けて「父親が育児休暇を取って育児をするということは、子供をまったく違った視線で理解することになります。毎日一緒にいれば、寝かしつけるのもパパの方が上手になったり、泣けばすぐに理由が分かったり、何をよく食べるとか、妻が帰宅すると私が娘の一日を報告する立場になったり、とにかく絶対に家族全員にとって健全なことだと思います」と、育児休暇に大賛成でした。


「でもやはり子供と二人だけの家の中に閉じこもっていては、ストレスもたまります。こういう場所に来れば、他の父親が私の娘の世話をしてくれたり、コーヒーを楽しんだり、第一、子供以外の話題を話せるじゃないですか」プレイルームに息抜きに来るメリットも話してくれました。この日に参加していたお父さんは12名で、子供は一歳未満が大多数で、子供のためよりも、やはり「パパの遊び場」のようです。217・


218頁・ある日テレビで、国連の男女平等を担当するアメリカ人の学者のインタビューが放送されていました。番組の中で学者は、男性が子育てにかかわることは人間性を高めること。男性の育児参加は大事なことで、大いに認めなくてはならない」と発言していました。私は育児休暇中のパパたちを思い浮かべながら、「ごもっとも」と、テレビに向かって拍手をしたい気持ちでした。218・


自立した女性たち・


218頁・平成28年2月21日(日)


「どこへ行っても女性が働いていますね」と、デンマークを訪問する日本人はたいそう驚かれます。そして、「女性が強いのですね」と思われるようですが、「いいえ、強いのではなく自立しているからです」と言うのがデンマークの女性の姿です。たしかに「主婦」と言う女性の肩書は消滅し、「夫に食べさせてもらう」など考えも及ばないことでしょう。

女性は男性と同じように自分を自分らしく生きるために教育を受け、その教育をもとに職につき、経済力を道、精神面・物質面でも自立して社会を担う労働力となって、65歳の定年まで仕事をしています。特に1983年に施行された「既婚女性の独立申告制度」の導入で、自分の収入に対して「納税する義務と権利」を得たことから、女性の経済的自立意識がさらに強まっていきました。218・


219頁・特に近年の若い女性の間では、「家庭と仕事の両立がうまくできている証」として、キャリアを積み、複数の子供を持つことがステータスになっていると言われているほどです。たしかにデンマークでは、10年前の女性たちに比べ、より仕事に対して高いキャリア意識を持ち、ダイナミックに仕事をこなして重要なポストに就く女性たちの人数も増加しています。この傾向は、女性自身が望むだけではなく、産業・経済界化を含む社会全体が「男性と女性が等しく社会参加することが健全な社会の姿であり、経済成長に不可欠」と言う社会的合意があるからです。


しかし、現時点で重要なポストにある女性の人数はまだ不足しており、女性の「潜在している可能性」をいかに見つけることができるか注目され、とくに大企業では管理職を男女均等にする方策がとられています。


例えば、従業員1万7000人を抱えるデンマーク大手の電信電話配給会社は現在、全授業院の男女の割合は男性60%、女性40%で、最高管理職では男性85%、女性15%、中間管理職では男性70%、女性30%ですが、1997年から全職種レベルで男女均等に採用する人事政策をとっています。また、優秀な女性スタッフを各部門からプールして、必要に応じて管理職を目指すタレント・プール政策を導入しています。また、この会社では2001年から三年間かけて、男女の上司に対する評価を従業員にアンケート調査したところ、「包括的に物事を判断することができ決断が早い」という評価項目で、男性が70%に対して女性上司は72%で、女性上司にやや高い評価結果が出ています。


今、デンマークで「もっと女性をトップに・・」というスローガンが流行しているようで、ともすれば「男性陣からおちおちしていると女性勢力に飲み込まれるのでは」と、冗談とも本気とも受けとれる研究者の声を耳にします。219・


220頁・仕事を精力的にこなす女性も、一日の仕事を終えて子どもと再会するとき、子供が満面の笑顔で抱きしめてくれれば、彼女の疲れはいっぺんに吹き飛んでいくことでしょう。220・


デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会・澤渡 夏代ブラント(著)家庭の民主主義のひとコマ・205・213頁・まで

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-d168.html

11:09 2016/02/20


ここまで・

パパも育児休暇・

 


家庭の民主主義のひとコマ・205・


平成28年2月20日(土)


結婚直後、夫が日本の印象として「日本の子供は、小さいうちは何でも許されるが、おとなになると結婚することも自分で決められないようだ」と言ったことがあります。その頃の私は、夫の言葉を素直に理解することができませんでしたが、デンマーク社会で子育てをしてみて、彼が言わんとしたことが「自立している人間像」に関連していることだと納得できるようになりました。夫が当時目にした日本の子供が持つあどけなさ、愛らしさは、デンマークの子供と何の変りもありませんが、大人と子供の関係に大きな相違を感じたようです。205・


206頁・夫が見た光景は、ハイハイがやっとできるようになった幼児が食卓によじのぼろうとしていた際、食卓の上に置いてあるものを全部下におろして、眼を細くして喜んでいる家族の姿でした。「目の中に入れても痛くない」と思う気持ちは理解できますが、幼児だからこそ、食卓にのぼる場所ではないことを伝えなくてはなりません。


日本では、まだ、子供の進学する学校、大学、そして結婚に至るまで親が関与する、または、影響を及ぼす風潮が少なからず残っています。子供の自然な自立心が芽生える時期に、親と言うパワーで子供に立ち向かうと、子供との衝突が避けられない状態になるのは、当然のことでしょう。デンマークの多くの親は、親に決めつけた意見を子供に当てはめようとすることを好みません。人生の先輩としての意見を述べ、子供とよく話し合い、最終的には親の考えに収まるかもしれませんが、決定は「あなたが決めなさい」と子供に委ねます。時には、親の誘導能力を発揮する場合もありますが…。


このプロセスは、「物事を自分で考え結論を出す」スタートです。時には、何でも「自分でやる」とか「私が決める」ことを強調すしすぎる子供もいて、親が困っている姿も見かけます。しかし、自分で人生の進路を決定することは、決してたやすいことではなく、幼い頃からの育みが、大事や役目を担っています。ましてや自己責任が伴うとなれば、難題です。親は、子供が成人年齢18歳になるまで、最も信頼できるアドバイザーとして接します。


夫婦間においても、夫間は他は妻が一人で家庭内のことを独断で決める風潮はなく、何事も話し合い、納得した上で日常生活を送っています。206・


207頁・わが家でも日常的なことですが、友人からの食事の誘いなどでも、必ずお互いの意向を確認してから返事をする習慣になっています。何しろ、デンマーク人は他人に物事を決定されるのを好みませんから、小々面倒なことでもありますが、二人が納得することで物事がスムーズに運ぶと思えば、回り道も苦になりません。


社会が求める人物像・207・

16/2/20 10時57分15秒・ 

デンマーク社会は、自立した人間像を求めています。デンマーク国民がライフクオリティとして位置付けている「自分の人生を自分で決定できる」人生観につながる大きな要素です。自分の人生を自分で決めることは、周囲とのバランス、個人の適応能力、教育方針、そして社会の受け入れなどの関係上、決して簡単ではありません。ところが、この国ではかなりの高いレベルで可能なのです。また、デンマーク社会は、それが国民の幸福につながるというコンセンサスのもと、長い年月とかけて可能になるよう、人々の意見をもとに国家政策を改良してきました。

デンマーク人は、「自分の参加なくして自分の人生が決められていくこと」を善としません。自分の人生は自分で決定していくからこそ、人生の「終」を迎える時、「自分らしく生きた」と満足感を味わうことができるのではないでしょうか。

しかし、自分の人生を自分で決定していくプロセスは、個人、社会、政治など多様な環境が整って初めて可能になります。207・


208頁・二章の「子供時代は子供らしく」の項でもくわしく記述している通り、デンマーク人は幼い頃から「個」を尊重され、おとなと対等に話し合う習慣があります。その中で自主性が芽を吹き、保育園、学校、そして社会へと自分の置かれる環境が変化していく中で、自分の意見や意思を表現し、同時に相手も尊重する姿勢を育んでいきます。「対話」は、相互理解と納得を生み、親と子供の関係のみならず、子供たちが育っていくあらゆる社会の中の人間交流に必要とされています。

子どもたちは、幼い頃から「自分で考えてごらんなさい」と促され、家庭、保育そして教育現場においても、多様な選択肢の中から「自分で選ぶ」ことを支援されます。こうしたプロセスを経て、自分で物事が判断できる自立した人物像に成長するのではないでしょうか。

デンマークは、この社会的合意を達成するために、また、それぞれが「自分らしい生活」を築くことができるように、自分の考えを人に伝え、自己の生活にも責任を持ち、自己管理することが可能な人材を求めています。208・


・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・208頁・平成28年2月20日

日本には、黙っていてもちゃんと相手の気持ちを理解できる「あ・うんの呼吸」と言うのがあります。「言葉に出して説明しなくても、相手はきちんと私の思っていることを理解してくれている」とは、何と楽な心地よいことでしょうか。208・


209頁・しかし、これはかなりあいまいで、解釈は人によって相違があります。また、「多くのしゃべらない」ことを美徳とする文化も残っています。言いたいことを心に秘め、「何でもない」の一言でその場をしのぐケースも、まだ多くあります。しかし、「あ・うんの呼吸」も「心に秘める」美徳も、デンマーク社会では通用しないのです。ここでは、きちんと言葉で説明することで初めて相手が納得してくれます。少し面倒なところもありますが、それは誤解を避ける手段として求められています。

まだデンマーク社会に慣れていない時期の私は、「黙っていても夫が私の心の内を理解してくれるはずだ」と思っていました。子供が幼かった頃、外出先で私が子供を抱いて歩いていても、いっこうに夫から「変わって抱こうか」と言う提案がありません。私は私で「そろそろ疲れたことを察して代ってくれないかしら」と思っていましたが、自分から言い出すことにためらいがあり、夫からの言葉を待っていました。

それでも彼は、知らん顔。そうのち、私が痺れをきらせて「そろそろ代ってくれてもいいのじゃないかしら」と抗議っぽく伝えると、彼は不意を突かれたように「エッ。抱きたいから抱いているのだと思った」との返事です。私たちの個人的な性質によるのかもしれませんが、私は、「こんなことでも言葉で表現しないと理解してもらえないのだ」と、つくづく感じたのです。でも、その時、私が自分の気持ちを正直に、「私は疲れました。代ってください」と言ったなら、夫は当然、快く代ってくれたことでしょう。

また、デンマークでは、楽しみの一つとして、自宅に友人や家族を食事やお茶に招待する、されるという習慣があります。209・


210頁・男性も女性もよく話し、よく飲み、よく食べ、ひと時を一緒に楽しみます。このような日は、得意料理で招待することに加えて、いろいろな話題を提供し合います。話題はもちろんさまざまですが、ある時は世界情勢であったり、選挙が近くなれば政策について談論風発する場面も多くあります。ところが当初、私は、会話を楽しむようなホームパーティを苦痛とさえ感じていました。言葉の問題もさることながら、会話に「女性が口を挟む」こと自体に躊躇していたのです。しかし、ここでは逆です。意見のない人は、魅力に欠けてしまいます。集まっている人たちは、競争するかのように自分の言い分、経験を語り、大声で笑い、女性たちもソファに足を組んで深々と座り、それだけでも自信たっぷりと言う感じです。こんな状況に不慣れだった私が、どうやって会話に入っていくことが出来たでしょうか。


そんな私を推察して夫はよく、「夏代がこう言いう経験をした」とか、「日本から帰ってきたばかりだ」とか、話のきっかけを作り、助け舟を出してくれました。しかし、「まあ、よく話をする人泰だな」と思うのと同時に、一言投げ掛けると「ああでもない、こうでもない」と意見を言い合い、議論する人たちに圧倒され、「なんて理屈っぽいのだろう」と驚異さえ感じていました。「どうして、彼らはこんなに話が上手なのか」「どうしたら自分の意見を持つことができるのか」と、その源を考えると不思議でなりませんでした。一人の人の意見に真っ向から反論するケースがあっても県下にもならず、人の意見も聞く力があって、夜がふけるのも忘れておしゃべいすぉしています。

自分の意見と違う意見と出会った時、とことんまで自分の正当性を主張しているようでも、結局は、反対意見が正当だと悟った時点で、素直に認める行動もあっぱれです。210・

このような状況にいつまでも驚き、苦痛に思っていては、私に将来がありません。私は、「郷に入れば郷に従え」と、気持ちを切り替え、「発言する」ことを念頭に心構えを新たにしたのを覚えています。これが結構、もと「大和なでしこ」には、大変のことでしたが・・・。211・


・2・男女参画型社会・212頁・

16/2/20 15時20分16秒・


・男女平等とは・

デンマークを含む北欧諸国の男女平等の権利は世界のトップクラスにあり、今日では男女の違いは「出産」できるかできないかの違いだけだ、と言われるほど男女平等が進んでいます。また、男女平等とは、男女同権が確立されていて、講師において男性と女性が同じレベルで人生を送ることが可能な社会を意味しています。デンマークは世界水準から見ると女性の就労率も高く、あらゆる分野で男性と同等の権利を有しています。

しかし、これをデンマーク人に言わせれば、男女が同一の仕事をしても、賃金的には民間企業で16%、公共分野で9%の差があります。また、2005年の国政選挙においても179議席のうち、女性議員は36%に当たるわずか65名で、女性大臣は35%と、まだ元手を上げて喜んではいられない分野があるようです。

男女平等をデンマークで語る時、それは女性だけが求めるものではなく、「すべてにおいて男性も女性と同じステージに立つ」ことを目的としています。男性が家事や育児に参加することはごく一般的な姿で、共同で仕事を守り家庭を守っています。


最近、私も日本の友人から、子供が結婚する、という通知を受ける世代になりました。聞けば彼らは大学を卒業して就職をしても依然実家を離れず、結婚を機に初めて実家を離れて自分の城を持つようです。212・


213頁・そのような実情を知ると、「母親に洗濯も料理も任せて何の経験せずに急に独立して大丈夫なの?」と思わずお節介な心配をしてしまいます。もちろん「案ずるより産むが易し」かもしれませんが。デンマークの若者は18歳頃から実家を離れ独立するのが一般的で(第3章の1)、ここで料理の大変さを味わい、洗濯をしなくては着ていくものがないことを悟り、狭い寮の部屋でも掃除をしなければ埃アレルギー襲われる危険を身をもって経験していきます。

だからと言ってデンマークの男性が全員が料理も家事も上手にできる、という訳ではありません。なかには料理も家事も「どうしてもセンスがない」と伊男性が、女性と同じようにいることも確かです。213・


 

ここでま


前号を

デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会 単行本– 2005・11 澤渡 夏代ブラント (著) ・1・自分で決める自分の生活・200頁・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/200511-02c1.html

8:53 2016/02/19


社会が求める人物像・207・16/2/20 10時57分15秒・ここまで


第4章 自分で決める自分の人生・平成28年2月19日 金曜日


・1・自分で決める自分の生活・200頁・

デンマークの民主儀の中身・

デンマークを訪問する日本人の多くが、デンマーク人は「明るく親切」「通りすがりに目があうと、ニコリとほほ笑む」「生き生きとして人生を楽しんでいるよう」などの感想を述べます。一週間程度の短い滞在でも、何か「生活のゆとり」や「人々が楽しく来ている」姿が感じられ、同時に「日本とは何かが違う」「どうして?」と言う疑問がわいてくるようです。

これはデンマーク人が「生活の便利さ」や「物質的な豊かさ」ばかりにとらわれず、幼い頃から「個」を基本として育てられ、教育では「事項を知ると同時にまわりと連携すること」を学び、「自分の人生を自分で選ぶ」社会で生活していることによります。そしてこの背景には、「民主主義」と言うデンマーク人が日々大切にしている社会理念があることは、言うまでもありません。


ある時、日本の大学生グループに「皆さんにとって民主主義って何でしょう」と尋ねたことがあります。彼らは、少し間をおいて「多数決で物事を決定すること。かな?」と、自信なさげな答えが返ってきました。これは、彼らにとって、民主主義の中身が不透明なせいでしょうか。それとも身近に感じていないからでしょうか。さらに、日本ではまだ「民主主義」と言う言葉は、ともすると政治色が強いのでやっかいなのです。200・


201頁・平成28年2月19日 金曜日

・・世界には、民主主義を掲げている多くの国がありますが、内容や理念間まちまちであり、その国の土壌に挿し木をされた民主主義もあれば、まだやっと芽生えたばかりの民主主義もあります。ところが、デンマークでは今から156年前(1849年)に君主制度が廃止され、民を主とする制度(民主主義制度)が導入された歴史があり、民主主義の根は世界のどの国よりも深く太い根を張っていて、あらゆる分野、状況の中で日常的に「デモクラティと言う言葉が使われています。

それは、「民主主義」という難しそうな定義を超えて、「権利」と「自由」に基本をおいた、「自分の人生を自分で決めることができる社会」を指し、「自分の意思が置き去りにされ物事を決定されることを好まない」社会形成だと言えます。デンマーク国民は、「多くの情報を得て、物事の決定に平等に参加し、自己決定し、それに対して自己責任を持つ」と言うプロセスを重要視しています。そのスタイルは社会、職場、家庭の隅々まで浸透し、それはとりもなおさずデンマーク文化であると言っても過言ではありません。

この「デモクラティ」と言う言葉を抜きにデンマーク社気を理解することは容易ではありません。

しかし、156年前に民主制度が導入され「人権」が語られてきたデンマークでも、1960年頃までは、まだ階級社会にみられる一方的な意見、命令、そして権力などが残っていて、「自分の生活を自分で決める」ことは容易ではありませんでした。親は、子供の将来に干渉し、家庭では伝統的な男女の役割があり、社会では男女の労働条件の格差も見られ、学校では整然と座る生徒の前で、教員が一方的な授業をしていました。201・


202頁・しかし、産業の発達とともに、1960年代後半から70年代にかけて、デンマークでは「自由」と「権利」を基本として社会改革の全般の改良、改革が行われ、生活の質のレベルアップに大きな前進を見ました。この背景には「女性運動」や「青年運動」が多大な貢献をしています。


近代産業の発達とともに社会進出した女性たちは男女平等を叫び、若者たちは


1968年を頂点として、古い価値観から抜け出し、自由で平等な社会を求めて「若者の蜂起という現象を引き起こし、デンマークの政治政策に大きな影響を及ぼして社会変化を促しました。

その真っ只中のデンマークに、私は足を踏み入れたわけです。テレビにニュースで「同一賃金を叫ぶ女性たち」「産休の改革を求める女性たち」のデモンストレーションが映し出されていましたが、私には彼女らの目的すら理解できませんでした。私とそう年齢が変わらない若者たちは、カラフルな服装や長髪で街を闊歩し、敬語を除き、それがスタンダード化して「人」と「人」の距離を近くしました。私自身が後日彼らの運動の恩恵を受けるとは思いもよらずに、当時の私は一連の社会現象を人ごとのように距離を置いてみていました。


こうして、デンマーク人は、1960年代を境に自由と平等を得て、「自分らしく生きる」地盤をせっせと築いていたわけです。そして、なんと2005年には、デンマーク人が「世界一幸せを感じている国民」と位置づけられました。この調査は、オランダ、ロッテルダムにある大学の教授が中心になって90ヵ国にわたって世論調査を行い、2月に結果発表したものです。202・


203頁・平成28年2月20日(土)

デンマークは、アンケート内容の総合10ポイントのうち、8ポイントを得てトップに上げられました。ちなみに日本は5・8ポイントだそうです。

この幸福度調査では、幸福な社会に不可欠な五項目があり、デンマークは、各項目とも満点だとしています。

・1・高収入の国・

・2・高度な民主主義がある・

・3・汚職のない健全な政体で社会構成がよい・

・4・個人の人生の形成することを可能にする高度の自由がある・

・5・宗教や性の違いを超えた寛容さがある・


この調査報告は当日のテレビニュースでも取り上げられ「デンマーク人は世界一幸せな国民と調査結果が出ていますが、あなたは?」と数名の男女の街頭インタビューが報道されましたが、彼らは「幸世」と笑顔で答えていました。


職場の民主主義の一コマ・

ここまで平成28年2月20日 土曜日・203・

日本の多くの職場では、春先に人事異動が行われます。どの部署に配置されるのか楽しみでもあり、不安を感じる人もいるかもしれません。203・


204頁・日本からデンマークの高齢者福祉を視察するために派遣されてきた自治体の職員が、視察した内容を公務に活かす間もなく、他の部署に配置されたケースは多くあります。一方、デンマークの企業では、本人の意思がない限り部署が変わることは、ほとんどないと言ってよいほどありません。これは、日本社会がスタッフをゼネラリストになることを求め、デンマーク社会はスペシャリストを求めている、という違いから来ているようです。

両者ともその国の持つ企業文化や伝統があり、一概にどちらが良くてどちらが悪いということは言えませんが、少なくともデンマーク社会では、本人意思以外で自分の配置が変わることは、企業の倒産または人員整理などの特別なケースを除いて、見られない現象です。自分の学歴・職歴に合った仕事に携わりますから、その職場が気に入っていれば、定年まで勤めることも可能です。

職場異動、赴任、管理職登用についても、上司の辞令で本人が動かされるということはありません。ポストが空席になると、社内または外部に公募され、希望者が応募して、インタビューののちに決定されるというプロセスを踏みます。本人が望まない限り部署も替わりませんから、その道のエキスパートになっていきます。

教育分野でも同じことが言えます。私の友人キヤステンは国民学校の教員でしたが、2003年に定年退職しました。彼女は23歳で教壇に立ってから退職するまでの37年間、コペンハーゲン郊外の同じ学校で勤めてました。彼女のほとんどの場合、一年生から七年生または九年生まで同じクラスを担当しました。ほっぺがまだ優しい一年生から、男子生徒の紙がちょろちょろとしだした九年生までを担当するのは、一つのローテーションとしても長い期間です。204・


205頁・自分が他校で勤務したいと思わない限り、キヤステンのように定年退職まで同じ学校に勤めるのは当たり前のことなのです。退職直後に電話で話した時、「とても楽しい37年間だったわ。まだ子供たちに会いたいと思う気持ちはあるけれど、今は決まった時間に起きなくてもいいことを楽しんでいるわ」と、電話の向こうで声高らかに笑っていました。日本の教員は数年のスパンで他の学校への移動があり、生徒自身もクラス編成で友人が変わり、担任も頻繁に替わると聞きます。どちらの方法がいいか、悪いかの判断がつきかねますが、少なくともデンマーク人の働き方は生き生きとしているように見えます。205・

家庭の民主主義のひとコマ・205・平成28


 

 

 

職場の民主主義の一コマ・家庭の民主主義のひとコマ・社会が求める人物像・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・

・2・男女参画型社会・212頁・男女平等とは・主婦か主夫か・パパも育児休暇・自立した女性たち・

・3・生きて歳をとって・221頁・自立している高齢者・弱い高齢者への援助・義母インガのホーム入居・

デンマーク関連の推薦図書・ウェブサイト・232頁・

おわりに・234頁・平成28年2月16日 火曜日・  


デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会 単行本– 2005・11 澤渡 夏代ブラント (著)      4件のカスタマーレビュー

容(「BOOK」データベースより)

“愛されれば、その子は人を愛する大人になる。社会に愛されれば、その子は社会の大事な人材となる。”著者は1960年代の後半に片道切符で海外に渡り、フィンランドでの生活を経てデンマーク人と結婚。36年の体験を通して「子を愛する」こと、「経験から学ぶ」ことの大切さを生きいきと綴る。

 内容(「MARC」データベースより)

 デンマークには人が資源という考え方があり、幼い時から個として尊重され、自己決定・管理ができるよう育てられる。この国の福祉・保育・教育の充実した制度と暮らし・子育てを紹介し、日本に欠けているものは何かを考える。

 単行本: 237ページ出版社: 大月書店 (2005/11)発売日: 2005/11

 目次


はじめに・3頁・

序章 デンマークの大事な「資源」子ども

・1・経験から学ぶ・14頁・危ないことも危なくない・経験は師なり・初孫の誕生・子供と両親の絆のスタート・デンマークの大事な「資源」子ども・

第1章 私の手づくり人生

・1・私の手づくり人生・28頁・

青春へのブレイク・めざすは、ストックホルムか・歯科医家族との出会い・衣食住を獲得して・子供たちとのコミュニケーション・「まずはほめる」ことの大切さ・

・2・フィンランドからスペインへ・39頁・

わかれ・私たちはヒッチハイカー・未来への夫とのキューピット・

・3・両親の思い・47頁・両親の切ない気持ち・大学教育断念のとき・負と思うな・入社は、出発の準備・母の長年のしこり・

・4・迷いと決断の頃・54・人生を変える出会い・決断を前に日本に帰ろう・結婚生活スタート・祖母アグネスから学んだこと・

・5・・私たちの子育て・母になって・ママは、子供たちの通訳・お母さんの言葉・お父さんの言葉・お父さんは、いい先輩・父親と子供・

・6・仕事と私・さんざんの通訳デビュー・すべてに「初め」あり・働く親と子供たち・子供に「振り向く」こと・

・7・私の家族・私たちの家族にウェルカム・タニヤの奮闘記・三か国語が飛び交う三ヵ国家族・二人の姪は韓国から・

 

第2章 家庭と社会のハーモニー

・1・社会の子・98頁・統一された保育基本方針・国は、どのような幼児教育を目的としているのか・保育は、自治体の責任・選択肢のある保育・

・2・シャロッテの初産・106頁・

・夫と母の立会い・子育てを一人で悩まない・マザースグループに参加・シャロッテの産休計画・

・3・保育園を訪ねて・113頁・フライヤス総合保育園の子供たち・乳児グループ・幼児グループ・森の保育園・保護会とその他の行事・年間計画の義務付け・

・4・子供は、子供らしく・128頁・見ます、聞きます、話します・グッドナイトストーリー・抱きしめるというスキンシップ・体罰はもってのほか・とにかく話そう・

第3章 みんな違ってあたりまえ

・1・学校が大好きな生徒たち・142頁・

教育は、何のため?・職業意識の芽生え・スクールアドバイザーの役割・労働市場の味見・高等学校の入るということは・自分との競争・スチューデント帽をかぶれる日・18歳は、子供から大人へ・SUと言う公的経済援助・給料をもらって職業教育・子供たちの巣立ち・貧しくとも満足な学生たち・保育士をめざすビギッテ・デンマークの義務教育の課題・

・2・性教育の大切さ・175頁・性の解放・性のカルチャーショック・学区での性教育・性教育の義務づけ・子供は「望まれて生まれてくるもの」・

・3・社会に守られている子供たち・189頁・子供の居場所・子供をウォッチ・

第4章 自分で決める自分の人生・

・1・自分で決める自分の生活・200頁・デンマークの民主儀の中身・職場の民主主義の一コマ・家庭の民主主義のひとコマ・社会が求める人物像・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・

・2・男女参画型社会・212頁・男女平等とは・主婦か主夫か・パパも育児休暇・自立した女性たち・

・3・生きて歳をとって・221頁・自立している高齢者・弱い高齢者への援助・義母インガのホーム入居・

デンマーク関連の推薦図書・ウェブサイト・232頁・

おわりに・234頁・平成28年2月16日 火曜日・

 

子供は神様の贈り物、お年寄りは芸術の賜物

幼い頃から一人の人間として自立して物事を考え行動するように育てられ、人と人とのつながりを大切にする国、デンマーク。教育や福祉の先進国として、世界中から多くの人達が視察に訪れる北欧の国の一つです。

 

日本人にとっては、『人魚姫』『みにくいアヒルの子』などの童話で馴染み深いアンデルセンの故郷でもあります。

 

何事も心を開いて率直にとことんまで話し合う国民性は、長い時間を経て、公平で公正な本当の意味の民主主義を隅々まで行渡らせました。

 

「子供は神様の賜り物。子供には親が必要だが、子供は親の所有物ではなく、社会の未来。だから社会全体で子供を育てるのは当たり前。」というのがデンマークでの一般的な考え方のようです。

 

日本から遠くはなれ、歴史も文化も全く違うデンマークでの子育て事情についての本ですが、今の日本社会が抱える問題を解決するヒントが散りばめられています。

とてもためになった。C層を作るための子育ての本です。

B層の研究、C層の研究という本を読んで、「日本人がこれほどまでにモノを考えなくなったのはなぜなのか?」という疑問にあたり、それは明治時代からの教育にあるとにらんだ。株式会社アシストの会長、トッテン氏(ヒカルランドの書籍を読まれたい)の分析も自分と同じで、自分でモノを考える外国人と上から命令されたことを実行するのには長けた日本人との違いは、そもそも教育のありかたにあることを確信した。

北欧の政治は透明性が高く、福祉国家と言われている。とくにデンマークは世界一幸福度が高いと言われる国である。その国で行われる徹底した民主主義の姿勢は教育にも及んでおり、どんな親の元に生まれたとしても、社会がそうした子供に常に保護とチャンスを与え、金銭的に親に依存するといった親による子供の支配・決定権の侵害を産みかねない制度を改革しているところにもあると知った。デンマークの税金は高く、収入の半分くらいが税金に消える。しかし、その税金の使われ方は一人一人の幸福を作るためであって、使われ方は国民の実感も伴ったものだから受け入れられている。それに比べると、日本の税金は搾取に近い。国民のためにつかわれることはなく、いつの間にか使途不明金になり、どこかに勝手に消えていく。

デンマークの教育は、小さいころから徹底して、自分に決定権がある。そして、その決定権を親は侵してはならない。命令したり、平手打ちなどしようものなら、それはしつけとはみなされず、犯罪行為に当たる。しかし、それは自分の決定したことを最後まで責任をもって遂行するという義務も同時に背負うことになり、その遂行を親や教師は手助けしているのだ。その結果、デンマーク人は、人を信頼しつつも自分で自分の人生を決めていく大人になり、そして自らの行動に責任をもつ大人に育っている。そうした自立・自律の精神を育てられたデンマーク人は、自らのコミュニティに関心をもち、社会に参画することを喜び、問題を感じたら、お上のやることなどと決して政治任せにはしない。まさにC層率の高い国民なのだ。

日本という国が壊れたのは、明治以来続く、古い教育制度と親子関係のあり方にある。それは、戦後GHQによってさらに致命的なものとなった。もし、自分の子供をB層にしたくないのなら、どういう教育をすればいいのか、どういう親の在り方であればいいのか、自律した大人に育つための実践的なノウハウがわかるような、たくさんのエピソード満載の本だった。子育てのヒントをちりばめた、このような良書を出してくれた、著者と出版社の両方に感謝したい。

親が小さな子どもにも人格を認め、しっかりと向き合う社会、デンマーク

デンマークでは、子どもでも人格を認める。どうしてでしょうか。子どもが、自分の意志で、物事を決めていく。決めたことには責任を持つ。大人とは、自分のことは自分で調べ、自分で決めていく、そういう人を育てる。

自分を見つめ、社会でどのような役割を果たしていくか。自分の将来は自分で決める。これが人間として、幸福なことなのだ。と報告されていた。そのために、小さいときから、親は子どもと真剣に向き合い、たとえ幼い子でも、質問や意見はしっかりと聞く姿勢を持つようにする。

日本でもそうしている方も居らっしゃるかと思うが、私にとっては、とても大切な考え方を教えてもらったと思う。これから子育て、孫育て、教育関係の方、多くの方が、この本を読まれることを望んでいます。

こどもの未来を考える人。必見

学校だけが学びの場では無いことを教えてくれます。子どもたちにとっていろんな生き方、育ち方、学び方があって多くの選択肢があるわかりやすいデンマークの社会が日本の教育の問題点を考えさせてくれる貴重な本です。

14:43 2016/02/15


 

 デンマークの子育て・人育ち

デンマークの高齢者が世界一幸せなわけ 単行本– 2009・3 澤渡 夏代ブラント(著)5つ星のうち 5     2件のカスタマーレビュー

容(「BOOK」データベースより)

必要な人に、必要なとき、必要なだけ、無料で援助。デンマークの高齢者の生活環境は実に豊かです。しかし、それはたんに与えられたものではなく、長い時間をかけてデンマーク市民が勝ち取ってきた結果であり、民主主義の成果なのです。

澤渡/夏代ブラント

1946年(昭和21年)東京生まれ。武蔵野女子学院卒業後、デンマークへ。1969年、デンマーク人ブラントと結婚、2男1女の母。フリーランスの通訳業務を経て、1985年にコーディネーション会社を設立。デンマークの医療・福祉・教育分野の研修および講師、テレビ局・メディアのコーディネーションに従事。日本での執筆および講演活動も行っている。十文字学園女子大学高齢社会生活研究所(客員研究員・2004~2006年)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

単行本: 212ページ出版社: 大月書店 (2009/03)発売日: 2009/03

 

デンマークのプロフィール(2008)年平成28年2月15日 月曜日8頁・

・1・国土・デンマーク本土の面積は約4・3平方㌖で九州とほぼ同じ面積。本土のほかに、自治領のフェロー諸島と世界最大のグリーンランドがあります。地形は「パンケーキの国」と呼ばれるように全体が平らで、国内で一番高い場所は178・86㍍のミューラホイ、また、デンマーク人が天山・ヒメルビヤウと呼んで親しんでいる山は147㍍しかありません。

・2・人口・約545万人(2007年デンマーク統計局)

・3・首都・コペンハーゲン(デンマーク語表記)コペンハーゲン市の人口は約50万人、首都圏地域は164万人・

・4・言語・デンマーク語(一般的に英語は堪能)

・5・宗教・1536年の宗教改革により福音ルーテル派が国教となり、現在は国民の82・1%が信徒。ただし、日曜日に礼拝に参加するのは5%弱です。

・6・政体・立憲君主制・

・7・元首・マーグレーテ二世(1972年1月即位)

・8・議会・一院制(179議席、任期四年)

・9・政府・自由党・保守党による右派・中道連立政権・首相・アナス・フォー・ラスムセン(自由党党首)外相・ペア・スティー・ムラー(保守党)

・10・デンマークの国の形・社会福祉国家・1849年にフレデリック六世王がデンマークの最初の憲法「自由憲法」に調印。以来民主主義を基本とした社会福祉政策。

この社会福祉制度は弱者の救済のみならず、国民全員が文化的かつ安心した暮らしを保障するものです。9・

10頁・

・11・高福祉・高負担・高度な社会福祉制度では義務と権利の法則で成り立っています。就労者及び公的給付受給者(年金など)全員が納税者であり、税率は累進課税法で算出されます。

2008年の税率は38・8%~59%・付加価値税・25%・内税ですべての商品・サービスに課税される・間接税(ぜいたく税、自動車、酒、化粧品など)

・12・行政区分・5のレジオンと98の地方自治体・

2007年1月の行政改革施行により県が廃止され、代わりに国内が5レジオンと98の地方自治体に区分されました。レジオンは基本的に医療・保険を管轄分野としています。県の廃止により各地方自治体はより広い範囲の行政分野を担当することになりました。

・13・労働市場・

失業率1・6%(20008年8月、デンマーク統計局)10・

GDP2753億ドル(2007年、世銀統計)一人当たりのGDPは5万2110ドル(2007年、世銀統計)で、世界ランキングで六位・

インフレーション3・8%(2008年7月9)労働者の常勤は、週37時間・

週休完全2日制、年間5~6週間の有給休暇・52週の産休・育児休暇制度の完備・

・14・生活面・親子の同居はほとんど無し・進んだ男女平等社会参画・女性労働率・72・0%・男性労働率78・3%(2007年統計局、16~66歳)成人年齢18歳(選挙権、運転免許可)公的年金受給年齢65歳・11頁・

12頁・

・15・教育制度・九年間の義務教育(小中一貫教育)義務教育の前後に○学年と10年生あり(任意教育)

スクールアドバイザー制度(進路指導)

教育は生きるため(教育と職業が連携)

非入試制度(進路は本人の意思と学力および教員の評価で決定)

全教育費無料・

・16・高齢者事情・65歳以上の甚句は83万4700人で、総人口545万人の15%(2007年)100歳以上の人口は715人、そのうち女性が620人。105歳以上の人は23人80歳以上の77%が自宅居住、23%が介護付き住宅・高齢者政策にGNPの11・1%(2004年)

・17・近年の国政選挙投票率・1998年3月11日86%・

2001年11月20日・89¥7・2%・

2005年2月8日・84・5%・2007年11月13日・86%・

・18・デンマーク在住の日本人の人数・女性693名、男性362名、合計1055名(2007年デンマーク統計局)

・19・平均家庭・

2008年のMr.&Ms.デンマーク平均さんを紹介いたします。名前はアンナが32歳の時に2歳年上のイエンスと結婚。アンナ29歳で長女ソフィーを出産。

アンナとイエンスは1・9人の親で、一家は100~159㎡の一軒家と車一台を所有。年間可処分所得・イエンス18万3500・(約422万円)。

アンナ・14万9400・(約344万円)。イエンスは76歳まで生き、アンナは80歳まで生きる予定です。(デンマーク統計局2008年)13頁・

目次

 

 

1章 老いと退職を迎えて

・1・クオリティー・オブ・ライフ・18頁・

若いつもり・シニア世代の準備・シニアセミナー・

 

・2・老いを知る・26頁・同意はノーサンキュー・あたりまえの世代間交流・みんなで祝う誕生日・三世代で休暇・

・3・退職を迎えて・37頁・待ちにまった退職の日・イングリッドの退職・準給与制度は人気の制度・

・4・退職後の人生・47頁・熟年に戸惑う日本の夫婦・デンマーク人の家族と職場のバランス・退職後の夫婦の生活・子供の自立、親の自立・

 

2章・ 高齢期を生きる・

・1・元気なうちに住み直し・64頁・わが家、わが城・適時に適正な住宅へ・いさぎよく引越し・多様な住み方、「共同住宅」・共同住宅を結成したメンバー・

・2・さかんなボランティア活動・75頁・「奉仕」ではなく「自分のために」・市議会議員もボランティア・高齢者のためのNGO「エルダーセイン」・人が好き、だから「訪問の友」・「訪問の友」はベストフレンド・

・3・高齢者の声の反映「高齢者委員会」・89頁・委員は全員ボランティア・高齢者委員会の歴史・ロスキレの例・

 

3章 デンマークの高齢者福祉

・1・高齢者福祉―日本とデンマーク・98頁・

・どうすればいい、父の発病・日本の介護は制度が中心・安心して歳を取れる条件・

・2・デンマーク人の価値観・106頁・

・できる限り自分の生活は自分で・この40年の福祉政策の歩み・高齢者福祉の改革・施設意識から住宅意識へ・

・3・援助が必要になったとき・118頁・自立のための補助器具・市営補助器具センター・職業病ノーサンキュー・やさしさのちがい・

・4・安心した暮らし・128頁・

・ケアの中心は在宅ケア・サービスの判定は専門家が・判定部の判定分野・待機は二ヵ月・アンカーの一人暮らし・できないことへの援助・高齢者住宅に住むイリセ・介護住宅に住む義母インガ・義母インガの家計簿・あってもなくてもお隣同士・

・5・ケアワーカーの教育・156頁・

・介護職の充実・積み上げ教育・実習と理論の交互教育・学びに給料・

4章 デンマークの今を築いた人々

・1・民主主義を守るために・168頁・

・レジスタンスの歴史を共有する旅・戦争がもたらした「強制収容所症候群」・

最年少捕虜・サボタージュの果てに・捕虜番号67・050・白いバスの迎・ヨルゲンの安心した老後・愛国心からレジスタンス活動に・

・2・六八年世代の求めた社会・190頁・立ち上がった若者たち・大学の民主化・女たちの戦い・原発vs代替エネルギー・

資料・デンマークの国民年金制度・203・

おわりに・207・平成28年2月15日 月曜日

・1・民主主義を守るために…168頁・

・レジスタンスの歴を共有する旅、

2006年の8月のある日、ロスキレ市にある高齢者ケアセンター・ベアナドッテゴーデンの元施設庁エミーから、「九月に予定している「ドイツ強制収容所の旅」に一人空きができたけれど参加する?」と電話がありました。部外者の私に突然の誘いでしたが以前から興味があったので何のためらいもなく「参加させて!」と答えていました。

このたびは、1940年から五年間にわたるドイツ占領時代にレジスタンス(抵抗運動)に参加してドイツ秘密警察ゲシュタポに逮捕され、といつの強制労働収容所に送られたデンマーク人の過去を知る旅です。旅は「レジスタンスと捕虜の会」の会長モーンス・ヘネリックとエミーが、高齢者ケアセンター・ベアナドッテゴーデンの職員の研修旅行として10年前から実施しています。研修の案内人はモーンス・ヘネリックで、参加者は介護・看護スタッフやリーダー職を含め20名ほどです。

この研修は、ベアナドッテゴーデンに入居する元捕虜たちをより理解するために企画されたものです。費用は「レジスタンスと捕虜の会」基金が全額負担していますが、どうも今回が最終回になりそうです。168・

169頁・平成28年2月14日(日)

それは基金の底も付いたのと、同時にモーンス・ヘネリックが高齢になったのが理由です。

旅の日程は二泊三日で、案内役モーンス・ヘネリックが拘留された南ユトランドにあるフヨイヤスレブ捕虜収容所と、後日移されたドイツの強制収容所ノエンガメを訪問します。

当日の出発は朝八時。二泊三日の旅を支える専用バスも到着し、昼食用の食料や飲み物を積み込むとすっかりピクニック気分で、「重苦しい旅」に出かけるような雰囲気は微塵にも感じられません。

バスはロスキレを出発し、一日目の目的地フヨイヤスレブ捕虜収容所をめざして走り出しました。

・戦争がもたらした「強制収容所症候群」

1945年5月5日、デンマークは連合軍によりドイツ占領から解放されました。この日、人々は占領の暗黒時代から解放され、自由に灯りを付けられるよろこびを、窓辺にキャンドルをともして家族と、隣人と、そして国民皆で分かち合いました。

占領時の五年間にレジスタンスや警察官など約6000人がゲシュタポにつかまり、捕虜となってドイツの強制労働収容所に送られました。しかし、幸いなことにデンマークは赤十字を通じて輔量たちにビタミン剤を含む支援物資を送ることが許されていたために、デンマーク人の強制収容所での死亡率は15%にとどまりました。169・平成28年2月14日ここまで

 

・最年少捕虜・172頁・

・サボタージュの果てに・175・

・捕虜番号67・050・179頁・

・白いバスの迎・182・

・愛国心からレジスタンス活動に・186頁・

・2,67年世代の求めた社会・

・立ち上がった若者たち・190頁・平成28年2月14日(日)


2007年の日本では「団塊の世代」の定年時期がスタートし、「2007年問題」として多様な議論が巷を賑わしました。

一方、デンマークでは2008年に、「68年世代」と呼ばれる1960年代の若者の蜂起から40年ほどが経ち、メディアではこぞって近代史を振り返る動きがありました。

ヨーロッパの1960年代は、ビートルズ、ヒッピー、集団生活、性の解放そしてライフワークなどに象徴されるように、古い価値観に対立し、新しい自由で平等な社会を求める「若者の蜂起」や「学生運動」があちこちで起きました。190・

191頁・「68年世代」とは、デンマークにおいてその運動が1968年に頂点に達したことから、その動きに属する人々に名づけられた名称です。彼らは1968年当時に18歳から25歳だった若者で、2008年の今、定年を数年後に控えているか、リタイアしたばかりで、まさに日本の「団塊の世代」と「時」を共有している人々です。

若者たちの新しい社会を求めるさざなみは、第二次世界停戦後の社会的・政策的な問題として起きていた原子力問題、ベトナム戦争、資本主義、消費社会に対する若者のリアクションとして、1960年頃からヨーロッパのみならず世界各国で起き始めました。デンマークでも原発反対運動、環境運動、コペンハーゲン大学での学生紛争、そして男女平等権を訴えた女性運動など、60年代、70年代は民主主義の熟成に向けた戦いの時代でした。彼らは古い権威体制や管理社会からの脱皮を求め、新しい考え方や新しい社会体制を提案していきました。

 

当時、「教育現場は社会的階級分けが見られ、壇上の先生と生徒の間には精神的な距離があり、先生に対して生徒は行儀よく授業を受けることが当たり前。職場は規律や管理に縛られ、大学は教授に全権限があり、違反者には16か月の懲役を強いられた。個人の考えや意見が理不尽に否定され、性別による差別が見られた」と言う古い社会体制を「人が中心」の社会に変えていきました。

彼らは現状の社会体制を黙視して、ただ当時の社会体制の波に乗るのではなく、一人から二人へ、二人から数名に、そして大きな波として団結し、デモンストレーションなどの活動を通して社会に訴えていきました。191・


192頁・そして、この世代の人々が70年代、80年代、90年代のデンマーク社会を動かし、社会形成にも一石も二石も投じたと言っても過言ではありません。

・大学の民主化・192・

1968年3月21日コペンハーゲン大学の正面にあるスチュディオ通りからビートの利いた音楽が鳴り響き、門の壁に赤字で「教授主権の崩壊と学生の参加を今こそ!」と学生の訴えが掲げられていました。

学生たちはコペンハーゲン大学の時代に合わない教育環境に大きな不満を持っていました。大学は1958年に4700人だった学生が10年後の1968年には2万1500人に増加していましたが、職員数や建物が時代に追い付かず、そのために授業や講義に支障ができていました。また、教授がすべての権限を持ち、四角張った古い形の大学運営に不満を抱き、学生の意見をもっと反映できる組織づくりを要求しました。

4月19日、心理学学科の学生100人~150人が心理学研究所を占領し、バリケードを張って授業を妨害し、4月23日には、5000人がデモストレーショ雲に参加する事態に発展しました。これはコペンハーゲン大学が1479年に開校されて以来初めて経験する大規模なデモでした。

大学長モーンス・フォーぐ(当時64歳)は、第二次大戦中にレジスタンス運動に参加し、戦後初の内閣で大臣を務めた後、古巣の国立大学病院精神科教授とし、1966年にコペンハーゲン大学長に任命されました。192・


193頁・彼はヒューマニストであり、以前から九育現場の権威主義に疑問を抱いていました。

フォーグは学生たちと「対立」するのではなく、「対話」を選び、学生たちの要求である「運営に学生参加」を承認し、占領されていた心理学研究所も無傷で大学に戻されました。

フォーグは、大学で起きた大規模な集会でも警察の介入を避ける方法を選びました。警察は学長に混乱した場合の緊急通報を要請していましたが、フォーグはその手段を使うことはありませんでした。

その年の11月、恒例の「コペンハーゲン大学祭」が開かれました。この大学祭の招待客は学生ではなく、王室を含む上流社会の人々で、学生は「階級社会」に対する批判を表すために行動をおこすべく、偽入場券を作り会場に忍び込みました。

そして、心理学の学生フィン・アイナーは、学長のスピーチ壇上を乗っ取り三分間のスピーチを決行しました。学長はフィンにスピーチを許し、彼は「大学祭が国のエリートだけの参加なのは、この社会が階級社会だからだ」と訴えました。フィンと共に会場に忍び込んだ学生たちは喝采を挙げましたが、スピーチ後に学生たちは会場を退出しました。

当時、西ヨーロッパでは約2000の大学で学生紛争が起きていますが、他国に学生運動と異なる点は、流血騒ぎも警察との激しい衝突もなく、フォーグは学生たちと共に大学の古い体制を変え、さらなる民主化に貢献しました。193・

194頁・平成二十八年二月十四日

・女たちの戦い・194・平成28年2月15日 月曜日・ここまで

デンマーク人に「レッドストッキングって知っていますか」と聞くと、「アア、あの過激な女性運動のこと?」という反応が返ってきます。その挑発的な行動は世間を驚かせ、唖然となって首を横に振った市民も多くいましたが、彼女たちの活動に賛成する・しないは別として、今日のデンマーク社会が「世界の中でも男女平等が進んでいる国」として認知されているのには、彼女たちの活動が大いに貢献しています。

1960年代に若者だった女性たちは、彼女の母親たちの「良妻賢母」型と違い、高等教育と自立を求めた世代です。学生紛争が男子学生によって繰り広げられていたことに触発されてか、女子大生が中心となって「レッドストッキング」運動として世の中に旋風を巻き起こしました。

彼女たちのアクションは「男性が女性を「飾り人形」としてみている」と「性差別」に抗議し、女性用の下着を誇張してコペンハーゲン市の目抜き通りをデモンストレーションし、1970年の母の日には男女の賃金差を訴える活動として、一人1・25クローネのバス代を0・80クローネしか支払わないというアクションを起こし、警官に抱きかかえれられてバスから降りたというエピソードは、未だに多くの人の記憶に新しいところです。194・

195頁・デンマークには1871年に設立された「女性連盟」と言う女性運動があり、早い時期から女性の権利を拡張する運動を繰り広げ、すでに世界の中でもかなり女性の平等権が確立されていましたが、デンマークの女性たちにとってはまだまだ発展途上だったようです。レッドストッキングは、家庭内の男女の役割、職場での平等権を追求し、人線中絶の合法化を求め、1973年の立法化に貢献しました。

イングリッド・クローグも、レッドストッキングのメンバーとして若き日を送った一人です。彼女は二年前(2006年)に準給与制度を利用して国民学校(公立小中学校)の教員を退職し、現在は「自分のエンジンオイルとして」カルチャーセンターの「シニア英語教室」で週に二日間教え、その他の日は近所に住む孫の相手をして楽しんでいます。

「私の前夫は自分と仕事が一番大事で、家事と子育てには見向きもしなかった。特に、夫の仕事の関係でシカゴに三年間住んでいた時は最悪だった。本人はジャマイカやあちこちに出張するのに、私はいつも一人で家にこもって一歳と六歳の子供を相手に生活していた」と、1970年代の数年間は「弾圧された生活」だったと言います。私が「そういう生活が弾圧?」と尋ねると、「ほかの国の女性はどうだったか知らないけれど、私は自分の置かれた立場を十分女性への弾圧だと感じていた」と、自分が置き去りの生活に疑問を持つ毎日を送ったというのです。195・

196頁・平成28年2月15日 月曜日・

 

 

 

資料 デンマークの国民年金制度

 

デンマーク高齢者福祉の現場から思想まで

 本書は福祉国家として名高い北欧の小国デンマークの、高齢者福祉の現状を現地住民の視点からレポートしたルポタージュです。

大きな税金を徴収して高い水準の福祉を実現している国を聞いて、国はさぞかし手厚いサービスを提供しているのだろうと思われがちですが、本書第1章で綴られているデンマークの高齢者たちは極めて独立心旺盛です。自分のことは自分でこなす。足りない部分を家族や行政がサポートする程度の、拍子抜けするほど簡素なものです。ただし、サポートが受けられなかったり、日常生活が営めないような状況にはなりません。それらの生活保障サービスに支えられながら、至って穏やかで自然体の暮らしを送っている人々の様を、本書の前半では著者自身の経験を通じて描いています。

 後半ではデンマークの高齢者福祉、その生活保障サービスの実際が紹介されます。普通のアパートのケアスタッフが常駐している介護住宅、自立した生活を支えるためのきめの細かい補助器具、その補助器具の調整をする補助器具センター、自立援助のプロである介護スタッフ、在宅ケアが中心のサービス設計、ケアの判定規準まで、事細かくレポートされ、日本の実態と比較する上で大変優れた資料になっています。加えて、客観的な制度の観察だけでなく、在宅支援、高齢者住宅、介護住宅のサービス利用者の日常を追うことで利用者の視点からも、デンマークのサービスの実態を描き出しており、主観的にも分かるようになっています。これらデンマークの利用者本位の理念の通った福祉の現状と、著者自身が経験した日本での制度ありきで国民の生活実態を2の次にしてしまう福祉の現状との比較がとても対照的で、日本という国のあり方について深く考え込まざるを得ませんでした。

 しかしなぜこの様な国ができたのか。その根本的な疑問にも本書は果敢に挑戦します。民主主義を守るためにたたかった無数の人々、ーナチスドイツに立ち向かったレジスタンスたち、古い価値観とたたかった68年世代などーこの国の民主主義が彼ら国民自らの力で勝ち取られ、守られてきたことが、当事者の発言も交えながら明らかにされます。本書の各所に散りばめられた穏やかで平和な生活の日々を切り取った写真の背後には、この様な揺るぎない信念が一筋通っていたことを知り、日本で暮らす私たちも背筋を正し、私たちは何を求めて生き、何を求めて社会で実現していくのか、真剣に考えなければならないと思いました。デンマークや福祉国家を知ると同時に、日本を知ることのできるまたとない良書です 


 デンマークの高齢者福祉を分かりやすく紹介

著者は20代前半でデンマーク人と結婚、以来40年間デンマーク社会に溶け込み生活している。その豊富な実体験と堪能な語学力を活かした取材により、最新のデンマークの高齢者福祉の現状を、平易な文章で分かりやすく紹介してくれる。しかも著者は、福祉や教育を専門として日本とも頻繁に行き来しているので、日本の現状に照らして日本人が知りたいツボを適格に押さえている。近頃北欧社会の研究書や紹介本が増えているが、本書はその中でもピカイチの説得力を備えている。私は、高齢者というよりも、この国の生きにくさを体感し将来に展望を持てない若者や、政治家、福祉行政に携わる人々などに是非読んでほしいと思う。なお、本書の姉妹編ともいえるデンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会もあわせて読めば、デンマーク社会への理解はさらに深まるだろう。

14:36 2016/02/14


デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会・澤渡 夏代ブラント(著)・・・ 主婦か主夫か・213頁・・220頁・ある日テレビで、国連の男女平等を担当するアメリカ人の学者のインタビューが放送されていました。番組の中で学者は、男性が子育てにかかわることは人間性を高めること。男性の育児参加は大事なことで、大いに認めなくてはならない」と発言していました。私は育児休暇中のパパたちを思い浮かべながら、「ごもっとも」と、テレビに向かって拍手をしたい気持ちでした。218・



引用


主婦か主夫か・213頁・


16/2/20 15時44分2秒・


息子アキが結婚して六年目になり、彼の娘ステファニーも四歳になりました。タニヤも歯科衛生士の資格を取り、歯科医院に就職して一年になります。アキはデータ会社のエンジニアとして常勤(週37時間)の仕事についており、タニヤは週27時間雇用で月、火、木曜日に勤務しています。タニヤの27時間勤務は、歯科医の衛生士求人内容に沿って応募した結果でしたから、勤務時間が本人のニーズにあっている、と言うことです。アキとタニヤが経済的に深刻であれば、タニヤも常勤勤務時間に当たる37時間を埋める残りの10時間を他の歯科医院で勤務することも可能ですが、彼らはステファニーの世話に時間をとれるよう、タニヤの27時間勤務を選択しました。213・


214頁・

タニヤは、勤務する日は朝7時に家を出て、帰宅は夕方6時です。

デンマークの多くの子供たちは、両親の出勤時間に合わせて早起きをしなくてはなりませんから、うかうかしていられません。就寝時間を守って親と行動をともにすることが要求されますから、ちょっとした「勤務」のようです。アキの場合、勤務体制がフレックスタイムなので、自分で勤務時間をコントロールすることができます。また、コンピューターと電話回線が会社の費用で取り付けられ、自己管理のもとに自宅勤務が可能です。

デンマークではアキのようなフレックスタイム勤務体制がここ数年多くなっていて、2001年の統計では、フレックスタイムで契約している女性は全体の18・6%でそのうち92・1%が利用し、男性は16・4%でうち89・1%が利用しています。また、自宅勤務については31・%の女性が自宅勤務可能で、そのうち81・6%が利用し、男性では31%が可能でうち82・1%が利用しています。この傾向は今後さらに増加すると言われています。

このような勤務体制は、雇用者と勤務者の信頼関係があって成立することは言うまでもありません。パパがフレックスや自宅勤務が可能なことは、ステファニーにとってとても好条件です。母親の出勤時間にあわせて早起きすることなく、朝九時頃までにパパに保育園に送ってもらうことができます。214・


215頁・平成28年2月21日 日曜日・午後三時半から四時ごろになると、コペンハーゲンから市街地にのびる高速道路は渋滞になります。一日の仕事を終え、自宅にもどる人や子供を保育園に迎えに行く親たちが急いでいるのが分かるようです。アキも三時半か遅くても四時には大勝して、ステファニーを保育園に迎えに行き、スーパーで日常食品の買い物をして帰宅するのが日課です。タニアの勤務日は帰宅が六時過ぎですから、パパが夕食を作ります。家事や育児について家庭内で誰が何を担当するのかは、誰に時間があって、また好きか、得意かにもかかわってきます。


子育てを二人で行い、買い物・料理も協力し合う姿は微笑ましい光景ですが、男性が「どこのスーパーに美味しい肉がある」「少し寒いからタイツをはかせた方がいい」と、家事や育児が日常生活にすっかり溶け込んでいる姿を見ると、現代のデンマークの若夫婦の家庭には「主婦」が二人いるような錯覚を覚えてしまいます。215・2016年2月21日(日)

パパも育児休暇・215頁・


午後の昼下がり、乳母車を押してパパたちがコペンハーゲンのソーシャルセンターに集まってきます。部屋の中には、すでに到着しているパパが、ハイハイして部屋の外に出ようとしているわが子を抱きかかえたり、子供を膝に抱いて離乳食を食べさせたりしています。テーブルにはクッキーや果物が用意されていて、くつろげる雰囲気です。ソファがあってもパパたちは、床に置いてあるおもちゃ箱と奮闘している子供たちのために、床に座り込みソファにもたれて仲間と楽しげにおしゃべりし、とてもリラックスしているようです。215・


216頁・16/2/21 5時4分14秒・

私は昨年(2004年)、「パパのプレイルーム」が発足したと耳にし、「はてさて、何のグループだろうか」と興味津々で連絡をしてみました。従来、自治体が育児休暇中の母親と子供を対象に「ママのプレイルーム」とか「ミュージックプレイルーム」を、図書館や公民館を利用して開いていましたが、「パパのプレイルーム」は耳にしたことがありません。まさか「パパの遊び場」ではないでしょう、と思いながらコペンハーゲンのソーシャルセンターを訪問してみました。

ソーシャルセンターには多様な活動があり、専門家による個人的なカウンセリング、グループカウンセリングなど市民の社会的な問題の相談に応じ、また児童・家族向けに多種のアクティビティを提供しています。216・


217頁・また、市民の自主的な活動にも部屋を貸していて、「パパのプレイルーム」も数人のパパの発案で、毎週火曜日午後一時半から五時半まで専用の部屋を利用することができます。

このプレイルームの常連のスーナは女の子のパパで、三ヵ月半の育児休暇を取りました。「あなた自身の変化がありましたか」と聞くと、「いやあ、育児はフルタイムの仕事で大変です。私が育児をして妻が仕事に復帰していますが、いい経験です。家事や育児の大変さも十分理解できるし、妻を他の視点から見ることも知りました。それに一番いいことは、子供との関係がより密接になることでしょうね。

これは今後の私の人生において、大変興味深いものだと思います」。また「育児休暇の申請をした時、上司はどう反応しましたか」と聞くと、「いい部下は逃がしたくない」と答え、問題なく許可が下りました」と笑いながら話してくれました。彼は続けて「父親が育児休暇を取って育児をするということは、子供をまったく違った視線で理解することになります。毎日一緒にいれば、寝かしつけるのもパパの方が上手になったり、泣けばすぐに理由が分かったり、何をよく食べるとか、妻が帰宅すると私が娘の一日を報告する立場になったり、とにかく絶対に家族全員にとって健全なことだと思います」と、育児休暇に大賛成でした。


「でもやはり子供と二人だけの家の中に閉じこもっていては、ストレスもたまります。こういう場所に来れば、他の父親が私の娘の世話をしてくれたり、コーヒーを楽しんだり、第一、子供以外の話題を話せるじゃないですか」プレイルームに息抜きに来るメリットも話してくれました。この日に参加していたお父さんは12名で、子供は一歳未満が大多数で、子供のためよりも、やはり「パパの遊び場」のようです。217・


218頁・ある日テレビで、国連の男女平等を担当するアメリカ人の学者のインタビューが放送されていました。番組の中で学者は、男性が子育てにかかわることは人間性を高めること。男性の育児参加は大事なことで、大いに認めなくてはならない」と発言していました。私は育児休暇中のパパたちを思い浮かべながら、「ごもっとも」と、テレビに向かって拍手をしたい気持ちでした。218・


自立した女性たち・


218頁・平成28年2月21日(日)


「どこへ行っても女性が働いていますね」と、デンマークを訪問する日本人はたいそう驚かれます。そして、「女性が強いのですね」と思われるようですが、「いいえ、強いのではなく自立しているからです」と言うのがデンマークの女性の姿です。たしかに「主婦」と言う女性の肩書は消滅し、「夫に食べさせてもらう」など考えも及ばないことでしょう。

女性は男性と同じように自分を自分らしく生きるために教育を受け、その教育をもとに職につき、経済力を道、精神面・物質面でも自立して社会を担う労働力となって、65歳の定年まで仕事をしています。特に1983年に施行された「既婚女性の独立申告制度」の導入で、自分の収入に対して「納税する義務と権利」を得たことから、女性の経済的自立意識がさらに強まっていきました。218・


219頁・特に近年の若い女性の間では、「家庭と仕事の両立がうまくできている証」として、キャリアを積み、複数の子供を持つことがステータスになっていると言われているほどです。たしかにデンマークでは、10年前の女性たちに比べ、より仕事に対して高いキャリア意識を持ち、ダイナミックに仕事をこなして重要なポストに就く女性たちの人数も増加しています。この傾向は、女性自身が望むだけではなく、産業・経済界化を含む社会全体が「男性と女性が等しく社会参加することが健全な社会の姿であり、経済成長に不可欠」と言う社会的合意があるからです。


しかし、現時点で重要なポストにある女性の人数はまだ不足しており、女性の「潜在している可能性」をいかに見つけることができるか注目され、とくに大企業では管理職を男女均等にする方策がとられています。


例えば、従業員1万7000人を抱えるデンマーク大手の電信電話配給会社は現在、全授業院の男女の割合は男性60%、女性40%で、最高管理職では男性85%、女性15%、中間管理職では男性70%、女性30%ですが、1997年から全職種レベルで男女均等に採用する人事政策をとっています。また、優秀な女性スタッフを各部門からプールして、必要に応じて管理職を目指すタレント・プール政策を導入しています。また、この会社では2001年から三年間かけて、男女の上司に対する評価を従業員にアンケート調査したところ、「包括的に物事を判断することができ決断が早い」という評価項目で、男性が70%に対して女性上司は72%で、女性上司にやや高い評価結果が出ています。


今、デンマークで「もっと女性をトップに・・」というスローガンが流行しているようで、ともすれば「男性陣からおちおちしていると女性勢力に飲み込まれるのでは」と、冗談とも本気とも受けとれる研究者の声を耳にします。219・


220頁・仕事を精力的にこなす女性も、一日の仕事を終えて子どもと再会するとき、子供が満面の笑顔で抱きしめてくれれば、彼女の疲れはいっぺんに吹き飛んでいくことでしょう。220・


デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会・澤渡 夏代ブラント(著)家庭の民主主義のひとコマ・205・213頁・まで

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-d168.html

11:09 2016/02/20


次号へ

デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会・澤渡 夏代ブラント(著)  ・3・生きて歳をとって・221頁・221頁・自立している高齢者・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/221-4ef0.html

8:48 2016/02/21

まで・

パパも育児休暇・

 


家庭の民主主義のひとコマ・205・


平成28年2月20日(土)


結婚直後、夫が日本の印象として「日本の子供は、小さいうちは何でも許されるが、おとなになると結婚することも自分で決められないようだ」と言ったことがあります。その頃の私は、夫の言葉を素直に理解することができませんでしたが、デンマーク社会で子育てをしてみて、彼が言わんとしたことが「自立している人間像」に関連していることだと納得できるようになりました。夫が当時目にした日本の子供が持つあどけなさ、愛らしさは、デンマークの子供と何の変りもありませんが、大人と子供の関係に大きな相違を感じたようです。205・


206頁・夫が見た光景は、ハイハイがやっとできるようになった幼児が食卓によじのぼろうとしていた際、食卓の上に置いてあるものを全部下におろして、眼を細くして喜んでいる家族の姿でした。「目の中に入れても痛くない」と思う気持ちは理解できますが、幼児だからこそ、食卓にのぼる場所ではないことを伝えなくてはなりません。


日本では、まだ、子供の進学する学校、大学、そして結婚に至るまで親が関与する、または、影響を及ぼす風潮が少なからず残っています。子供の自然な自立心が芽生える時期に、親と言うパワーで子供に立ち向かうと、子供との衝突が避けられない状態になるのは、当然のことでしょう。デンマークの多くの親は、親に決めつけた意見を子供に当てはめようとすることを好みません。人生の先輩としての意見を述べ、子供とよく話し合い、最終的には親の考えに収まるかもしれませんが、決定は「あなたが決めなさい」と子供に委ねます。時には、親の誘導能力を発揮する場合もありますが…。


このプロセスは、「物事を自分で考え結論を出す」スタートです。時には、何でも「自分でやる」とか「私が決める」ことを強調すしすぎる子供もいて、親が困っている姿も見かけます。しかし、自分で人生の進路を決定することは、決してたやすいことではなく、幼い頃からの育みが、大事や役目を担っています。ましてや自己責任が伴うとなれば、難題です。親は、子供が成人年齢18歳になるまで、最も信頼できるアドバイザーとして接します。


夫婦間においても、夫間は他は妻が一人で家庭内のことを独断で決める風潮はなく、何事も話し合い、納得した上で日常生活を送っています。206・


207頁・わが家でも日常的なことですが、友人からの食事の誘いなどでも、必ずお互いの意向を確認してから返事をする習慣になっています。何しろ、デンマーク人は他人に物事を決定されるのを好みませんから、小々面倒なことでもありますが、二人が納得することで物事がスムーズに運ぶと思えば、回り道も苦になりません。


社会が求める人物像・207・

16/2/20 10時57分15秒・ 

デンマーク社会は、自立した人間像を求めています。デンマーク国民がライフクオリティとして位置付けている「自分の人生を自分で決定できる」人生観につながる大きな要素です。自分の人生を自分で決めることは、周囲とのバランス、個人の適応能力、教育方針、そして社会の受け入れなどの関係上、決して簡単ではありません。ところが、この国ではかなりの高いレベルで可能なのです。また、デンマーク社会は、それが国民の幸福につながるというコンセンサスのもと、長い年月とかけて可能になるよう、人々の意見をもとに国家政策を改良してきました。

デンマーク人は、「自分の参加なくして自分の人生が決められていくこと」を善としません。自分の人生は自分で決定していくからこそ、人生の「終」を迎える時、「自分らしく生きた」と満足感を味わうことができるのではないでしょうか。

しかし、自分の人生を自分で決定していくプロセスは、個人、社会、政治など多様な環境が整って初めて可能になります。207・


208頁・二章の「子供時代は子供らしく」の項でもくわしく記述している通り、デンマーク人は幼い頃から「個」を尊重され、おとなと対等に話し合う習慣があります。その中で自主性が芽を吹き、保育園、学校、そして社会へと自分の置かれる環境が変化していく中で、自分の意見や意思を表現し、同時に相手も尊重する姿勢を育んでいきます。「対話」は、相互理解と納得を生み、親と子供の関係のみならず、子供たちが育っていくあらゆる社会の中の人間交流に必要とされています。

子どもたちは、幼い頃から「自分で考えてごらんなさい」と促され、家庭、保育そして教育現場においても、多様な選択肢の中から「自分で選ぶ」ことを支援されます。こうしたプロセスを経て、自分で物事が判断できる自立した人物像に成長するのではないでしょうか。

デンマークは、この社会的合意を達成するために、また、それぞれが「自分らしい生活」を築くことができるように、自分の考えを人に伝え、自己の生活にも責任を持ち、自己管理することが可能な人材を求めています。208・


・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・208頁・平成28年2月20日

日本には、黙っていてもちゃんと相手の気持ちを理解できる「あ・うんの呼吸」と言うのがあります。「言葉に出して説明しなくても、相手はきちんと私の思っていることを理解してくれている」とは、何と楽な心地よいことでしょうか。208・


209頁・しかし、これはかなりあいまいで、解釈は人によって相違があります。また、「多くのしゃべらない」ことを美徳とする文化も残っています。言いたいことを心に秘め、「何でもない」の一言でその場をしのぐケースも、まだ多くあります。しかし、「あ・うんの呼吸」も「心に秘める」美徳も、デンマーク社会では通用しないのです。ここでは、きちんと言葉で説明することで初めて相手が納得してくれます。少し面倒なところもありますが、それは誤解を避ける手段として求められています。

まだデンマーク社会に慣れていない時期の私は、「黙っていても夫が私の心の内を理解してくれるはずだ」と思っていました。子供が幼かった頃、外出先で私が子供を抱いて歩いていても、いっこうに夫から「変わって抱こうか」と言う提案がありません。私は私で「そろそろ疲れたことを察して代ってくれないかしら」と思っていましたが、自分から言い出すことにためらいがあり、夫からの言葉を待っていました。

それでも彼は、知らん顔。そうのち、私が痺れをきらせて「そろそろ代ってくれてもいいのじゃないかしら」と抗議っぽく伝えると、彼は不意を突かれたように「エッ。抱きたいから抱いているのだと思った」との返事です。私たちの個人的な性質によるのかもしれませんが、私は、「こんなことでも言葉で表現しないと理解してもらえないのだ」と、つくづく感じたのです。でも、その時、私が自分の気持ちを正直に、「私は疲れました。代ってください」と言ったなら、夫は当然、快く代ってくれたことでしょう。

また、デンマークでは、楽しみの一つとして、自宅に友人や家族を食事やお茶に招待する、されるという習慣があります。209・


210頁・男性も女性もよく話し、よく飲み、よく食べ、ひと時を一緒に楽しみます。このような日は、得意料理で招待することに加えて、いろいろな話題を提供し合います。話題はもちろんさまざまですが、ある時は世界情勢であったり、選挙が近くなれば政策について談論風発する場面も多くあります。ところが当初、私は、会話を楽しむようなホームパーティを苦痛とさえ感じていました。言葉の問題もさることながら、会話に「女性が口を挟む」こと自体に躊躇していたのです。しかし、ここでは逆です。意見のない人は、魅力に欠けてしまいます。集まっている人たちは、競争するかのように自分の言い分、経験を語り、大声で笑い、女性たちもソファに足を組んで深々と座り、それだけでも自信たっぷりと言う感じです。こんな状況に不慣れだった私が、どうやって会話に入っていくことが出来たでしょうか。


そんな私を推察して夫はよく、「夏代がこう言いう経験をした」とか、「日本から帰ってきたばかりだ」とか、話のきっかけを作り、助け舟を出してくれました。しかし、「まあ、よく話をする人泰だな」と思うのと同時に、一言投げ掛けると「ああでもない、こうでもない」と意見を言い合い、議論する人たちに圧倒され、「なんて理屈っぽいのだろう」と驚異さえ感じていました。「どうして、彼らはこんなに話が上手なのか」「どうしたら自分の意見を持つことができるのか」と、その源を考えると不思議でなりませんでした。一人の人の意見に真っ向から反論するケースがあっても県下にもならず、人の意見も聞く力があって、夜がふけるのも忘れておしゃべいすぉしています。

自分の意見と違う意見と出会った時、とことんまで自分の正当性を主張しているようでも、結局は、反対意見が正当だと悟った時点で、素直に認める行動もあっぱれです。210・

このような状況にいつまでも驚き、苦痛に思っていては、私に将来がありません。私は、「郷に入れば郷に従え」と、気持ちを切り替え、「発言する」ことを念頭に心構えを新たにしたのを覚えています。これが結構、もと「大和なでしこ」には、大変のことでしたが・・・。211・


・2・男女参画型社会・212頁・

16/2/20 15時20分16秒・


・男女平等とは・

デンマークを含む北欧諸国の男女平等の権利は世界のトップクラスにあり、今日では男女の違いは「出産」できるかできないかの違いだけだ、と言われるほど男女平等が進んでいます。また、男女平等とは、男女同権が確立されていて、講師において男性と女性が同じレベルで人生を送ることが可能な社会を意味しています。デンマークは世界水準から見ると女性の就労率も高く、あらゆる分野で男性と同等の権利を有しています。

しかし、これをデンマーク人に言わせれば、男女が同一の仕事をしても、賃金的には民間企業で16%、公共分野で9%の差があります。また、2005年の国政選挙においても179議席のうち、女性議員は36%に当たるわずか65名で、女性大臣は35%と、まだ元手を上げて喜んではいられない分野があるようです。

男女平等をデンマークで語る時、それは女性だけが求めるものではなく、「すべてにおいて男性も女性と同じステージに立つ」ことを目的としています。男性が家事や育児に参加することはごく一般的な姿で、共同で仕事を守り家庭を守っています。


最近、私も日本の友人から、子供が結婚する、という通知を受ける世代になりました。聞けば彼らは大学を卒業して就職をしても依然実家を離れず、結婚を機に初めて実家を離れて自分の城を持つようです。212・


213頁・そのような実情を知ると、「母親に洗濯も料理も任せて何の経験せずに急に独立して大丈夫なの?」と思わずお節介な心配をしてしまいます。もちろん「案ずるより産むが易し」かもしれませんが。デンマークの若者は18歳頃から実家を離れ独立するのが一般的で(第3章の1)、ここで料理の大変さを味わい、洗濯をしなくては着ていくものがないことを悟り、狭い寮の部屋でも掃除をしなければ埃アレルギー襲われる危険を身をもって経験していきます。

だからと言ってデンマークの男性が全員が料理も家事も上手にできる、という訳ではありません。なかには料理も家事も「どうしてもセンスがない」と伊男性が、女性と同じようにいることも確かです。213・


 

ここでま


前号を

デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会 単行本– 2005・11 澤渡 夏代ブラント (著) ・1・自分で決める自分の生活・200頁・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/200511-02c1.html

8:53 2016/02/19


社会が求める人物像・207・16/2/20 10時57分15秒・ここまで


第4章 自分で決める自分の人生・平成28年2月19日 金曜日


・1・自分で決める自分の生活・200頁・

デンマークの民主儀の中身・

デンマークを訪問する日本人の多くが、デンマーク人は「明るく親切」「通りすがりに目があうと、ニコリとほほ笑む」「生き生きとして人生を楽しんでいるよう」などの感想を述べます。一週間程度の短い滞在でも、何か「生活のゆとり」や「人々が楽しく来ている」姿が感じられ、同時に「日本とは何かが違う」「どうして?」と言う疑問がわいてくるようです。

これはデンマーク人が「生活の便利さ」や「物質的な豊かさ」ばかりにとらわれず、幼い頃から「個」を基本として育てられ、教育では「事項を知ると同時にまわりと連携すること」を学び、「自分の人生を自分で選ぶ」社会で生活していることによります。そしてこの背景には、「民主主義」と言うデンマーク人が日々大切にしている社会理念があることは、言うまでもありません。


ある時、日本の大学生グループに「皆さんにとって民主主義って何でしょう」と尋ねたことがあります。彼らは、少し間をおいて「多数決で物事を決定すること。かな?」と、自信なさげな答えが返ってきました。これは、彼らにとって、民主主義の中身が不透明なせいでしょうか。それとも身近に感じていないからでしょうか。さらに、日本ではまだ「民主主義」と言う言葉は、ともすると政治色が強いのでやっかいなのです。200・


201頁・平成28年2月19日 金曜日

・・世界には、民主主義を掲げている多くの国がありますが、内容や理念間まちまちであり、その国の土壌に挿し木をされた民主主義もあれば、まだやっと芽生えたばかりの民主主義もあります。ところが、デンマークでは今から156年前(1849年)に君主制度が廃止され、民を主とする制度(民主主義制度)が導入された歴史があり、民主主義の根は世界のどの国よりも深く太い根を張っていて、あらゆる分野、状況の中で日常的に「デモクラティと言う言葉が使われています。

それは、「民主主義」という難しそうな定義を超えて、「権利」と「自由」に基本をおいた、「自分の人生を自分で決めることができる社会」を指し、「自分の意思が置き去りにされ物事を決定されることを好まない」社会形成だと言えます。デンマーク国民は、「多くの情報を得て、物事の決定に平等に参加し、自己決定し、それに対して自己責任を持つ」と言うプロセスを重要視しています。そのスタイルは社会、職場、家庭の隅々まで浸透し、それはとりもなおさずデンマーク文化であると言っても過言ではありません。

この「デモクラティ」と言う言葉を抜きにデンマーク社気を理解することは容易ではありません。

しかし、156年前に民主制度が導入され「人権」が語られてきたデンマークでも、1960年頃までは、まだ階級社会にみられる一方的な意見、命令、そして権力などが残っていて、「自分の生活を自分で決める」ことは容易ではありませんでした。親は、子供の将来に干渉し、家庭では伝統的な男女の役割があり、社会では男女の労働条件の格差も見られ、学校では整然と座る生徒の前で、教員が一方的な授業をしていました。201・


202頁・しかし、産業の発達とともに、1960年代後半から70年代にかけて、デンマークでは「自由」と「権利」を基本として社会改革の全般の改良、改革が行われ、生活の質のレベルアップに大きな前進を見ました。この背景には「女性運動」や「青年運動」が多大な貢献をしています。


近代産業の発達とともに社会進出した女性たちは男女平等を叫び、若者たちは


1968年を頂点として、古い価値観から抜け出し、自由で平等な社会を求めて「若者の蜂起という現象を引き起こし、デンマークの政治政策に大きな影響を及ぼして社会変化を促しました。

その真っ只中のデンマークに、私は足を踏み入れたわけです。テレビにニュースで「同一賃金を叫ぶ女性たち」「産休の改革を求める女性たち」のデモンストレーションが映し出されていましたが、私には彼女らの目的すら理解できませんでした。私とそう年齢が変わらない若者たちは、カラフルな服装や長髪で街を闊歩し、敬語を除き、それがスタンダード化して「人」と「人」の距離を近くしました。私自身が後日彼らの運動の恩恵を受けるとは思いもよらずに、当時の私は一連の社会現象を人ごとのように距離を置いてみていました。


こうして、デンマーク人は、1960年代を境に自由と平等を得て、「自分らしく生きる」地盤をせっせと築いていたわけです。そして、なんと2005年には、デンマーク人が「世界一幸せを感じている国民」と位置づけられました。この調査は、オランダ、ロッテルダムにある大学の教授が中心になって90ヵ国にわたって世論調査を行い、2月に結果発表したものです。202・


203頁・平成28年2月20日(土)

デンマークは、アンケート内容の総合10ポイントのうち、8ポイントを得てトップに上げられました。ちなみに日本は5・8ポイントだそうです。

この幸福度調査では、幸福な社会に不可欠な五項目があり、デンマークは、各項目とも満点だとしています。

・1・高収入の国・

・2・高度な民主主義がある・

・3・汚職のない健全な政体で社会構成がよい・

・4・個人の人生の形成することを可能にする高度の自由がある・

・5・宗教や性の違いを超えた寛容さがある・


この調査報告は当日のテレビニュースでも取り上げられ「デンマーク人は世界一幸せな国民と調査結果が出ていますが、あなたは?」と数名の男女の街頭インタビューが報道されましたが、彼らは「幸世」と笑顔で答えていました。


職場の民主主義の一コマ・

ここまで平成28年2月20日 土曜日・203・

日本の多くの職場では、春先に人事異動が行われます。どの部署に配置されるのか楽しみでもあり、不安を感じる人もいるかもしれません。203・


204頁・日本からデンマークの高齢者福祉を視察するために派遣されてきた自治体の職員が、視察した内容を公務に活かす間もなく、他の部署に配置されたケースは多くあります。一方、デンマークの企業では、本人の意思がない限り部署が変わることは、ほとんどないと言ってよいほどありません。これは、日本社会がスタッフをゼネラリストになることを求め、デンマーク社会はスペシャリストを求めている、という違いから来ているようです。

両者ともその国の持つ企業文化や伝統があり、一概にどちらが良くてどちらが悪いということは言えませんが、少なくともデンマーク社会では、本人意思以外で自分の配置が変わることは、企業の倒産または人員整理などの特別なケースを除いて、見られない現象です。自分の学歴・職歴に合った仕事に携わりますから、その職場が気に入っていれば、定年まで勤めることも可能です。

職場異動、赴任、管理職登用についても、上司の辞令で本人が動かされるということはありません。ポストが空席になると、社内または外部に公募され、希望者が応募して、インタビューののちに決定されるというプロセスを踏みます。本人が望まない限り部署も替わりませんから、その道のエキスパートになっていきます。

教育分野でも同じことが言えます。私の友人キヤステンは国民学校の教員でしたが、2003年に定年退職しました。彼女は23歳で教壇に立ってから退職するまでの37年間、コペンハーゲン郊外の同じ学校で勤めてました。彼女のほとんどの場合、一年生から七年生または九年生まで同じクラスを担当しました。ほっぺがまだ優しい一年生から、男子生徒の紙がちょろちょろとしだした九年生までを担当するのは、一つのローテーションとしても長い期間です。204・


205頁・自分が他校で勤務したいと思わない限り、キヤステンのように定年退職まで同じ学校に勤めるのは当たり前のことなのです。退職直後に電話で話した時、「とても楽しい37年間だったわ。まだ子供たちに会いたいと思う気持ちはあるけれど、今は決まった時間に起きなくてもいいことを楽しんでいるわ」と、電話の向こうで声高らかに笑っていました。日本の教員は数年のスパンで他の学校への移動があり、生徒自身もクラス編成で友人が変わり、担任も頻繁に替わると聞きます。どちらの方法がいいか、悪いかの判断がつきかねますが、少なくともデンマーク人の働き方は生き生きとしているように見えます。205・

家庭の民主主義のひとコマ・205・平成28


 

 

 

職場の民主主義の一コマ・家庭の民主主義のひとコマ・社会が求める人物像・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・

・2・男女参画型社会・212頁・男女平等とは・主婦か主夫か・パパも育児休暇・自立した女性たち・

・3・生きて歳をとって・221頁・自立している高齢者・弱い高齢者への援助・義母インガのホーム入居・

デンマーク関連の推薦図書・ウェブサイト・232頁・

おわりに・234頁・平成28年2月16日 火曜日・  


デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会 単行本– 2005・11 澤渡 夏代ブラント (著)      4件のカスタマーレビュー

容(「BOOK」データベースより)

“愛されれば、その子は人を愛する大人になる。社会に愛されれば、その子は社会の大事な人材となる。”著者は1960年代の後半に片道切符で海外に渡り、フィンランドでの生活を経てデンマーク人と結婚。36年の体験を通して「子を愛する」こと、「経験から学ぶ」ことの大切さを生きいきと綴る。

 内容(「MARC」データベースより)

 デンマークには人が資源という考え方があり、幼い時から個として尊重され、自己決定・管理ができるよう育てられる。この国の福祉・保育・教育の充実した制度と暮らし・子育てを紹介し、日本に欠けているものは何かを考える。

 単行本: 237ページ出版社: 大月書店 (2005/11)発売日: 2005/11

 目次


はじめに・3頁・

序章 デンマークの大事な「資源」子ども

・1・経験から学ぶ・14頁・危ないことも危なくない・経験は師なり・初孫の誕生・子供と両親の絆のスタート・デンマークの大事な「資源」子ども・

第1章 私の手づくり人生

・1・私の手づくり人生・28頁・

青春へのブレイク・めざすは、ストックホルムか・歯科医家族との出会い・衣食住を獲得して・子供たちとのコミュニケーション・「まずはほめる」ことの大切さ・

・2・フィンランドからスペインへ・39頁・

わかれ・私たちはヒッチハイカー・未来への夫とのキューピット・

・3・両親の思い・47頁・両親の切ない気持ち・大学教育断念のとき・負と思うな・入社は、出発の準備・母の長年のしこり・

・4・迷いと決断の頃・54・人生を変える出会い・決断を前に日本に帰ろう・結婚生活スタート・祖母アグネスから学んだこと・

・5・・私たちの子育て・母になって・ママは、子供たちの通訳・お母さんの言葉・お父さんの言葉・お父さんは、いい先輩・父親と子供・

・6・仕事と私・さんざんの通訳デビュー・すべてに「初め」あり・働く親と子供たち・子供に「振り向く」こと・

・7・私の家族・私たちの家族にウェルカム・タニヤの奮闘記・三か国語が飛び交う三ヵ国家族・二人の姪は韓国から・

 

第2章 家庭と社会のハーモニー

・1・社会の子・98頁・統一された保育基本方針・国は、どのような幼児教育を目的としているのか・保育は、自治体の責任・選択肢のある保育・

・2・シャロッテの初産・106頁・

・夫と母の立会い・子育てを一人で悩まない・マザースグループに参加・シャロッテの産休計画・

・3・保育園を訪ねて・113頁・フライヤス総合保育園の子供たち・乳児グループ・幼児グループ・森の保育園・保護会とその他の行事・年間計画の義務付け・

・4・子供は、子供らしく・128頁・見ます、聞きます、話します・グッドナイトストーリー・抱きしめるというスキンシップ・体罰はもってのほか・とにかく話そう・

第3章 みんな違ってあたりまえ

・1・学校が大好きな生徒たち・142頁・

教育は、何のため?・職業意識の芽生え・スクールアドバイザーの役割・労働市場の味見・高等学校の入るということは・自分との競争・スチューデント帽をかぶれる日・18歳は、子供から大人へ・SUと言う公的経済援助・給料をもらって職業教育・子供たちの巣立ち・貧しくとも満足な学生たち・保育士をめざすビギッテ・デンマークの義務教育の課題・

・2・性教育の大切さ・175頁・性の解放・性のカルチャーショック・学区での性教育・性教育の義務づけ・子供は「望まれて生まれてくるもの」・

・3・社会に守られている子供たち・189頁・子供の居場所・子供をウォッチ・

第4章 自分で決める自分の人生・

・1・自分で決める自分の生活・200頁・デンマークの民主儀の中身・職場の民主主義の一コマ・家庭の民主主義のひとコマ・社会が求める人物像・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・

・2・男女参画型社会・212頁・男女平等とは・主婦か主夫か・パパも育児休暇・自立した女性たち・

・3・生きて歳をとって・221頁・自立している高齢者・弱い高齢者への援助・義母インガのホーム入居・

デンマーク関連の推薦図書・ウェブサイト・232頁・

おわりに・234頁・平成28年2月16日 火曜日・

 

子供は神様の贈り物、お年寄りは芸術の賜物

幼い頃から一人の人間として自立して物事を考え行動するように育てられ、人と人とのつながりを大切にする国、デンマーク。教育や福祉の先進国として、世界中から多くの人達が視察に訪れる北欧の国の一つです。

 

日本人にとっては、『人魚姫』『みにくいアヒルの子』などの童話で馴染み深いアンデルセンの故郷でもあります。

 

何事も心を開いて率直にとことんまで話し合う国民性は、長い時間を経て、公平で公正な本当の意味の民主主義を隅々まで行渡らせました。

 

「子供は神様の賜り物。子供には親が必要だが、子供は親の所有物ではなく、社会の未来。だから社会全体で子供を育てるのは当たり前。」というのがデンマークでの一般的な考え方のようです。

 

日本から遠くはなれ、歴史も文化も全く違うデンマークでの子育て事情についての本ですが、今の日本社会が抱える問題を解決するヒントが散りばめられています。

とてもためになった。C層を作るための子育ての本です。

B層の研究、C層の研究という本を読んで、「日本人がこれほどまでにモノを考えなくなったのはなぜなのか?」という疑問にあたり、それは明治時代からの教育にあるとにらんだ。株式会社アシストの会長、トッテン氏(ヒカルランドの書籍を読まれたい)の分析も自分と同じで、自分でモノを考える外国人と上から命令されたことを実行するのには長けた日本人との違いは、そもそも教育のありかたにあることを確信した。

北欧の政治は透明性が高く、福祉国家と言われている。とくにデンマークは世界一幸福度が高いと言われる国である。その国で行われる徹底した民主主義の姿勢は教育にも及んでおり、どんな親の元に生まれたとしても、社会がそうした子供に常に保護とチャンスを与え、金銭的に親に依存するといった親による子供の支配・決定権の侵害を産みかねない制度を改革しているところにもあると知った。デンマークの税金は高く、収入の半分くらいが税金に消える。しかし、その税金の使われ方は一人一人の幸福を作るためであって、使われ方は国民の実感も伴ったものだから受け入れられている。それに比べると、日本の税金は搾取に近い。国民のためにつかわれることはなく、いつの間にか使途不明金になり、どこかに勝手に消えていく。

デンマークの教育は、小さいころから徹底して、自分に決定権がある。そして、その決定権を親は侵してはならない。命令したり、平手打ちなどしようものなら、それはしつけとはみなされず、犯罪行為に当たる。しかし、それは自分の決定したことを最後まで責任をもって遂行するという義務も同時に背負うことになり、その遂行を親や教師は手助けしているのだ。その結果、デンマーク人は、人を信頼しつつも自分で自分の人生を決めていく大人になり、そして自らの行動に責任をもつ大人に育っている。そうした自立・自律の精神を育てられたデンマーク人は、自らのコミュニティに関心をもち、社会に参画することを喜び、問題を感じたら、お上のやることなどと決して政治任せにはしない。まさにC層率の高い国民なのだ。

日本という国が壊れたのは、明治以来続く、古い教育制度と親子関係のあり方にある。それは、戦後GHQによってさらに致命的なものとなった。もし、自分の子供をB層にしたくないのなら、どういう教育をすればいいのか、どういう親の在り方であればいいのか、自律した大人に育つための実践的なノウハウがわかるような、たくさんのエピソード満載の本だった。子育てのヒントをちりばめた、このような良書を出してくれた、著者と出版社の両方に感謝したい。

親が小さな子どもにも人格を認め、しっかりと向き合う社会、デンマーク

デンマークでは、子どもでも人格を認める。どうしてでしょうか。子どもが、自分の意志で、物事を決めていく。決めたことには責任を持つ。大人とは、自分のことは自分で調べ、自分で決めていく、そういう人を育てる。

自分を見つめ、社会でどのような役割を果たしていくか。自分の将来は自分で決める。これが人間として、幸福なことなのだ。と報告されていた。そのために、小さいときから、親は子どもと真剣に向き合い、たとえ幼い子でも、質問や意見はしっかりと聞く姿勢を持つようにする。

日本でもそうしている方も居らっしゃるかと思うが、私にとっては、とても大切な考え方を教えてもらったと思う。これから子育て、孫育て、教育関係の方、多くの方が、この本を読まれることを望んでいます。

こどもの未来を考える人。必見

学校だけが学びの場では無いことを教えてくれます。子どもたちにとっていろんな生き方、育ち方、学び方があって多くの選択肢があるわかりやすいデンマークの社会が日本の教育の問題点を考えさせてくれる貴重な本です。

14:43 2016/02/15


 

 デンマークの子育て・人育ち

デンマークの高齢者が世界一幸せなわけ 単行本– 2009・3 澤渡 夏代ブラント(著)5つ星のうち 5     2件のカスタマーレビュー

容(「BOOK」データベースより)

必要な人に、必要なとき、必要なだけ、無料で援助。デンマークの高齢者の生活環境は実に豊かです。しかし、それはたんに与えられたものではなく、長い時間をかけてデンマーク市民が勝ち取ってきた結果であり、民主主義の成果なのです。

澤渡/夏代ブラント

1946年(昭和21年)東京生まれ。武蔵野女子学院卒業後、デンマークへ。1969年、デンマーク人ブラントと結婚、2男1女の母。フリーランスの通訳業務を経て、1985年にコーディネーション会社を設立。デンマークの医療・福祉・教育分野の研修および講師、テレビ局・メディアのコーディネーションに従事。日本での執筆および講演活動も行っている。十文字学園女子大学高齢社会生活研究所(客員研究員・2004~2006年)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

単行本: 212ページ出版社: 大月書店 (2009/03)発売日: 2009/03

 

デンマークのプロフィール(2008)年平成28年2月15日 月曜日8頁・

・1・国土・デンマーク本土の面積は約4・3平方㌖で九州とほぼ同じ面積。本土のほかに、自治領のフェロー諸島と世界最大のグリーンランドがあります。地形は「パンケーキの国」と呼ばれるように全体が平らで、国内で一番高い場所は178・86㍍のミューラホイ、また、デンマーク人が天山・ヒメルビヤウと呼んで親しんでいる山は147㍍しかありません。

・2・人口・約545万人(2007年デンマーク統計局)

・3・首都・コペンハーゲン(デンマーク語表記)コペンハーゲン市の人口は約50万人、首都圏地域は164万人・

・4・言語・デンマーク語(一般的に英語は堪能)

・5・宗教・1536年の宗教改革により福音ルーテル派が国教となり、現在は国民の82・1%が信徒。ただし、日曜日に礼拝に参加するのは5%弱です。

・6・政体・立憲君主制・

・7・元首・マーグレーテ二世(1972年1月即位)

・8・議会・一院制(179議席、任期四年)

・9・政府・自由党・保守党による右派・中道連立政権・首相・アナス・フォー・ラスムセン(自由党党首)外相・ペア・スティー・ムラー(保守党)

・10・デンマークの国の形・社会福祉国家・1849年にフレデリック六世王がデンマークの最初の憲法「自由憲法」に調印。以来民主主義を基本とした社会福祉政策。

この社会福祉制度は弱者の救済のみならず、国民全員が文化的かつ安心した暮らしを保障するものです。9・

10頁・

・11・高福祉・高負担・高度な社会福祉制度では義務と権利の法則で成り立っています。就労者及び公的給付受給者(年金など)全員が納税者であり、税率は累進課税法で算出されます。

2008年の税率は38・8%~59%・付加価値税・25%・内税ですべての商品・サービスに課税される・間接税(ぜいたく税、自動車、酒、化粧品など)

・12・行政区分・5のレジオンと98の地方自治体・

2007年1月の行政改革施行により県が廃止され、代わりに国内が5レジオンと98の地方自治体に区分されました。レジオンは基本的に医療・保険を管轄分野としています。県の廃止により各地方自治体はより広い範囲の行政分野を担当することになりました。

・13・労働市場・

失業率1・6%(20008年8月、デンマーク統計局)10・

GDP2753億ドル(2007年、世銀統計)一人当たりのGDPは5万2110ドル(2007年、世銀統計)で、世界ランキングで六位・

インフレーション3・8%(2008年7月9)労働者の常勤は、週37時間・

週休完全2日制、年間5~6週間の有給休暇・52週の産休・育児休暇制度の完備・

・14・生活面・親子の同居はほとんど無し・進んだ男女平等社会参画・女性労働率・72・0%・男性労働率78・3%(2007年統計局、16~66歳)成人年齢18歳(選挙権、運転免許可)公的年金受給年齢65歳・11頁・

12頁・

・15・教育制度・九年間の義務教育(小中一貫教育)義務教育の前後に○学年と10年生あり(任意教育)

スクールアドバイザー制度(進路指導)

教育は生きるため(教育と職業が連携)

非入試制度(進路は本人の意思と学力および教員の評価で決定)

全教育費無料・

・16・高齢者事情・65歳以上の甚句は83万4700人で、総人口545万人の15%(2007年)100歳以上の人口は715人、そのうち女性が620人。105歳以上の人は23人80歳以上の77%が自宅居住、23%が介護付き住宅・高齢者政策にGNPの11・1%(2004年)

・17・近年の国政選挙投票率・1998年3月11日86%・

2001年11月20日・89¥7・2%・

2005年2月8日・84・5%・2007年11月13日・86%・

・18・デンマーク在住の日本人の人数・女性693名、男性362名、合計1055名(2007年デンマーク統計局)

・19・平均家庭・

2008年のMr.&Ms.デンマーク平均さんを紹介いたします。名前はアンナが32歳の時に2歳年上のイエンスと結婚。アンナ29歳で長女ソフィーを出産。

アンナとイエンスは1・9人の親で、一家は100~159㎡の一軒家と車一台を所有。年間可処分所得・イエンス18万3500・(約422万円)。

アンナ・14万9400・(約344万円)。イエンスは76歳まで生き、アンナは80歳まで生きる予定です。(デンマーク統計局2008年)13頁・

目次

 

 

1章 老いと退職を迎えて

・1・クオリティー・オブ・ライフ・18頁・

若いつもり・シニア世代の準備・シニアセミナー・

 

・2・老いを知る・26頁・同意はノーサンキュー・あたりまえの世代間交流・みんなで祝う誕生日・三世代で休暇・

・3・退職を迎えて・37頁・待ちにまった退職の日・イングリッドの退職・準給与制度は人気の制度・

・4・退職後の人生・47頁・熟年に戸惑う日本の夫婦・デンマーク人の家族と職場のバランス・退職後の夫婦の生活・子供の自立、親の自立・

 

2章・ 高齢期を生きる・

・1・元気なうちに住み直し・64頁・わが家、わが城・適時に適正な住宅へ・いさぎよく引越し・多様な住み方、「共同住宅」・共同住宅を結成したメンバー・

・2・さかんなボランティア活動・75頁・「奉仕」ではなく「自分のために」・市議会議員もボランティア・高齢者のためのNGO「エルダーセイン」・人が好き、だから「訪問の友」・「訪問の友」はベストフレンド・

・3・高齢者の声の反映「高齢者委員会」・89頁・委員は全員ボランティア・高齢者委員会の歴史・ロスキレの例・

 

3章 デンマークの高齢者福祉

・1・高齢者福祉―日本とデンマーク・98頁・

・どうすればいい、父の発病・日本の介護は制度が中心・安心して歳を取れる条件・

・2・デンマーク人の価値観・106頁・

・できる限り自分の生活は自分で・この40年の福祉政策の歩み・高齢者福祉の改革・施設意識から住宅意識へ・

・3・援助が必要になったとき・118頁・自立のための補助器具・市営補助器具センター・職業病ノーサンキュー・やさしさのちがい・

・4・安心した暮らし・128頁・

・ケアの中心は在宅ケア・サービスの判定は専門家が・判定部の判定分野・待機は二ヵ月・アンカーの一人暮らし・できないことへの援助・高齢者住宅に住むイリセ・介護住宅に住む義母インガ・義母インガの家計簿・あってもなくてもお隣同士・

・5・ケアワーカーの教育・156頁・

・介護職の充実・積み上げ教育・実習と理論の交互教育・学びに給料・

4章 デンマークの今を築いた人々

・1・民主主義を守るために・168頁・

・レジスタンスの歴史を共有する旅・戦争がもたらした「強制収容所症候群」・

最年少捕虜・サボタージュの果てに・捕虜番号67・050・白いバスの迎・ヨルゲンの安心した老後・愛国心からレジスタンス活動に・

・2・六八年世代の求めた社会・190頁・立ち上がった若者たち・大学の民主化・女たちの戦い・原発vs代替エネルギー・

資料・デンマークの国民年金制度・203・

おわりに・207・平成28年2月15日 月曜日

・1・民主主義を守るために…168頁・

・レジスタンスの歴を共有する旅、

2006年の8月のある日、ロスキレ市にある高齢者ケアセンター・ベアナドッテゴーデンの元施設庁エミーから、「九月に予定している「ドイツ強制収容所の旅」に一人空きができたけれど参加する?」と電話がありました。部外者の私に突然の誘いでしたが以前から興味があったので何のためらいもなく「参加させて!」と答えていました。

このたびは、1940年から五年間にわたるドイツ占領時代にレジスタンス(抵抗運動)に参加してドイツ秘密警察ゲシュタポに逮捕され、といつの強制労働収容所に送られたデンマーク人の過去を知る旅です。旅は「レジスタンスと捕虜の会」の会長モーンス・ヘネリックとエミーが、高齢者ケアセンター・ベアナドッテゴーデンの職員の研修旅行として10年前から実施しています。研修の案内人はモーンス・ヘネリックで、参加者は介護・看護スタッフやリーダー職を含め20名ほどです。

この研修は、ベアナドッテゴーデンに入居する元捕虜たちをより理解するために企画されたものです。費用は「レジスタンスと捕虜の会」基金が全額負担していますが、どうも今回が最終回になりそうです。168・

169頁・平成28年2月14日(日)

それは基金の底も付いたのと、同時にモーンス・ヘネリックが高齢になったのが理由です。

旅の日程は二泊三日で、案内役モーンス・ヘネリックが拘留された南ユトランドにあるフヨイヤスレブ捕虜収容所と、後日移されたドイツの強制収容所ノエンガメを訪問します。

当日の出発は朝八時。二泊三日の旅を支える専用バスも到着し、昼食用の食料や飲み物を積み込むとすっかりピクニック気分で、「重苦しい旅」に出かけるような雰囲気は微塵にも感じられません。

バスはロスキレを出発し、一日目の目的地フヨイヤスレブ捕虜収容所をめざして走り出しました。

・戦争がもたらした「強制収容所症候群」

1945年5月5日、デンマークは連合軍によりドイツ占領から解放されました。この日、人々は占領の暗黒時代から解放され、自由に灯りを付けられるよろこびを、窓辺にキャンドルをともして家族と、隣人と、そして国民皆で分かち合いました。

占領時の五年間にレジスタンスや警察官など約6000人がゲシュタポにつかまり、捕虜となってドイツの強制労働収容所に送られました。しかし、幸いなことにデンマークは赤十字を通じて輔量たちにビタミン剤を含む支援物資を送ることが許されていたために、デンマーク人の強制収容所での死亡率は15%にとどまりました。169・平成28年2月14日ここまで

 

・最年少捕虜・172頁・

・サボタージュの果てに・175・

・捕虜番号67・050・179頁・

・白いバスの迎・182・

・愛国心からレジスタンス活動に・186頁・

・2,67年世代の求めた社会・

・立ち上がった若者たち・190頁・平成28年2月14日(日)


2007年の日本では「団塊の世代」の定年時期がスタートし、「2007年問題」として多様な議論が巷を賑わしました。

一方、デンマークでは2008年に、「68年世代」と呼ばれる1960年代の若者の蜂起から40年ほどが経ち、メディアではこぞって近代史を振り返る動きがありました。

ヨーロッパの1960年代は、ビートルズ、ヒッピー、集団生活、性の解放そしてライフワークなどに象徴されるように、古い価値観に対立し、新しい自由で平等な社会を求める「若者の蜂起」や「学生運動」があちこちで起きました。190・

191頁・「68年世代」とは、デンマークにおいてその運動が1968年に頂点に達したことから、その動きに属する人々に名づけられた名称です。彼らは1968年当時に18歳から25歳だった若者で、2008年の今、定年を数年後に控えているか、リタイアしたばかりで、まさに日本の「団塊の世代」と「時」を共有している人々です。

若者たちの新しい社会を求めるさざなみは、第二次世界停戦後の社会的・政策的な問題として起きていた原子力問題、ベトナム戦争、資本主義、消費社会に対する若者のリアクションとして、1960年頃からヨーロッパのみならず世界各国で起き始めました。デンマークでも原発反対運動、環境運動、コペンハーゲン大学での学生紛争、そして男女平等権を訴えた女性運動など、60年代、70年代は民主主義の熟成に向けた戦いの時代でした。彼らは古い権威体制や管理社会からの脱皮を求め、新しい考え方や新しい社会体制を提案していきました。

 

当時、「教育現場は社会的階級分けが見られ、壇上の先生と生徒の間には精神的な距離があり、先生に対して生徒は行儀よく授業を受けることが当たり前。職場は規律や管理に縛られ、大学は教授に全権限があり、違反者には16か月の懲役を強いられた。個人の考えや意見が理不尽に否定され、性別による差別が見られた」と言う古い社会体制を「人が中心」の社会に変えていきました。

彼らは現状の社会体制を黙視して、ただ当時の社会体制の波に乗るのではなく、一人から二人へ、二人から数名に、そして大きな波として団結し、デモンストレーションなどの活動を通して社会に訴えていきました。191・


192頁・そして、この世代の人々が70年代、80年代、90年代のデンマーク社会を動かし、社会形成にも一石も二石も投じたと言っても過言ではありません。

・大学の民主化・192・

1968年3月21日コペンハーゲン大学の正面にあるスチュディオ通りからビートの利いた音楽が鳴り響き、門の壁に赤字で「教授主権の崩壊と学生の参加を今こそ!」と学生の訴えが掲げられていました。

学生たちはコペンハーゲン大学の時代に合わない教育環境に大きな不満を持っていました。大学は1958年に4700人だった学生が10年後の1968年には2万1500人に増加していましたが、職員数や建物が時代に追い付かず、そのために授業や講義に支障ができていました。また、教授がすべての権限を持ち、四角張った古い形の大学運営に不満を抱き、学生の意見をもっと反映できる組織づくりを要求しました。

4月19日、心理学学科の学生100人~150人が心理学研究所を占領し、バリケードを張って授業を妨害し、4月23日には、5000人がデモストレーショ雲に参加する事態に発展しました。これはコペンハーゲン大学が1479年に開校されて以来初めて経験する大規模なデモでした。

大学長モーンス・フォーぐ(当時64歳)は、第二次大戦中にレジスタンス運動に参加し、戦後初の内閣で大臣を務めた後、古巣の国立大学病院精神科教授とし、1966年にコペンハーゲン大学長に任命されました。192・


193頁・彼はヒューマニストであり、以前から九育現場の権威主義に疑問を抱いていました。

フォーグは学生たちと「対立」するのではなく、「対話」を選び、学生たちの要求である「運営に学生参加」を承認し、占領されていた心理学研究所も無傷で大学に戻されました。

フォーグは、大学で起きた大規模な集会でも警察の介入を避ける方法を選びました。警察は学長に混乱した場合の緊急通報を要請していましたが、フォーグはその手段を使うことはありませんでした。

その年の11月、恒例の「コペンハーゲン大学祭」が開かれました。この大学祭の招待客は学生ではなく、王室を含む上流社会の人々で、学生は「階級社会」に対する批判を表すために行動をおこすべく、偽入場券を作り会場に忍び込みました。

そして、心理学の学生フィン・アイナーは、学長のスピーチ壇上を乗っ取り三分間のスピーチを決行しました。学長はフィンにスピーチを許し、彼は「大学祭が国のエリートだけの参加なのは、この社会が階級社会だからだ」と訴えました。フィンと共に会場に忍び込んだ学生たちは喝采を挙げましたが、スピーチ後に学生たちは会場を退出しました。

当時、西ヨーロッパでは約2000の大学で学生紛争が起きていますが、他国に学生運動と異なる点は、流血騒ぎも警察との激しい衝突もなく、フォーグは学生たちと共に大学の古い体制を変え、さらなる民主化に貢献しました。193・

194頁・平成二十八年二月十四日

・女たちの戦い・194・平成28年2月15日 月曜日・ここまで

デンマーク人に「レッドストッキングって知っていますか」と聞くと、「アア、あの過激な女性運動のこと?」という反応が返ってきます。その挑発的な行動は世間を驚かせ、唖然となって首を横に振った市民も多くいましたが、彼女たちの活動に賛成する・しないは別として、今日のデンマーク社会が「世界の中でも男女平等が進んでいる国」として認知されているのには、彼女たちの活動が大いに貢献しています。

1960年代に若者だった女性たちは、彼女の母親たちの「良妻賢母」型と違い、高等教育と自立を求めた世代です。学生紛争が男子学生によって繰り広げられていたことに触発されてか、女子大生が中心となって「レッドストッキング」運動として世の中に旋風を巻き起こしました。

彼女たちのアクションは「男性が女性を「飾り人形」としてみている」と「性差別」に抗議し、女性用の下着を誇張してコペンハーゲン市の目抜き通りをデモンストレーションし、1970年の母の日には男女の賃金差を訴える活動として、一人1・25クローネのバス代を0・80クローネしか支払わないというアクションを起こし、警官に抱きかかえれられてバスから降りたというエピソードは、未だに多くの人の記憶に新しいところです。194・

195頁・デンマークには1871年に設立された「女性連盟」と言う女性運動があり、早い時期から女性の権利を拡張する運動を繰り広げ、すでに世界の中でもかなり女性の平等権が確立されていましたが、デンマークの女性たちにとってはまだまだ発展途上だったようです。レッドストッキングは、家庭内の男女の役割、職場での平等権を追求し、人線中絶の合法化を求め、1973年の立法化に貢献しました。

イングリッド・クローグも、レッドストッキングのメンバーとして若き日を送った一人です。彼女は二年前(2006年)に準給与制度を利用して国民学校(公立小中学校)の教員を退職し、現在は「自分のエンジンオイルとして」カルチャーセンターの「シニア英語教室」で週に二日間教え、その他の日は近所に住む孫の相手をして楽しんでいます。

「私の前夫は自分と仕事が一番大事で、家事と子育てには見向きもしなかった。特に、夫の仕事の関係でシカゴに三年間住んでいた時は最悪だった。本人はジャマイカやあちこちに出張するのに、私はいつも一人で家にこもって一歳と六歳の子供を相手に生活していた」と、1970年代の数年間は「弾圧された生活」だったと言います。私が「そういう生活が弾圧?」と尋ねると、「ほかの国の女性はどうだったか知らないけれど、私は自分の置かれた立場を十分女性への弾圧だと感じていた」と、自分が置き去りの生活に疑問を持つ毎日を送ったというのです。195・

196頁・平成28年2月15日 月曜日・

 

 

 

資料 デンマークの国民年金制度

 

デンマーク高齢者福祉の現場から思想まで

 本書は福祉国家として名高い北欧の小国デンマークの、高齢者福祉の現状を現地住民の視点からレポートしたルポタージュです。

大きな税金を徴収して高い水準の福祉を実現している国を聞いて、国はさぞかし手厚いサービスを提供しているのだろうと思われがちですが、本書第1章で綴られているデンマークの高齢者たちは極めて独立心旺盛です。自分のことは自分でこなす。足りない部分を家族や行政がサポートする程度の、拍子抜けするほど簡素なものです。ただし、サポートが受けられなかったり、日常生活が営めないような状況にはなりません。それらの生活保障サービスに支えられながら、至って穏やかで自然体の暮らしを送っている人々の様を、本書の前半では著者自身の経験を通じて描いています。

 後半ではデンマークの高齢者福祉、その生活保障サービスの実際が紹介されます。普通のアパートのケアスタッフが常駐している介護住宅、自立した生活を支えるためのきめの細かい補助器具、その補助器具の調整をする補助器具センター、自立援助のプロである介護スタッフ、在宅ケアが中心のサービス設計、ケアの判定規準まで、事細かくレポートされ、日本の実態と比較する上で大変優れた資料になっています。加えて、客観的な制度の観察だけでなく、在宅支援、高齢者住宅、介護住宅のサービス利用者の日常を追うことで利用者の視点からも、デンマークのサービスの実態を描き出しており、主観的にも分かるようになっています。これらデンマークの利用者本位の理念の通った福祉の現状と、著者自身が経験した日本での制度ありきで国民の生活実態を2の次にしてしまう福祉の現状との比較がとても対照的で、日本という国のあり方について深く考え込まざるを得ませんでした。

 しかしなぜこの様な国ができたのか。その根本的な疑問にも本書は果敢に挑戦します。民主主義を守るためにたたかった無数の人々、ーナチスドイツに立ち向かったレジスタンスたち、古い価値観とたたかった68年世代などーこの国の民主主義が彼ら国民自らの力で勝ち取られ、守られてきたことが、当事者の発言も交えながら明らかにされます。本書の各所に散りばめられた穏やかで平和な生活の日々を切り取った写真の背後には、この様な揺るぎない信念が一筋通っていたことを知り、日本で暮らす私たちも背筋を正し、私たちは何を求めて生き、何を求めて社会で実現していくのか、真剣に考えなければならないと思いました。デンマークや福祉国家を知ると同時に、日本を知ることのできるまたとない良書です 


 デンマークの高齢者福祉を分かりやすく紹介

著者は20代前半でデンマーク人と結婚、以来40年間デンマーク社会に溶け込み生活している。その豊富な実体験と堪能な語学力を活かした取材により、最新のデンマークの高齢者福祉の現状を、平易な文章で分かりやすく紹介してくれる。しかも著者は、福祉や教育を専門として日本とも頻繁に行き来しているので、日本の現状に照らして日本人が知りたいツボを適格に押さえている。近頃北欧社会の研究書や紹介本が増えているが、本書はその中でもピカイチの説得力を備えている。私は、高齢者というよりも、この国の生きにくさを体感し将来に展望を持てない若者や、政治家、福祉行政に携わる人々などに是非読んでほしいと思う。なお、本書の姉妹編ともいえるデンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会もあわせて読めば、デンマーク社会への理解はさらに深まるだろう。

14:36 2016/02/14


2016年2月20日 (土)

デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会・澤渡 夏代ブラント(著)家庭の民主主義のひとコマ・205・社会が求める人物像・207・・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」210頁・



引用


家庭の民主主義のひとコマ・205・


平成28年2月20日(土)


結婚直後、夫が日本の印象として「日本の子供は、小さいうちは何でも許されるが、おとなになると結婚することも自分で決められないようだ」と言ったことがあります。その頃の私は、夫の言葉を素直に理解することができませんでしたが、デンマーク社会で子育てをしてみて、彼が言わんとしたことが「自立している人間像」に関連していることだと納得できるようになりました。夫が当時目にした日本の子供が持つあどけなさ、愛らしさは、デンマークの子供と何の変りもありませんが、大人と子供の関係に大きな相違を感じたようです。205・


206頁・夫が見た光景は、ハイハイがやっとできるようになった幼児が食卓によじのぼろうとしていた際、食卓の上に置いてあるものを全部下におろして、眼を細くして喜んでいる家族の姿でした。「目の中に入れても痛くない」と思う気持ちは理解できますが、幼児だからこそ、食卓にのぼる場所ではないことを伝えなくてはなりません。


日本では、まだ、子供の進学する学校、大学、そして結婚に至るまで親が関与する、または、影響を及ぼす風潮が少なからず残っています。子供の自然な自立心が芽生える時期に、親と言うパワーで子供に立ち向かうと、子供との衝突が避けられない状態になるのは、当然のことでしょう。デンマークの多くの親は、親に決めつけた意見を子供に当てはめようとすることを好みません。人生の先輩としての意見を述べ、子供とよく話し合い、最終的には親の考えに収まるかもしれませんが、決定は「あなたが決めなさい」と子供に委ねます。時には、親の誘導能力を発揮する場合もありますが…。


このプロセスは、「物事を自分で考え結論を出す」スタートです。時には、何でも「自分でやる」とか「私が決める」ことを強調すしすぎる子供もいて、親が困っている姿も見かけます。しかし、自分で人生の進路を決定することは、決してたやすいことではなく、幼い頃からの育みが、大事や役目を担っています。ましてや自己責任が伴うとなれば、難題です。親は、子供が成人年齢18歳になるまで、最も信頼できるアドバイザーとして接します。


夫婦間においても、夫間は他は妻が一人で家庭内のことを独断で決める風潮はなく、何事も話し合い、納得した上で日常生活を送っています。206・


207頁・わが家でも日常的なことですが、友人からの食事の誘いなどでも、必ずお互いの意向を確認してから返事をする習慣になっています。何しろ、デンマーク人は他人に物事を決定されるのを好みませんから、小々面倒なことでもありますが、二人が納得することで物事がスムーズに運ぶと思えば、回り道も苦になりません。


社会が求める人物像・207・

16/2/20 10時57分15秒・ 

デンマーク社会は、自立した人間像を求めています。デンマーク国民がライフクオリティとして位置付けている「自分の人生を自分で決定できる」人生観につながる大きな要素です。自分の人生を自分で決めることは、周囲とのバランス、個人の適応能力、教育方針、そして社会の受け入れなどの関係上、決して簡単ではありません。ところが、この国ではかなりの高いレベルで可能なのです。また、デンマーク社会は、それが国民の幸福につながるというコンセンサスのもと、長い年月とかけて可能になるよう、人々の意見をもとに国家政策を改良してきました。

デンマーク人は、「自分の参加なくして自分の人生が決められていくこと」を善としません。自分の人生は自分で決定していくからこそ、人生の「終」を迎える時、「自分らしく生きた」と満足感を味わうことができるのではないでしょうか。

しかし、自分の人生を自分で決定していくプロセスは、個人、社会、政治など多様な環境が整って初めて可能になります。207・


208頁・二章の「子供時代は子供らしく」の項でもくわしく記述している通り、デンマーク人は幼い頃から「個」を尊重され、おとなと対等に話し合う習慣があります。その中で自主性が芽を吹き、保育園、学校、そして社会へと自分の置かれる環境が変化していく中で、自分の意見や意思を表現し、同時に相手も尊重する姿勢を育んでいきます。「対話」は、相互理解と納得を生み、親と子供の関係のみならず、子供たちが育っていくあらゆる社会の中の人間交流に必要とされています。

子どもたちは、幼い頃から「自分で考えてごらんなさい」と促され、家庭、保育そして教育現場においても、多様な選択肢の中から「自分で選ぶ」ことを支援されます。こうしたプロセスを経て、自分で物事が判断できる自立した人物像に成長するのではないでしょうか。

デンマークは、この社会的合意を達成するために、また、それぞれが「自分らしい生活」を築くことができるように、自分の考えを人に伝え、自己の生活にも責任を持ち、自己管理することが可能な人材を求めています。208・


・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・208頁・平成28年2月20日

日本には、黙っていてもちゃんと相手の気持ちを理解できる「あ・うんの呼吸」と言うのがあります。「言葉に出して説明しなくても、相手はきちんと私の思っていることを理解してくれている」とは、何と楽な心地よいことでしょうか。208・


209頁・しかし、これはかなりあいまいで、解釈は人によって相違があります。また、「多くのしゃべらない」ことを美徳とする文化も残っています。言いたいことを心に秘め、「何でもない」の一言でその場をしのぐケースも、まだ多くあります。しかし、「あ・うんの呼吸」も「心に秘める」美徳も、デンマーク社会では通用しないのです。ここでは、きちんと言葉で説明することで初めて相手が納得してくれます。少し面倒なところもありますが、それは誤解を避ける手段として求められています。

まだデンマーク社会に慣れていない時期の私は、「黙っていても夫が私の心の内を理解してくれるはずだ」と思っていました。子供が幼かった頃、外出先で私が子供を抱いて歩いていても、いっこうに夫から「変わって抱こうか」と言う提案がありません。私は私で「そろそろ疲れたことを察して代ってくれないかしら」と思っていましたが、自分から言い出すことにためらいがあり、夫からの言葉を待っていました。

それでも彼は、知らん顔。そうのち、私が痺れをきらせて「そろそろ代ってくれてもいいのじゃないかしら」と抗議っぽく伝えると、彼は不意を突かれたように「エッ。抱きたいから抱いているのだと思った」との返事です。私たちの個人的な性質によるのかもしれませんが、私は、「こんなことでも言葉で表現しないと理解してもらえないのだ」と、つくづく感じたのです。でも、その時、私が自分の気持ちを正直に、「私は疲れました。代ってください」と言ったなら、夫は当然、快く代ってくれたことでしょう。

また、デンマークでは、楽しみの一つとして、自宅に友人や家族を食事やお茶に招待する、されるという習慣があります。209・


210頁・男性も女性もよく話し、よく飲み、よく食べ、ひと時を一緒に楽しみます。このような日は、得意料理で招待することに加えて、いろいろな話題を提供し合います。話題はもちろんさまざまですが、ある時は世界情勢であったり、選挙が近くなれば政策について談論風発する場面も多くあります。ところが当初、私は、会話を楽しむようなホームパーティを苦痛とさえ感じていました。言葉の問題もさることながら、会話に「女性が口を挟む」こと自体に躊躇していたのです。しかし、ここでは逆です。意見のない人は、魅力に欠けてしまいます。集まっている人たちは、競争するかのように自分の言い分、経験を語り、大声で笑い、女性たちもソファに足を組んで深々と座り、それだけでも自信たっぷりと言う感じです。こんな状況に不慣れだった私が、どうやって会話に入っていくことが出来たでしょうか。


そんな私を推察して夫はよく、「夏代がこう言いう経験をした」とか、「日本から帰ってきたばかりだ」とか、話のきっかけを作り、助け舟を出してくれました。しかし、「まあ、よく話をする人泰だな」と思うのと同時に、一言投げ掛けると「ああでもない、こうでもない」と意見を言い合い、議論する人たちに圧倒され、「なんて理屈っぽいのだろう」と驚異さえ感じていました。「どうして、彼らはこんなに話が上手なのか」「どうしたら自分の意見を持つことができるのか」と、その源を考えると不思議でなりませんでした。一人の人の意見に真っ向から反論するケースがあっても県下にもならず、人の意見も聞く力があって、夜がふけるのも忘れておしゃべいすぉしています。

自分の意見と違う意見と出会った時、とことんまで自分の正当性を主張しているようでも、結局は、反対意見が正当だと悟った時点で、素直に認める行動もあっぱれです。210・

このような状況にいつまでも驚き、苦痛に思っていては、私に将来がありません。私は、「郷に入れば郷に従え」と、気持ちを切り替え、「発言する」ことを念頭に心構えを新たにしたのを覚えています。これが結構、もと「大和なでしこ」には、大変のことでしたが・・・。211・


2・男女参画型社会・212頁・

16/2/20 15時20分16秒・


・男女平等とは・

デンマークを含む北欧諸国の男女平等の権利は世界のトップクラスにあり、今日では男女の違いは「出産」できるかできないかの違いだけだ、と言われるほど男女平等が進んでいます。また、男女平等とは、男女同権が確立されていて、講師において男性と女性が同じレベルで人生を送ることが可能な社会を意味しています。デンマークは世界水準から見ると女性の就労率も高く、あらゆる分野で男性と同等の権利を有しています。

しかし、これをデンマーク人に言わせれば、男女が同一の仕事をしても、賃金的には民間企業で16%、公共分野で9%の差があります。また、2005年の国政選挙においても179議席のうち、女性議員は36%に当たるわずか65名で、女性大臣は35%と、まだ元手を上げて喜んではいられない分野があるようです。

男女平等をデンマークで語る時、それは女性だけが求めるものではなく、「すべてにおいて男性も女性と同じステージに立つ」ことを目的としています。男性が家事や育児に参加することはごく一般的な姿で、共同で仕事を守り家庭を守っています。


最近、私も日本の友人から、子供が結婚する、という通知を受ける世代になりました。聞けば彼らは大学を卒業して就職をしても依然実家を離れず、結婚を機に初めて実家を離れて自分の城を持つようです。212・


213頁・そのような実情を知ると、「母親に洗濯も料理も任せて何の経験せずに急に独立して大丈夫なの?」と思わずお節介な心配をしてしまいます。もちろん「案ずるより産むが易し」かもしれませんが。デンマークの若者は18歳頃から実家を離れ独立するのが一般的で(第3章の1)、ここで料理の大変さを味わい、洗濯をしなくては着ていくものがないことを悟り、狭い寮の部屋でも掃除をしなければ埃アレルギー襲われる危険を身をもって経験していきます。

だからと言ってデンマークの男性が全員が料理も家事も上手にできる、という訳ではありません。なかには料理も家事も「どうしてもセンスがない」と伊男性が、女性と同じようにいることも確かです。213・


デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会・澤渡 夏代ブラント(著)・・・ 主婦か主夫か・213頁・から・16/2/20 15時44分2秒・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/16220-15442-e74b.html

4:48 2016/02/21

ここでま


前号を

デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会 単行本– 2005・11 澤渡 夏代ブラント (著) ・1・自分で決める自分の生活・200頁・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/200511-02c1.html

8:53 2


アダム徳永追伸:2:44 2016/02/27 早漏の克服は現代の元服式です。まずは「病気だから治らない」とか「体質だから変えられない」といった、従来の間違ったイメージを頭の中から消し去ってください。早漏は単なる現象に過ぎず、決して病気ではありません。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/244-20160227-5433.html

5:55 2016/02/27

016/02/19


社会が求める人物像・207・16/2/20 10時57分15秒・ここまで


第4章 自分で決める自分の人生・平成28年2月19日 金曜日


・1・自分で決める自分の生活・200頁・

デンマークの民主儀の中身・

デンマークを訪問する日本人の多くが、デンマーク人は「明るく親切」「通りすがりに目があうと、ニコリとほほ笑む」「生き生きとして人生を楽しんでいるよう」などの感想を述べます。一週間程度の短い滞在でも、何か「生活のゆとり」や「人々が楽しく来ている」姿が感じられ、同時に「日本とは何かが違う」「どうして?」と言う疑問がわいてくるようです。

これはデンマーク人が「生活の便利さ」や「物質的な豊かさ」ばかりにとらわれず、幼い頃から「個」を基本として育てられ、教育では「事項を知ると同時にまわりと連携すること」を学び、「自分の人生を自分で選ぶ」社会で生活していることによります。そしてこの背景には、「民主主義」と言うデンマーク人が日々大切にしている社会理念があることは、言うまでもありません。


ある時、日本の大学生グループに「皆さんにとって民主主義って何でしょう」と尋ねたことがあります。彼らは、少し間をおいて「多数決で物事を決定すること。かな?」と、自信なさげな答えが返ってきました。これは、彼らにとって、民主主義の中身が不透明なせいでしょうか。それとも身近に感じていないからでしょうか。さらに、日本ではまだ「民主主義」と言う言葉は、ともすると政治色が強いのでやっかいなのです。200・


201頁・平成28年2月19日 金曜日

・・世界には、民主主義を掲げている多くの国がありますが、内容や理念間まちまちであり、その国の土壌に挿し木をされた民主主義もあれば、まだやっと芽生えたばかりの民主主義もあります。ところが、デンマークでは今から156年前(1849年)に君主制度が廃止され、民を主とする制度(民主主義制度)が導入された歴史があり、民主主義の根は世界のどの国よりも深く太い根を張っていて、あらゆる分野、状況の中で日常的に「デモクラティと言う言葉が使われています。

それは、「民主主義」という難しそうな定義を超えて、「権利」と「自由」に基本をおいた、「自分の人生を自分で決めることができる社会」を指し、「自分の意思が置き去りにされ物事を決定されることを好まない」社会形成だと言えます。デンマーク国民は、「多くの情報を得て、物事の決定に平等に参加し、自己決定し、それに対して自己責任を持つ」と言うプロセスを重要視しています。そのスタイルは社会、職場、家庭の隅々まで浸透し、それはとりもなおさずデンマーク文化であると言っても過言ではありません。

この「デモクラティ」と言う言葉を抜きにデンマーク社気を理解することは容易ではありません。

しかし、156年前に民主制度が導入され「人権」が語られてきたデンマークでも、1960年頃までは、まだ階級社会にみられる一方的な意見、命令、そして権力などが残っていて、「自分の生活を自分で決める」ことは容易ではありませんでした。親は、子供の将来に干渉し、家庭では伝統的な男女の役割があり、社会では男女の労働条件の格差も見られ、学校では整然と座る生徒の前で、教員が一方的な授業をしていました。201・


202頁・しかし、産業の発達とともに、1960年代後半から70年代にかけて、デンマークでは「自由」と「権利」を基本として社会改革の全般の改良、改革が行われ、生活の質のレベルアップに大きな前進を見ました。この背景には「女性運動」や「青年運動」が多大な貢献をしています。


近代産業の発達とともに社会進出した女性たちは男女平等を叫び、若者たちは


1968年を頂点として、古い価値観から抜け出し、自由で平等な社会を求めて「若者の蜂起という現象を引き起こし、デンマークの政治政策に大きな影響を及ぼして社会変化を促しました。

その真っ只中のデンマークに、私は足を踏み入れたわけです。テレビにニュースで「同一賃金を叫ぶ女性たち」「産休の改革を求める女性たち」のデモンストレーションが映し出されていましたが、私には彼女らの目的すら理解できませんでした。私とそう年齢が変わらない若者たちは、カラフルな服装や長髪で街を闊歩し、敬語を除き、それがスタンダード化して「人」と「人」の距離を近くしました。私自身が後日彼らの運動の恩恵を受けるとは思いもよらずに、当時の私は一連の社会現象を人ごとのように距離を置いてみていました。


こうして、デンマーク人は、1960年代を境に自由と平等を得て、「自分らしく生きる」地盤をせっせと築いていたわけです。そして、なんと2005年には、デンマーク人が「世界一幸せを感じている国民」と位置づけられました。この調査は、オランダ、ロッテルダムにある大学の教授が中心になって90ヵ国にわたって世論調査を行い、2月に結果発表したものです。202・


203頁・平成28年2月20日(土)

デンマークは、アンケート内容の総合10ポイントのうち、8ポイントを得てトップに上げられました。ちなみに日本は5・8ポイントだそうです。

この幸福度調査では、幸福な社会に不可欠な五項目があり、デンマークは、各項目とも満点だとしています。

・1・高収入の国・

・2・高度な民主主義がある・

・3・汚職のない健全な政体で社会構成がよい・

・4・個人の人生の形成することを可能にする高度の自由がある・

・5・宗教や性の違いを超えた寛容さがある・


この調査報告は当日のテレビニュースでも取り上げられ「デンマーク人は世界一幸せな国民と調査結果が出ていますが、あなたは?」と数名の男女の街頭インタビューが報道されましたが、彼らは「幸世」と笑顔で答えていました。


職場の民主主義の一コマ・

ここまで平成28年2月20日 土曜日・203・

日本の多くの職場では、春先に人事異動が行われます。どの部署に配置されるのか楽しみでもあり、不安を感じる人もいるかもしれません。203・


204頁・日本からデンマークの高齢者福祉を視察するために派遣されてきた自治体の職員が、視察した内容を公務に活かす間もなく、他の部署に配置されたケースは多くあります。一方、デンマークの企業では、本人の意思がない限り部署が変わることは、ほとんどないと言ってよいほどありません。これは、日本社会がスタッフをゼネラリストになることを求め、デンマーク社会はスペシャリストを求めている、という違いから来ているようです。

両者ともその国の持つ企業文化や伝統があり、一概にどちらが良くてどちらが悪いということは言えませんが、少なくともデンマーク社会では、本人意思以外で自分の配置が変わることは、企業の倒産または人員整理などの特別なケースを除いて、見られない現象です。自分の学歴・職歴に合った仕事に携わりますから、その職場が気に入っていれば、定年まで勤めることも可能です。

職場異動、赴任、管理職登用についても、上司の辞令で本人が動かされるということはありません。ポストが空席になると、社内または外部に公募され、希望者が応募して、インタビューののちに決定されるというプロセスを踏みます。本人が望まない限り部署も替わりませんから、その道のエキスパートになっていきます。

教育分野でも同じことが言えます。私の友人キヤステンは国民学校の教員でしたが、2003年に定年退職しました。彼女は23歳で教壇に立ってから退職するまでの37年間、コペンハーゲン郊外の同じ学校で勤めてました。彼女のほとんどの場合、一年生から七年生または九年生まで同じクラスを担当しました。ほっぺがまだ優しい一年生から、男子生徒の紙がちょろちょろとしだした九年生までを担当するのは、一つのローテーションとしても長い期間です。204・


205頁・自分が他校で勤務したいと思わない限り、キヤステンのように定年退職まで同じ学校に勤めるのは当たり前のことなのです。退職直後に電話で話した時、「とても楽しい37年間だったわ。まだ子供たちに会いたいと思う気持ちはあるけれど、今は決まった時間に起きなくてもいいことを楽しんでいるわ」と、電話の向こうで声高らかに笑っていました。日本の教員は数年のスパンで他の学校への移動があり、生徒自身もクラス編成で友人が変わり、担任も頻繁に替わると聞きます。どちらの方法がいいか、悪いかの判断がつきかねますが、少なくともデンマーク人の働き方は生き生きとしているように見えます。205・

家庭の民主主義のひとコマ・205・平成28


 

 

 

職場の民主主義の一コマ・家庭の民主主義のひとコマ・社会が求める人物像・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・

・2・男女参画型社会・212頁・男女平等とは・主婦か主夫か・パパも育児休暇・自立した女性たち・

・3・生きて歳をとって・221頁・自立している高齢者・弱い高齢者への援助・義母インガのホーム入居・

デンマーク関連の推薦図書・ウェブサイト・232頁・

おわりに・234頁・平成28年2月16日 火曜日・  


デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会 単行本– 2005・11 澤渡 夏代ブラント (著)      4件のカスタマーレビュー

容(「BOOK」データベースより)

“愛されれば、その子は人を愛する大人になる。社会に愛されれば、その子は社会の大事な人材となる。”著者は1960年代の後半に片道切符で海外に渡り、フィンランドでの生活を経てデンマーク人と結婚。36年の体験を通して「子を愛する」こと、「経験から学ぶ」ことの大切さを生きいきと綴る。

 内容(「MARC」データベースより)

 デンマークには人が資源という考え方があり、幼い時から個として尊重され、自己決定・管理ができるよう育てられる。この国の福祉・保育・教育の充実した制度と暮らし・子育てを紹介し、日本に欠けているものは何かを考える。

 単行本: 237ページ出版社: 大月書店 (2005/11)発売日: 2005/11

 目次


はじめに・3頁・

序章 デンマークの大事な「資源」子ども

・1・経験から学ぶ・14頁・危ないことも危なくない・経験は師なり・初孫の誕生・子供と両親の絆のスタート・デンマークの大事な「資源」子ども・

第1章 私の手づくり人生

・1・私の手づくり人生・28頁・

青春へのブレイク・めざすは、ストックホルムか・歯科医家族との出会い・衣食住を獲得して・子供たちとのコミュニケーション・「まずはほめる」ことの大切さ・

・2・フィンランドからスペインへ・39頁・

わかれ・私たちはヒッチハイカー・未来への夫とのキューピット・

・3・両親の思い・47頁・両親の切ない気持ち・大学教育断念のとき・負と思うな・入社は、出発の準備・母の長年のしこり・

・4・迷いと決断の頃・54・人生を変える出会い・決断を前に日本に帰ろう・結婚生活スタート・祖母アグネスから学んだこと・

・5・・私たちの子育て・母になって・ママは、子供たちの通訳・お母さんの言葉・お父さんの言葉・お父さんは、いい先輩・父親と子供・

・6・仕事と私・さんざんの通訳デビュー・すべてに「初め」あり・働く親と子供たち・子供に「振り向く」こと・

・7・私の家族・私たちの家族にウェルカム・タニヤの奮闘記・三か国語が飛び交う三ヵ国家族・二人の姪は韓国から・

 

第2章 家庭と社会のハーモニー

・1・社会の子・98頁・統一された保育基本方針・国は、どのような幼児教育を目的としているのか・保育は、自治体の責任・選択肢のある保育・

・2・シャロッテの初産・106頁・

・夫と母の立会い・子育てを一人で悩まない・マザースグループに参加・シャロッテの産休計画・

・3・保育園を訪ねて・113頁・フライヤス総合保育園の子供たち・乳児グループ・幼児グループ・森の保育園・保護会とその他の行事・年間計画の義務付け・

・4・子供は、子供らしく・128頁・見ます、聞きます、話します・グッドナイトストーリー・抱きしめるというスキンシップ・体罰はもってのほか・とにかく話そう・

第3章 みんな違ってあたりまえ

・1・学校が大好きな生徒たち・142頁・

教育は、何のため?・職業意識の芽生え・スクールアドバイザーの役割・労働市場の味見・高等学校の入るということは・自分との競争・スチューデント帽をかぶれる日・18歳は、子供から大人へ・SUと言う公的経済援助・給料をもらって職業教育・子供たちの巣立ち・貧しくとも満足な学生たち・保育士をめざすビギッテ・デンマークの義務教育の課題・

・2・性教育の大切さ・175頁・性の解放・性のカルチャーショック・学区での性教育・性教育の義務づけ・子供は「望まれて生まれてくるもの」・

・3・社会に守られている子供たち・189頁・子供の居場所・子供をウォッチ・

第4章 自分で決める自分の人生・

・1・自分で決める自分の生活・200頁・デンマークの民主儀の中身・職場の民主主義の一コマ・家庭の民主主義のひとコマ・社会が求める人物像・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・

・2・男女参画型社会・212頁・男女平等とは・主婦か主夫か・パパも育児休暇・自立した女性たち・

・3・生きて歳をとって・221頁・自立している高齢者・弱い高齢者への援助・義母インガのホーム入居・

デンマーク関連の推薦図書・ウェブサイト・232頁・

おわりに・234頁・平成28年2月16日 火曜日・

 

子供は神様の贈り物、お年寄りは芸術の賜物

幼い頃から一人の人間として自立して物事を考え行動するように育てられ、人と人とのつながりを大切にする国、デンマーク。教育や福祉の先進国として、世界中から多くの人達が視察に訪れる北欧の国の一つです。

 

日本人にとっては、『人魚姫』『みにくいアヒルの子』などの童話で馴染み深いアンデルセンの故郷でもあります。

 

何事も心を開いて率直にとことんまで話し合う国民性は、長い時間を経て、公平で公正な本当の意味の民主主義を隅々まで行渡らせました。

 

「子供は神様の賜り物。子供には親が必要だが、子供は親の所有物ではなく、社会の未来。だから社会全体で子供を育てるのは当たり前。」というのがデンマークでの一般的な考え方のようです。

 

日本から遠くはなれ、歴史も文化も全く違うデンマークでの子育て事情についての本ですが、今の日本社会が抱える問題を解決するヒントが散りばめられています。

とてもためになった。C層を作るための子育ての本です。

B層の研究、C層の研究という本を読んで、「日本人がこれほどまでにモノを考えなくなったのはなぜなのか?」という疑問にあたり、それは明治時代からの教育にあるとにらんだ。株式会社アシストの会長、トッテン氏(ヒカルランドの書籍を読まれたい)の分析も自分と同じで、自分でモノを考える外国人と上から命令されたことを実行するのには長けた日本人との違いは、そもそも教育のありかたにあることを確信した。

北欧の政治は透明性が高く、福祉国家と言われている。とくにデンマークは世界一幸福度が高いと言われる国である。その国で行われる徹底した民主主義の姿勢は教育にも及んでおり、どんな親の元に生まれたとしても、社会がそうした子供に常に保護とチャンスを与え、金銭的に親に依存するといった親による子供の支配・決定権の侵害を産みかねない制度を改革しているところにもあると知った。デンマークの税金は高く、収入の半分くらいが税金に消える。しかし、その税金の使われ方は一人一人の幸福を作るためであって、使われ方は国民の実感も伴ったものだから受け入れられている。それに比べると、日本の税金は搾取に近い。国民のためにつかわれることはなく、いつの間にか使途不明金になり、どこかに勝手に消えていく。

デンマークの教育は、小さいころから徹底して、自分に決定権がある。そして、その決定権を親は侵してはならない。命令したり、平手打ちなどしようものなら、それはしつけとはみなされず、犯罪行為に当たる。しかし、それは自分の決定したことを最後まで責任をもって遂行するという義務も同時に背負うことになり、その遂行を親や教師は手助けしているのだ。その結果、デンマーク人は、人を信頼しつつも自分で自分の人生を決めていく大人になり、そして自らの行動に責任をもつ大人に育っている。そうした自立・自律の精神を育てられたデンマーク人は、自らのコミュニティに関心をもち、社会に参画することを喜び、問題を感じたら、お上のやることなどと決して政治任せにはしない。まさにC層率の高い国民なのだ。

日本という国が壊れたのは、明治以来続く、古い教育制度と親子関係のあり方にある。それは、戦後GHQによってさらに致命的なものとなった。もし、自分の子供をB層にしたくないのなら、どういう教育をすればいいのか、どういう親の在り方であればいいのか、自律した大人に育つための実践的なノウハウがわかるような、たくさんのエピソード満載の本だった。子育てのヒントをちりばめた、このような良書を出してくれた、著者と出版社の両方に感謝したい。

親が小さな子どもにも人格を認め、しっかりと向き合う社会、デンマーク

デンマークでは、子どもでも人格を認める。どうしてでしょうか。子どもが、自分の意志で、物事を決めていく。決めたことには責任を持つ。大人とは、自分のことは自分で調べ、自分で決めていく、そういう人を育てる。

自分を見つめ、社会でどのような役割を果たしていくか。自分の将来は自分で決める。これが人間として、幸福なことなのだ。と報告されていた。そのために、小さいときから、親は子どもと真剣に向き合い、たとえ幼い子でも、質問や意見はしっかりと聞く姿勢を持つようにする。

日本でもそうしている方も居らっしゃるかと思うが、私にとっては、とても大切な考え方を教えてもらったと思う。これから子育て、孫育て、教育関係の方、多くの方が、この本を読まれることを望んでいます。

こどもの未来を考える人。必見

学校だけが学びの場では無いことを教えてくれます。子どもたちにとっていろんな生き方、育ち方、学び方があって多くの選択肢があるわかりやすいデンマークの社会が日本の教育の問題点を考えさせてくれる貴重な本です。

14:43 2016/02/15


 

 デンマークの子育て・人育ち

デンマークの高齢者が世界一幸せなわけ 単行本– 2009・3 澤渡 夏代ブラント(著)5つ星のうち 5     2件のカスタマーレビュー

容(「BOOK」データベースより)

必要な人に、必要なとき、必要なだけ、無料で援助。デンマークの高齢者の生活環境は実に豊かです。しかし、それはたんに与えられたものではなく、長い時間をかけてデンマーク市民が勝ち取ってきた結果であり、民主主義の成果なのです。

澤渡/夏代ブラント

1946年(昭和21年)東京生まれ。武蔵野女子学院卒業後、デンマークへ。1969年、デンマーク人ブラントと結婚、2男1女の母。フリーランスの通訳業務を経て、1985年にコーディネーション会社を設立。デンマークの医療・福祉・教育分野の研修および講師、テレビ局・メディアのコーディネーションに従事。日本での執筆および講演活動も行っている。十文字学園女子大学高齢社会生活研究所(客員研究員・2004~2006年)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

単行本: 212ページ出版社: 大月書店 (2009/03)発売日: 2009/03

 

デンマークのプロフィール(2008)年平成28年2月15日 月曜日8頁・

・1・国土・デンマーク本土の面積は約4・3平方㌖で九州とほぼ同じ面積。本土のほかに、自治領のフェロー諸島と世界最大のグリーンランドがあります。地形は「パンケーキの国」と呼ばれるように全体が平らで、国内で一番高い場所は178・86㍍のミューラホイ、また、デンマーク人が天山・ヒメルビヤウと呼んで親しんでいる山は147㍍しかありません。

・2・人口・約545万人(2007年デンマーク統計局)

・3・首都・コペンハーゲン(デンマーク語表記)コペンハーゲン市の人口は約50万人、首都圏地域は164万人・

・4・言語・デンマーク語(一般的に英語は堪能)

・5・宗教・1536年の宗教改革により福音ルーテル派が国教となり、現在は国民の82・1%が信徒。ただし、日曜日に礼拝に参加するのは5%弱です。

・6・政体・立憲君主制・

・7・元首・マーグレーテ二世(1972年1月即位)

・8・議会・一院制(179議席、任期四年)

・9・政府・自由党・保守党による右派・中道連立政権・首相・アナス・フォー・ラスムセン(自由党党首)外相・ペア・スティー・ムラー(保守党)

・10・デンマークの国の形・社会福祉国家・1849年にフレデリック六世王がデンマークの最初の憲法「自由憲法」に調印。以来民主主義を基本とした社会福祉政策。

この社会福祉制度は弱者の救済のみならず、国民全員が文化的かつ安心した暮らしを保障するものです。9・

10頁・

・11・高福祉・高負担・高度な社会福祉制度では義務と権利の法則で成り立っています。就労者及び公的給付受給者(年金など)全員が納税者であり、税率は累進課税法で算出されます。

2008年の税率は38・8%~59%・付加価値税・25%・内税ですべての商品・サービスに課税される・間接税(ぜいたく税、自動車、酒、化粧品など)

・12・行政区分・5のレジオンと98の地方自治体・

2007年1月の行政改革施行により県が廃止され、代わりに国内が5レジオンと98の地方自治体に区分されました。レジオンは基本的に医療・保険を管轄分野としています。県の廃止により各地方自治体はより広い範囲の行政分野を担当することになりました。

・13・労働市場・

失業率1・6%(20008年8月、デンマーク統計局)10・

GDP2753億ドル(2007年、世銀統計)一人当たりのGDPは5万2110ドル(2007年、世銀統計)で、世界ランキングで六位・

インフレーション3・8%(2008年7月9)労働者の常勤は、週37時間・

週休完全2日制、年間5~6週間の有給休暇・52週の産休・育児休暇制度の完備・

・14・生活面・親子の同居はほとんど無し・進んだ男女平等社会参画・女性労働率・72・0%・男性労働率78・3%(2007年統計局、16~66歳)成人年齢18歳(選挙権、運転免許可)公的年金受給年齢65歳・11頁・

12頁・

・15・教育制度・九年間の義務教育(小中一貫教育)義務教育の前後に○学年と10年生あり(任意教育)

スクールアドバイザー制度(進路指導)

教育は生きるため(教育と職業が連携)

非入試制度(進路は本人の意思と学力および教員の評価で決定)

全教育費無料・

・16・高齢者事情・65歳以上の甚句は83万4700人で、総人口545万人の15%(2007年)100歳以上の人口は715人、そのうち女性が620人。105歳以上の人は23人80歳以上の77%が自宅居住、23%が介護付き住宅・高齢者政策にGNPの11・1%(2004年)

・17・近年の国政選挙投票率・1998年3月11日86%・

2001年11月20日・89¥7・2%・

2005年2月8日・84・5%・2007年11月13日・86%・

・18・デンマーク在住の日本人の人数・女性693名、男性362名、合計1055名(2007年デンマーク統計局)

・19・平均家庭・

2008年のMr.&Ms.デンマーク平均さんを紹介いたします。名前はアンナが32歳の時に2歳年上のイエンスと結婚。アンナ29歳で長女ソフィーを出産。

アンナとイエンスは1・9人の親で、一家は100~159㎡の一軒家と車一台を所有。年間可処分所得・イエンス18万3500・(約422万円)。

アンナ・14万9400・(約344万円)。イエンスは76歳まで生き、アンナは80歳まで生きる予定です。(デンマーク統計局2008年)13頁・

目次

 

 

1章 老いと退職を迎えて

・1・クオリティー・オブ・ライフ・18頁・

若いつもり・シニア世代の準備・シニアセミナー・

 

・2・老いを知る・26頁・同意はノーサンキュー・あたりまえの世代間交流・みんなで祝う誕生日・三世代で休暇・

・3・退職を迎えて・37頁・待ちにまった退職の日・イングリッドの退職・準給与制度は人気の制度・

・4・退職後の人生・47頁・熟年に戸惑う日本の夫婦・デンマーク人の家族と職場のバランス・退職後の夫婦の生活・子供の自立、親の自立・

 

2章・ 高齢期を生きる・

・1・元気なうちに住み直し・64頁・わが家、わが城・適時に適正な住宅へ・いさぎよく引越し・多様な住み方、「共同住宅」・共同住宅を結成したメンバー・

・2・さかんなボランティア活動・75頁・「奉仕」ではなく「自分のために」・市議会議員もボランティア・高齢者のためのNGO「エルダーセイン」・人が好き、だから「訪問の友」・「訪問の友」はベストフレンド・

・3・高齢者の声の反映「高齢者委員会」・89頁・委員は全員ボランティア・高齢者委員会の歴史・ロスキレの例・

 

3章 デンマークの高齢者福祉

・1・高齢者福祉―日本とデンマーク・98頁・

・どうすればいい、父の発病・日本の介護は制度が中心・安心して歳を取れる条件・

・2・デンマーク人の価値観・106頁・

・できる限り自分の生活は自分で・この40年の福祉政策の歩み・高齢者福祉の改革・施設意識から住宅意識へ・

・3・援助が必要になったとき・118頁・自立のための補助器具・市営補助器具センター・職業病ノーサンキュー・やさしさのちがい・

・4・安心した暮らし・128頁・

・ケアの中心は在宅ケア・サービスの判定は専門家が・判定部の判定分野・待機は二ヵ月・アンカーの一人暮らし・できないことへの援助・高齢者住宅に住むイリセ・介護住宅に住む義母インガ・義母インガの家計簿・あってもなくてもお隣同士・

・5・ケアワーカーの教育・156頁・

・介護職の充実・積み上げ教育・実習と理論の交互教育・学びに給料・

4章 デンマークの今を築いた人々

・1・民主主義を守るために・168頁・

・レジスタンスの歴史を共有する旅・戦争がもたらした「強制収容所症候群」・

最年少捕虜・サボタージュの果てに・捕虜番号67・050・白いバスの迎・ヨルゲンの安心した老後・愛国心からレジスタンス活動に・

・2・六八年世代の求めた社会・190頁・立ち上がった若者たち・大学の民主化・女たちの戦い・原発vs代替エネルギー・

資料・デンマークの国民年金制度・203・

おわりに・207・平成28年2月15日 月曜日

・1・民主主義を守るために…168頁・

・レジスタンスの歴を共有する旅、

2006年の8月のある日、ロスキレ市にある高齢者ケアセンター・ベアナドッテゴーデンの元施設庁エミーから、「九月に予定している「ドイツ強制収容所の旅」に一人空きができたけれど参加する?」と電話がありました。部外者の私に突然の誘いでしたが以前から興味があったので何のためらいもなく「参加させて!」と答えていました。

このたびは、1940年から五年間にわたるドイツ占領時代にレジスタンス(抵抗運動)に参加してドイツ秘密警察ゲシュタポに逮捕され、といつの強制労働収容所に送られたデンマーク人の過去を知る旅です。旅は「レジスタンスと捕虜の会」の会長モーンス・ヘネリックとエミーが、高齢者ケアセンター・ベアナドッテゴーデンの職員の研修旅行として10年前から実施しています。研修の案内人はモーンス・ヘネリックで、参加者は介護・看護スタッフやリーダー職を含め20名ほどです。

この研修は、ベアナドッテゴーデンに入居する元捕虜たちをより理解するために企画されたものです。費用は「レジスタンスと捕虜の会」基金が全額負担していますが、どうも今回が最終回になりそうです。168・

169頁・平成28年2月14日(日)

それは基金の底も付いたのと、同時にモーンス・ヘネリックが高齢になったのが理由です。

旅の日程は二泊三日で、案内役モーンス・ヘネリックが拘留された南ユトランドにあるフヨイヤスレブ捕虜収容所と、後日移されたドイツの強制収容所ノエンガメを訪問します。

当日の出発は朝八時。二泊三日の旅を支える専用バスも到着し、昼食用の食料や飲み物を積み込むとすっかりピクニック気分で、「重苦しい旅」に出かけるような雰囲気は微塵にも感じられません。

バスはロスキレを出発し、一日目の目的地フヨイヤスレブ捕虜収容所をめざして走り出しました。

・戦争がもたらした「強制収容所症候群」

1945年5月5日、デンマークは連合軍によりドイツ占領から解放されました。この日、人々は占領の暗黒時代から解放され、自由に灯りを付けられるよろこびを、窓辺にキャンドルをともして家族と、隣人と、そして国民皆で分かち合いました。

占領時の五年間にレジスタンスや警察官など約6000人がゲシュタポにつかまり、捕虜となってドイツの強制労働収容所に送られました。しかし、幸いなことにデンマークは赤十字を通じて輔量たちにビタミン剤を含む支援物資を送ることが許されていたために、デンマーク人の強制収容所での死亡率は15%にとどまりました。169・平成28年2月14日ここまで

 

・最年少捕虜・172頁・

・サボタージュの果てに・175・

・捕虜番号67・050・179頁・

・白いバスの迎・182・

・愛国心からレジスタンス活動に・186頁・

・2,67年世代の求めた社会・

・立ち上がった若者たち・190頁・平成28年2月14日(日)

2007年の日本では「団塊の世代」の定年時期がスタートし、「2007年問題」として多様な議論が巷を賑わしました。

一方、デンマークでは2008年に、「68年世代」と呼ばれる1960年代の若者の蜂起から40年ほどが経ち、メディアではこぞって近代史を振り返る動きがありました。

ヨーロッパの1960年代は、ビートルズ、ヒッピー、集団生活、性の解放そしてライフワークなどに象徴されるように、古い価値観に対立し、新しい自由で平等な社会を求める「若者の蜂起」や「学生運動」があちこちで起きました。190・

191頁・「68年世代」とは、デンマークにおいてその運動が1968年に頂点に達したことから、その動きに属する人々に名づけられた名称です。彼らは1968年当時に18歳から25歳だった若者で、2008年の今、定年を数年後に控えているか、リタイアしたばかりで、まさに日本の「団塊の世代」と「時」を共有している人々です。

若者たちの新しい社会を求めるさざなみは、第二次世界停戦後の社会的・政策的な問題として起きていた原子力問題、ベトナム戦争、資本主義、消費社会に対する若者のリアクションとして、1960年頃からヨーロッパのみならず世界各国で起き始めました。デンマークでも原発反対運動、環境運動、コペンハーゲン大学での学生紛争、そして男女平等権を訴えた女性運動など、60年代、70年代は民主主義の熟成に向けた戦いの時代でした。彼らは古い権威体制や管理社会からの脱皮を求め、新しい考え方や新しい社会体制を提案していきました。

 

当時、「教育現場は社会的階級分けが見られ、壇上の先生と生徒の間には精神的な距離があり、先生に対して生徒は行儀よく授業を受けることが当たり前。職場は規律や管理に縛られ、大学は教授に全権限があり、違反者には16か月の懲役を強いられた。個人の考えや意見が理不尽に否定され、性別による差別が見られた」と言う古い社会体制を「人が中心」の社会に変えていきました。

彼らは現状の社会体制を黙視して、ただ当時の社会体制の波に乗るのではなく、一人から二人へ、二人から数名に、そして大きな波として団結し、デモンストレーションなどの活動を通して社会に訴えていきました。191・

192頁・そして、この世代の人々が70年代、80年代、90年代のデンマーク社会を動かし、社会形成にも一石も二石も投じたと言っても過言ではありません。

・大学の民主化・192・

1968年3月21日コペンハーゲン大学の正面にあるスチュディオ通りからビートの利いた音楽が鳴り響き、門の壁に赤字で「教授主権の崩壊と学生の参加を今こそ!」と学生の訴えが掲げられていました。

学生たちはコペンハーゲン大学の時代に合わない教育環境に大きな不満を持っていました。大学は1958年に4700人だった学生が10年後の1968年には2万1500人に増加していましたが、職員数や建物が時代に追い付かず、そのために授業や講義に支障ができていました。また、教授がすべての権限を持ち、四角張った古い形の大学運営に不満を抱き、学生の意見をもっと反映できる組織づくりを要求しました。

4月19日、心理学学科の学生100人~150人が心理学研究所を占領し、バリケードを張って授業を妨害し、4月23日には、5000人がデモストレーショ雲に参加する事態に発展しました。これはコペンハーゲン大学が1479年に開校されて以来初めて経験する大規模なデモでした。

大学長モーンス・フォーぐ(当時64歳)は、第二次大戦中にレジスタンス運動に参加し、戦後初の内閣で大臣を務めた後、古巣の国立大学病院精神科教授とし、1966年にコペンハーゲン大学長に任命されました。192・

193頁・彼はヒューマニストであり、以前から九育現場の権威主義に疑問を抱いていました。

フォーグは学生たちと「対立」するのではなく、「対話」を選び、学生たちの要求である「運営に学生参加」を承認し、占領されていた心理学研究所も無傷で大学に戻されました。

フォーグは、大学で起きた大規模な集会でも警察の介入を避ける方法を選びました。警察は学長に混乱した場合の緊急通報を要請していましたが、フォーグはその手段を使うことはありませんでした。

その年の11月、恒例の「コペンハーゲン大学祭」が開かれました。この大学祭の招待客は学生ではなく、王室を含む上流社会の人々で、学生は「階級社会」に対する批判を表すために行動をおこすべく、偽入場券を作り会場に忍び込みました。

そして、心理学の学生フィン・アイナーは、学長のスピーチ壇上を乗っ取り三分間のスピーチを決行しました。学長はフィンにスピーチを許し、彼は「大学祭が国のエリートだけの参加なのは、この社会が階級社会だからだ」と訴えました。フィンと共に会場に忍び込んだ学生たちは喝采を挙げましたが、スピーチ後に学生たちは会場を退出しました。

当時、西ヨーロッパでは約2000の大学で学生紛争が起きていますが、他国に学生運動と異なる点は、流血騒ぎも警察との激しい衝突もなく、フォーグは学生たちと共に大学の古い体制を変え、さらなる民主化に貢献しました。193・

194頁・平成二十八年二月十四日

・女たちの戦い・194・平成28年2月15日 月曜日・ここまで

デンマーク人に「レッドストッキングって知っていますか」と聞くと、「アア、あの過激な女性運動のこと?」という反応が返ってきます。その挑発的な行動は世間を驚かせ、唖然となって首を横に振った市民も多くいましたが、彼女たちの活動に賛成する・しないは別として、今日のデンマーク社会が「世界の中でも男女平等が進んでいる国」として認知されているのには、彼女たちの活動が大いに貢献しています。

1960年代に若者だった女性たちは、彼女の母親たちの「良妻賢母」型と違い、高等教育と自立を求めた世代です。学生紛争が男子学生によって繰り広げられていたことに触発されてか、女子大生が中心となって「レッドストッキング」運動として世の中に旋風を巻き起こしました。

彼女たちのアクションは「男性が女性を「飾り人形」としてみている」と「性差別」に抗議し、女性用の下着を誇張してコペンハーゲン市の目抜き通りをデモンストレーションし、1970年の母の日には男女の賃金差を訴える活動として、一人1・25クローネのバス代を0・80クローネしか支払わないというアクションを起こし、警官に抱きかかえれられてバスから降りたというエピソードは、未だに多くの人の記憶に新しいところです。194・

195頁・デンマークには1871年に設立された「女性連盟」と言う女性運動があり、早い時期から女性の権利を拡張する運動を繰り広げ、すでに世界の中でもかなり女性の平等権が確立されていましたが、デンマークの女性たちにとってはまだまだ発展途上だったようです。レッドストッキングは、家庭内の男女の役割、職場での平等権を追求し、人線中絶の合法化を求め、1973年の立法化に貢献しました。

イングリッド・クローグも、レッドストッキングのメンバーとして若き日を送った一人です。彼女は二年前(2006年)に準給与制度を利用して国民学校(公立小中学校)の教員を退職し、現在は「自分のエンジンオイルとして」カルチャーセンターの「シニア英語教室」で週に二日間教え、その他の日は近所に住む孫の相手をして楽しんでいます。

「私の前夫は自分と仕事が一番大事で、家事と子育てには見向きもしなかった。特に、夫の仕事の関係でシカゴに三年間住んでいた時は最悪だった。本人はジャマイカやあちこちに出張するのに、私はいつも一人で家にこもって一歳と六歳の子供を相手に生活していた」と、1970年代の数年間は「弾圧された生活」だったと言います。私が「そういう生活が弾圧?」と尋ねると、「ほかの国の女性はどうだったか知らないけれど、私は自分の置かれた立場を十分女性への弾圧だと感じていた」と、自分が置き去りの生活に疑問を持つ毎日を送ったというのです。195・

196頁・平成28年2月15日 月曜日・

 

 

 

資料 デンマークの国民年金制度

 

デンマーク高齢者福祉の現場から思想まで

 本書は福祉国家として名高い北欧の小国デンマークの、高齢者福祉の現状を現地住民の視点からレポートしたルポタージュです。

大きな税金を徴収して高い水準の福祉を実現している国を聞いて、国はさぞかし手厚いサービスを提供しているのだろうと思われがちですが、本書第1章で綴られているデンマークの高齢者たちは極めて独立心旺盛です。自分のことは自分でこなす。足りない部分を家族や行政がサポートする程度の、拍子抜けするほど簡素なものです。ただし、サポートが受けられなかったり、日常生活が営めないような状況にはなりません。それらの生活保障サービスに支えられながら、至って穏やかで自然体の暮らしを送っている人々の様を、本書の前半では著者自身の経験を通じて描いています。

 後半ではデンマークの高齢者福祉、その生活保障サービスの実際が紹介されます。普通のアパートのケアスタッフが常駐している介護住宅、自立した生活を支えるためのきめの細かい補助器具、その補助器具の調整をする補助器具センター、自立援助のプロである介護スタッフ、在宅ケアが中心のサービス設計、ケアの判定規準まで、事細かくレポートされ、日本の実態と比較する上で大変優れた資料になっています。加えて、客観的な制度の観察だけでなく、在宅支援、高齢者住宅、介護住宅のサービス利用者の日常を追うことで利用者の視点からも、デンマークのサービスの実態を描き出しており、主観的にも分かるようになっています。これらデンマークの利用者本位の理念の通った福祉の現状と、著者自身が経験した日本での制度ありきで国民の生活実態を2の次にしてしまう福祉の現状との比較がとても対照的で、日本という国のあり方について深く考え込まざるを得ませんでした。

 しかしなぜこの様な国ができたのか。その根本的な疑問にも本書は果敢に挑戦します。民主主義を守るためにたたかった無数の人々、ーナチスドイツに立ち向かったレジスタンスたち、古い価値観とたたかった68年世代などーこの国の民主主義が彼ら国民自らの力で勝ち取られ、守られてきたことが、当事者の発言も交えながら明らかにされます。本書の各所に散りばめられた穏やかで平和な生活の日々を切り取った写真の背後には、この様な揺るぎない信念が一筋通っていたことを知り、日本で暮らす私たちも背筋を正し、私たちは何を求めて生き、何を求めて社会で実現していくのか、真剣に考えなければならないと思いました。デンマークや福祉国家を知ると同時に、日本を知ることのできるまたとない良書です 


 デンマークの高齢者福祉を分かりやすく紹介

著者は20代前半でデンマーク人と結婚、以来40年間デンマーク社会に溶け込み生活している。その豊富な実体験と堪能な語学力を活かした取材により、最新のデンマークの高齢者福祉の現状を、平易な文章で分かりやすく紹介してくれる。しかも著者は、福祉や教育を専門として日本とも頻繁に行き来しているので、日本の現状に照らして日本人が知りたいツボを適格に押さえている。近頃北欧社会の研究書や紹介本が増えているが、本書はその中でもピカイチの説得力を備えている。私は、高齢者というよりも、この国の生きにくさを体感し将来に展望を持てない若者や、政治家、福祉行政に携わる人々などに是非読んでほしいと思う。なお、本書の姉妹編ともいえるデンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会もあわせて読めば、デンマーク社会への理解はさらに深まるだろう。

14:36 2016/02/14


2016年2月19日 (金)

デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会 単行本– 2005・11 澤渡 夏代ブラント (著) ・1・自分で決める自分の生活・200頁・205頁・


引用


第4章 自分で決める自分の人生・平成28年2月19日 金曜日


・1・自分で決める自分の生活・200頁・

デンマークの民主儀の中身・

デンマークを訪問する日本人の多くが、デンマーク人は「明るく親切」「通りすがりに目があうと、ニコリとほほ笑む」「生き生きとして人生を楽しんでいるよう」などの感想を述べます。一週間程度の短い滞在でも、何か「生活のゆとり」や「人々が楽しく来ている」姿が感じられ、同時に「日本とは何かが違う」「どうして?」と言う疑問がわいてくるようです。

これはデンマーク人が「生活の便利さ」や「物質的な豊かさ」ばかりにとらわれず、幼い頃から「個」を基本として育てられ、教育では「事項を知ると同時にまわりと連携すること」を学び、「自分の人生を自分で選ぶ」社会で生活していることによります。そしてこの背景には、「民主主義」と言うデンマーク人が日々大切にしている社会理念があることは、言うまでもありません。


ある時、日本の大学生グループに「皆さんにとって民主主義って何でしょう」と尋ねたことがあります。彼らは、少し間をおいて「多数決で物事を決定すること。かな?」と、自信なさげな答えが返ってきました。これは、彼らにとって、民主主義の中身が不透明なせいでしょうか。それとも身近に感じていないからでしょうか。さらに、日本ではまだ「民主主義」と言う言葉は、ともすると政治色が強いのでやっかいなのです。200・


201頁・平成28年2月19日 金曜日

・・世界には、民主主義を掲げている多くの国がありますが、内容や理念間まちまちであり、その国の土壌に挿し木をされた民主主義もあれば、まだやっと芽生えたばかりの民主主義もあります。ところが、デンマークでは今から156年前(1849年)に君主制度が廃止され、民を主とする制度(民主主義制度)が導入された歴史があり、民主主義の根は世界のどの国よりも深く太い根を張っていて、あらゆる分野、状況の中で日常的に「デモクラティと言う言葉が使われています。

それは、「民主主義」という難しそうな定義を超えて、「権利」と「自由」に基本をおいた、「自分の人生を自分で決めることができる社会」を指し、「自分の意思が置き去りにされ物事を決定されることを好まない」社会形成だと言えます。デンマーク国民は、「多くの情報を得て、物事の決定に平等に参加し、自己決定し、それに対して自己責任を持つ」と言うプロセスを重要視しています。そのスタイルは社会、職場、家庭の隅々まで浸透し、それはとりもなおさずデンマーク文化であると言っても過言ではありません。

この「デモクラティ」と言う言葉を抜きにデンマーク社気を理解することは容易ではありません。

しかし、156年前に民主制度が導入され「人権」が語られてきたデンマークでも、1960年頃までは、まだ階級社会にみられる一方的な意見、命令、そして権力などが残っていて、「自分の生活を自分で決める」ことは容易ではありませんでした。親は、子供の将来に干渉し、家庭では伝統的な男女の役割があり、社会では男女の労働条件の格差も見られ、学校では整然と座る生徒の前で、教員が一方的な授業をしていました。201・


202頁・しかし、産業の発達とともに、1960年代後半から70年代にかけて、デンマークでは「自由」と「権利」を基本として社会改革の全般の改良、改革が行われ、生活の質のレベルアップに大きな前進を見ました。この背景には「女性運動」や「青年運動」が多大な貢献をしています。


近代産業の発達とともに社会進出した女性たちは男女平等を叫び、若者たちは


1968年を頂点として、古い価値観から抜け出し、自由で平等な社会を求めて「若者の蜂起という現象を引き起こし、デンマークの政治政策に大きな影響を及ぼして社会変化を促しました。

その真っ只中のデンマークに、私は足を踏み入れたわけです。テレビにニュースで「同一賃金を叫ぶ女性たち」「産休の改革を求める女性たち」のデモンストレーションが映し出されていましたが、私には彼女らの目的すら理解できませんでした。私とそう年齢が変わらない若者たちは、カラフルな服装や長髪で街を闊歩し、敬語を除き、それがスタンダード化して「人」と「人」の距離を近くしました。私自身が後日彼らの運動の恩恵を受けるとは思いもよらずに、当時の私は一連の社会現象を人ごとのように距離を置いてみていました。


こうして、デンマーク人は、1960年代を境に自由と平等を得て、「自分らしく生きる」地盤をせっせと築いていたわけです。そして、なんと2005年には、デンマーク人が「世界一幸せを感じている国民」と位置づけられました。この調査は、オランダ、ロッテルダムにある大学の教授が中心になって90ヵ国にわたって世論調査を行い、2月に結果発表したものです。202・


203頁・平成28年2月20日(土)

デンマークは、アンケート内容の総合10ポイントのうち、8ポイントを得てトップに上げられました。ちなみに日本は5・8ポイントだそうです。

この幸福度調査では、幸福な社会に不可欠な五項目があり、デンマークは、各項目とも満点だとしています。

・1・高収入の国・

・2・高度な民主主義がある・

・3・汚職のない健全な政体で社会構成がよい・

・4・個人の人生の形成することを可能にする高度の自由がある・

・5・宗教や性の違いを超えた寛容さがある・


この調査報告は当日のテレビニュースでも取り上げられ「デンマーク人は世界一幸せな国民と調査結果が出ていますが、あなたは?」と数名の男女の街頭インタビューが報道されましたが、彼らは「幸世」と笑顔で答えていました。


職場の民主主義の一コマ・

ここまで平成28年2月20日 土曜日・203・

日本の多くの職場では、春先に人事異動が行われます。どの部署に配置されるのか楽しみでもあり、不安を感じる人もいるかもしれません。203・


204頁・日本からデンマークの高齢者福祉を視察するために派遣されてきた自治体の職員が、視察した内容を公務に活かす間もなく、他の部署に配置されたケースは多くあります。一方、デンマークの企業では、本人の意思がない限り部署が変わることは、ほとんどないと言ってよいほどありません。これは、日本社会がスタッフをゼネラリストになることを求め、デンマーク社会はスペシャリストを求めている、という違いから来ているようです。

両者ともその国の持つ企業文化や伝統があり、一概にどちらが良くてどちらが悪いということは言えませんが、少なくともデンマーク社会では、本人意思以外で自分の配置が変わることは、企業の倒産または人員整理などの特別なケースを除いて、見られない現象です。自分の学歴・職歴に合った仕事に携わりますから、その職場が気に入っていれば、定年まで勤めることも可能です。

職場異動、赴任、管理職登用についても、上司の辞令で本人が動かされるということはありません。ポストが空席になると、社内または外部に公募され、希望者が応募して、インタビューののちに決定されるというプロセスを踏みます。本人が望まない限り部署も替わりませんから、その道のエキスパートになっていきます。

教育分野でも同じことが言えます。私の友人キヤステンは国民学校の教員でしたが、2003年に定年退職しました。彼女は23歳で教壇に立ってから退職するまでの37年間、コペンハーゲン郊外の同じ学校で勤めてました。彼女のほとんどの場合、一年生から七年生または九年生まで同じクラスを担当しました。ほっぺがまだ優しい一年生から、男子生徒の紙がちょろちょろとしだした九年生までを担当するのは、一つのローテーションとしても長い期間です。204・


205頁・自分が他校で勤務したいと思わない限り、キヤステンのように定年退職まで同じ学校に勤めるのは当たり前のことなのです。退職直後に電話で話した時、「とても楽しい37年間だったわ。まだ子供たちに会いたいと思う気持ちはあるけれど、今は決まった時間に起きなくてもいいことを楽しんでいるわ」と、電話の向こうで声高らかに笑っていました。日本の教員は数年のスパンで他の学校への移動があり、生徒自身もクラス編成で友人が変わり、担任も頻繁に替わると聞きます。どちらの方法がいいか、悪いかの判断がつきかねますが、少なくともデンマーク人の働き方は生き生きとしているように見えます。205・

家庭の民主主義のひとコマ・205・平成28


続きを・

デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会・澤渡 夏代ブラント(著)家庭の民主主義のひとコマ・205・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-d168.html

11:09 2016/02/20


 

 

 

職場の民主主義の一コマ・家庭の民主主義のひとコマ・社会が求める人物像・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・

・2・男女参画型社会・212頁・男女平等とは・主婦か主夫か・パパも育児休暇・自立した女性たち・

・3・生きて歳をとって・221頁・自立している高齢者・弱い高齢者への援助・義母インガのホーム入居・

デンマーク関連の推薦図書・ウェブサイト・232頁・

おわりに・234頁・平成28年2月16日 火曜日・  


デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会 単行本– 2005・11 澤渡 夏代ブラント (著)      4件のカスタマーレビュー

容(「BOOK」データベースより)

“愛されれば、その子は人を愛する大人になる。社会に愛されれば、その子は社会の大事な人材となる。”著者は1960年代の後半に片道切符で海外に渡り、フィンランドでの生活を経てデンマーク人と結婚。36年の体験を通して「子を愛する」こと、「経験から学ぶ」ことの大切さを生きいきと綴る。

 内容(「MARC」データベースより)

 デンマークには人が資源という考え方があり、幼い時から個として尊重され、自己決定・管理ができるよう育てられる。この国の福祉・保育・教育の充実した制度と暮らし・子育てを紹介し、日本に欠けているものは何かを考える。

 単行本: 237ページ出版社: 大月書店 (2005/11)発売日: 2005/11

 目次


はじめに・3頁・

序章 デンマークの大事な「資源」子ども

・1・経験から学ぶ・14頁・危ないことも危なくない・経験は師なり・初孫の誕生・子供と両親の絆のスタート・デンマークの大事な「資源」子ども・

第1章 私の手づくり人生

・1・私の手づくり人生・28頁・

青春へのブレイク・めざすは、ストックホルムか・歯科医家族との出会い・衣食住を獲得して・子供たちとのコミュニケーション・「まずはほめる」ことの大切さ・

・2・フィンランドからスペインへ・39頁・

わかれ・私たちはヒッチハイカー・未来への夫とのキューピット・

・3・両親の思い・47頁・両親の切ない気持ち・大学教育断念のとき・負と思うな・入社は、出発の準備・母の長年のしこり・

・4・迷いと決断の頃・54・人生を変える出会い・決断を前に日本に帰ろう・結婚生活スタート・祖母アグネスから学んだこと・

・5・・私たちの子育て・母になって・ママは、子供たちの通訳・お母さんの言葉・お父さんの言葉・お父さんは、いい先輩・父親と子供・

・6・仕事と私・さんざんの通訳デビュー・すべてに「初め」あり・働く親と子供たち・子供に「振り向く」こと・

・7・私の家族・私たちの家族にウェルカム・タニヤの奮闘記・三か国語が飛び交う三ヵ国家族・二人の姪は韓国から・

 

第2章 家庭と社会のハーモニー

・1・社会の子・98頁・統一された保育基本方針・国は、どのような幼児教育を目的としているのか・保育は、自治体の責任・選択肢のある保育・

・2・シャロッテの初産・106頁・

・夫と母の立会い・子育てを一人で悩まない・マザースグループに参加・シャロッテの産休計画・

・3・保育園を訪ねて・113頁・フライヤス総合保育園の子供たち・乳児グループ・幼児グループ・森の保育園・保護会とその他の行事・年間計画の義務付け・

・4・子供は、子供らしく・128頁・見ます、聞きます、話します・グッドナイトストーリー・抱きしめるというスキンシップ・体罰はもってのほか・とにかく話そう・

第3章 みんな違ってあたりまえ

・1・学校が大好きな生徒たち・142頁・

教育は、何のため?・職業意識の芽生え・スクールアドバイザーの役割・労働市場の味見・高等学校の入るということは・自分との競争・スチューデント帽をかぶれる日・18歳は、子供から大人へ・SUと言う公的経済援助・給料をもらって職業教育・子供たちの巣立ち・貧しくとも満足な学生たち・保育士をめざすビギッテ・デンマークの義務教育の課題・

・2・性教育の大切さ・175頁・性の解放・性のカルチャーショック・学区での性教育・性教育の義務づけ・子供は「望まれて生まれてくるもの」・

・3・社会に守られている子供たち・189頁・子供の居場所・子供をウォッチ・

第4章 自分で決める自分の人生・

・1・自分で決める自分の生活・200頁・デンマークの民主儀の中身・職場の民主主義の一コマ・家庭の民主主義のひとコマ・社会が求める人物像・「あ・うんの呼吸」vs「言葉の社会」・

・2・男女参画型社会・212頁・男女平等とは・主婦か主夫か・パパも育児休暇・自立した女性たち・

・3・生きて歳をとって・221頁・自立している高齢者・弱い高齢者への援助・義母インガのホーム入居・

デンマーク関連の推薦図書・ウェブサイト・232頁・

おわりに・234頁・平成28年2月16日 火曜日・

 

子供は神様の贈り物、お年寄りは芸術の賜物

幼い頃から一人の人間として自立して物事を考え行動するように育てられ、人と人とのつながりを大切にする国、デンマーク。教育や福祉の先進国として、世界中から多くの人達が視察に訪れる北欧の国の一つです。

 

日本人にとっては、『人魚姫』『みにくいアヒルの子』などの童話で馴染み深いアンデルセンの故郷でもあります。

 

何事も心を開いて率直にとことんまで話し合う国民性は、長い時間を経て、公平で公正な本当の意味の民主主義を隅々まで行渡らせました。

 

「子供は神様の賜り物。子供には親が必要だが、子供は親の所有物ではなく、社会の未来。だから社会全体で子供を育てるのは当たり前。」というのがデンマークでの一般的な考え方のようです。

 

日本から遠くはなれ、歴史も文化も全く違うデンマークでの子育て事情についての本ですが、今の日本社会が抱える問題を解決するヒントが散りばめられています。

とてもためになった。C層を作るための子育ての本です。

B層の研究、C層の研究という本を読んで、「日本人がこれほどまでにモノを考えなくなったのはなぜなのか?」という疑問にあたり、それは明治時代からの教育にあるとにらんだ。株式会社アシストの会長、トッテン氏(ヒカルランドの書籍を読まれたい)の分析も自分と同じで、自分でモノを考える外国人と上から命令されたことを実行するのには長けた日本人との違いは、そもそも教育のありかたにあることを確信した。

北欧の政治は透明性が高く、福祉国家と言われている。とくにデンマークは世界一幸福度が高いと言われる国である。その国で行われる徹底した民主主義の姿勢は教育にも及んでおり、どんな親の元に生まれたとしても、社会がそうした子供に常に保護とチャンスを与え、金銭的に親に依存するといった親による子供の支配・決定権の侵害を産みかねない制度を改革しているところにもあると知った。デンマークの税金は高く、収入の半分くらいが税金に消える。しかし、その税金の使われ方は一人一人の幸福を作るためであって、使われ方は国民の実感も伴ったものだから受け入れられている。それに比べると、日本の税金は搾取に近い。国民のためにつかわれることはなく、いつの間にか使途不明金になり、どこかに勝手に消えていく。

デンマークの教育は、小さいころから徹底して、自分に決定権がある。そして、その決定権を親は侵してはならない。命令したり、平手打ちなどしようものなら、それはしつけとはみなされず、犯罪行為に当たる。しかし、それは自分の決定したことを最後まで責任をもって遂行するという義務も同時に背負うことになり、その遂行を親や教師は手助けしているのだ。その結果、デンマーク人は、人を信頼しつつも自分で自分の人生を決めていく大人になり、そして自らの行動に責任をもつ大人に育っている。そうした自立・自律の精神を育てられたデンマーク人は、自らのコミュニティに関心をもち、社会に参画することを喜び、問題を感じたら、お上のやることなどと決して政治任せにはしない。まさにC層率の高い国民なのだ。

日本という国が壊れたのは、明治以来続く、古い教育制度と親子関係のあり方にある。それは、戦後GHQによってさらに致命的なものとなった。もし、自分の子供をB層にしたくないのなら、どういう教育をすればいいのか、どういう親の在り方であればいいのか、自律した大人に育つための実践的なノウハウがわかるような、たくさんのエピソード満載の本だった。子育てのヒントをちりばめた、このような良書を出してくれた、著者と出版社の両方に感謝したい。

親が小さな子どもにも人格を認め、しっかりと向き合う社会、デンマーク

デンマークでは、子どもでも人格を認める。どうしてでしょうか。子どもが、自分の意志で、物事を決めていく。決めたことには責任を持つ。大人とは、自分のことは自分で調べ、自分で決めていく、そういう人を育てる。

自分を見つめ、社会でどのような役割を果たしていくか。自分の将来は自分で決める。これが人間として、幸福なことなのだ。と報告されていた。そのために、小さいときから、親は子どもと真剣に向き合い、たとえ幼い子でも、質問や意見はしっかりと聞く姿勢を持つようにする。

日本でもそうしている方も居らっしゃるかと思うが、私にとっては、とても大切な考え方を教えてもらったと思う。これから子育て、孫育て、教育関係の方、多くの方が、この本を読まれることを望んでいます。

こどもの未来を考える人。必見

学校だけが学びの場では無いことを教えてくれます。子どもたちにとっていろんな生き方、育ち方、学び方があって多くの選択肢があるわかりやすいデンマークの社会が日本の教育の問題点を考えさせてくれる貴重な本です。

14:43 2016/02/15


 

 デンマークの子育て・人育ち

デンマークの高齢者が世界一幸せなわけ 単行本– 2009・3 澤渡 夏代ブラント(著)5つ星のうち 5     2件のカスタマーレビュー

容(「BOOK」データベースより)

必要な人に、必要なとき、必要なだけ、無料で援助。デンマークの高齢者の生活環境は実に豊かです。しかし、それはたんに与えられたものではなく、長い時間をかけてデンマーク市民が勝ち取ってきた結果であり、民主主義の成果なのです。

澤渡/夏代ブラント

1946年(昭和21年)東京生まれ。武蔵野女子学院卒業後、デンマークへ。1969年、デンマーク人ブラントと結婚、2男1女の母。フリーランスの通訳業務を経て、1985年にコーディネーション会社を設立。デンマークの医療・福祉・教育分野の研修および講師、テレビ局・メディアのコーディネーションに従事。日本での執筆および講演活動も行っている。十文字学園女子大学高齢社会生活研究所(客員研究員・2004~2006年)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

単行本: 212ページ出版社: 大月書店 (2009/03)発売日: 2009/03

 

デンマークのプロフィール(2008)年平成28年2月15日 月曜日8頁・

・1・国土・デンマーク本土の面積は約4・3平方で九州とほぼ同じ面積。本土のほかに、自治領のフェロー諸島と世界最大のグリーンランドがあります。地形は「パンケーキの国」と呼ばれるように全体が平らで、国内で一番高い場所は178・86㍍のミューラホイ、また、デンマーク人が天山・ヒメルビヤウと呼んで親しんでいる山は147㍍しかありません。

・2・人口・約545万人(2007年デンマーク統計局)

・3・首都・コペンハーゲン(デンマーク語表記)コペンハーゲン市の人口は約50万人、首都圏地域は164万人・

・4・言語・デンマーク語(一般的に英語は堪能)

・5・宗教・1536年の宗教改革により福音ルーテル派が国教となり、現在は国民の82・1%が信徒。ただし、日曜日に礼拝に参加するのは5%弱です。

・6・政体・立憲君主制・

・7・元首・マーグレーテ二世(1972年1月即位)

・8・議会・一院制(179議席、任期四年)

・9・政府・自由党・保守党による右派・中道連立政権・首相・アナス・フォー・ラスムセン(自由党党首)外相・ペア・スティー・ムラー(保守党)

・10・デンマークの国の形・社会福祉国家・1849年にフレデリック六世王がデンマークの最初の憲法「自由憲法」に調印。以来民主主義を基本とした社会福祉政策。

この社会福祉制度は弱者の救済のみならず、国民全員が文化的かつ安心した暮らしを保障するものです。9・

10頁・

・11・高福祉・高負担・高度な社会福祉制度では義務と権利の法則で成り立っています。就労者及び公的給付受給者(年金など)全員が納税者であり、税率は累進課税法で算出されます。

2008年の税率は38・8%~59%・付加価値税・25%・内税ですべての商品・サービスに課税される・間接税(ぜいたく税、自動車、酒、化粧品など)

・12・行政区分・5のレジオンと98の地方自治体・

2007年1月の行政改革施行により県が廃止され、代わりに国内が5レジオンと98の地方自治体に区分されました。レジオンは基本的に医療・保険を管轄分野としています。県の廃止により各地方自治体はより広い範囲の行政分野を担当することになりました。

・13・労働市場・

失業率1・6%(20008年8月、デンマーク統計局)10・

GDP2753億ドル(2007年、世銀統計)一人当たりのGDPは5万2110ドル(2007年、世銀統計)で、世界ランキングで六位・

インフレーション3・8%(2008年7月9)労働者の常勤は、週37時間・

週休完全2日制、年間5~6週間の有給休暇・52週の産休・育児休暇制度の完備・

・14・生活面・親子の同居はほとんど無し・進んだ男女平等社会参画・女性労働率・72・0%・男性労働率78・3%(2007年統計局、16~66歳)成人年齢18歳(選挙権、運転免許可)公的年金受給年齢65歳・11頁・

12頁・

・15・教育制度・九年間の義務教育(小中一貫教育)義務教育の前後に○学年と10年生あり(任意教育)

スクールアドバイザー制度(進路指導)

教育は生きるため(教育と職業が連携)

非入試制度(進路は本人の意思と学力および教員の評価で決定)

全教育費無料・

・16・高齢者事情・65歳以上の甚句は83万4700人で、総人口545万人の15%(2007年)100歳以上の人口は715人、そのうち女性が620人。105歳以上の人は23人80歳以上の77%が自宅居住、23%が介護付き住宅・高齢者政策にGNPの11・1%(2004年)

・17・近年の国政選挙投票率・1998年3月11日86%・

2001年11月20日・89¥7・2%・

2005年2月8日・84・5%・2007年11月13日・86%・

・18・デンマーク在住の日本人の人数・女性693名、男性362名、合計1055名(2007年デンマーク統計局)

・19・平均家庭・

2008年のMr.&Ms.デンマーク平均さんを紹介いたします。名前はアンナが32歳の時に2歳年上のイエンスと結婚。アンナ29歳で長女ソフィーを出産。

アンナとイエンスは1・9人の親で、一家は100~159㎡の一軒家と車一台を所有。年間可処分所得・イエンス18万3500・(約422万円)。

アンナ・14万9400・(約344万円)。イエンスは76歳まで生き、アンナは80歳まで生きる予定です。(デンマーク統計局2008年)13頁・

目次

 

 

1章 老いと退職を迎えて

・1・クオリティー・オブ・ライフ・18頁・

若いつもり・シニア世代の準備・シニアセミナー・

 

・2・老いを知る・26頁・同意はノーサンキュー・あたりまえの世代間交流・みんなで祝う誕生日・三世代で休暇・

・3・退職を迎えて・37頁・待ちにまった退職の日・イングリッドの退職・準給与制度は人気の制度・

・4・退職後の人生・47頁・熟年に戸惑う日本の夫婦・デンマーク人の家族と職場のバランス・退職後の夫婦の生活・子供の自立、親の自立・

 

2章・ 高齢期を生きる・

・1・元気なうちに住み直し・64頁・わが家、わが城・適時に適正な住宅へ・いさぎよく引越し・多様な住み方、「共同住宅」・共同住宅を結成したメンバー・

・2・さかんなボランティア活動・75頁・「奉仕」ではなく「自分のために」・市議会議員もボランティア・高齢者のためのNGO「エルダーセイン」・人が好き、だから「訪問の友」・「訪問の友」はベストフレンド・

・3・高齢者の声の反映「高齢者委員会」・89頁・委員は全員ボランティア・高齢者委員会の歴史・ロスキレの例・

 

3章 デンマークの高齢者福祉

・1・高齢者福祉―日本とデンマーク・98頁・

・どうすればいい、父の発病・日本の介護は制度が中心・安心して歳を取れる条件・

・2・デンマーク人の価値観・106頁・

・できる限り自分の生活は自分で・この40年の福祉政策の歩み・高齢者福祉の改革・施設意識から住宅意識へ・

・3・援助が必要になったとき・118頁・自立のための補助器具・市営補助器具センター・職業病ノーサンキュー・やさしさのちがい・

・4・安心した暮らし・128頁・

・ケアの中心は在宅ケア・サービスの判定は専門家が・判定部の判定分野・待機は二ヵ月・アンカーの一人暮らし・できないことへの援助・高齢者住宅に住むイリセ・介護住宅に住む義母インガ・義母インガの家計簿・あってもなくてもお隣同士・

・5・ケアワーカーの教育・156頁・

・介護職の充実・積み上げ教育・実習と理論の交互教育・学びに給料・

4章 デンマークの今を築いた人々

・1・民主主義を守るために・168頁・

・レジスタンスの歴史を共有する旅・戦争がもたらした「強制収容所症候群」・

最年少捕虜・サボタージュの果てに・捕虜番号67・050・白いバスの迎・ヨルゲンの安心した老後・愛国心からレジスタンス活動に・

・2・六八年世代の求めた社会・190頁・立ち上がった若者たち・大学の民主化・女たちの戦い・原発vs代替エネルギー・

資料・デンマークの国民年金制度・203・

おわりに・207・平成28年2月15日 月曜日

・1・民主主義を守るために…168頁・

・レジスタンスの歴を共有する旅、

2006年の8月のある日、ロスキレ市にある高齢者ケアセンター・ベアナドッテゴーデンの元施設庁エミーから、「九月に予定している「ドイツ強制収容所の旅」に一人空きができたけれど参加する?」と電話がありました。部外者の私に突然の誘いでしたが以前から興味があったので何のためらいもなく「参加させて!」と答えていました。

このたびは、1940年から五年間にわたるドイツ占領時代にレジスタンス(抵抗運動)に参加してドイツ秘密警察ゲシュタポに逮捕され、といつの強制労働収容所に送られたデンマーク人の過去を知る旅です。旅は「レジスタンスと捕虜の会」の会長モーンス・ヘネリックとエミーが、高齢者ケアセンター・ベアナドッテゴーデンの職員の研修旅行として10年前から実施しています。研修の案内人はモーンス・ヘネリックで、参加者は介護・看護スタッフやリーダー職を含め20名ほどです。

この研修は、ベアナドッテゴーデンに入居する元捕虜たちをより理解するために企画されたものです。費用は「レジスタンスと捕虜の会」基金が全額負担していますが、どうも今回が最終回になりそうです。168・

169頁・平成28年2月14日(日)

それは基金の底も付いたのと、同時にモーンス・ヘネリックが高齢になったのが理由です。

旅の日程は二泊三日で、案内役モーンス・ヘネリックが拘留された南ユトランドにあるフヨイヤスレブ捕虜収容所と、後日移されたドイツの強制収容所ノエンガメを訪問します。

当日の出発は朝八時。二泊三日の旅を支える専用バスも到着し、昼食用の食料や飲み物を積み込むとすっかりピクニック気分で、「重苦しい旅」に出かけるような雰囲気は微塵にも感じられません。

バスはロスキレを出発し、一日目の目的地フヨイヤスレブ捕虜収容所をめざして走り出しました。

・戦争がもたらした「強制収容所症候群」

1945年5月5日、デンマークは連合軍によりドイツ占領から解放されました。この日、人々は占領の暗黒時代から解放され、自由に灯りを付けられるよろこびを、窓辺にキャンドルをともして家族と、隣人と、そして国民皆で分かち合いました。

占領時の五年間にレジスタンスや警察官など約6000人がゲシュタポにつかまり、捕虜となってドイツの強制労働収容所に送られました。しかし、幸いなことにデンマークは赤十字を通じて輔量たちにビタミン剤を含む支援物資を送ることが許されていたために、デンマーク人の強制収容所での死亡率は15%にとどまりました。169・平成28年2月14日ここまで

 

・最年少捕虜・172頁・

・サボタージュの果てに・175・

・捕虜番号67・050・179頁・

・白いバスの迎・182・

・愛国心からレジスタンス活動に・186頁・

・2,67年世代の求めた社会・

・立ち上がった若者たち・190頁・平成28年2月14日(日)

2007年の日本では「団塊の世代」の定年時期がスタートし、「2007年問題」として多様な議論が巷を賑わしました。

一方、デンマークでは2008年に、「68年世代」と呼ばれる1960年代の若者の蜂起から40年ほどが経ち、メディアではこぞって近代史を振り返る動きがありました。

ヨーロッパの1960年代は、ビートルズ、ヒッピー、集団生活、性の解放そしてライフワークなどに象徴されるように、古い価値観に対立し、新しい自由で平等な社会を求める「若者の蜂起」や「学生運動」があちこちで起きました。190・

191頁・「68年世代」とは、デンマークにおいてその運動が1968年に頂点に達したことから、その動きに属する人々に名づけられた名称です。彼らは1968年当時に18歳から25歳だった若者で、2008年の今、定年を数年後に控えているか、リタイアしたばかりで、まさに日本の「団塊の世代」と「時」を共有している人々です。

若者たちの新しい社会を求めるさざなみは、第二次世界停戦後の社会的・政策的な問題として起きていた原子力問題、ベトナム戦争、資本主義、消費社会に対する若者のリアクションとして、1960年頃からヨーロッパのみならず世界各国で起き始めました。デンマークでも原発反対運動、環境運動、コペンハーゲン大学での学生紛争、そして男女平等権を訴えた女性運動など、60年代、70年代は民主主義の熟成に向けた戦いの時代でした。彼らは古い権威体制や管理社会からの脱皮を求め、新しい考え方や新しい社会体制を提案していきました。

 

当時、「教育現場は社会的階級分けが見られ、壇上の先生と生徒の間には精神的な距離があり、先生に対して生徒は行儀よく授業を受けることが当たり前。職場は規律や管理に縛られ、大学は教授に全権限があり、違反者には16か月の懲役を強いられた。個人の考えや意見が理不尽に否定され、性別による差別が見られた」と言う古い社会体制を「人が中心」の社会に変えていきました。

彼らは現状の社会体制を黙視して、ただ当時の社会体制の波に乗るのではなく、一人から二人へ、二人から数名に、そして大きな波として団結し、デモンストレーションなどの活動を通して社会に訴えていきました。191・

192頁・そして、この世代の人々が70年代、80年代、90年代のデンマーク社会を動かし、社会形成にも一石も二石も投じたと言っても過言ではありません。

・大学の民主化・192・

1968年3月21日コペンハーゲン大学の正面にあるスチュディオ通りからビートの利いた音楽が鳴り響き、門の壁に赤字で「教授主権の崩壊と学生の参加を今こそ!」と学生の訴えが掲げられていました。

学生たちはコペンハーゲン大学の時代に合わない教育環境に大きな不満を持っていました。大学は1958年に4700人だった学生が10年後の1968年には2万1500人に増加していましたが、職員数や建物が時代に追い付かず、そのために授業や講義に支障ができていました。また、教授がすべての権限を持ち、四角張った古い形の大学運営に不満を抱き、学生の意見をもっと反映できる組織づくりを要求しました。

4月19日、心理学学科の学生100人~150人が心理学研究所を占領し、バリケードを張って授業を妨害し、4月23日には、5000人がデモストレーショ雲に参加する事態に発展しました。これはコペンハーゲン大学が1479年に開校されて以来初めて経験する大規模なデモでした。

大学長モーンス・フォーぐ(当時64歳)は、第二次大戦中にレジスタンス運動に参加し、戦後初の内閣で大臣を務めた後、古巣の国立大学病院精神科教授とし、1966年にコペンハーゲン大学長に任命されました。192・

193頁・彼はヒューマニストであり、以前から九育現場の権威主義に疑問を抱いていました。

フォーグは学生たちと「対立」するのではなく、「対話」を選び、学生たちの要求である「運営に学生参加」を承認し、占領されていた心理学研究所も無傷で大学に戻されました。

フォーグは、大学で起きた大規模な集会でも警察の介入を避ける方法を選びました。警察は学長に混乱した場合の緊急通報を要請していましたが、フォーグはその手段を使うことはありませんでした。

その年の11月、恒例の「コペンハーゲン大学祭」が開かれました。この大学祭の招待客は学生ではなく、王室を含む上流社会の人々で、学生は「階級社会」に対する批判を表すために行動をおこすべく、偽入場券を作り会場に忍び込みました。

そして、心理学の学生フィン・アイナーは、学長のスピーチ壇上を乗っ取り三分間のスピーチを決行しました。学長はフィンにスピーチを許し、彼は「大学祭が国のエリートだけの参加なのは、この社会が階級社会だからだ」と訴えました。フィンと共に会場に忍び込んだ学生たちは喝采を挙げましたが、スピーチ後に学生たちは会場を退出しました。

当時、西ヨーロッパでは約2000の大学で学生紛争が起きていますが、他国に学生運動と異なる点は、流血騒ぎも警察との激しい衝突もなく、フォーグは学生たちと共に大学の古い体制を変え、さらなる民主化に貢献しました。193・

194頁・平成二十八年二月十四日

・女たちの戦い・194・平成28年2月15日 月曜日・ここまで

デンマーク人に「レッドストッキングって知っていますか」と聞くと、「アア、あの過激な女性運動のこと?」という反応が返ってきます。その挑発的な行動は世間を驚かせ、唖然となって首を横に振った市民も多くいましたが、彼女たちの活動に賛成する・しないは別として、今日のデンマーク社会が「世界の中でも男女平等が進んでいる国」として認知されているのには、彼女たちの活動が大いに貢献しています。

1960年代に若者だった女性たちは、彼女の母親たちの「良妻賢母」型と違い、高等教育と自立を求めた世代です。学生紛争が男子学生によって繰り広げられていたことに触発されてか、女子大生が中心となって「レッドストッキング」運動として世の中に旋風を巻き起こしました。

彼女たちのアクションは「男性が女性を「飾り人形」としてみている」と「性差別」に抗議し、女性用の下着を誇張してコペンハーゲン市の目抜き通りをデモンストレーションし、1970年の母の日には男女の賃金差を訴える活動として、一人1・25クローネのバス代を0・80クローネしか支払わないというアクションを起こし、警官に抱きかかえれられてバスから降りたというエピソードは、未だに多くの人の記憶に新しいところです。194・

195頁・デンマークには1871年に設立された「女性連盟」と言う女性運動があり、早い時期から女性の権利を拡張する運動を繰り広げ、すでに世界の中でもかなり女性の平等権が確立されていましたが、デンマークの女性たちにとってはまだまだ発展途上だったようです。レッドストッキングは、家庭内の男女の役割、職場での平等権を追求し、人線中絶の合法化を求め、1973年の立法化に貢献しました。

イングリッド・クローグも、レッドストッキングのメンバーとして若き日を送った一人です。彼女は二年前(2006年)に準給与制度を利用して国民学校(公立小中学校)の教員を退職し、現在は「自分のエンジンオイルとして」カルチャーセンターの「シニア英語教室」で週に二日間教え、その他の日は近所に住む孫の相手をして楽しんでいます。

「私の前夫は自分と仕事が一番大事で、家事と子育てには見向きもしなかった。特に、夫の仕事の関係でシカゴに三年間住んでいた時は最悪だった。本人はジャマイカやあちこちに出張するのに、私はいつも一人で家にこもって一歳と六歳の子供を相手に生活していた」と、1970年代の数年間は「弾圧された生活」だったと言います。私が「そういう生活が弾圧?」と尋ねると、「ほかの国の女性はどうだったか知らないけれど、私は自分の置かれた立場を十分女性への弾圧だと感じていた」と、自分が置き去りの生活に疑問を持つ毎日を送ったというのです。195・

196頁・平成28年2月15日 月曜日・

 

 

 

資料 デンマークの国民年金制度

 

デンマーク高齢者福祉の現場から思想まで

 本書は福祉国家として名高い北欧の小国デンマークの、高齢者福祉の現状を現地住民の視点からレポートしたルポタージュです。

大きな税金を徴収して高い水準の福祉を実現している国を聞いて、国はさぞかし手厚いサービスを提供しているのだろうと思われがちですが、本書第1章で綴られているデンマークの高齢者たちは極めて独立心旺盛です。自分のことは自分でこなす。足りない部分を家族や行政がサポートする程度の、拍子抜けするほど簡素なものです。ただし、サポートが受けられなかったり、日常生活が営めないような状況にはなりません。それらの生活保障サービスに支えられながら、至って穏やかで自然体の暮らしを送っている人々の様を、本書の前半では著者自身の経験を通じて描いています。

 後半ではデンマークの高齢者福祉、その生活保障サービスの実際が紹介されます。普通のアパートのケアスタッフが常駐している介護住宅、自立した生活を支えるためのきめの細かい補助器具、その補助器具の調整をする補助器具センター、自立援助のプロである介護スタッフ、在宅ケアが中心のサービス設計、ケアの判定規準まで、事細かくレポートされ、日本の実態と比較する上で大変優れた資料になっています。加えて、客観的な制度の観察だけでなく、在宅支援、高齢者住宅、介護住宅のサービス利用者の日常を追うことで利用者の視点からも、デンマークのサービスの実態を描き出しており、主観的にも分かるようになっています。これらデンマークの利用者本位の理念の通った福祉の現状と、著者自身が経験した日本での制度ありきで国民の生活実態を2の次にしてしまう福祉の現状との比較がとても対照的で、日本という国のあり方について深く考え込まざるを得ませんでした。

 しかしなぜこの様な国ができたのか。その根本的な疑問にも本書は果敢に挑戦します。民主主義を守るためにたたかった無数の人々、ーナチスドイツに立ち向かったレジスタンスたち、古い価値観とたたかった68年世代などーこの国の民主主義が彼ら国民自らの力で勝ち取られ、守られてきたことが、当事者の発言も交えながら明らかにされます。本書の各所に散りばめられた穏やかで平和な生活の日々を切り取った写真の背後には、この様な揺るぎない信念が一筋通っていたことを知り、日本で暮らす私たちも背筋を正し、私たちは何を求めて生き、何を求めて社会で実現していくのか、真剣に考えなければならないと思いました。デンマークや福祉国家を知ると同時に、日本を知ることのできるまたとない良書です 


 デンマークの高齢者福祉を分かりやすく紹介

著者は20代前半でデンマーク人と結婚、以来40年間デンマーク社会に溶け込み生活している。その豊富な実体験と堪能な語学力を活かした取材により、最新のデンマークの高齢者福祉の現状を、平易な文章で分かりやすく紹介してくれる。しかも著者は、福祉や教育を専門として日本とも頻繁に行き来しているので、日本の現状に照らして日本人が知りたいツボを適格に押さえている。近頃北欧社会の研究書や紹介本が増えているが、本書はその中でもピカイチの説得力を備えている。私は、高齢者というよりも、この国の生きにくさを体感し将来に展望を持てない若者や、政治家、福祉行政に携わる人々などに是非読んでほしいと思う。なお、本書の姉妹編ともいえるデンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会もあわせて読めば、デンマーク社会への理解はさらに深まるだろう。

14:36 2016/02/14


2016年2月12日 (金)

このようにデンマークという国自然エネルギー先進国・・・15歳から税金を自己申告している国民なので、国家予算の使い道、それを決める政治に対する興味と関心は非常に高く、国会議員選挙の投票率は80%を下回るということはありません。自分が納めた税金は教育や福祉・社会保障に多く当てられるべきだと考える国民が多く、政府が最終的に税金の使途と管理に責任を負うべきだと考えています。49頁から・「個人番号制度」の導入・50頁・・女性の社会進出・51頁・


引用


15歳から所得を自己申告・49頁・

平成28年2月12日(金)

デンマークの税法では15歳から所得を自己申告し、すべての所得が把握されます。子供たちは、放課後や週末を利用してベビーシッターやスーパーのレジ係、事務所の掃除、個人家庭の芝刈りなどのアルバイトをよくしますが、このアルバイト収入にも所得税がかけられます。各自が一年分の収入を自己申告の用紙に書いて税務署に申告し、控除額を超えた分に対し、累進課税を納めます。

このように15歳から税金を自己申告している国民なので、国家予算の使い道、それを決める政治に対する興味と関心は非常に高く、国会議員選挙の投票率は80%を下回るということはありません。自分が納めた税金は教育や福祉・社会保障に多く当てられるべきだと考える国民が多く、政府が最終的に税金の使途と管理に責任を負うべきだと考えています。49・


50頁・政府の方も、国民の健康をしっかり管理しなければ、かえって医療・福祉分野の国庫負担が増えることを認識していて、さまざまな予防対策、健康増進の政策を実施しています。50・


・平成28年2月12日・ 

「個人番号制度」の導入・


50頁・平成28年2月12日(金)


デンマークの高齢福祉社会は、すべて国民所得の再配分によって成り立っているため、各個人の所得は厳密に管理されています。国民の所得をすべて把握し、税金徴収を完全にかつ容易にするため、1,968年にデンマーク政府は「個人番号制度」を導入しています。


個人番号は10桁の数値で表わされ、たとえば「051074-1234」の人は、初めの6桁が生年月日を表して1974年10月5日生まれ、その後の4桁は個人を特定するための数字で、最後の数字が奇数の場合は男性を、偶数は女性を意味します。この個人番号は、出生後役所に名前を登録した時点で与えられます。国籍を持たない外国人、長期滞在者、移民には滞在許可書、あるいは労働許可書が出され住民登録が行われた時点で、個人番号が与えられます。


個人番号は銀行口座の開設、各種学校の入学手続き、不動産の購入、各種の保険加入などの際、記入が義務付けられていますので、個人番号を持たないとデンマーク社会では、長期滞在が居住ができないのです。

雇用者が従業員に給与を支給する場合も、「給与支給明細書」に従業員の個人版語を記入することが義務付けられていて、個人番号の記載がないと給与が経費として税金控除の対象になりません。従って、正規の個人番号を持たない就労者は雇えないということです。50・


51頁・平成二十八年二月十二日

女性の社会進出・51頁・


平成28年2月12日(金)

第1章で終わりに、デンマーク女性の社会的な活躍に触れてみましょう。教育費がすべて税金で賄われ、「扶養法」によって18歳以上の学生には生活費が支給され、たとえ失業しても公的な生活援助で生きていくことができ、病気になっても医療費が無料だとなれば、人々はまったく覇気を失い、向上心がなくなり、仕事への創造的な意欲をなくす、と言う俗説がよく聞かれます。しかし、デンマークについて言えば、人々は女性も男性も実によく働きます。

デンマークの失業率は1990年には9・7%でしたが、経済の好況を反映して毎年減って、2001年には4・8%に半減しています。失業者の定義づけによって、その国々が発表する失業率は多くなったり、少なくなったりしますが、2002年12月末における日本の完全失業率は5・5%と公表されていますから、数字的にはデンマークと同水準です。51・

52頁・平成28年2月12日(金)

デンマークの労働人口(16歳から66歳)は約278万人で、そのうち47%に当たる131万人が女性です。女性の就業率は実に74%に上ります。

出産した女性は通常、産後六ヵ月から一年で職場に復帰しますが、市町村役場は育児施設に子供を預けて働くことを希望するすべての世帯に保育サービスを提供することが義務付けられています。つまり、日本で問題にされている「保育園に入りたくても、空きがないために入所待ちをしている」いわゆる「待機児」の存在は、行政の怠慢として許されないのです。この保育サービスは、生後六ヶ月から三歳までは託児所、三歳から五歳までは幼稚園で行い、六歳から小学校に上がりますが、小学校のすぐそばに放課後の10歳までの児童を預かる児童センターがあります。

2000年3月現在、これらの育児施設に通っている児童の割合は、10歳以下の年齢層では約76%に達しています。これらの児童施設に払う料金は、市町村によって、あるいは家庭の所得によって段階がありますが、たとえば、年収が35万クローネ(約530万円)を超える家庭が、1歳半の子供を託児所に、四歳の子供を幼稚園に通わせると、料金の合計は月額約3300クローネ(1クローネ×15円で換算=約4万9500円)になります。大卒の初任給が約40万円、夫婦共に大卒の友働きの家庭の平均所得が月額約80万円ですから、友風儀の家庭の負担としてはそう大きな負担額ではありません。ちなみに全デンマークの改定の平均は年間約31万クローネ8約465万円)と言われています。52・平成28年2月12日(金)ここまで


大学の成績発表も個人番号で発表されることがほぼ当たり前になっています。税務署が特定の個人の納税記録を知りたいと思えば、税務署のコンピュータに個人番号を打ち込むだけで、過去五年分のデータがすべて出てくるシステムになっています。

このようにデンマークでは個人番号によって国家が国民の所得を把握し、税金をもれなく集め、その上で所得の再分配をしているのです。日本で論議なる個人プライバシーの問題は、デンマークでは所得の再分配によって得られるメリットがより大きく評価されているためか、ほとんど論議になりません。51・


ここまで


引用


第1章・デンマークという国・アンデルセンの生きた時代の国家予算・40頁・


先ほど紹介したようにアンデスセンは1805年から1875年まで生きるのですが、ナポレオン(1769~1821)の後半生と重なります。ナポレオンが死んだとし、アンデルセンは16歳、半島の小国としてヨーロッパの大国の紛争に巻き込まれる激動の時代でした。


デンマークは小国の賢明な政策である中立政策をとりますが、当時イギリスとフランスが紛争状態にあり、デンマークはロシア、スウェーデン、ドイツと武装中立同盟を結びます(1800年)。


しかし、イギリスがデンマークを攻撃しても三国は支援せず、イギリスとのれーでん海戦に敗れ、商戦の海上取引権をほとんど失います(1801年)。その後、デンマークはナポレオンの大陸封鎖に加担したため、ふたたびイギリス軍の攻撃を受け、海軍が全滅し、首都コペンハーゲンは壊滅的被害を被ります(1807年)。軍艦を失ったデンマークは、ヨーロッパの通称国家と言う地位も失いました。40・


このように、アンデスセンが生まれた1805年、デンマークは国内外で諸問題を抱え、経済的に非常に厳しい時代でした。

この時代に最初の「貧困法」(1803年)が施行されていますが、「貧困者がたくさんの救済を与えることは、たくさんの貧困者を生む結果になる」と言う富裕層や行政側の意見が優先され、実際の救済額はわずかであったようです。


アンデルセンが最初の「童話集」を出した1835年のデンマークの国家予算(表4)を見てみましょう。「貧困法」が発効された32年後においても、貧困層の救済はほとんどできなかった理由が分かります。


デンマーク政府が国民生活にお金を回すことができなかった原因は、国家予算の40%以上を借金の返済に充てていたこと、国土を守るため国防費が過大であったこと、法質の維持に国家予算の10%も割いていたためと思われます。


表5を見てください。その後、160年後のデンマークの国家予算です。これを見ますと、お金の使われ方が大きく変わっていることが分かります。41・


42頁・平成28年2月10日 水曜日国家予算の約43%が社会保障と福祉に使われ、保健費、教育費を含めると国民の生活に密接に関連る予算総額は64%になっています。そして借金の返済分は10%以下です。つまり、1800年代の国家予算と福祉国家と言われる今日のデンマークの国家予算を比較すると、国民を大切にする政策に転換したことが読み取れます。


もちろん、デンマークにも様々な社会問題が起きていますが、「弱いもの」を助けるセーフティーネットの存在が、重大に社会問題を引き起こさない安全弁になっています。国際比較の世論調査によると、「席で最も時刻を愛する国民はデンマーク」とされていますが、各種の選挙を通じて「弱いもの」を助ける政治と「強いもの」への警告が出せる民主主義の国として自律しているからでしょう。42・


ここまえ平成28年2月10日

世界で一番後進国を援助している・42頁・平成28年2月10日・

デンマークの後進国援助の多さは、「共生の精神」から来ていると言えるでしょう。後ほど詳しく触れますが、デンマーク国民の税負担率は直接税と間接税を合わせると約50%で、世界で最も税金の高い国の一つに入ります。42・


43頁・それにもかかわらず、デンマーク人は後進国への援助に国民総所得(GNI。国民総生産から資産所得と国外勤務者支給給与額を差し引いた額)の1・01%(1999年)を当てています。後進国への援助が「国民総所得の1%」を超した国はなく、国民一人当たり約2600クローネ(約4万円)も出している、世界で一番後進国を援助している国民なのです。

世界一の援助額を出しているのは日本ですが、国民一人当たりにすると約1万5000円にしかなりません。デンマーク国民は一人当たり約4万円の国による援助金のうえさらに、町や教会が行なう行事や礼拝などで要請される「救援募金」にも個人的なレベルで積極的に応じています。


43・lここまで


教育費は無料・

43頁・平成28年2月10日・

このような国内外の弱者・貧者に対する「共生の精神」は、国民の教育費・医療費などの負担のあり方にも遺憾なく発揮されています。教育費・医療費などは国交で負担するという原則が国の政策として採用されています。デンマークでは子供を国の貴重な財産と見なし、経済的理由で教育が受けられない子供をなくすために、「デンマーク憲法」によって「すべての児童は義務教育を無料で受ける権利を有する」(第76条)ことが定められ、そのための教育費なすべて税金によって賄われています。

さらに、ほんの一部の私立学校を除き、公立高校、大学でもすべて教育費が無料です(ただし、社会人対象の夜間大学は有料)。

やせた国土で資源もほとんどなく、気候的にもそれほど恵まれていない北の小国デンマークで、教育費・医療費などが公的に負担されていることはそれだけでも驚くべきことです。43・


「扶養法」の精神・

44頁・平成28年2月10日 水曜日

また、「扶養法」では、「親が子供に有する扶養義務は子供が18歳になるまでである」(第6条)と定めています。つまり、18歳までは親が子供を扶養する義務を負うのですが、18歳を超すと親には子供への扶養義務がなくなり、代わりに18歳以上の学生には国から生活費が支給されるのです。この額は月額約3500クローネ(日本円で約5万3000円)になります。


私も教育費のすべてを税金で賄う制度と「扶養法」の恩恵を受けています。26歳でデンマークの女性と結婚して、三人の娘を授かりましたが、この子供たちもデンマークの教育制度の恩恵を受けています。1971年生まれの長女は医学部を卒業し、現在、病院勤務をしています。次女は1973年生まれ、芸術大学の繊維デザイン学部と卒業し、ファッションデザイナーとしてデザイン会社に勤務しています。三女は1975年生まれ、今年は文学部在学の最後の年で、卒業論文を出す時期にさしかかっています。彼女は四か国語が出来ることを生かし、将来産業界での仕事を考えているようです。


このように二年ごとに女の子が生まれたわけですが、この三人の学費もすべて無料で、18歳になると学生時代の全期間を通じて月額約3500クローネが生活費として支給されました。この支給額でも足りない分は、彼女たちが自分でアルバイトして補填していました。


この公的教育の全額を負担する「公的負担制度」と「扶養法」に基づく18歳以上の学生に対する生活費の支給制度は、デンマーク国家が国民を人的資源(財産)と見なし、社会全体で国民教育を支え、学生の生活を保証していくという「共生の精神」の制度的な実現なのです。44・


45頁・16/2/10 9時38分0秒・

「義務教育は無料」と言うのは、日本でもよく聞かされた国の約束ではなかったでしょうか。本当に日本では義務教育は無料になっているのでしょうか?教育は子供もの財産だとよく言われますが、日本では本当にそのことが実現されているのでしょうか。実現されていないのとしたらその原因はどこなるのでしょうか?

45・


入院費・出産費用はすべて公的負担・45頁・

教育費の「公的負担制度」や「扶養法」に見られるように、デンマークの国家政策の基本原則は国民を国家の資源と考え、できるだけの優遇策を導入するというものです。この原則は、医療、福祉政策にも貫かれています。たとえば、民間が経営する病院を除くすべての病院の入院費や出産費用は、税金で負担されます。

デンマークの医療福祉制度の特徴は、その制度運用に当たって家族関係や住居環境、収入などと言う本人の属性と、本人が受給できるサービス内容を完全に切り離していることです。つまり、受けられるサービスは、受給者本人の収入や家庭環境に関わりなく、あくまで国と本人との関係で決まるのです。病院に入院した場合も、治療・看護・介護の内容は本人の医療費・介護費の負担能力とは無関係に、原則として病院が提供できるベストの医療が提供されます。

このデンマークの医療サービスは、デンマーク国外にいる国民にも適用されます。デンマークの政府は国民に「健康保険証」を発行しますが、その裏面に「この証明書はデンマーク健康保険法に基づき休暇中における医療費用を保証するものである。45・

46頁・平成28年2月10日・重病または死亡の際は下記の場所に連絡願いたい」と言う意味の英文を記しています。つまり、国外で病気になった場合、デンマークの健康保険証」(クレジットカード大の磁気カード)を旅行先の病院に提示するとそのまま受診することができます。

医療費はデンマーク政府が保証しているわけですから、デンマーク国民は医療費の心配なく世界中を旅行できます。重篤な病気で海外の病院に入院したようなケースでは、連絡を受けたデンマーク政府は病状や本人の希望などを受けて、ヘリコプターや飛行機を派遣してデンマークの病院に入院させるための手筈を整え、空港に医師、看護婦を待機させます。国民は国家の財産であり、国民を徹底して保護するというデンマークの国家の思想がうかがわれるシステムです。


寝たきり老人の介護も地方実体が管理する公的施設介護の死す手に組み入れられ、家族に介護の負担がかからない介護システムが整っています。この介護システムの利用もすべて「本人」の資産状況に合わせた負担で、国民年金にしか加入していない人でもそれ以上の負担を請求されることはありません。

デンマークには日本のような「年老いた親の面倒は子供が見る」と言いういわゆる「家族制度」が無く、例えば親が長男夫婦の家に同居するような場合、親から家賃を取るシステムが採用されています。年老いた親からお金を取るなど恩知らず、水臭いと非難されそうですが、行政は同居の親から家賃を取らせることで、高齢者を住まわせる住宅を所有する人との社会的平等性を維持しようとしています。46・


健康な高齢者は自宅に住み国民年金、住宅手当の支給を受けています。加齢とともに買い物、洗濯、着替えなどが出来なくなってきた高齢者には、無料で在宅介護サービスを派遣して、経済面・介護面での負担が軽減する公的な援助をしています。

私の義母は92歳ですが、元気で一人暮らしをしています。さすがに掃除、買い物、朝晩の着替え、食事の支度は不自由ですから、市の在宅介護サービスを受けています。この介護サービスの費用は、本人が使いきれないほどのお金を持っていても、全額市の負担になっています。一日中介護が必要なった人たち(高齢者と限らず)は地方自治体が運営する「介護センター」に入居することができます。介護センターのスタッフは入居者と同じ人数になっています。これは、スタッフの労働時間が週37時間制であることから決められた人員配置です。


日本でも、老人は尊ばれ、大切にされることを美風にしているのではないでしょうか。しかし、実際は家族が老人の介護にあたることが美徳だとして、その経済的な状況を考慮に入れないことで、結果的に経済的弱者に老人福祉の社会的負担を押し付けているシステムになってはいないでしょうか?この二つの違いに私は大きな関心を持ってきました。

もちろんデンマーク政府は、「衣食住」について、国民各位が自立することを強く要請していますが、それでも約70万人の国民年金生活者を含め、毎年約150万人、28%の国民が何らかの国の生活補助制度を利用して生活しています。47・


48頁・平成28年2月11日・


住宅所有のすすめ・48頁・

日本ではとても関心の高い、住宅問題を見てみましょう。デンマーク政府は1970年代の初め、若年層、低額所得者でも住宅が所有できるように「住宅積立金」制度を導入しました。住宅を取得する際、その購入資金を銀行が融資する際の優遇制度ですが、積み立てた自己資金の額と同額を購入する不動産を担保に銀行が融資するというものです。また、政府は「住宅積立金」に対して利息の上乗せをし、利子は所得税から控除する制度も導入しました。

これらの国民に住宅を所有させる政策は、確実に国民の持ち家を増やすとともに、デンマークに住宅産業を起こし、住宅関連の産業を育てました。今日、デンマークの家具生産の80%は輸出され、国際競争力を備えた産業に育っております。「住宅政策」の成果がデンマークに住宅関連の産業と技術を生み、雇用を確保しているのです。48・


高い税金・48頁・平成28年2月11日・

このようにデンマークでは、教育費・福祉医療制度などが税金で公的に負担されている一方で、その税金の高さは、日本でもよきにつけ悪しきにつけ、時には消費税を上げる際の「良きモデル」として紹介されることさえあります。たしかにデンマークの税負担率は、総所得の約50%(直接税と間接税の合算)に上っています。収入の半分が税金で吸い上げられてしまうのです。

デンマーク国民は、この税負担をどう考えているのでしょうか?私の周りにいる大半の人は「税金が高いと思うか?」と質問すると、「止むを得ない」と答えます。48・


49頁・平成28年2月11日 木曜日・世論調査でも、ほぼ80%が「高いとは思わない」と答えています。このデンマーク人の納税者意識は土嚢に形成されてきたのか、大いに興味があるところです。

少しデンマークの徴税システムを開設してみましょう。

直接税は、給与所得、年金、失業手当などを対象に掛けられます。所得税は「総合課税方式」を採用しているため、給与所得以外の所得、不動産売却益、株取引損益、利息などをすべて一枚の申告書に記入することになっています。給与所得は支払い側が源泉徴収していますが、自公申告制度があり、その年の納税調整をすることができます。間接税は、消費税、飲料、燃料などの物品税などで構成されています。49・平成28年2月11日(木)・


税負担と「共生への責任感」・53頁・

平成28年2月12日(金)

デンマーク人がよく働く理由の一つにはやり、税の高負担があります。先ほども紹介したように、デンマークの税負担率は、総所得の約50%(直接税と間接時の合算)です。デンマーク人は結婚すると20代でも1戸建ての家、あるいはマンションなどローンで購入します。コペンハーゲン市街の一戸建ての場所によって違いますが、土地面積7百平方メートル(212坪、建坪150平方㍍(45坪)、ガレージ付きの住宅は3500万円くらいしますから、大学卒の初任給が約40万円(学部によって違いますが)の若い夫婦が結婚早々に一戸建ての自宅を手に入れようと思うと、銀行から15年から30年のローンを組むケースが一般的です。ローンの支払いは、片方の収入だけではできませんから、夫婦共働きが一般的になります。


先ほど紹介したようにデンマークの女性の就業率は驚くほど高いのですが、この理由には、税金が高いために自宅購入のローンを抱えて家計を成り立たせるためには共働きが不可欠、また保育サービスが充実しているので情勢が働く条件が整っているという社会的な条件面に加えて、女性の「自己実現への意欲」の強さ、「共生への責任感」の強さが共通してあるように私には思えます。


例えば、現在の法務大臣レーネ・イエスパッセン女史は、30代の若い母親で、文部大臣のウラ・ターネスも30代で三人の子供の母親です。2002年春、コペンハーゲン大学の総長に就任したリンダ・ニイルセンは50歳の法学博士で三人の子供を持つ母親です。彼女たちは、共通して強い「自公実現への意欲」と「共生への責任感」を持っています。53・


平成28年2月12日 金曜日

2/9/2016 5:31:06 AM

平成28年2月10日

 

ここまで・


グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁から平成28年2月9日・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/262829-9a82.html

16:00 2016/02/09


グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁・平成28年2月9日・


さて、デンマークを語る時ダルガスに加えてもう一人、特筆すべき人物を紹介しておきたいと思います。デンマークの国のかたちを語る時、国民教育がもう一つのキーワードになりますが、「国民高等学校」(フォルケ・ホイ・スコーレ)の設立を提唱した牧師のニコライ・フレデェリック・セベリン・グロンドヴィ1783~1872)は、デンマーク人の「共生の精神」を育てた教育かとして傑出した人物です。


グロントヴィは1783年、牧師の息子として生まれています。コペンハーゲン市の高校を卒業し、1803年に神学の学位を取得しましたが、牧師としての活動をほとんどせず、執筆や講演を通じて国民への啓もう活動に従事し、844年、彼が61歳のとこ、「国民高等学校」を創設しました。26・


27頁・

・・国民高等学校は、「人間・市民としての人格形成」を教育目標に掲げ、「実践教育」をモットーにした成人対象の全寮制の学校で、受講期間は2~3ヶ月で、受講生は冬は男性、夏は女性に分けられていました。1800年代末には21校、1950年には41校となり、2000年末現在でも85校がデンマークの各地で開校し、地域の教育文化のセンターとしてその役割を果たし続けています。


1849年には、「国民高等学校」から全寮制の「農業学校」が生み出されます。1870年当時のデータによると、デンマークの全労働人口の52%は農業従事者で、個別の農場で働く彼らを農業従事者学校に集め、系統立てた国民教育・農業教育を行うことが構想されたわけです。全寮制の「農業学校」の解説は、グロントヴィの提唱する国民教育の必要性が社会に認知された結果でした。


農業学校での教育目標は、将来自分の農場を経営するのに必要な農業理論や農業経営を実践的に学ぶことに置かれ、研修期間は受講者に合わせて五ヵ月、六ヵ月、九か月、17か月のコースに分かれていました。27・


28頁・

この職業学校は実戦と理論を通じて農民を成長させ、農業従事者から農業経営者へと自立させる教育機関としての機能を果たしたばかりでなく、農業を守るための組織母体、政治活動の揺鑑としても機能し、今日のデンマーク農業の基盤を作ってきました。デンマーク最大の政党である自由党は、1814年に農民の組織が創った政治結社を根源としています。


17歳以上の市民を対象にした「国民高等学校」は、近年、通学者が減少していますが(1970年には約9000人、2000年末では約5500人)、農業分野ばかりでなく歴史、社会問題、文学などの講座も開かれ、またスポーツ専門の「国民高等学校」や主に外国人居住者を対象とした「国際国民高等学校」なども設立され、創設時から受け継がれているグロントヴィの「共生の精神」を育んでいます。「農業学校」は、1972年でも25校あり、約2500名の農業従事者が学んでいました。1867年に開校されたリングビー農学校、1871年に開校されたツーナ農学校は今でも開校されています。28・


29頁・

学校はほぼ100%公立・


29頁・平成28年2月10日 水曜日


デンマークの教育制度の特徴を一言でいうと、教育はほとんど公立学校によって行われているということでしょう。小中学校はそのほとんどが市町村立の公立学校で、わずかに私立の小中学校があるだけです。また、高等学校はほぼ100%公立、大学は100%国立です。

日本の小中学校に当たる義務教育期間は9~10年間(低学年七年間と高学年二年~三年間)の小中一貫の義務教育で、一年生で入学して九年生あるいは10年生で卒業していきます。28・


29頁・

八年生の高学年になると自立性を高めるために、両親から離れて全寮制の学校に移るケースが増えてきます。

高等学区は三年間、大学は学部によって違いますが、五年間から七年間の就学期間があります。

公立学校の教育を受けるための教育費はどうなっているのかは、もう少し後で紹介することにしましょう。

ここまで・平成28年2月10日


 

引用


ダルガスの原野開発会社・20頁・

このようにダルガスの20歳から36歳の青壮年期は、ドイツと領土を争った激動の時代で、彼は軍人としてその渦中にいました。デンマークはドイツとの国土争奪戦争に敗北し、酪農に適した肥沃な平地が続くシュレスヴィヒ州とホルスタイン州を失うことで、実に国土の三分の一、人口の30%以上が減少します。これは国家存亡に危機です。

1865年3月、ダルガスはシルケボー市で開かれた「南ユトランドの母国との関係」と言う講演会に視聴者として参加しましたが、話を聞くだけでは収まらず、視聴者相手に「外に失ったものは内で取り戻す」、つまり、気持ちがあるのなら行動に移すべきだという有名な演説をしています。南の肥沃なとぢをドイツに取られてしまったが、嘆いても始まらない、その身持ちを胸に、国力回復の行動を起こすことを人々に説いたのです。これを記域に、ダルガスは国土開発を生涯のテーマに定め、邁進していきます。20・


21頁・翌1866年3月28日には早くも、ヒールの原野を開拓するために「デンマーク原野開発会社」をヴィボー市に設立しています。彼の計画に賛同し、率先して協力を申し出た人もわずかにいましたが、ダルガスは一人で各地の農民のもとを訪れ、ヒースの原野を開墾するように説得して回りました。ダルガスの行動力は今なおデンマーク人を突き動かしているようです。


「原野開発会社」の事業の中で重要な位置を占めたのが開墾地を乾燥と砂嵐から守るために防風林を植林する事業でした。ダルガスの植林事業は政府の補助金制度も導入されたことによって急速に拡大しました(表1参照)。


ダルガスの植林事業を始める以前、1860年のデンマークの国土面積に占める山林の割合は4・7%でしたが、1907年には8・3%に増えています。1907年当時、ヨーロッパ各地の山林面積の割合は、ドイツで26・2%、イギリスで3・7%、ヨーロッパ諸国の平均は33%でしたから、デンマークの山林面積はまだ低位なのですが、短期間のうちに山林の割合を増やしたダルガスの事業はデンマークでは、高く評価されています。21・


1995年におけるデンマークの山林・防風林の面積は約44万5000㌶で、国土面積の約10・3%を占めています。

1866年にダルガスが設立し、140年になろうとする「原野開発会社」は現在でも活動していて、国内の防風林の保全事業だけではなく、海外のでの植林事業、森林管理あるいは最終処分場から出るメタンガスの真央像量のチェックなど国内外において土を守る事業


農地を増やす・


22頁・平成28年2月9日 火曜日・

ダルガスが「原野開発会社」を設立し、ヒースの原野を開墾してのうちの拡大を図った結果、デンマークの農地面積は1861年に約245㌶から、20年後の1881年には約286㌶と約40万㌶の農地が増加しました。

1830年頃から1870年代の中頃までの約50年間、デンマークの農業は繁栄の時代を享受します。西ヨーロッパ諸国の人口増加と工業化の影響で、各国の食料需要が拡大し、農産物価格が高騰したため、ヨーロッパ諸国への農産物供給地になっていたデンマークの農業が発展したわけです。22・


23頁・しかし、それも長続きはしませんでした。鉄道と船舶による輸送のネットワークが整備され始めると、東ヨーロッパ諸国やアメリカからの安い穀物が西ヨーロッパ諸国へ大量に供給され始め、上昇を続けていた穀類価格が低下してきました。また、西ヨーロッパの各国政府は海外からの穀類に高率の関税を掛けて自国の農業を守る政策を採用し始め、これによってデンマークの農業は大きな打撃を蒙りました。23・


酪農「らくのう」への生産転換と協同組合方式・23頁・平成28年2月9日

このような農業の危機に直面して、農民たちは自らの利益を守るため、協同組合方式による酪農製品の加工工場や食肉解体工場を設立していきます。これが今日の酪農王国デンマークの基礎を築き上げていきます。

付加価値の高い畜産製品の輸出価格は穀類に比べて高値で安定していたこともあって、デンマーク農業の畜産への転換は軌道に乗っていきます。図1のように1876年から下がり始めた家畜、麦の生産者価格は、それぞれ91年、1901年から増勢に転換しています。23・


24頁・

表2は、協同組合数の推移ですが、穀類価格が暴落し始めた1880年代以降、たくさんの協同組合組織が設立されていることが分かります。

現在、規模拡大によって統廃合によって絶対数は減ったとはいえ、デンマークの酪農製品の加工工場や食肉解体工場は、今でも農民たちが共同所有する事業協同組合であり、株式会社ではありません。デンマークの農民たちが造り上げた協同組合とその精神が、今日のデンマーク国民の国を守る精神を創り上げたと言っても過言ではないと思います。

私も約10年間、養豚と穀類生産などの農場を経営していましたが、そこでつい愛のあった農民や農業関係の行政マンたちは時代の流れをよく読み、農業経営のあり方を巧みに変化させていました。また、農産品の研究開発にも常に怠らない熱心な農業経営者たちでした。例えば、1967年における豆類の耕作面積はわずか6500㌶に過ぎませんでしたが、30年後の1998年には10万㌶を超えています。

たしかに、デンマークの農家戸数と農業人口は毎年減少し、1971年には約13万5000戸あった農家戸数が、29年後の2000年には約5万4000戸に減り、農業人口も約20万人から約8万人に激減しています。(表3参照)。この30年の間にデンマークでも就業構造に大きな変化があったのです。しかし、デンマーク農業の特徴は、耕地面積が約300万㌶から約265万㌶と余り減少していない点です。24・ここまで・


25頁・

・農家戸数、農業人口が大きく減少しているにもかかわらず、耕地面積が余り減少していない背景には、国内外の状況に合わせて常に機械化と合理化、農業従事者の教育を通じて農業の改善を図ってきた、一貫した農業政策の存在がうかがえます。


よく知られているように日本の食料自給率はカロリーベースで約40%、そのあまりに低い自給率を高めることがやっと政府の政策課題に上ってきたようですが、日本と同様、農業人口が激減し、農家戸数が減少すると言いう社会現象が起こったデンマークの食料自給率は、動物性たんぱく質だけで見ると約300%を確保しています。デンマーク国民535万人の約3倍に当たる1500万人分の農産品を生産するという「農産物輸出大国」なのです。


農業部門の輸出額は農業人口の構成比からすれば膨大な額になり、例えば2000年における肉類と酪農製品(鶏卵含む)の輸出額は約377億クローネ(約5700億円)にも上っています。


とりわけ、デンマークは肉類の輸出国です。1999年の数値で見ますと、自給率はそれぞれ豚肉で490%鶏肉で214%、牛肉で115%、ミルクは100%です。自給率が大きく豚肉、鶏肉の輸出によって、寒冷の地では栽培できない農産品の輸入が可能になっています。日本との関係で見ますと、2001年の日本向け輸出豚肉の販売額は64億クローネ(約1000億円)で、日本人一人当たり約790円の豚肉を買った計算になります。ちなみに、2001年の対日輸出総額は148億クローネで、このうち豚肉の占める割合が約43%、衣料品26クローネ、略農製品・魚介類9億クローネになっています。25・


26頁・

デンマークの政治は、国民が安心して食べられる食料自給率体制の構築を一貫した農業・食料政策をとってきました。その成果が今日のデンマーク農業の自給率になって現れているのだと思います。


では、日本農業のたどった止めどのない自給率低下の道とデンマーク農業がたどった政策の分岐点は何だったのでしょうか?私には、日本国民の食料自給に対する考え方とデンマーク国民のそれの違いから来ているように思えてなりません。ヨーロッパの先進国ではドイツ、イギリス、フランスなど、デンマーク以外にも食料自給率が100%超えている国があります。


食料は空気、水と同様国民の生命を守るうえで不可欠なもので、これを確保することが国家の第一義的な義務であり、食料を国外に依存することの危険性を度重なる戦争の経験からヨーロッパ人は骨身に滲みて知っているのだろうと思います。つまるところ、戦争は食料とエネルギーに対して国境を境にして行う争奪戦だと彼らが理解しているからでしょう。26・


ここまで



引用


第1章・デンマークという国・国土は氷河の置き土産・13頁・

平成28年2月9日 火曜日・


デンマークの人口は約535万人です。北海道より約35万人少ない。北欧の小さな国です。国土面積は、九州より少し広い程度の約4万3000キロ法㍍で、地図でおわかり戴けるように、国土の大半が北海に突き出た半島からできています。この半島はドイツの北に位置して、スウェーデンと面しています。この半島、ユトランドは、デンマーク語でユーラン、男と言う意味です。

日本との距離は、成田空港から首都コペンハーゲンまで、シベリア廻りで11時間、直線距離で約9000㌔あります。デンマーク人はスウェーデン、のるうぃーと同じスカンジナビア人です。また、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語は兄弟語で、ひどい方言くらいの相違しかありません。デンマークは今では世界で28か国しかないと言われる王制がしかれ、一院制の議会内閣制をとっています。

デンマークの国土の特徴は何と言っても、平坦な土地と低い丘がどこまでも続くことです。一番高いヒルメルビアーと言う場所でも海抜が173㍍しかありません。14・


15頁・これ以外高い山はないのです。この国土の特徴は、ユトランド半島の成り立ちに原因しています。現在のユトランド半島のほとんどは、ウエシェル氷河期約(200万年前から現在に至る時代)の終わり頃(11万5000年から1万年前)出来上がったと言われています。ユトランド半島になぅった太一は厚い氷の下にあったため、氷河が溶け去った後も、氷河によって運搬され堆積した岩くず(氷水石=ひょうたいせき)に覆われました。14・


15頁・

ユトランド半島は、西南部と西北部に分けて考えることができます。西南部では約10万年前、氷河が溶け始めてヒースの丘と平野が広がりました。氷河の消えた後には氷堆石が残りましたが、現在でも、中部から西南部にかけては地表から20センチ下の地層は氷堆石(砂利上あるいは砂状)からできています。西北部では、これより遅れて約1万年前(1万2000年前という説もある)から氷河が溶け始めたと言われています。


現在、デンマークの国土の約63%(269万ヘクタール)がのうちですが、わずか20センチの表土の上で作物を作っています。この耕土をデンマーク人は営々として養ってきたのです。この耕土の下は、氷河の置き土産、砂利の層です。氷堆石という貧栄養状態の土壌しか持たなかったデンマークは現在、肉類や酪農(らくのう)製品を世界に供給する農業国になっています。また、「北欧の福祉国家」と呼ばれ、「自然エネルギー先進国」とも呼ばれるようになっています。

なぜ、このような「国のかたち」が出来上がったのか、駆け足でデンマーク人が歩んだ近代史を紹介してみたいと思います。


15・平成28年2月9日 火曜日

「デンマークを育てた最良の息子」15頁・平成28年2月9日 火曜日・

デンマークの近代史と言っても、ほとんど日本人にはなじみがないと思います。デンマーク人で日本を知られている人物と言えば何と言ってもアンデルセン童話で知られる、ハンス・クリスチャン・アンゼルセン、実存主義哲学の思想家と言われるソーレン・キルケゴール、音楽家のカール・ニールセン、物理学者のニルス・ボーアと言ったところでしょうか。15・


16頁・

しかし、この本ではデンマークの近現代史を語るうえで欠かすことのできないE・M・ダルガスを紹介しましょう。ダルガスと言っても、日本では知る人もいないでしょうが、彼はデンマーク近現代史における傑出した人物、「デンマークを育てた最良の息子」と称されています、このエンリコ・ムリオス・ダルガスの生涯をたどるだけで、今日のデンマークの国あり方が分かるほど、デンマークにとっては象徴的な人物なのです。

ダルガスは1828年にイタリアで生まれ、66歳でデンマークで生涯を終えています。ダルガスの父方の先祖はフランス人で、南フランスに住んでいましたが、曾祖父(アントニエ・ダルガス)がスイスのローザンヌに移住し、1756年にダルガスの祖父(ジェーン・マック・ダルガスが生まれています。

スイスで生まれたるガスの祖父は、牧師になりますが、フレデリシアの教会に牧師の口があったため、1782年妻のマリエッタとともにデンマークに移住します。マリエッタは三人の男子を生み(長男カール、次男ジーン、三男クリスチャン・アウグスト、次男のジーンが長じてダルガスの父親になります。16・


17頁・


ダルガスの父親、ジーン・アントニエ・ダルガスは、イギリスで商人になる教育を受け、イタリアのナポリで商店を経営していましたが、デンマーク女性のヨハナ・ステボルトと結婚し、彼女は1828年にダルガスをイタリアで生みます。しかし、47歳の若さで夫が死亡したため、ヨハナは七歳のダルガスを連れて祖国デンマークに戻ります。デンマークで学校教育を受けたダルガスは、長じて軍人を志望し1846年夏、18歳で陸軍士官学校の入学試験に合格しました。

余談ですが、ダルガスの直系をたどっただけでもその足跡は、フランス、スイス、デンマーク、イタリア、イギリスとヨーロッパ各地に印されており、ヨーロッパ人の国を超えた交流の強さが分かります。デンマーク人の家系の,三代を遡ると必ずその家系の中にヨーロッパ各国からの移民がいますし、後で触れますが、現在の人口構成でも難民・移民が約七・四%を占めています。ちなみに日本に住む外国人の数は約160万人、人口比で約一・三%ですから、デンマークに住む外国人の数がどれほど多いかわかると思います。なぜ、デンマークに住む、住むことを希望する外国人が多いのかと言うと、「安心して生活できる生活環境があるため」だと私は考えています。その生活環境については折に触れて紹介しましょう。


ここまえ・平成28年2月9日 火曜日


ドイツとの「三年戦争」・17頁・さて、ダルガスが陸軍士官学校を卒業して軍人になった当時、デンマークではドイツとの間で戦争が起こっています。17・


一八頁・地図で分かるように、デンマークはその南側をドイツと接し、1800年頃ドイツとの国境をめぐって紛争が絶えませんでした。1848年、デンマーク政府が学校や官庁でデンマーク語の使用を強制したことから、ドイツ系住民が大半を占めていたホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州でドイツへの帰属を掲げた独立戦争が勃発します。

この独立戦争は1848年から50年まで三年間続いたことから、デンマークでは「三年戦争」と呼ばれています。デンマークはこの「三年戦争」には勝利し、ホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州の住民のドイツに帰属する希望は実現されませんでした。ダルガスは、根「三年戦争」に砲兵将校として従軍しています。


1853年、陸軍士官学校を卒業したダルガスは、工兵隊中尉に昇進し翌年五月には工兵隊道路局へ配属され、ユトランド半島中部のヴィボー市に駐在しました。ダルガスは要塞工事や堡塁工事に携わる一方、ランダース市からリンクービン市に至る道路の工事監督を務め、この道路工事を通してユトランド半島中部から西部にわたる広大なヒースの原野が未開拓であるという祖国に現状を知ります。

「三年戦争」はデンマークの勝利に終わりますが、その後もホルスタイン州などドイツ系住民による抵抗・独立運動は収まらず、その抵抗運動に疲れたデンマーク国家は1863年11月、ユトランド半島南部のアイダー川を新たな国教として、ホルスタイン州をドイツに割譲するという政策(アイダー政策)を決定します(地図のB参照)。


しかし、翌年1864年1月、この新国境設定をデンマーク政府の弱気の現れと判断したプロイセン首相(害相兼任)のオットー・ビスマルク(1815年~98)は、ホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州を占領する好機ととらえ、アイダー政策の撤回をデンマーク政府に迫るとともに、ホルスタイン州に軍隊を送り込みました。18・


戦争開始からわずか三ヵ月、四月18日の未明、デンマークの最後の砦、デューブル要塞はドイツ軍の一斉攻撃を受けます。優れた銃器で装備された一万人のドイツ歩兵隊に堡塁を攻撃され、8000発を超える砲弾を浴びせられ、デューブル要塞は陥落します。

その後、デンマークにとっては困難な和平交渉が続き、10月30日にはホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州をドイツに割譲するという内容の「ウイーン和平条約」が締結されました(地図C参照)。19・


20頁・この結果、デンマークは国土面積の三分の一(5万8000㌔平方メートルから3万9000キロ平方メートル)を失い、人口も250万人から170万人に減少しました。ちなみに1920年には、シュレスヴィヒ州で住民投票が行われ、このときドイツ領に編入されたシュレスヴィヒ州の北部は再びデンマークに帰属します。シュレスヴィヒ州が現在のデンマークとドイツの国教になっています。20・っここまで

19頁・


 

 

 

 

 


「デンマークを育てた最良の息子」15頁・

ドイツとの「三年戦争」・17頁・

ダルガスの原野開発会社・20頁・

農地を増やす・22頁・

酪農「らくのう」への生産転換と協同組合方式・23頁・

グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁・

学校はほぼ100%公立・29頁・

キリスト教が国教・29頁・

デンマーク王国である・31頁・

200年前、アンデルセンが生まれた・32頁・

アンデルセンの作品の世界・36頁・

讃美歌をかいたアンデス線・39頁・

アンデルセンの生きた時代の国家予算・40頁・

世界で一番後進国を援助している・42頁・

教育費は無料・43頁・

「扶養法」の精神・44頁・

入院費・出産費用はすべて公的負担・45頁・

住宅所有のすすめ・48頁・

高い税金・48頁・

15歳から所得を自己申告・49頁・

「個人番号制度」の導入・50頁・

女性の社会進出・51頁・

税負担と「共生への責任感」・53頁・

2/9/2016 5:31:06 AM


教育の機会均等・

143頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークでは資格と能力に基づいて職業選択が行われますが、国民が資格と能力を身につける機会が平等に保証されなければ何の意味もありません。

例えば、新たな資格を得たい人、転職のために別な資格を得たい人たちは、職業訓練所、夜間に開校している大学に入ります。製造業の中堅幹部あるいは経営陣の学歴を見ると、工業大学で機械技師、電気技師の資格を取得した後、数年してから夜間開校している商業大学で、五年間、経済学の勉強をしている人が多数います。エンジニアとしての学歴の上に商学士の卒業資格を取得するものです。143・

一四四頁・私かもこの種の大学では、教科書の半分以上が英語の本を使うため、彼らは自国語以外に英語ともう一ヵ国語を仕事で通用する水準でマスターしています。

私が最後に学んだ中部ユトランド商科大学は、現在、経営と工業を一緒にした商工だが国生まれ変わりましたが、その背景には産業界が必要とする経済面・技術面が同時にわかる幹部の要請があったのだろうと思います。企業の中堅幹部、経営陣になるための学校には、オーフス商大、コペンハーゲン商大、南ユトランド大学などがあり、IT産業に就きたい人たちのためにはコペンハーゲンIT大学があり、学士レベルかマスターレベルかが選択できるようになっています。

この種の大学に編入するには、その学部が要求する「基礎資格」を持っていることが条件になりますが。年齢の制限はありません。例えば、経済学部で勉強した人が工業大学に編入するためには「基礎資格」とそして高等学校卒業レベルの数学、物理、化学などの資格を要求されますが、その「基礎資格」を習得できる教育機関(たとえば、成人教育センター、略称VUCと呼ばれる学校)が別途あります。

このように新しい資格を得るために、多くの人が夜間の大学に通っていますが卒業資格はデンマーク国内だけではなく、ノルウェーとスウェーデンでも通用します。この種の大学は国立と公立の二種類ですが、義務教育とは違って授業料は自己負担になります。たとえば、ヘアニング市のある商工大学は基礎課程二年間と専門課程二年間に分かれていますが、二〇〇二年現在、四年間の授業料は約55万円です。

大学の授業は夕方六時から夜九時半ごろまでですが、サラリーマンが夜間の大学に通学できるのは、デンマークの労働時間が週三七時間で、午前八時からの勤務の人は午後四時には退社できるからです。144・

145頁・残業手当が高額なため、ほとんど残業がないことも背景にあります。また、多くの経営者は通学する従業員に交通費を補助したり教科書代を支給したりして、就学を進めています。

社員が転職するための資格を得るのを援助するのは、日本の企業社会の常識では理解できないかもしれませんが、国民が学ぶことが回り回って企業にとってもプラスになることを経営者は理解しているため、さまざまな優遇を与えているのです。


企業家が生まれる仕組み・145頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークの教育の成果は、年間約1万6000人と言われている企業家となって現れます。大学を卒業して、企業に頼らず自ら起業する若者が多いことがデンマーク社会の特徴です。若い企業家の存在は使える学問と行動力を身につけて社会に出ていくことの一つの証左だと私は考えています。もちろん起業しても、何年も事業を継続できないで挫折するケースも多いのですが、失敗しても諦めず、再起をはかる人が多いのも特徴と言ってよいでしょう。


事業に失敗した経験がある事業家と、失敗をしたことのない事業家がいた場合、あなたならどちらに投資をしますか?日本ではあの人は事業に失敗したというレッテルがいつまでも付いて回り、そのことが事業化としての再起を妨げることが往々にしてあるのですが、デンマーク社会では、事業の失敗であっても、事業化として再起できる事業を起こせば良いのであって、失敗した人間へのレッテルではないということです。145・


企業家が生まれる仕組み・


145頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークの教育の成果は、年間約1万6000人と言われている企業家となって現れます。大学を卒業して、企業に頼らず自ら起業する若者が多いことがデンマーク社会の特徴です。若い企業家の存在は使える学問と行動力を身につけて社会に出ていくことの一つの証左だと私は考えています。もちろん起業しても、何年も事業を継続できないで挫折するケースも多いのですが、失敗しても諦めず、再起をはかる人が多いのも特徴と言ってよいでしょう。

事業に失敗した経験がある事業家と、失敗をしたことのない事業家がいた場合、あなたならどちらに投資をしますか?日本ではあの人は事業に失敗したというレッテルがいつまでも付いて回り、そのことが事業化としての再起を妨げることが往々にしてあるのですが、デンマーク社会では、事業の失敗であっても、事業化として再起できる事業を起こせば良いのであって、失敗した人間へのレッテルではないということです。145・


146頁・

実際、事業に失敗しても彼には再起の道が開かれています。国家が国民の生活を守るという手厚い社会保障制度によってたとえ事業に失敗しても、生活保護を受けることによって日常生活を支障なく送ることができ、日本のように銀行融資の条件に個人補償や第三者の連帯保証を求めることによって、事業に失敗すると本人はもとより家族や親せき、知人有人までその累が及び、社会的にも大きな指弾を受けるということはないのです。

たとえば、私が住んでいるツアイハイとう町は人口1万人ですが、とりわけサラリーマンから独立する企業家が多く出ています。床張専門店の従業員から独立し床張りの会社を設立した30歳のミケル・ハンセンさん20年間大工として勤務していた会社を辞め、独立した41歳のベンタ・ソーレンセンさん、機械職人をやめ、蜂蜜製造業をスタートさせた40代のヨーン・ミッケルセンさんの例などたくさんあります。


もちろん事業は成功するかどうかやってみないとわかりませんが、それぞれが失敗したらやり直せばいいという気持ちで、悲壮感はありません。そのことが彼らの活力になっているように私は思えます。彼らの事業が軌道に乗ることによって新たな雇用が生まれ、町の人口が毎年増加しています。146・


 

「風のがっこう」開設までの顛末・


146頁・平成二十八年二月七日・

私の住んでいる町のことに触れたついでに、この町にたどり着くまでの経緯と現在私が運営している「風のがっこう」についても紹介しましょう。

初めに書きましたが1967年にデンマークに渡り、最初の約一年半はデンマーク語を勉強するために多くの時間を使いました。146・


147頁・農業学校の校長先生の紹介でビリビアの村の農場に住まわせてもらい、町内の小学校に通学しました。日本人の大学三年生がにわか小学生になったわけです。

翌68年9月には、コペンハーゲン大学政治経済学部の一年生に入学しますが、外国人としての私の入学試験はデンマーク語で簡単な日常会話ができるかどうかを確かめる程度の簡単なものでした。無事試験に合格して大学に通い始めましたが、外国人は私とイスラエルから留学してきた男性一人、残りは全員デンマーク人でした。

コペンハーゲン大学での勉強、デンマーク大使館勤務などのため約10年間ビリビアの町を離れましたが、1979年、農業を購入したため、またこの村に戻ってきました。この村はその後四つの村と合併し、ツアイハイと言う町になっていました。この辺りはもともと農業が主体の農村地帯でしたが、製造業とサービス業が増え、特に製造業に従事する人口の流入が著しく、全国の人口平均が1・1%減(1983年から1994年)に対して、37・9%も増加しています。全国平均の人口増加率が7・4%(1970年~1997年)に対し、この町では37・5%も増加しています。


こうした町の発展は、町民の総意で実現したと言ってもよいでしょう。議員が「将来町のビジョン」を持っており、それを実行する町役場の職員がいます。「風のがっこう」の誕生の経緯にもそれが遺憾なく発揮されました。

私は1991年1月から風力発電機の対日輸出業を始めますが、1995年頃から日本からの風力発電の視察に来る方々が増え始め、その人たちの研修の場が必要になってきました。147・


148頁・

遠く日本から来た方々を歓迎し、くつろいでいただいた上で、3,4日間の日程でデンマークの事情をレクチャーしたり、近郊の風力発電所やバイオプラントを見学する基地になるような、研修と宿泊を兼ねた施設がほしいと考えていました。すると1996年の秋、隣の家が売りに出ました。新築の母屋(総面積450平方メートル)と多目的に使える建物数棟が付属した農地を含めた土地面積約6・5㌶(約2万坪)の売り物でした。

私が構想していた「小規模な研修センター」にぴったりの物件でした。しかし、農地に立っている建物を農業以外の目的で使用する場合、町議会の審査・許可と県の許可を得る必要がありましたが。私から許可申請願いに対し、町議会は約2週間で許可を出し、しかも町は県に対して「許可推薦状」を添付してくれました。148・


149頁・県は、受理後何と八日後に許可を下ろしました。私が町議会に許可申請したのは、1996年11月18日、そして12月19日にはもう県の許可が出たのです。


企業家にとって必要なことは、行政の行動力です。行政の書類審査の時間が短いほど、次の手立てが打てるためです。私の町の人口が増える背景にはこのような行政の行動力があると思っています。

私が町議会に対して提出した申請書はわずかA四判一枚で、「不動産さんを購入し研修センターと事務所として使用したい旨の理由と許可願い」と自由なスタイルで書いたものでした。

しばらくして、町長に会う機会があり、尾根意を言うとともに許可が早く下りたので驚いていると伝えたところ、「この町を守るのは我々であり、中央政府の役人でも県庁の役人でもありません。149・

150頁・法律は拡大解釈しても、町民のために利用します」という返事が返ってきました。

町長の近発言に強烈な自治意識を感じました。日本の地方行政でこれだけの覚悟をして街づくりに当たっている町長が幾人あるだろうかと考え込んでしまいました。

さて、建坪136坪の新築母屋と数棟の付属建物、総面積約2万坪の農家の売買価格は約4000万円でした。手持ちの購入資金はゼロ、全額を融資で購入したいというもういでに、この不動産を担保にしたとはいえ、銀行は何の注文を付けることなく全額を融資してくれました。町内にある銀行員の理解、開校に必要な改造工事に当たってくれた業者を含め、地域住民が全面的に協力してくれました。


こんな経緯で1997年6月に研修センターとして開校しましたが、開校八年で研修者は約1300名に達しようとしています。「風のがっこう」の開校で、町内のバス会社、ホテルの食堂、商店などに観光収入が生まれています。また、「風のがっこう」が日本のテレビ、雑誌、新聞によって紹介されることで、この田舎町は日本にも紹介され、デンマークでも話題になっています。150・

平成28年2月7日 日曜日


 

 

企業家が生まれる仕組み・145頁・

「風のがっこう」開設までの顛末・146頁・

 

 


デンマークの教育目標と試験制度・139頁


平成28年2月6日 土曜日・


デンマークの義務教育は、幼稚園クラスから九年生(子供の事情に合わせて10年生まで)の義務教育を受けることができます。デンマークでは義務教育を受ける場所をフォルケスコール・国民学校)と呼んでいます。


国民学校の教育目標は、「保護者と協力し、生徒が知識、技能、作業要領、自公表現の方法を習得し個人として、全人格的発達を養成する、フォルケスコールでは、生徒の認識力、創造力、向学心を伸ばし、経験の場及び勤労の場として熱中できる機会を与えるよう努める。それによって、自己の可能性に自信を持たせ、自己判断力と自己決定力を涵養する。フォルケスコールでは、生徒がデンマークの文化に親しみ、他文化及び人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする。

フォルケスコールは生徒が社会への積極的参加、共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務を学び、準備する場である。そのため、学校での教育や日常生活は自由な精神・平等・民主主義の上に成り立つものである。」(P仮要約)と定められています。139・


140頁・私なりにデンマークの教育目標を要約すると、デンマークの義務教育では、子供たち個人の人格を発達させ、「自己の可能性に自信を持たせ」「人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする」、さらに簡略すると「自己の能力に合わせ、人間と自然のため行動(貢献)を起こしなさい」とも読めます。そして行動を起こす場合「社会への共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務」「他文化及び人間と自然の相互関係の理解」を持って行動を起こすことを教えています。

また、デンマークの環境教育の目標では、「生態系における人間社会の問題として捉え、環境教育の中では、環境破壊、資源の分配と利用、人口増加、動植物の根絶問題に対して熟知した行動力のあり市民の教育を目標にします。」(5仮要約)と宣言し、ここでも「行動力」を説いています。

こうした目標は掲げたものの、実際に行動を起こすための国民を育てる教育とはどんなものかが問題になります。この問題に答える手掛かりが、デンマークの試験制度にあると私は思っています。140・


卒業資格を厳しく審査する・

140頁・平成28年2月6日・


デンマークでは、義務教育(九年生あるいは10年間)から高等学校(三年間)あるいは職業学校に進む際は入学試験が無く、また高等学校から大学(五年間から七年間)に入学する際にも入学試験はありません。大学の学部の資格は、高等学校の成績に応じて与えられるのです。

義務教育八年生(日本の中学二年生に当たる)から高校入学資格を得るための試験が始まります。140・


141頁・

試験は筆記試験と口頭試問の二つで、筆記試験は通常四時間、教科書、参考書などの持ち込みが認められ応用問題をレポート形式で回答していきます。口頭試問は普通二〇分で、教科書の内容を理解しているかどうかの暗記試験が中心になります。再転換は、担任の先生とその教化を教えている他の学校の先生が当たります。

このようにし義務教育八年生から、教科ごとに徹底して筆記試験と暗記試験を繰り返して行い、義務教育を終了するまでに社会に出て必要な知識を身につけさせていきます。


普通高校の数理学科を卒業するためには、一五教科の筆記試験と口頭試問において全教科平均で13万点のうち六点以上の成績を採り、三年間を通じて提出する約一五〇本のレポート全部に六点以上の平均点を取る必要があります。高等学校の卒業資格試験で、13万点のうち平均点が10点あれば、どこの大学のどの学部にも無条件では入学できます。高校卒業試験の成績がそのまま大学入学資格になり、大学卒業資格は確実な国家資格でもあるわけです。

私がコペンハーゲン大学の政治経済学部で学んでいた時、会計学の筆記試験を受けましたが、試験時間は八時間にも及びました。また、1990年、再び中部ユトランド商業大学会計学科で学んだ時には、20分の口頭試問で五教化を対象にした厳しい試験を経験しました。大学の卒業論文の採点には担任教授以外、他の大学の教授、業界からの学識者を含め、、六名が当たります。

外部から採点官を起用する制度は、合格基準の全国的な均一性を保証し、卒業資格が国家資格になる質を担保します。担任だけが採点に当たるわけではないので、日頃の情実が要りこまないという。141・


142頁・また、ノルウェー、スウェーデンと卒業資格を同一レベルにしているため、例えば、博士号を取る場合は三つの国から試験官が集まり、審査を受けることになっています。


職に就くには資格が必要・

142頁・平成28年2月7日・


デンマークでは、どこの大学を出たという学歴が問われるのではなく、大学で何を学んだかの学習履歴が問われます。例えば、求人広告では、雇用先が求める具体的な資格が明記され、製造業では、機械技師、電気技師、あるいは事務員と言う職種で求人が出されます。142・


143頁・

応募にはその職種に該当する「資格書」を添付する必要があります。


製造業で経営陣に上り詰めるのには、機械技師、電気技師の資格だけではせいぜいラインのスタッフ止まりで、よほどのことがないと経営には参画できません。技術的な資格に併せて、組織論、経営理論、会計学、会社設立法、税法、商法など、会社の経営に必要な科目を大学で履修し、その「卒業資格」を得る必要があるのです。

デンマークでは資格と能力に基づいて職業選択が行われるという例は、転職が一般的に行なわれていることからも分かります。その転職は社長職にまで及び、オーナー会社は別としてほとんどの株式会社の社長は会社内から選択するのではなく、求人広告を出し、応募者の中から経営者にふさわしい資格と能力を持つと思われる人物を選任する仕組みになっています。ここまで・


ここまで・平成28年2月7日 

引用

教育の機会均等・143頁・例えば、新たな資格を得たい人、転職のために別な資格を得たい人たちは、職業訓練所、夜間に開校している大学に入ります。製造業の中堅幹部あるいは経営陣の学歴を見ると、工業大学で機械技師、電気技師の資格を取得した後、数年してから夜間開校している商業大学で四、五年間、経済学の勉強をしている人が多数います。エンジニアとしての学歴の上に商学士の卒業資格を取得するものです。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/143-e5fc.html

9:07 2016/02/07


普通高校の数理学科を卒業するためには、一五教科の筆記試験と口頭試問において全教科平均で13万点のうち六点以上の成績を採り、三年間を通じて提出する約一五〇本のレポート全部に六点以上の平均点を取る必要があります。高等学校の卒業資格試験で、13万点のうち平均点が10点あれば、どこの大学のどの学部にも無条件では入学できます。高校卒業試験の成績がそのまま大学入学資格になり、大学卒業資格は確実な国家資格でもあるわけです。140,

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/140-49aa.html

5:59 2016/02/07

デンマークの子育て・人育ち―「人が資源」の福祉社会 単行本– 2005・11 澤渡 夏代ブラント (著) ・1・自分で決める自分の生活・200頁・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/200511-02c1.html

8:53 2016/02/19

水浄化のためにバイオガスシステムの普及を・210頁・217・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/02/post-c8ac.html

11:07 2016/02/13

 



宮脇 昭氏×山田 英生対談・地球温暖化、森林破壊、砂漠化・・・。地球規模で広がる環境破壊の影が、私たちの周辺にも忍び寄っています。 経済効率優先の自然開発と都市型ライフスタイルが招いた地球の危機。 「ミツバチの飛び交う自然が失われたら人間は、もう生きて行けません」と語る山田代表、一方、「生態系学的な脚本で緑復活を」と呼びかける宮脇さん。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-dd59.html

10:13 2016/02/06

第7章・国民を育てる教育・起業家を育てる社会・平成28年2月6日 土曜日・市民が育ててきた環境産業・136頁・再生可能エネルギー源について、とりわけデンマークで取り組まれている風力発電の歴史と現状、バイオ学の利用、廃棄物発電のステムを紹介してきましたが、この章では北海道の約半分の国土面積しかなく、近年になって北海の石油の採掘が可能になったとしても

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/72826-7048.html

9:53 2016/02/06

みちのりホールディングス・松本順・路線バス運賃値下げ・混乗・混載・バス・みちのりホールディングス|メッセージ公共交通ネットワークの最適化 地域の観光産業への参画と貢献 環境適応型の新しい交通システムの確立 公共交通ネットワークの最適化

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-1850.html

16:09 2016/02/05


 

第10章・日本はデンマークから学ぶものがあるか・第10章・・「家庭における両親の役割は子供を育てて、その生活を守るために働くのだとすれば、政治家、役人は国を守り、国民を守る義務がある」と言う教授の信念は、国家観、行政に携わるものへの期待感を端的に表すものでした。平成28年2月4日

17:02 2016/02/05平成28年2月4日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/2824-95e9.html

15:13 2016/02/04


 

2016年の内外情勢を展望する~東京財団研究員討論会(国内問題)

https://www.youtube.com/watch?v=mYjNsIZ7-ik&utm_source=mailmaga_20160204&utm_medium=email

14:59 2016/02/04

 

ほめることで、すべてが好転するという成果があらわれたことを、同志社大学・政策学部教授の太田肇教授に共同研究して頂いていますが、「ほめ達!」理論もきちんと、後付けで証明されているのです。見習おう。  GDP4%の日本農業は自動車産業を超える (講談社+α新書) 新書 –

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/02/gdp4-5e99.html

17:52 2016/02/03

 

第8章・デンマークという国の政治・国政選挙、地方自治地選挙におけるこの高投票率は日本では考えられないものでしょう。この投票率の高さは、国民と政治の距離が極めて接近していることの一つの現れだと思います。この国民性は学校教育、とくに歴史教育の成果、家庭で政治が語られる機会の多さ、つねに国全体の問題を取り上げて国民的な論議を促しているマスコミなどが作り上げてきたものだと思います。平成28年2月3日 水曜日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/82823-0abe.html

17:45 2016/02/03

 

デンマークという国 自然エネルギー先進国―「風のがっこう」からのレポート 単行本  – 2006/2 ケンジステファンスズキ (著) 資源の持たないデンマークでどうしてこんなに水準の高い、教育、医療、福祉社会を実現出来たのか?人が生きるために必要な水と空気を汚染から守り、食料とエネルギーの国内自給に努力し、「弱い者を助ける」という政治の愛情が感じられる社会。デンマークから学ぶものがあるとすれば、国民の生活を守る政治のありかただ。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/20062-a299.html

15:42 2016/02/03

 

第10章・借金の残さないデンマーク・ツケを残す日本・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/post-cced.html

6:22 2016/01/30

 

ここまでいれた・2016年1月30日 (土)?「名古屋地域委員会」 名古屋地域委員会 ・・・・・   内田 良子(うちだ りょうこ、1942年 - )は、日本の心理カウンセラー

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/1942---0848.html

http://www.city.nagoya.jp/

http://www.city.nagoya.jp/mayor/category/359-0-0-0-0-0-0-0-0-0.html

5:17 2016/01/30

 

河村たかし 名古屋市長 2010.4.14

https://www.youtube.com/watch?v=0AqrDtHdLh0

15:34 2016/01/29

河村たかし名古屋市長報道番組出演3/3

https://www.youtube.com/watch?v=GsBz8t6BArs

15:13 2016/01/29

下條村 自治体はこうやって運営する 河村市長も同意? 1/2

https://www.youtube.com/watch?v=z8PwWydCDMQ

11:15 2016/01/29

 

2016年1月29日 (金)この例のようにデンマークと言う国では国民の意思が政治に直接反映するシステムが出来上がっています。「国家運営」に国民1人一人が参加しているという実感が持てる国になっています。こうした意識の形成に学校教育が大きな役割を果たしています。166・第9章 教育の目標は「国家運営」に参加する国民をつくること・平成28年1月29日・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/9-28129-72e2.html

8:27 2016/01/29

 

2016年1月28日 (木)第7章 福祉制度をつくり出したデンマーク・福祉を考えなかった日本・平成28年1月28日 木曜日・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/7-28128-deb6.html

11:09 2016/01/28

 

2016年1月28日 (木)行政官僚と産業界との癒着は封建制度時代から引き継がれている国のかたちと・・・・・デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか 単行本–2008・2 ケンジステファンスズキ (著)

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/20082-e7ed.html

8:51 2016/01/28

 

・2・地方自治無くして民主主義国家はあり得ない・84頁・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/post-46fe.html

10:11 2016/01/27

3年前に自然養鶏を始めた・・・らの遺言 新書 – 2015129 倉本 聰 (著) 数多くの演劇やドラマ作品を通じて、自然環境の破壊や社会秩序の乱れについて警鐘を鳴らし続けている著者の最新エッセイ。貧しくはあったが光と幸せに満ちていた昭和の時代を、80歳になったのを機に自らの体験と独特の切り口でふりかえる。日本人は今後どのように生きていくべきかを考える上での指針となる一冊。全国自然養鶏会は中島正氏の著書「自然卵養鶏法」に共感し、循環農業の一環としての自然養鶏を確立すべく、情報交換や交流会を行っています。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/2015129-80-c9dc.html

8:40 2016/01/27

 




引用宮脇 昭氏×山田 英生対談・地球温暖化、森林破壊、砂漠化・・・。地球規模で広がる環境破壊の影が、私たちの周辺にも忍び寄っています。 経済効率優先の自然開発と都市型ライフスタイルが招いた地球の危機。 「ミツバチの飛び交う自然が失われたら人間は、もう生きて行けません」と語る山田代表、一方、「生態系学的な脚本で緑復活を」と呼びかける宮脇さん。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-dd59.html

10:13 2016/02/06


第7章・国民を育てる教育・起業家を育てる社会・平成28年2月6日 土曜日・


市民が育ててきた環境産業・136頁・

前章まで再生可能エネルギー源について、とりわけデンマークで取り組まれている風力発電の歴史と現状、バイオ学の利用、廃棄物発電のステムを紹介してきましたが、この章では北海道の約半分の国土面積しかなく、近年になって北海の石油の採掘が可能になったとしても、とくに資源を持たないデンマークが世界の中でも生活レベルの高い生活と社会福祉を築き上げてきた理由をデンマーク社会の国民教育のあり方から探っていきたいと思います。

デンマーク人の「共生の精神」については初めに紹介しましたが、理想主義と人道主義が無ければ、デンマークの再生可能エネルギーの導入とその根づきはあり得なかったと私は考えています。

風力発電は「風まかせ」であり、バイオ学は、糞尿と言う臭い物を原料にします。廃棄物のリサイクルにしても「汚い」物相手です。それにもかかわらず、デンマーク人は、「風力発電」施設をすでに約6500基も建設し通常の都市で電力消費量の約15%に当たる約50億kW時の伝記を発電させています。136・

137頁・デンマークの世論調査会社ソナーは、2001年6月18日、17歳以上の1258名を対象に「デンマークは継続して新規の風力発電を増設し、風力発電による発電量の割合を増やすべきか」と伊アンケート調査をしています・(表1・参照)。

2001年11月20日の総選挙で社会民主党と社会自由党の連立政権が破れ、保守党、自由党の連立政権に交替しましたが、この世論調査で見る限り、現在設置された風力発電が多すぎると思っている国民はわずか7%しかいません。もし、保守党、自由党の新政権が風力発電所への規制を厳しくしたのなら、次期総選挙で敗退する可能背も充分あります。

なぜなら、今日のデンマーク環境産業を育てた背景には市民の力が大きく働いているのです。例えば1975年、オレラップ教員学校の四人の学生が物理学のレポートで、デンマークの再生可能エネルギーの実態調査を行いましたが、このレポートは翌年、全国の学校に回覧されたばかりでなく政府のエネルギー広報委員会の資料として使われ、再生可能エネルギーの存在を知らしめるのに大きな役割を果たしました。137・


138頁・平成28年2月6日 土曜日・ここまえ

また、学生と教員が一緒になって小型の風力発電機を製作し、学校の電力供給用して稼働させている国民高等学校も数多くあります。

今日、世界最大の風力発電機メーカーに成長したベスタス社の前身は農耕器具メーカーでした。このメーカーが風力発電機の開発を始めた当初(1977年頃)は風力発電に関する知識を持ったエンジニアは一人もおらず、ツビンド風力発電機を完成させた開発関係者や市民の協力を得てきました。また、デンマークで三大風力発電機メーカーに成長したボーナス風力発電機も1983年までは農地への水撒き機械を製造していた会社で、開発当初、ツビンド風力発電機を参考にしたり、フォルケセンター(「再生可能エネルギーに関する北西ユトランド国民センター」)のアドバイスを得てスタートを切っています。風力発電機を開発するために当初から専門技術者がいた会社は、現在NEGミーコン社と呼ばれているメーカーだけでした。


関係者や市民の協力を得て開発がスタートしたのは風力発電機だけではありません。バイオガスプラントも農民が手掛けたものでした。1973年には、バイオガスで100立方㍍の住宅暖房を実現した農民が現れ、1980年後半にはバイオ学プラントの失敗が続出して開発の灯りが消えるかに見えた中で研究を支え続けた農場主がいました。これらの人々は特にエンジニアの資格を持っていたわけではなく普通の農民、市民でした。


私はデンマーク市民のこの伝統を「理想主義と人道主義をもとにした行動力」と呼びたいと思っています。138・


139頁・デンマーク人の理想主義(人生の意義を、理想を実現するための努力に置く思想)、人道主義(人間愛を根本におき人類全体の福祉の実現を目指す立場。「広辞苑」の解説)の精神はどこから生まれてきたものなのでしょうか。これに答えるためには、デンマークの学校教育の目標と制度を語らなければならないと思います。


デンマークの教育目標と試験制度・

139頁・平成28年2月6日 土曜日・


デンマークの義務教育は、幼稚園クラスから九年生(子供の事情に合わせて10年生まで)の義務教育を受けることができます。デンマークでは義務教育を受ける場所をフォルケスコール・国民学校)と呼んでいます。


国民学校の教育目標は、「保護者と協力し、生徒が知識、技能、作業要領、自公表現の方法を習得し個人として、全人格的発達を養成する、フォルケスコールでは、生徒の認識力、創造力、向学心を伸ばし、経験の場及び勤労の場として熱中できる機会を与えるよう努める。それによって、自己の可能性に自信を持たせ、自己判断力と自己決定力を涵養する。フォルケスコールでは、生徒がデンマークの文化に親しみ、他文化及び人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする。


フォルケスコールは生徒が社会への積極的参加、共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務を学び、準備する場である。そのため、学校での教育や日常生活は自由な精神・平等・民主主義の上に成り立つものである。」(P仮要約)と定められています。139・


140頁・私なりにデンマークの教育目標を要約すると、デンマークの義務教育では、子供たち個人の人格を発達させ、「自己の可能性に自信を持たせ」「人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする」、さらに簡略すると「自己の能力に合わせ、人間と自然のため行動(貢献)を起こしなさい」とも読めます。そして行動を起こす場合「社会への共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務」「他文化及び人間と自然の相互関係の理解」を持って行動を起こすことを教えています。


また、デンマークの環境教育の目標では、「生態系における人間社会の問題として捉え、環境教育の中では、環境破壊、資源の分配と利用、人口増加、動植物の根絶問題に対して熟知した行動力のあり市民の教育を目標にします。」(5仮要約)と宣言し、ここでも「行動力」を説いています。

こうした目標は掲げたものの、実際に行動を起こすための国民を育てる教育とはどんなものかが問題になります。この問題に答える手掛かりが、デンマークの試験制度にあると私は思っています。140・


ここまで

 

 

 

 

 

デンマークの教育目標と試験制度・139頁・

卒業資格を厳しく審査する・140頁・

職に就くには資格が必要・142頁・

教育の機会均等・143頁・

企業家が生まれる仕組み・145頁・

「風のがっこう」開設までの顛末・146頁・

 





2016年2月10日 (水)

第1章・デンマークという国・アンデルセンの生きた時代の国家予算・40頁・49・高い税金・平成28年2月10日 水曜日国家予算の約43%が社会保障と福祉に使われ、保健費、教育費を含めると国民の生活に密接に関連る予算総額は64%になっています。そして借金の返済分は10%以下です。つまり、1800年代の国家予算と福祉国家と言われる今日のデンマークの国家予算を比較すると、国民を大切にする政策に転換したことが読み取れます。



引用


第1章・デンマークという国・アンデルセンの生きた時代の国家予算・40頁・


先ほど紹介したようにアンデスセンは1805年から1875年まで生きるのですが、ナポレオン(1769~1821)の後半生と重なります。ナポレオンが死んだとし、アンデルセンは16歳、半島の小国としてヨーロッパの大国の紛争に巻き込まれる激動の時代でした。


デンマークは小国の賢明な政策である中立政策をとりますが、当時イギリスとフランスが紛争状態にあり、デンマークはロシア、スウェーデン、ドイツと武装中立同盟を結びます(1800年)。


しかし、イギリスがデンマークを攻撃しても三国は支援せず、イギリスとのれーでん海戦に敗れ、商戦の海上取引権をほとんど失います(1801年)。その後、デンマークはナポレオンの大陸封鎖に加担したため、ふたたびイギリス軍の攻撃を受け、海軍が全滅し、首都コペンハーゲンは壊滅的被害を被ります(1807年)。軍艦を失ったデンマークは、ヨーロッパの通称国家と言う地位も失いました。40・


このように、アンデスセンが生まれた1805年、デンマークは国内外で諸問題を抱え、経済的に非常に厳しい時代でした。

この時代に最初の「貧困法」(1803年)が施行されていますが、「貧困者がたくさんの救済を与えることは、たくさんの貧困者を生む結果になる」と言う富裕層や行政側の意見が優先され、実際の救済額はわずかであったようです。


アンデルセンが最初の「童話集」を出した1835年のデンマークの国家予算(表4)を見てみましょう。「貧困法」が発効された32年後においても、貧困層の救済はほとんどできなかった理由が分かります。


デンマーク政府が国民生活にお金を回すことができなかった原因は、国家予算の40%以上を借金の返済に充てていたこと、国土を守るため国防費が過大であったこと、法質の維持に国家予算の10%も割いていたためと思われます。


表5を見てください。その後、160年後のデンマークの国家予算です。これを見ますと、お金の使われ方が大きく変わっていることが分かります。41・


42頁・平成28年2月10日 水曜日国家予算の約43%が社会保障と福祉に使われ、保健費、教育費を含めると国民の生活に密接に関連る予算総額は64%になっています。そして借金の返済分は10%以下です。つまり、1800年代の国家予算と福祉国家と言われる今日のデンマークの国家予算を比較すると、国民を大切にする政策に転換したことが読み取れます。


もちろん、デンマークにも様々な社会問題が起きていますが、「弱いもの」を助けるセーフティーネットの存在が、重大に社会問題を引き起こさない安全弁になっています。国際比較の世論調査によると、「席で最も時刻を愛する国民はデンマーク」とされていますが、各種の選挙を通じて「弱いもの」を助ける政治と「強いもの」への警告が出せる民主主義の国として自律しているからでしょう。42・


ここまえ平成28年2月10日

世界で一番後進国を援助している・42頁・平成28年2月10日・

デンマークの後進国援助の多さは、「共生の精神」から来ていると言えるでしょう。後ほど詳しく触れますが、デンマーク国民の税負担率は直接税と間接税を合わせると約50%で、世界で最も税金の高い国の一つに入ります。42・


43頁・それにもかかわらず、デンマーク人は後進国への援助に国民総所得(GNI。国民総生産から資産所得と国外勤務者支給給与額を差し引いた額)の1・01%(1999年)を当てています。後進国への援助が「国民総所得の1%」を超した国はなく、国民一人当たり約2600クローネ(約4万円)も出している、世界で一番後進国を援助している国民なのです。

世界一の援助額を出しているのは日本ですが、国民一人当たりにすると約1万5000円にしかなりません。デンマーク国民は一人当たり約4万円の国による援助金のうえさらに、町や教会が行なう行事や礼拝などで要請される「救援募金」にも個人的なレベルで積極的に応じています。


43・lここまで


教育費は無料・

43頁・平成28年2月10日・

このような国内外の弱者・貧者に対する「共生の精神」は、国民の教育費・医療費などの負担のあり方にも遺憾なく発揮されています。教育費・医療費などは国交で負担するという原則が国の政策として採用されています。デンマークでは子供を国の貴重な財産と見なし、経済的理由で教育が受けられない子供をなくすために、「デンマーク憲法」によって「すべての児童は義務教育を無料で受ける権利を有する」(第76条)ことが定められ、そのための教育費なすべて税金によって賄われています。

さらに、ほんの一部の私立学校を除き、公立高校、大学でもすべて教育費が無料です(ただし、社会人対象の夜間大学は有料)。

やせた国土で資源もほとんどなく、気候的にもそれほど恵まれていない北の小国デンマークで、教育費・医療費などが公的に負担されていることはそれだけでも驚くべきことです。43・


「扶養法」の精神・

44頁・平成28年2月10日 水曜日

また、「扶養法」では、「親が子供に有する扶養義務は子供が18歳になるまでである」(第6条)と定めています。つまり、18歳までは親が子供を扶養する義務を負うのですが、18歳を超すと親には子供への扶養義務がなくなり、代わりに18歳以上の学生には国から生活費が支給されるのです。この額は月額約3500クローネ(日本円で約5万3000円)になります。


私も教育費のすべてを税金で賄う制度と「扶養法」の恩恵を受けています。26歳でデンマークの女性と結婚して、三人の娘を授かりましたが、この子供たちもデンマークの教育制度の恩恵を受けています。1971年生まれの長女は医学部を卒業し、現在、病院勤務をしています。次女は1973年生まれ、芸術大学の繊維デザイン学部と卒業し、ファッションデザイナーとしてデザイン会社に勤務しています。三女は1975年生まれ、今年は文学部在学の最後の年で、卒業論文を出す時期にさしかかっています。彼女は四か国語が出来ることを生かし、将来産業界での仕事を考えているようです。


このように二年ごとに女の子が生まれたわけですが、この三人の学費もすべて無料で、18歳になると学生時代の全期間を通じて月額約3500クローネが生活費として支給されました。この支給額でも足りない分は、彼女たちが自分でアルバイトして補填していました。


この公的教育の全額を負担する「公的負担制度」と「扶養法」に基づく18歳以上の学生に対する生活費の支給制度は、デンマーク国家が国民を人的資源(財産)と見なし、社会全体で国民教育を支え、学生の生活を保証していくという「共生の精神」の制度的な実現なのです。44・


45頁・16/2/10 9時38分0秒・

「義務教育は無料」と言うのは、日本でもよく聞かされた国の約束ではなかったでしょうか。本当に日本では義務教育は無料になっているのでしょうか?教育は子供もの財産だとよく言われますが、日本では本当にそのことが実現されているのでしょうか。実現されていないのとしたらその原因はどこなるのでしょうか?

45・


入院費・出産費用はすべて公的負担・45頁・

教育費の「公的負担制度」や「扶養法」に見られるように、デンマークの国家政策の基本原則は国民を国家の資源と考え、できるだけの優遇策を導入するというものです。この原則は、医療、福祉政策にも貫かれています。たとえば、民間が経営する病院を除くすべての病院の入院費や出産費用は、税金で負担されます。

デンマークの医療福祉制度の特徴は、その制度運用に当たって家族関係や住居環境、収入などと言う本人の属性と、本人が受給できるサービス内容を完全に切り離していることです。つまり、受けられるサービスは、受給者本人の収入や家庭環境に関わりなく、あくまで国と本人との関係で決まるのです。病院に入院した場合も、治療・看護・介護の内容は本人の医療費・介護費の負担能力とは無関係に、原則として病院が提供できるベストの医療が提供されます。

このデンマークの医療サービスは、デンマーク国外にいる国民にも適用されます。デンマークの政府は国民に「健康保険証」を発行しますが、その裏面に「この証明書はデンマーク健康保険法に基づき休暇中における医療費用を保証するものである。45・

46頁・平成28年2月10日・重病または死亡の際は下記の場所に連絡願いたい」と言う意味の英文を記しています。つまり、国外で病気になった場合、デンマークの健康保険証」(クレジットカード大の磁気カード)を旅行先の病院に提示するとそのまま受診することができます。

医療費はデンマーク政府が保証しているわけですから、デンマーク国民は医療費の心配なく世界中を旅行できます。重篤な病気で海外の病院に入院したようなケースでは、連絡を受けたデンマーク政府は病状や本人の希望などを受けて、ヘリコプターや飛行機を派遣してデンマークの病院に入院させるための手筈を整え、空港に医師、看護婦を待機させます。国民は国家の財産であり、国民を徹底して保護するというデンマークの国家の思想がうかがわれるシステムです。


寝たきり老人の介護も地方実体が管理する公的施設介護の死す手に組み入れられ、家族に介護の負担がかからない介護システムが整っています。この介護システムの利用もすべて「本人」の資産状況に合わせた負担で、国民年金にしか加入していない人でもそれ以上の負担を請求されることはありません。

デンマークには日本のような「年老いた親の面倒は子供が見る」と言いういわゆる「家族制度」が無く、例えば親が長男夫婦の家に同居するような場合、親から家賃を取るシステムが採用されています。年老いた親からお金を取るなど恩知らず、水臭いと非難されそうですが、行政は同居の親から家賃を取らせることで、高齢者を住まわせる住宅を所有する人との社会的平等性を維持しようとしています。46・


健康な高齢者は自宅に住み国民年金、住宅手当の支給を受けています。加齢とともに買い物、洗濯、着替えなどが出来なくなってきた高齢者には、無料で在宅介護サービスを派遣して、経済面・介護面での負担が軽減する公的な援助をしています。

私の義母は92歳ですが、元気で一人暮らしをしています。さすがに掃除、買い物、朝晩の着替え、食事の支度は不自由ですから、市の在宅介護サービスを受けています。この介護サービスの費用は、本人が使いきれないほどのお金を持っていても、全額市の負担になっています。一日中介護が必要なった人たち(高齢者と限らず)は地方自治体が運営する「介護センター」に入居することができます。介護センターのスタッフは入居者と同じ人数になっています。これは、スタッフの労働時間が週37時間制であることから決められた人員配置です。


日本でも、老人は尊ばれ、大切にされることを美風にしているのではないでしょうか。しかし、実際は家族が老人の介護にあたることが美徳だとして、その経済的な状況を考慮に入れないことで、結果的に経済的弱者に老人福祉の社会的負担を押し付けているシステムになってはいないでしょうか?この二つの違いに私は大きな関心を持ってきました。

もちろんデンマーク政府は、「衣食住」について、国民各位が自立することを強く要請していますが、それでも約70万人の国民年金生活者を含め、毎年約150万人、28%の国民が何らかの国の生活補助制度を利用して生活しています。47・


48頁・平成28年2月11日・


住宅所有のすすめ・48頁・

日本ではとても関心の高い、住宅問題を見てみましょう。デンマーク政府は1970年代の初め、若年層、低額所得者でも住宅が所有できるように「住宅積立金」制度を導入しました。住宅を取得する際、その購入資金を銀行が融資する際の優遇制度ですが、積み立てた自己資金の額と同額を購入する不動産を担保に銀行が融資するというものです。また、政府は「住宅積立金」に対して利息の上乗せをし、利子は所得税から控除する制度も導入しました。

これらの国民に住宅を所有させる政策は、確実に国民の持ち家を増やすとともに、デンマークに住宅産業を起こし、住宅関連の産業を育てました。今日、デンマークの家具生産の80%は輸出され、国際競争力を備えた産業に育っております。「住宅政策」の成果がデンマークに住宅関連の産業と技術を生み、雇用を確保しているのです。48・


高い税金・48頁・平成28年2月11日・

このようにデンマークでは、教育費・福祉医療制度などが税金で公的に負担されている一方で、その税金の高さは、日本でもよきにつけ悪しきにつけ、時には消費税を上げる際の「良きモデル」として紹介されることさえあります。たしかにデンマークの税負担率は、総所得の約50%(直接税と間接税の合算)に上っています。収入の半分が税金で吸い上げられてしまうのです。

デンマーク国民は、この税負担をどう考えているのでしょうか?私の周りにいる大半の人は「税金が高いと思うか?」と質問すると、「止むを得ない」と答えます。48・


49頁・平成28年2月11日 木曜日・世論調査でも、ほぼ80%が「高いとは思わない」と答えています。このデンマーク人の納税者意識は土嚢に形成されてきたのか、大いに興味があるところです。

少しデンマークの徴税システムを開設してみましょう。

直接税は、給与所得、年金、失業手当などを対象に掛けられます。所得税は「総合課税方式」を採用しているため、給与所得以外の所得、不動産売却益、株取引損益、利息などをすべて一枚の申告書に記入することになっています。給与所得は支払い側が源泉徴収していますが、自公申告制度があり、その年の納税調整をすることができます。間接税は、消費税、飲料、燃料などの物品税などで構成されています。49・平成28年2月11日(木)・ここまで・


続きは・

このようにデンマークという国自然エネルギー先進国・・・15歳から税金を自己申告している国民なので、国家予算の使い道、それを決める政治に対する興味と関心は非常に高く、国会議員選挙の投票率は80%を下回るということはありません。自分が納めた税金は教育や福祉・社会保障に多く当てられるべきだと考える国民が多く、政府が最終的に税金の使途と管理に責任を負うべきだと考えています。49頁から・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-13bf.html

6:11 2016/02/12


グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁から平成28年2月9日・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/262829-9a82.html

16:00 2016/02/09


グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁・平成28年2月9日・


さて、デンマークを語る時ダルガスに加えてもう一人、特筆すべき人物を紹介しておきたいと思います。デンマークの国のかたちを語る時、国民教育がもう一つのキーワードになりますが、「国民高等学校」(フォルケ・ホイ・スコーレ)の設立を提唱した牧師のニコライ・フレデェリック・セベリン・グロンドヴィ1783~1872)は、デンマーク人の「共生の精神」を育てた教育かとして傑出した人物です。


グロントヴィは1783年、牧師の息子として生まれています。コペンハーゲン市の高校を卒業し、1803年に神学の学位を取得しましたが、牧師としての活動をほとんどせず、執筆や講演を通じて国民への啓もう活動に従事し、844年、彼が61歳のとこ、「国民高等学校」を創設しました。26・


27頁・

・・国民高等学校は、「人間・市民としての人格形成」を教育目標に掲げ、「実践教育」をモットーにした成人対象の全寮制の学校で、受講期間は2~3ヶ月で、受講生は冬は男性、夏は女性に分けられていました。1800年代末には21校、1950年には41校となり、2000年末現在でも85校がデンマークの各地で開校し、地域の教育文化のセンターとしてその役割を果たし続けています。


1849年には、「国民高等学校」から全寮制の「農業学校」が生み出されます。1870年当時のデータによると、デンマークの全労働人口の52%は農業従事者で、個別の農場で働く彼らを農業従事者学校に集め、系統立てた国民教育・農業教育を行うことが構想されたわけです。全寮制の「農業学校」の解説は、グロントヴィの提唱する国民教育の必要性が社会に認知された結果でした。


農業学校での教育目標は、将来自分の農場を経営するのに必要な農業理論や農業経営を実践的に学ぶことに置かれ、研修期間は受講者に合わせて五ヵ月、六ヵ月、九か月、17か月のコースに分かれていました。27・


28頁・

この職業学校は実戦と理論を通じて農民を成長させ、農業従事者から農業経営者へと自立させる教育機関としての機能を果たしたばかりでなく、農業を守るための組織母体、政治活動の揺鑑としても機能し、今日のデンマーク農業の基盤を作ってきました。デンマーク最大の政党である自由党は、1814年に農民の組織が創った政治結社を根源としています。


17歳以上の市民を対象にした「国民高等学校」は、近年、通学者が減少していますが(1970年には約9000人、2000年末では約5500人)、農業分野ばかりでなく歴史、社会問題、文学などの講座も開かれ、またスポーツ専門の「国民高等学校」や主に外国人居住者を対象とした「国際国民高等学校」なども設立され、創設時から受け継がれているグロントヴィの「共生の精神」を育んでいます。「農業学校」は、1972年でも25校あり、約2500名の農業従事者が学んでいました。1867年に開校されたリングビー農学校、1871年に開校されたツーナ農学校は今でも開校されています。28・


29頁・

学校はほぼ100%公立・


29頁・平成28年2月10日 水曜日


デンマークの教育制度の特徴を一言でいうと、教育はほとんど公立学校によって行われているということでしょう。小中学校はそのほとんどが市町村立の公立学校で、わずかに私立の小中学校があるだけです。また、高等学校はほぼ100%公立、大学は100%国立です。

日本の小中学校に当たる義務教育期間は9~10年間(低学年七年間と高学年二年~三年間)の小中一貫の義務教育で、一年生で入学して九年生あるいは10年生で卒業していきます。28・


29頁・

八年生の高学年になると自立性を高めるために、両親から離れて全寮制の学校に移るケースが増えてきます。

高等学区は三年間、大学は学部によって違いますが、五年間から七年間の就学期間があります。

公立学校の教育を受けるための教育費はどうなっているのかは、もう少し後で紹介することにしましょう。

ここまで・平成28年2月10日


 

引用


ダルガスの原野開発会社・20頁・

このようにダルガスの20歳から36歳の青壮年期は、ドイツと領土を争った激動の時代で、彼は軍人としてその渦中にいました。デンマークはドイツとの国土争奪戦争に敗北し、酪農に適した肥沃な平地が続くシュレスヴィヒ州とホルスタイン州を失うことで、実に国土の三分の一、人口の30%以上が減少します。これは国家存亡に危機です。

1865年3月、ダルガスはシルケボー市で開かれた「南ユトランドの母国との関係」と言う講演会に視聴者として参加しましたが、話を聞くだけでは収まらず、視聴者相手に「外に失ったものは内で取り戻す」、つまり、気持ちがあるのなら行動に移すべきだという有名な演説をしています。南の肥沃なとぢをドイツに取られてしまったが、嘆いても始まらない、その身持ちを胸に、国力回復の行動を起こすことを人々に説いたのです。これを記域に、ダルガスは国土開発を生涯のテーマに定め、邁進していきます。20・


21頁・翌1866年3月28日には早くも、ヒールの原野を開拓するために「デンマーク原野開発会社」をヴィボー市に設立しています。彼の計画に賛同し、率先して協力を申し出た人もわずかにいましたが、ダルガスは一人で各地の農民のもとを訪れ、ヒースの原野を開墾するように説得して回りました。ダルガスの行動力は今なおデンマーク人を突き動かしているようです。


「原野開発会社」の事業の中で重要な位置を占めたのが開墾地を乾燥と砂嵐から守るために防風林を植林する事業でした。ダルガスの植林事業は政府の補助金制度も導入されたことによって急速に拡大しました(表1参照)。


ダルガスの植林事業を始める以前、1860年のデンマークの国土面積に占める山林の割合は4・7%でしたが、1907年には8・3%に増えています。1907年当時、ヨーロッパ各地の山林面積の割合は、ドイツで26・2%、イギリスで3・7%、ヨーロッパ諸国の平均は33%でしたから、デンマークの山林面積はまだ低位なのですが、短期間のうちに山林の割合を増やしたダルガスの事業はデンマークでは、高く評価されています。21・


1995年におけるデンマークの山林・防風林の面積は約44万5000㌶で、国土面積の約10・3%を占めています。

1866年にダルガスが設立し、140年になろうとする「原野開発会社」は現在でも活動していて、国内の防風林の保全事業だけではなく、海外のでの植林事業、森林管理あるいは最終処分場から出るメタンガスの真央像量のチェックなど国内外において土を守る事業


農地を増やす・


22頁・平成28年2月9日 火曜日・

ダルガスが「原野開発会社」を設立し、ヒースの原野を開墾してのうちの拡大を図った結果、デンマークの農地面積は1861年に約245㌶から、20年後の1881年には約286㌶と約40万㌶の農地が増加しました。

1830年頃から1870年代の中頃までの約50年間、デンマークの農業は繁栄の時代を享受します。西ヨーロッパ諸国の人口増加と工業化の影響で、各国の食料需要が拡大し、農産物価格が高騰したため、ヨーロッパ諸国への農産物供給地になっていたデンマークの農業が発展したわけです。22・


23頁・しかし、それも長続きはしませんでした。鉄道と船舶による輸送のネットワークが整備され始めると、東ヨーロッパ諸国やアメリカからの安い穀物が西ヨーロッパ諸国へ大量に供給され始め、上昇を続けていた穀類価格が低下してきました。また、西ヨーロッパの各国政府は海外からの穀類に高率の関税を掛けて自国の農業を守る政策を採用し始め、これによってデンマークの農業は大きな打撃を蒙りました。23・


酪農「らくのう」への生産転換と協同組合方式・23頁・平成28年2月9日

このような農業の危機に直面して、農民たちは自らの利益を守るため、協同組合方式による酪農製品の加工工場や食肉解体工場を設立していきます。これが今日の酪農王国デンマークの基礎を築き上げていきます。

付加価値の高い畜産製品の輸出価格は穀類に比べて高値で安定していたこともあって、デンマーク農業の畜産への転換は軌道に乗っていきます。図1のように1876年から下がり始めた家畜、麦の生産者価格は、それぞれ91年、1901年から増勢に転換しています。23・


24頁・

表2は、協同組合数の推移ですが、穀類価格が暴落し始めた1880年代以降、たくさんの協同組合組織が設立されていることが分かります。

現在、規模拡大によって統廃合によって絶対数は減ったとはいえ、デンマークの酪農製品の加工工場や食肉解体工場は、今でも農民たちが共同所有する事業協同組合であり、株式会社ではありません。デンマークの農民たちが造り上げた協同組合とその精神が、今日のデンマーク国民の国を守る精神を創り上げたと言っても過言ではないと思います。

私も約10年間、養豚と穀類生産などの農場を経営していましたが、そこでつい愛のあった農民や農業関係の行政マンたちは時代の流れをよく読み、農業経営のあり方を巧みに変化させていました。また、農産品の研究開発にも常に怠らない熱心な農業経営者たちでした。例えば、1967年における豆類の耕作面積はわずか6500㌶に過ぎませんでしたが、30年後の1998年には10万㌶を超えています。

たしかに、デンマークの農家戸数と農業人口は毎年減少し、1971年には約13万5000戸あった農家戸数が、29年後の2000年には約5万4000戸に減り、農業人口も約20万人から約8万人に激減しています。(表3参照)。この30年の間にデンマークでも就業構造に大きな変化があったのです。しかし、デンマーク農業の特徴は、耕地面積が約300万㌶から約265万㌶と余り減少していない点です。24・ここまで・


25頁・

・農家戸数、農業人口が大きく減少しているにもかかわらず、耕地面積が余り減少していない背景には、国内外の状況に合わせて常に機械化と合理化、農業従事者の教育を通じて農業の改善を図ってきた、一貫した農業政策の存在がうかがえます。


よく知られているように日本の食料自給率はカロリーベースで約40%、そのあまりに低い自給率を高めることがやっと政府の政策課題に上ってきたようですが、日本と同様、農業人口が激減し、農家戸数が減少すると言いう社会現象が起こったデンマークの食料自給率は、動物性たんぱく質だけで見ると約300%を確保しています。デンマーク国民535万人の約3倍に当たる1500万人分の農産品を生産するという「農産物輸出大国」なのです。


農業部門の輸出額は農業人口の構成比からすれば膨大な額になり、例えば2000年における肉類と酪農製品(鶏卵含む)の輸出額は約377億クローネ(約5700億円)にも上っています。


とりわけ、デンマークは肉類の輸出国です。1999年の数値で見ますと、自給率はそれぞれ豚肉で490%鶏肉で214%、牛肉で115%、ミルクは100%です。自給率が大きく豚肉、鶏肉の輸出によって、寒冷の地では栽培できない農産品の輸入が可能になっています。日本との関係で見ますと、2001年の日本向け輸出豚肉の販売額は64億クローネ(約1000億円)で、日本人一人当たり約790円の豚肉を買った計算になります。ちなみに、2001年の対日輸出総額は148億クローネで、このうち豚肉の占める割合が約43%、衣料品26クローネ、略農製品・魚介類9億クローネになっています。25・


26頁・

デンマークの政治は、国民が安心して食べられる食料自給率体制の構築を一貫した農業・食料政策をとってきました。その成果が今日のデンマーク農業の自給率になって現れているのだと思います。


では、日本農業のたどった止めどのない自給率低下の道とデンマーク農業がたどった政策の分岐点は何だったのでしょうか?私には、日本国民の食料自給に対する考え方とデンマーク国民のそれの違いから来ているように思えてなりません。ヨーロッパの先進国ではドイツ、イギリス、フランスなど、デンマーク以外にも食料自給率が100%超えている国があります。


食料は空気、水と同様国民の生命を守るうえで不可欠なもので、これを確保することが国家の第一義的な義務であり、食料を国外に依存することの危険性を度重なる戦争の経験からヨーロッパ人は骨身に滲みて知っているのだろうと思います。つまるところ、戦争は食料とエネルギーに対して国境を境にして行う争奪戦だと彼らが理解しているからでしょう。26・


ここまで



引用


第1章・デンマークという国・国土は氷河の置き土産・13頁・

平成28年2月9日 火曜日・


デンマークの人口は約535万人です。北海道より約35万人少ない。北欧の小さな国です。国土面積は、九州より少し広い程度の約4万3000キロ法㍍で、地図でおわかり戴けるように、国土の大半が北海に突き出た半島からできています。この半島はドイツの北に位置して、スウェーデンと面しています。この半島、ユトランドは、デンマーク語でユーラン、男と言う意味です。

日本との距離は、成田空港から首都コペンハーゲンまで、シベリア廻りで11時間、直線距離で約9000㌔あります。デンマーク人はスウェーデン、のるうぃーと同じスカンジナビア人です。また、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語は兄弟語で、ひどい方言くらいの相違しかありません。デンマークは今では世界で28か国しかないと言われる王制がしかれ、一院制の議会内閣制をとっています。

デンマークの国土の特徴は何と言っても、平坦な土地と低い丘がどこまでも続くことです。一番高いヒルメルビアーと言う場所でも海抜が173㍍しかありません。14・


15頁・これ以外高い山はないのです。この国土の特徴は、ユトランド半島の成り立ちに原因しています。現在のユトランド半島のほとんどは、ウエシェル氷河期約(200万年前から現在に至る時代)の終わり頃(11万5000年から1万年前)出来上がったと言われています。ユトランド半島になぅった太一は厚い氷の下にあったため、氷河が溶け去った後も、氷河によって運搬され堆積した岩くず(氷水石=ひょうたいせき)に覆われました。14・


15頁・

ユトランド半島は、西南部と西北部に分けて考えることができます。西南部では約10万年前、氷河が溶け始めてヒースの丘と平野が広がりました。氷河の消えた後には氷堆石が残りましたが、現在でも、中部から西南部にかけては地表から20センチ下の地層は氷堆石(砂利上あるいは砂状)からできています。西北部では、これより遅れて約1万年前(1万2000年前という説もある)から氷河が溶け始めたと言われています。


現在、デンマークの国土の約63%(269万ヘクタール)がのうちですが、わずか20センチの表土の上で作物を作っています。この耕土をデンマーク人は営々として養ってきたのです。この耕土の下は、氷河の置き土産、砂利の層です。氷堆石という貧栄養状態の土壌しか持たなかったデンマークは現在、肉類や酪農(らくのう)製品を世界に供給する農業国になっています。また、「北欧の福祉国家」と呼ばれ、「自然エネルギー先進国」とも呼ばれるようになっています。

なぜ、このような「国のかたち」が出来上がったのか、駆け足でデンマーク人が歩んだ近代史を紹介してみたいと思います。


15・平成28年2月9日 火曜日

「デンマークを育てた最良の息子」15頁・平成28年2月9日 火曜日・

デンマークの近代史と言っても、ほとんど日本人にはなじみがないと思います。デンマーク人で日本を知られている人物と言えば何と言ってもアンデルセン童話で知られる、ハンス・クリスチャン・アンゼルセン、実存主義哲学の思想家と言われるソーレン・キルケゴール、音楽家のカール・ニールセン、物理学者のニルス・ボーアと言ったところでしょうか。15・


16頁・

しかし、この本ではデンマークの近現代史を語るうえで欠かすことのできないE・M・ダルガスを紹介しましょう。ダルガスと言っても、日本では知る人もいないでしょうが、彼はデンマーク近現代史における傑出した人物、「デンマークを育てた最良の息子」と称されています、このエンリコ・ムリオス・ダルガスの生涯をたどるだけで、今日のデンマークの国あり方が分かるほど、デンマークにとっては象徴的な人物なのです。

ダルガスは1828年にイタリアで生まれ、66歳でデンマークで生涯を終えています。ダルガスの父方の先祖はフランス人で、南フランスに住んでいましたが、曾祖父(アントニエ・ダルガス)がスイスのローザンヌに移住し、1756年にダルガスの祖父(ジェーン・マック・ダルガスが生まれています。

スイスで生まれたるガスの祖父は、牧師になりますが、フレデリシアの教会に牧師の口があったため、1782年妻のマリエッタとともにデンマークに移住します。マリエッタは三人の男子を生み(長男カール、次男ジーン、三男クリスチャン・アウグスト、次男のジーンが長じてダルガスの父親になります。16・


17頁・


ダルガスの父親、ジーン・アントニエ・ダルガスは、イギリスで商人になる教育を受け、イタリアのナポリで商店を経営していましたが、デンマーク女性のヨハナ・ステボルトと結婚し、彼女は1828年にダルガスをイタリアで生みます。しかし、47歳の若さで夫が死亡したため、ヨハナは七歳のダルガスを連れて祖国デンマークに戻ります。デンマークで学校教育を受けたダルガスは、長じて軍人を志望し1846年夏、18歳で陸軍士官学校の入学試験に合格しました。

余談ですが、ダルガスの直系をたどっただけでもその足跡は、フランス、スイス、デンマーク、イタリア、イギリスとヨーロッパ各地に印されており、ヨーロッパ人の国を超えた交流の強さが分かります。デンマーク人の家系の,三代を遡ると必ずその家系の中にヨーロッパ各国からの移民がいますし、後で触れますが、現在の人口構成でも難民・移民が約七・四%を占めています。ちなみに日本に住む外国人の数は約160万人、人口比で約一・三%ですから、デンマークに住む外国人の数がどれほど多いかわかると思います。なぜ、デンマークに住む、住むことを希望する外国人が多いのかと言うと、「安心して生活できる生活環境があるため」だと私は考えています。その生活環境については折に触れて紹介しましょう。


ここまえ・平成28年2月9日 火曜日


ドイツとの「三年戦争」・17頁・さて、ダルガスが陸軍士官学校を卒業して軍人になった当時、デンマークではドイツとの間で戦争が起こっています。17・


一八頁・地図で分かるように、デンマークはその南側をドイツと接し、1800年頃ドイツとの国境をめぐって紛争が絶えませんでした。1848年、デンマーク政府が学校や官庁でデンマーク語の使用を強制したことから、ドイツ系住民が大半を占めていたホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州でドイツへの帰属を掲げた独立戦争が勃発します。

この独立戦争は1848年から50年まで三年間続いたことから、デンマークでは「三年戦争」と呼ばれています。デンマークはこの「三年戦争」には勝利し、ホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州の住民のドイツに帰属する希望は実現されませんでした。ダルガスは、根「三年戦争」に砲兵将校として従軍しています。


1853年、陸軍士官学校を卒業したダルガスは、工兵隊中尉に昇進し翌年五月には工兵隊道路局へ配属され、ユトランド半島中部のヴィボー市に駐在しました。ダルガスは要塞工事や堡塁工事に携わる一方、ランダース市からリンクービン市に至る道路の工事監督を務め、この道路工事を通してユトランド半島中部から西部にわたる広大なヒースの原野が未開拓であるという祖国に現状を知ります。

「三年戦争」はデンマークの勝利に終わりますが、その後もホルスタイン州などドイツ系住民による抵抗・独立運動は収まらず、その抵抗運動に疲れたデンマーク国家は1863年11月、ユトランド半島南部のアイダー川を新たな国教として、ホルスタイン州をドイツに割譲するという政策(アイダー政策)を決定します(地図のB参照)。


しかし、翌年1864年1月、この新国境設定をデンマーク政府の弱気の現れと判断したプロイセン首相(害相兼任)のオットー・ビスマルク(1815年~98)は、ホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州を占領する好機ととらえ、アイダー政策の撤回をデンマーク政府に迫るとともに、ホルスタイン州に軍隊を送り込みました。18・


戦争開始からわずか三ヵ月、四月18日の未明、デンマークの最後の砦、デューブル要塞はドイツ軍の一斉攻撃を受けます。優れた銃器で装備された一万人のドイツ歩兵隊に堡塁を攻撃され、8000発を超える砲弾を浴びせられ、デューブル要塞は陥落します。

その後、デンマークにとっては困難な和平交渉が続き、10月30日にはホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州をドイツに割譲するという内容の「ウイーン和平条約」が締結されました(地図C参照)。19・


20頁・この結果、デンマークは国土面積の三分の一(5万8000㌔平方メートルから3万9000キロ平方メートル)を失い、人口も250万人から170万人に減少しました。ちなみに1920年には、シュレスヴィヒ州で住民投票が行われ、このときドイツ領に編入されたシュレスヴィヒ州の北部は再びデンマークに帰属します。シュレスヴィヒ州が現在のデンマークとドイツの国教になっています。20・っここまで

19頁・


 

 

 

 

 


「デンマークを育てた最良の息子」15頁・

ドイツとの「三年戦争」・17頁・

ダルガスの原野開発会社・20頁・

農地を増やす・22頁・

酪農「らくのう」への生産転換と協同組合方式・23頁・

グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁・

学校はほぼ100%公立・29頁・

キリスト教が国教・29頁・

デンマーク王国である・31頁・

200年前、アンデルセンが生まれた・32頁・

アンデルセンの作品の世界・36頁・

讃美歌をかいたアンデス線・39頁・

アンデルセンの生きた時代の国家予算・40頁・

世界で一番後進国を援助している・42頁・

教育費は無料・43頁・

「扶養法」の精神・44頁・

入院費・出産費用はすべて公的負担・45頁・

住宅所有のすすめ・48頁・

高い税金・48頁・

15歳から所得を自己申告・49頁・

「個人番号制度」の導入・50頁・

女性の社会進出・51頁・

税負担と「共生への責任感」・53頁・

2/9/2016 5:31:06 AM


教育の機会均等・

143頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークでは資格と能力に基づいて職業選択が行われますが、国民が資格と能力を身につける機会が平等に保証されなければ何の意味もありません。

例えば、新たな資格を得たい人、転職のために別な資格を得たい人たちは、職業訓練所、夜間に開校している大学に入ります。製造業の中堅幹部あるいは経営陣の学歴を見ると、工業大学で機械技師、電気技師の資格を取得した後、数年してから夜間開校している商業大学で、五年間、経済学の勉強をしている人が多数います。エンジニアとしての学歴の上に商学士の卒業資格を取得するものです。143・

一四四頁・私かもこの種の大学では、教科書の半分以上が英語の本を使うため、彼らは自国語以外に英語ともう一ヵ国語を仕事で通用する水準でマスターしています。

私が最後に学んだ中部ユトランド商科大学は、現在、経営と工業を一緒にした商工だが国生まれ変わりましたが、その背景には産業界が必要とする経済面・技術面が同時にわかる幹部の要請があったのだろうと思います。企業の中堅幹部、経営陣になるための学校には、オーフス商大、コペンハーゲン商大、南ユトランド大学などがあり、IT産業に就きたい人たちのためにはコペンハーゲンIT大学があり、学士レベルかマスターレベルかが選択できるようになっています。

この種の大学に編入するには、その学部が要求する「基礎資格」を持っていることが条件になりますが。年齢の制限はありません。例えば、経済学部で勉強した人が工業大学に編入するためには「基礎資格」とそして高等学校卒業レベルの数学、物理、化学などの資格を要求されますが、その「基礎資格」を習得できる教育機関(たとえば、成人教育センター、略称VUCと呼ばれる学校)が別途あります。

このように新しい資格を得るために、多くの人が夜間の大学に通っていますが卒業資格はデンマーク国内だけではなく、ノルウェーとスウェーデンでも通用します。この種の大学は国立と公立の二種類ですが、義務教育とは違って授業料は自己負担になります。たとえば、ヘアニング市のある商工大学は基礎課程二年間と専門課程二年間に分かれていますが、二〇〇二年現在、四年間の授業料は約55万円です。

大学の授業は夕方六時から夜九時半ごろまでですが、サラリーマンが夜間の大学に通学できるのは、デンマークの労働時間が週三七時間で、午前八時からの勤務の人は午後四時には退社できるからです。144・

145頁・残業手当が高額なため、ほとんど残業がないことも背景にあります。また、多くの経営者は通学する従業員に交通費を補助したり教科書代を支給したりして、就学を進めています。

社員が転職するための資格を得るのを援助するのは、日本の企業社会の常識では理解できないかもしれませんが、国民が学ぶことが回り回って企業にとってもプラスになることを経営者は理解しているため、さまざまな優遇を与えているのです。


企業家が生まれる仕組み・145頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークの教育の成果は、年間約1万6000人と言われている企業家となって現れます。大学を卒業して、企業に頼らず自ら起業する若者が多いことがデンマーク社会の特徴です。若い企業家の存在は使える学問と行動力を身につけて社会に出ていくことの一つの証左だと私は考えています。もちろん起業しても、何年も事業を継続できないで挫折するケースも多いのですが、失敗しても諦めず、再起をはかる人が多いのも特徴と言ってよいでしょう。


事業に失敗した経験がある事業家と、失敗をしたことのない事業家がいた場合、あなたならどちらに投資をしますか?日本ではあの人は事業に失敗したというレッテルがいつまでも付いて回り、そのことが事業化としての再起を妨げることが往々にしてあるのですが、デンマーク社会では、事業の失敗であっても、事業化として再起できる事業を起こせば良いのであって、失敗した人間へのレッテルではないということです。145・


企業家が生まれる仕組み・


145頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークの教育の成果は、年間約1万6000人と言われている企業家となって現れます。大学を卒業して、企業に頼らず自ら起業する若者が多いことがデンマーク社会の特徴です。若い企業家の存在は使える学問と行動力を身につけて社会に出ていくことの一つの証左だと私は考えています。もちろん起業しても、何年も事業を継続できないで挫折するケースも多いのですが、失敗しても諦めず、再起をはかる人が多いのも特徴と言ってよいでしょう。

事業に失敗した経験がある事業家と、失敗をしたことのない事業家がいた場合、あなたならどちらに投資をしますか?日本ではあの人は事業に失敗したというレッテルがいつまでも付いて回り、そのことが事業化としての再起を妨げることが往々にしてあるのですが、デンマーク社会では、事業の失敗であっても、事業化として再起できる事業を起こせば良いのであって、失敗した人間へのレッテルではないということです。145・


146頁・

実際、事業に失敗しても彼には再起の道が開かれています。国家が国民の生活を守るという手厚い社会保障制度によってたとえ事業に失敗しても、生活保護を受けることによって日常生活を支障なく送ることができ、日本のように銀行融資の条件に個人補償や第三者の連帯保証を求めることによって、事業に失敗すると本人はもとより家族や親せき、知人有人までその累が及び、社会的にも大きな指弾を受けるということはないのです。

たとえば、私が住んでいるツアイハイとう町は人口1万人ですが、とりわけサラリーマンから独立する企業家が多く出ています。床張専門店の従業員から独立し床張りの会社を設立した30歳のミケル・ハンセンさん20年間大工として勤務していた会社を辞め、独立した41歳のベンタ・ソーレンセンさん、機械職人をやめ、蜂蜜製造業をスタートさせた40代のヨーン・ミッケルセンさんの例などたくさんあります。


もちろん事業は成功するかどうかやってみないとわかりませんが、それぞれが失敗したらやり直せばいいという気持ちで、悲壮感はありません。そのことが彼らの活力になっているように私は思えます。彼らの事業が軌道に乗ることによって新たな雇用が生まれ、町の人口が毎年増加しています。146・


 

「風のがっこう」開設までの顛末・


146頁・平成二十八年二月七日・

私の住んでいる町のことに触れたついでに、この町にたどり着くまでの経緯と現在私が運営している「風のがっこう」についても紹介しましょう。

初めに書きましたが1967年にデンマークに渡り、最初の約一年半はデンマーク語を勉強するために多くの時間を使いました。146・


147頁・農業学校の校長先生の紹介でビリビアの村の農場に住まわせてもらい、町内の小学校に通学しました。日本人の大学三年生がにわか小学生になったわけです。

翌68年9月には、コペンハーゲン大学政治経済学部の一年生に入学しますが、外国人としての私の入学試験はデンマーク語で簡単な日常会話ができるかどうかを確かめる程度の簡単なものでした。無事試験に合格して大学に通い始めましたが、外国人は私とイスラエルから留学してきた男性一人、残りは全員デンマーク人でした。

コペンハーゲン大学での勉強、デンマーク大使館勤務などのため約10年間ビリビアの町を離れましたが、1979年、農業を購入したため、またこの村に戻ってきました。この村はその後四つの村と合併し、ツアイハイと言う町になっていました。この辺りはもともと農業が主体の農村地帯でしたが、製造業とサービス業が増え、特に製造業に従事する人口の流入が著しく、全国の人口平均が1・1%減(1983年から1994年)に対して、37・9%も増加しています。全国平均の人口増加率が7・4%(1970年~1997年)に対し、この町では37・5%も増加しています。


こうした町の発展は、町民の総意で実現したと言ってもよいでしょう。議員が「将来町のビジョン」を持っており、それを実行する町役場の職員がいます。「風のがっこう」の誕生の経緯にもそれが遺憾なく発揮されました。

私は1991年1月から風力発電機の対日輸出業を始めますが、1995年頃から日本からの風力発電の視察に来る方々が増え始め、その人たちの研修の場が必要になってきました。147・


148頁・

遠く日本から来た方々を歓迎し、くつろいでいただいた上で、3,4日間の日程でデンマークの事情をレクチャーしたり、近郊の風力発電所やバイオプラントを見学する基地になるような、研修と宿泊を兼ねた施設がほしいと考えていました。すると1996年の秋、隣の家が売りに出ました。新築の母屋(総面積450平方メートル)と多目的に使える建物数棟が付属した農地を含めた土地面積約6・5㌶(約2万坪)の売り物でした。

私が構想していた「小規模な研修センター」にぴったりの物件でした。しかし、農地に立っている建物を農業以外の目的で使用する場合、町議会の審査・許可と県の許可を得る必要がありましたが。私から許可申請願いに対し、町議会は約2週間で許可を出し、しかも町は県に対して「許可推薦状」を添付してくれました。148・


149頁・県は、受理後何と八日後に許可を下ろしました。私が町議会に許可申請したのは、1996年11月18日、そして12月19日にはもう県の許可が出たのです。


企業家にとって必要なことは、行政の行動力です。行政の書類審査の時間が短いほど、次の手立てが打てるためです。私の町の人口が増える背景にはこのような行政の行動力があると思っています。

私が町議会に対して提出した申請書はわずかA四判一枚で、「不動産さんを購入し研修センターと事務所として使用したい旨の理由と許可願い」と自由なスタイルで書いたものでした。

しばらくして、町長に会う機会があり、尾根意を言うとともに許可が早く下りたので驚いていると伝えたところ、「この町を守るのは我々であり、中央政府の役人でも県庁の役人でもありません。149・

150頁・法律は拡大解釈しても、町民のために利用します」という返事が返ってきました。

町長の近発言に強烈な自治意識を感じました。日本の地方行政でこれだけの覚悟をして街づくりに当たっている町長が幾人あるだろうかと考え込んでしまいました。

さて、建坪136坪の新築母屋と数棟の付属建物、総面積約2万坪の農家の売買価格は約4000万円でした。手持ちの購入資金はゼロ、全額を融資で購入したいというもういでに、この不動産を担保にしたとはいえ、銀行は何の注文を付けることなく全額を融資してくれました。町内にある銀行員の理解、開校に必要な改造工事に当たってくれた業者を含め、地域住民が全面的に協力してくれました。


こんな経緯で1997年6月に研修センターとして開校しましたが、開校八年で研修者は約1300名に達しようとしています。「風のがっこう」の開校で、町内のバス会社、ホテルの食堂、商店などに観光収入が生まれています。また、「風のがっこう」が日本のテレビ、雑誌、新聞によって紹介されることで、この田舎町は日本にも紹介され、デンマークでも話題になっています。150・

平成28年2月7日 日曜日


 

 

企業家が生まれる仕組み・145頁・

「風のがっこう」開設までの顛末・146頁・

 

 


デンマークの教育目標と試験制度・139頁


平成28年2月6日 土曜日・


デンマークの義務教育は、幼稚園クラスから九年生(子供の事情に合わせて10年生まで)の義務教育を受けることができます。デンマークでは義務教育を受ける場所をフォルケスコール・国民学校)と呼んでいます。


国民学校の教育目標は、「保護者と協力し、生徒が知識、技能、作業要領、自公表現の方法を習得し個人として、全人格的発達を養成する、フォルケスコールでは、生徒の認識力、創造力、向学心を伸ばし、経験の場及び勤労の場として熱中できる機会を与えるよう努める。それによって、自己の可能性に自信を持たせ、自己判断力と自己決定力を涵養する。フォルケスコールでは、生徒がデンマークの文化に親しみ、他文化及び人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする。

フォルケスコールは生徒が社会への積極的参加、共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務を学び、準備する場である。そのため、学校での教育や日常生活は自由な精神・平等・民主主義の上に成り立つものである。」(P仮要約)と定められています。139・


140頁・私なりにデンマークの教育目標を要約すると、デンマークの義務教育では、子供たち個人の人格を発達させ、「自己の可能性に自信を持たせ」「人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする」、さらに簡略すると「自己の能力に合わせ、人間と自然のため行動(貢献)を起こしなさい」とも読めます。そして行動を起こす場合「社会への共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務」「他文化及び人間と自然の相互関係の理解」を持って行動を起こすことを教えています。

また、デンマークの環境教育の目標では、「生態系における人間社会の問題として捉え、環境教育の中では、環境破壊、資源の分配と利用、人口増加、動植物の根絶問題に対して熟知した行動力のあり市民の教育を目標にします。」(5仮要約)と宣言し、ここでも「行動力」を説いています。

こうした目標は掲げたものの、実際に行動を起こすための国民を育てる教育とはどんなものかが問題になります。この問題に答える手掛かりが、デンマークの試験制度にあると私は思っています。140・


卒業資格を厳しく審査する・

140頁・平成28年2月6日・


デンマークでは、義務教育(九年生あるいは10年間)から高等学校(三年間)あるいは職業学校に進む際は入学試験が無く、また高等学校から大学(五年間から七年間)に入学する際にも入学試験はありません。大学の学部の資格は、高等学校の成績に応じて与えられるのです。

義務教育八年生(日本の中学二年生に当たる)から高校入学資格を得るための試験が始まります。140・


141頁・

試験は筆記試験と口頭試問の二つで、筆記試験は通常四時間、教科書、参考書などの持ち込みが認められ応用問題をレポート形式で回答していきます。口頭試問は普通二〇分で、教科書の内容を理解しているかどうかの暗記試験が中心になります。再転換は、担任の先生とその教化を教えている他の学校の先生が当たります。

このようにし義務教育八年生から、教科ごとに徹底して筆記試験と暗記試験を繰り返して行い、義務教育を終了するまでに社会に出て必要な知識を身につけさせていきます。


普通高校の数理学科を卒業するためには、一五教科の筆記試験と口頭試問において全教科平均で13万点のうち六点以上の成績を採り、三年間を通じて提出する約一五〇本のレポート全部に六点以上の平均点を取る必要があります。高等学校の卒業資格試験で、13万点のうち平均点が10点あれば、どこの大学のどの学部にも無条件では入学できます。高校卒業試験の成績がそのまま大学入学資格になり、大学卒業資格は確実な国家資格でもあるわけです。

私がコペンハーゲン大学の政治経済学部で学んでいた時、会計学の筆記試験を受けましたが、試験時間は八時間にも及びました。また、1990年、再び中部ユトランド商業大学会計学科で学んだ時には、20分の口頭試問で五教化を対象にした厳しい試験を経験しました。大学の卒業論文の採点には担任教授以外、他の大学の教授、業界からの学識者を含め、、六名が当たります。

外部から採点官を起用する制度は、合格基準の全国的な均一性を保証し、卒業資格が国家資格になる質を担保します。担任だけが採点に当たるわけではないので、日頃の情実が要りこまないという。141・


142頁・また、ノルウェー、スウェーデンと卒業資格を同一レベルにしているため、例えば、博士号を取る場合は三つの国から試験官が集まり、審査を受けることになっています。


職に就くには資格が必要・

142頁・平成28年2月7日・


デンマークでは、どこの大学を出たという学歴が問われるのではなく、大学で何を学んだかの学習履歴が問われます。例えば、求人広告では、雇用先が求める具体的な資格が明記され、製造業では、機械技師、電気技師、あるいは事務員と言う職種で求人が出されます。142・


143頁・

応募にはその職種に該当する「資格書」を添付する必要があります。


製造業で経営陣に上り詰めるのには、機械技師、電気技師の資格だけではせいぜいラインのスタッフ止まりで、よほどのことがないと経営には参画できません。技術的な資格に併せて、組織論、経営理論、会計学、会社設立法、税法、商法など、会社の経営に必要な科目を大学で履修し、その「卒業資格」を得る必要があるのです。

デンマークでは資格と能力に基づいて職業選択が行われるという例は、転職が一般的に行なわれていることからも分かります。その転職は社長職にまで及び、オーナー会社は別としてほとんどの株式会社の社長は会社内から選択するのではなく、求人広告を出し、応募者の中から経営者にふさわしい資格と能力を持つと思われる人物を選任する仕組みになっています。ここまで・


ここまで・平成28年2月7日 

引用

教育の機会均等・143頁・例えば、新たな資格を得たい人、転職のために別な資格を得たい人たちは、職業訓練所、夜間に開校している大学に入ります。製造業の中堅幹部あるいは経営陣の学歴を見ると、工業大学で機械技師、電気技師の資格を取得した後、数年してから夜間開校している商業大学で四、五年間、経済学の勉強をしている人が多数います。エンジニアとしての学歴の上に商学士の卒業資格を取得するものです。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/143-e5fc.html

9:07 2016/02/07


 

普通高校の数理学科を卒業するためには、一五教科の筆記試験と口頭試問において全教科平均で13万点のうち六点以上の成績を採り、三年間を通じて提出する約一五〇本のレポート全部に六点以上の平均点を取る必要があります。高等学校の卒業資格試験で、13万点のうち平均点が10点あれば、どこの大学のどの学部にも無条件では入学できます。高校卒業試験の成績がそのまま大学入学資格になり、大学卒業資格は確実な国家資格でもあるわけです。140,

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/140-49aa.html

5:59 2016/02/07

宮脇 昭氏×山田 英生対談・地球温暖化、森林破壊、砂漠化・・・。地球規模で広がる環境破壊の影が、私たちの周辺にも忍び寄っています。 経済効率優先の自然開発と都市型ライフスタイルが招いた地球の危機。 「ミツバチの飛び交う自然が失われたら人間は、もう生きて行けません」と語る山田代表、一方、「生態系学的な脚本で緑復活を」と呼びかける宮脇さん。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-dd59.html

10:13 2016/02/06

第7章・国民を育てる教育・起業家を育てる社会・平成28年2月6日 土曜日・市民が育ててきた環境産業・136頁・再生可能エネルギー源について、とりわけデンマークで取り組まれている風力発電の歴史と現状、バイオ学の利用、廃棄物発電のステムを紹介してきましたが、この章では北海道の約半分の国土面積しかなく、近年になって北海の石油の採掘が可能になったとしても

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/72826-7048.html

9:53 2016/02/06

みちのりホールディングス・松本順・路線バス運賃値下げ・混乗・混載・バス・みちのりホールディングス|メッセージ公共交通ネットワークの最適化 地域の観光産業への参画と貢献 環境適応型の新しい交通システムの確立 公共交通ネットワークの最適化

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-1850.html

16:09 2016/02/05

 

第10章・日本はデンマークから学ぶものがあるか・第10章・・「家庭における両親の役割は子供を育てて、その生活を守るために働くのだとすれば、政治家、役人は国を守り、国民を守る義務がある」と言う教授の信念は、国家観、行政に携わるものへの期待感を端的に表すものでした。平成28年2月4日

17:02 2016/02/05平成28年2月4日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/2824-95e9.html

15:13 2016/02/04

 

2016年の内外情勢を展望する~東京財団研究員討論会(国内問題)

https://www.youtube.com/watch?v=mYjNsIZ7-ik&utm_source=mailmaga_20160204&utm_medium=email

14:59 2016/02/04

 

ほめることで、すべてが好転するという成果があらわれたことを、同志社大学・政策学部教授の太田肇教授に共同研究して頂いていますが、「ほめ達!」理論もきちんと、後付けで証明されているのです。見習おう。  GDP4%の日本農業は自動車産業を超える (講談社+α新書) 新書 –

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/02/gdp4-5e99.html

17:52 2016/02/03

 

第8章・デンマークという国の政治・国政選挙、地方自治地選挙におけるこの高投票率は日本では考えられないものでしょう。この投票率の高さは、国民と政治の距離が極めて接近していることの一つの現れだと思います。この国民性は学校教育、とくに歴史教育の成果、家庭で政治が語られる機会の多さ、つねに国全体の問題を取り上げて国民的な論議を促しているマスコミなどが作り上げてきたものだと思います。平成28年2月3日 水曜日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/82823-0abe.html

17:45 2016/02/03

 

デンマークという国 自然エネルギー先進国―「風のがっこう」からのレポート 単行本  – 2006/2 ケンジステファンスズキ (著) 資源の持たないデンマークでどうしてこんなに水準の高い、教育、医療、福祉社会を実現出来たのか?人が生きるために必要な水と空気を汚染から守り、食料とエネルギーの国内自給に努力し、「弱い者を助ける」という政治の愛情が感じられる社会。デンマークから学ぶものがあるとすれば、国民の生活を守る政治のありかただ。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/20062-a299.html

15:42 2016/02/03

 

第10章・借金の残さないデンマーク・ツケを残す日本・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/post-cced.html

6:22 2016/01/30

 

ここまでいれた・2016年1月30日 (土)?「名古屋地域委員会」 名古屋地域委員会 ・・・・・   内田 良子(うちだ りょうこ、1942年 - )は、日本の心理カウンセラー

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/1942---0848.html

http://www.city.nagoya.jp/

http://www.city.nagoya.jp/mayor/category/359-0-0-0-0-0-0-0-0-0.html

5:17 2016/01/30

 

河村たかし 名古屋市長 2010.4.14

https://www.youtube.com/watch?v=0AqrDtHdLh0

15:34 2016/01/29

河村たかし名古屋市長報道番組出演3/3

https://www.youtube.com/watch?v=GsBz8t6BArs

15:13 2016/01/29

下條村 自治体はこうやって運営する 河村市長も同意? 1/2

https://www.youtube.com/watch?v=z8PwWydCDMQ

11:15 2016/01/29

 

2016年1月29日 (金)この例のようにデンマークと言う国では国民の意思が政治に直接反映するシステムが出来上がっています。「国家運営」に国民1人一人が参加しているという実感が持てる国になっています。こうした意識の形成に学校教育が大きな役割を果たしています。166・第9章 教育の目標は「国家運営」に参加する国民をつくること・平成28年1月29日・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/9-28129-72e2.html

8:27 2016/01/29

 

2016年1月28日 (木)第7章 福祉制度をつくり出したデンマーク・福祉を考えなかった日本・平成28年1月28日 木曜日・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/7-28128-deb6.html

11:09 2016/01/28

 

2016年1月28日 (木)行政官僚と産業界との癒着は封建制度時代から引き継がれている国のかたちと・・・・・デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか 単行本–2008・2 ケンジステファンスズキ (著)

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/20082-e7ed.html

8:51 2016/01/28

 

・2・地方自治無くして民主主義国家はあり得ない・84頁・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/post-46fe.html

10:11 2016/01/27

3年前に自然養鶏を始めた・・・らの遺言 新書 – 2015129 倉本 聰 (著) 数多くの演劇やドラマ作品を通じて、自然環境の破壊や社会秩序の乱れについて警鐘を鳴らし続けている著者の最新エッセイ。貧しくはあったが光と幸せに満ちていた昭和の時代を、80歳になったのを機に自らの体験と独特の切り口でふりかえる。日本人は今後どのように生きていくべきかを考える上での指針となる一冊。全国自然養鶏会は中島正氏の著書「自然卵養鶏法」に共感し、循環農業の一環としての自然養鶏を確立すべく、情報交換や交流会を行っています。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/2015129-80-c9dc.html

8:40 2016/01/27

 




引用宮脇 昭氏×山田 英生対談・地球温暖化、森林破壊、砂漠化・・・。地球規模で広がる環境破壊の影が、私たちの周辺にも忍び寄っています。 経済効率優先の自然開発と都市型ライフスタイルが招いた地球の危機。 「ミツバチの飛び交う自然が失われたら人間は、もう生きて行けません」と語る山田代表、一方、「生態系学的な脚本で緑復活を」と呼びかける宮脇さん。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-dd59.html

10:13 2016/02/06


第7章・国民を育てる教育・起業家を育てる社会・平成28年2月6日 土曜日・


市民が育ててきた環境産業・136頁・

前章まで再生可能エネルギー源について、とりわけデンマークで取り組まれている風力発電の歴史と現状、バイオ学の利用、廃棄物発電のステムを紹介してきましたが、この章では北海道の約半分の国土面積しかなく、近年になって北海の石油の採掘が可能になったとしても、とくに資源を持たないデンマークが世界の中でも生活レベルの高い生活と社会福祉を築き上げてきた理由をデンマーク社会の国民教育のあり方から探っていきたいと思います。

デンマーク人の「共生の精神」については初めに紹介しましたが、理想主義と人道主義が無ければ、デンマークの再生可能エネルギーの導入とその根づきはあり得なかったと私は考えています。

風力発電は「風まかせ」であり、バイオ学は、糞尿と言う臭い物を原料にします。廃棄物のリサイクルにしても「汚い」物相手です。それにもかかわらず、デンマーク人は、「風力発電」施設をすでに約6500基も建設し通常の都市で電力消費量の約15%に当たる約50億kW時の伝記を発電させています。136・

137頁・デンマークの世論調査会社ソナーは、2001年6月18日、17歳以上の1258名を対象に「デンマークは継続して新規の風力発電を増設し、風力発電による発電量の割合を増やすべきか」と伊アンケート調査をしています・(表1・参照)。

2001年11月20日の総選挙で社会民主党と社会自由党の連立政権が破れ、保守党、自由党の連立政権に交替しましたが、この世論調査で見る限り、現在設置された風力発電が多すぎると思っている国民はわずか7%しかいません。もし、保守党、自由党の新政権が風力発電所への規制を厳しくしたのなら、次期総選挙で敗退する可能背も充分あります。

なぜなら、今日のデンマーク環境産業を育てた背景には市民の力が大きく働いているのです。例えば1975年、オレラップ教員学校の四人の学生が物理学のレポートで、デンマークの再生可能エネルギーの実態調査を行いましたが、このレポートは翌年、全国の学校に回覧されたばかりでなく政府のエネルギー広報委員会の資料として使われ、再生可能エネルギーの存在を知らしめるのに大きな役割を果たしました。137・


138頁・平成28年2月6日 土曜日・ここまえ

また、学生と教員が一緒になって小型の風力発電機を製作し、学校の電力供給用して稼働させている国民高等学校も数多くあります。

今日、世界最大の風力発電機メーカーに成長したベスタス社の前身は農耕器具メーカーでした。このメーカーが風力発電機の開発を始めた当初(1977年頃)は風力発電に関する知識を持ったエンジニアは一人もおらず、ツビンド風力発電機を完成させた開発関係者や市民の協力を得てきました。また、デンマークで三大風力発電機メーカーに成長したボーナス風力発電機も1983年までは農地への水撒き機械を製造していた会社で、開発当初、ツビンド風力発電機を参考にしたり、フォルケセンター(「再生可能エネルギーに関する北西ユトランド国民センター」)のアドバイスを得てスタートを切っています。風力発電機を開発するために当初から専門技術者がいた会社は、現在NEGミーコン社と呼ばれているメーカーだけでした。


関係者や市民の協力を得て開発がスタートしたのは風力発電機だけではありません。バイオガスプラントも農民が手掛けたものでした。1973年には、バイオガスで100立方㍍の住宅暖房を実現した農民が現れ、1980年後半にはバイオ学プラントの失敗が続出して開発の灯りが消えるかに見えた中で研究を支え続けた農場主がいました。これらの人々は特にエンジニアの資格を持っていたわけではなく普通の農民、市民でした。


私はデンマーク市民のこの伝統を「理想主義と人道主義をもとにした行動力」と呼びたいと思っています。138・


139頁・デンマーク人の理想主義(人生の意義を、理想を実現するための努力に置く思想)、人道主義(人間愛を根本におき人類全体の福祉の実現を目指す立場。「広辞苑」の解説)の精神はどこから生まれてきたものなのでしょうか。これに答えるためには、デンマークの学校教育の目標と制度を語らなければならないと思います。


デンマークの教育目標と試験制度・

139頁・平成28年2月6日 土曜日・


デンマークの義務教育は、幼稚園クラスから九年生(子供の事情に合わせて10年生まで)の義務教育を受けることができます。デンマークでは義務教育を受ける場所をフォルケスコール・国民学校)と呼んでいます。


国民学校の教育目標は、「保護者と協力し、生徒が知識、技能、作業要領、自公表現の方法を習得し個人として、全人格的発達を養成する、フォルケスコールでは、生徒の認識力、創造力、向学心を伸ばし、経験の場及び勤労の場として熱中できる機会を与えるよう努める。それによって、自己の可能性に自信を持たせ、自己判断力と自己決定力を涵養する。フォルケスコールでは、生徒がデンマークの文化に親しみ、他文化及び人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする。


フォルケスコールは生徒が社会への積極的参加、共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務を学び、準備する場である。そのため、学校での教育や日常生活は自由な精神・平等・民主主義の上に成り立つものである。」(P仮要約)と定められています。139・


140頁・私なりにデンマークの教育目標を要約すると、デンマークの義務教育では、子供たち個人の人格を発達させ、「自己の可能性に自信を持たせ」「人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする」、さらに簡略すると「自己の能力に合わせ、人間と自然のため行動(貢献)を起こしなさい」とも読めます。そして行動を起こす場合「社会への共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務」「他文化及び人間と自然の相互関係の理解」を持って行動を起こすことを教えています。


また、デンマークの環境教育の目標では、「生態系における人間社会の問題として捉え、環境教育の中では、環境破壊、資源の分配と利用、人口増加、動植物の根絶問題に対して熟知した行動力のあり市民の教育を目標にします。」(5仮要約)と宣言し、ここでも「行動力」を説いています。

こうした目標は掲げたものの、実際に行動を起こすための国民を育てる教育とはどんなものかが問題になります。この問題に答える手掛かりが、デンマークの試験制度にあると私は思っています。140・


ここまで

 

 

 

 

 

デンマークの教育目標と試験制度・139頁・

卒業資格を厳しく審査する・140頁・

職に就くには資格が必要・142頁・

教育の機会均等・143頁・

企業家が生まれる仕組み・145頁・

「風のがっこう」開設までの顛末・146頁・

 




2016年2月 9日 (火)

グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁から・平成28年2月9日・29頁・平成28年2月10日 水曜日


引用


グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁・平成28年2月9日・


さて、デンマークを語る時ダルガスに加えてもう一人、特筆すべき人物を紹介しておきたいと思います。デンマークの国のかたちを語る時、国民教育がもう一つのキーワードになりますが、「国民高等学校」(フォルケ・ホイ・スコーレ)の設立を提唱した牧師のニコライ・フレデェリック・セベリン・グロンドヴィ1783~1872)は、デンマーク人の「共生の精神」を育てた教育かとして傑出した人物です。


グロントヴィは1783年、牧師の息子として生まれています。コペンハーゲン市の高校を卒業し、1803年に神学の学位を取得しましたが、牧師としての活動をほとんどせず、執筆や講演を通じて国民への啓もう活動に従事し、844年、彼が61歳のとこ、「国民高等学校」を創設しました。26・


27頁・

・・国民高等学校は、「人間・市民としての人格形成」を教育目標に掲げ、「実践教育」をモットーにした成人対象の全寮制の学校で、受講期間は2~3ヶ月で、受講生は冬は男性、夏は女性に分けられていました。1800年代末には21校、1950年には41校となり、2000年末現在でも85校がデンマークの各地で開校し、地域の教育文化のセンターとしてその役割を果たし続けています。


1849年には、「国民高等学校」から全寮制の「農業学校」が生み出されます。1870年当時のデータによると、デンマークの全労働人口の52%は農業従事者で、個別の農場で働く彼らを農業従事者学校に集め、系統立てた国民教育・農業教育を行うことが構想されたわけです。全寮制の「農業学校」の解説は、グロントヴィの提唱する国民教育の必要性が社会に認知された結果でした。


農業学校での教育目標は、将来自分の農場を経営するのに必要な農業理論や農業経営を実践的に学ぶことに置かれ、研修期間は受講者に合わせて五ヵ月、六ヵ月、九か月、17か月のコースに分かれていました。27・


28頁・

この職業学校は実戦と理論を通じて農民を成長させ、農業従事者から農業経営者へと自立させる教育機関としての機能を果たしたばかりでなく、農業を守るための組織母体、政治活動の揺鑑としても機能し、今日のデンマーク農業の基盤を作ってきました。デンマーク最大の政党である自由党は、1814年に農民の組織が創った政治結社を根源としています。


17歳以上の市民を対象にした「国民高等学校」は、近年、通学者が減少していますが(1970年には約9000人、2000年末では約5500人)、農業分野ばかりでなく歴史、社会問題、文学などの講座も開かれ、またスポーツ専門の「国民高等学校」や主に外国人居住者を対象とした「国際国民高等学校」なども設立され、創設時から受け継がれているグロントヴィの「共生の精神」を育んでいます。「農業学校」は、1972年でも25校あり、約2500名の農業従事者が学んでいました。1867年に開校されたリングビー農学校、1871年に開校されたツーナ農学校は今でも開校されています。28・


29頁・

学校はほぼ100%公立・


29頁・平成28年2月10日 水曜日


デンマークの教育制度の特徴を一言でいうと、教育はほとんど公立学校によって行われているということでしょう。小中学校はそのほとんどが市町村立の公立学校で、わずかに私立の小中学校があるだけです。また、高等学校はほぼ100%公立、大学は100%国立です。

日本の小中学校に当たる義務教育期間は9~10年間(低学年七年間と高学年二年~三年間)の小中一貫の義務教育で、一年生で入学して九年生あるいは10年生で卒業していきます。28・


29頁・

八年生の高学年になると自立性を高めるために、両親から離れて全寮制の学校に移るケースが増えてきます。

高等学区は三年間、大学は学部によって違いますが、五年間から七年間の就学期間があります。

公立学校の教育を受けるための教育費はどうなっているのかは、もう少し後で紹介することにしましょう。

ここまで・平成28年2月10日



第1章・デンマークという国・アンデルセンの生きた時代の国家予算・40頁42・平成28年2月10日 水曜日国家予算の約43%が社会保障と福祉に使われ、保健費、教育費を含めると国民の生活に密接に関連る予算総額は64%になっています。そして借金の返済分は10%以下です。つまり、1800年代の国家予算と福祉国家と言われる今日のデンマークの国家予算を比較すると、国民を大切にする政策に転換したことが読み取れます。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/14028210-ccc1.html

8:31 2016/02/10


引用


ダルガスの原野開発会社・20頁・

このようにダルガスの20歳から36歳の青壮年期は、ドイツと領土を争った激動の時代で、彼は軍人としてその渦中にいました。デンマークはドイツとの国土争奪戦争に敗北し、酪農に適した肥沃な平地が続くシュレスヴィヒ州とホルスタイン州を失うことで、実に国土の三分の一、人口の30%以上が減少します。これは国家存亡に危機です。

1865年3月、ダルガスはシルケボー市で開かれた「南ユトランドの母国との関係」と言う講演会に視聴者として参加しましたが、話を聞くだけでは収まらず、視聴者相手に「外に失ったものは内で取り戻す」、つまり、気持ちがあるのなら行動に移すべきだという有名な演説をしています。南の肥沃なとぢをドイツに取られてしまったが、嘆いても始まらない、その身持ちを胸に、国力回復の行動を起こすことを人々に説いたのです。これを記域に、ダルガスは国土開発を生涯のテーマに定め、邁進していきます。20・


21頁・翌1866年3月28日には早くも、ヒールの原野を開拓するために「デンマーク原野開発会社」をヴィボー市に設立しています。彼の計画に賛同し、率先して協力を申し出た人もわずかにいましたが、ダルガスは一人で各地の農民のもとを訪れ、ヒースの原野を開墾するように説得して回りました。ダルガスの行動力は今なおデンマーク人を突き動かしているようです。


「原野開発会社」の事業の中で重要な位置を占めたのが開墾地を乾燥と砂嵐から守るために防風林を植林する事業でした。ダルガスの植林事業は政府の補助金制度も導入されたことによって急速に拡大しました(表1参照)。


ダルガスの植林事業を始める以前、1860年のデンマークの国土面積に占める山林の割合は4・7%でしたが、1907年には8・3%に増えています。1907年当時、ヨーロッパ各地の山林面積の割合は、ドイツで26・2%、イギリスで3・7%、ヨーロッパ諸国の平均は33%でしたから、デンマークの山林面積はまだ低位なのですが、短期間のうちに山林の割合を増やしたダルガスの事業はデンマークでは、高く評価されています。21・


1995年におけるデンマークの山林・防風林の面積は約44万5000㌶で、国土面積の約10・3%を占めています。

1866年にダルガスが設立し、140年になろうとする「原野開発会社」は現在でも活動していて、国内の防風林の保全事業だけではなく、海外のでの植林事業、森林管理あるいは最終処分場から出るメタンガスの真央像量のチェックなど国内外において土を守る事業


農地を増やす・


22頁・平成28年2月9日 火曜日・

ダルガスが「原野開発会社」を設立し、ヒースの原野を開墾してのうちの拡大を図った結果、デンマークの農地面積は1861年に約245㌶から、20年後の1881年には約286㌶と約40万㌶の農地が増加しました。

1830年頃から1870年代の中頃までの約50年間、デンマークの農業は繁栄の時代を享受します。西ヨーロッパ諸国の人口増加と工業化の影響で、各国の食料需要が拡大し、農産物価格が高騰したため、ヨーロッパ諸国への農産物供給地になっていたデンマークの農業が発展したわけです。22・


23頁・しかし、それも長続きはしませんでした。鉄道と船舶による輸送のネットワークが整備され始めると、東ヨーロッパ諸国やアメリカからの安い穀物が西ヨーロッパ諸国へ大量に供給され始め、上昇を続けていた穀類価格が低下してきました。また、西ヨーロッパの各国政府は海外からの穀類に高率の関税を掛けて自国の農業を守る政策を採用し始め、これによってデンマークの農業は大きな打撃を蒙りました。23・


酪農「らくのう」への生産転換と協同組合方式・23頁・平成28年2月9日

このような農業の危機に直面して、農民たちは自らの利益を守るため、協同組合方式による酪農製品の加工工場や食肉解体工場を設立していきます。これが今日の酪農王国デンマークの基礎を築き上げていきます。

付加価値の高い畜産製品の輸出価格は穀類に比べて高値で安定していたこともあって、デンマーク農業の畜産への転換は軌道に乗っていきます。図1のように1876年から下がり始めた家畜、麦の生産者価格は、それぞれ91年、1901年から増勢に転換しています。23・


24頁・

表2は、協同組合数の推移ですが、穀類価格が暴落し始めた1880年代以降、たくさんの協同組合組織が設立されていることが分かります。

現在、規模拡大によって統廃合によって絶対数は減ったとはいえ、デンマークの酪農製品の加工工場や食肉解体工場は、今でも農民たちが共同所有する事業協同組合であり、株式会社ではありません。デンマークの農民たちが造り上げた協同組合とその精神が、今日のデンマーク国民の国を守る精神を創り上げたと言っても過言ではないと思います。

私も約10年間、養豚と穀類生産などの農場を経営していましたが、そこでつい愛のあった農民や農業関係の行政マンたちは時代の流れをよく読み、農業経営のあり方を巧みに変化させていました。また、農産品の研究開発にも常に怠らない熱心な農業経営者たちでした。例えば、1967年における豆類の耕作面積はわずか6500㌶に過ぎませんでしたが、30年後の1998年には10万㌶を超えています。

たしかに、デンマークの農家戸数と農業人口は毎年減少し、1971年には約13万5000戸あった農家戸数が、29年後の2000年には約5万4000戸に減り、農業人口も約20万人から約8万人に激減しています。(表3参照)。この30年の間にデンマークでも就業構造に大きな変化があったのです。しかし、デンマーク農業の特徴は、耕地面積が約300万㌶から約265万㌶と余り減少していない点です。24・ここまで・


25頁・

・農家戸数、農業人口が大きく減少しているにもかかわらず、耕地面積が余り減少していない背景には、国内外の状況に合わせて常に機械化と合理化、農業従事者の教育を通じて農業の改善を図ってきた、一貫した農業政策の存在がうかがえます。


よく知られているように日本の食料自給率はカロリーベースで約40%、そのあまりに低い自給率を高めることがやっと政府の政策課題に上ってきたようですが、日本と同様、農業人口が激減し、農家戸数が減少すると言いう社会現象が起こったデンマークの食料自給率は、動物性たんぱく質だけで見ると約300%を確保しています。デンマーク国民535万人の約3倍に当たる1500万人分の農産品を生産するという「農産物輸出大国」なのです。


農業部門の輸出額は農業人口の構成比からすれば膨大な額になり、例えば2000年における肉類と酪農製品(鶏卵含む)の輸出額は約377億クローネ(約5700億円)にも上っています。


とりわけ、デンマークは肉類の輸出国です。1999年の数値で見ますと、自給率はそれぞれ豚肉で490%鶏肉で214%、牛肉で115%、ミルクは100%です。自給率が大きく豚肉、鶏肉の輸出によって、寒冷の地では栽培できない農産品の輸入が可能になっています。日本との関係で見ますと、2001年の日本向け輸出豚肉の販売額は64億クローネ(約1000億円)で、日本人一人当たり約790円の豚肉を買った計算になります。ちなみに、2001年の対日輸出総額は148億クローネで、このうち豚肉の占める割合が約43%、衣料品26クローネ、略農製品・魚介類9億クローネになっています。25・


26頁・

デンマークの政治は、国民が安心して食べられる食料自給率体制の構築を一貫した農業・食料政策をとってきました。その成果が今日のデンマーク農業の自給率になって現れているのだと思います。


では、日本農業のたどった止めどのない自給率低下の道とデンマーク農業がたどった政策の分岐点は何だったのでしょうか?私には、日本国民の食料自給に対する考え方とデンマーク国民のそれの違いから来ているように思えてなりません。ヨーロッパの先進国ではドイツ、イギリス、フランスなど、デンマーク以外にも食料自給率が100%超えている国があります。


食料は空気、水と同様国民の生命を守るうえで不可欠なもので、これを確保することが国家の第一義的な義務であり、食料を国外に依存することの危険性を度重なる戦争の経験からヨーロッパ人は骨身に滲みて知っているのだろうと思います。つまるところ、戦争は食料とエネルギーに対して国境を境にして行う争奪戦だと彼らが理解しているからでしょう。26・


ここまで



引用


第1章・デンマークという国・国土は氷河の置き土産・13頁・

平成28年2月9日 火曜日・


デンマークの人口は約535万人です。北海道より約35万人少ない。北欧の小さな国です。国土面積は、九州より少し広い程度の約4万3000キロ法㍍で、地図でおわかり戴けるように、国土の大半が北海に突き出た半島からできています。この半島はドイツの北に位置して、スウェーデンと面しています。この半島、ユトランドは、デンマーク語でユーラン、男と言う意味です。

日本との距離は、成田空港から首都コペンハーゲンまで、シベリア廻りで11時間、直線距離で約9000㌔あります。デンマーク人はスウェーデン、のるうぃーと同じスカンジナビア人です。また、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語は兄弟語で、ひどい方言くらいの相違しかありません。デンマークは今では世界で28か国しかないと言われる王制がしかれ、一院制の議会内閣制をとっています。

デンマークの国土の特徴は何と言っても、平坦な土地と低い丘がどこまでも続くことです。一番高いヒルメルビアーと言う場所でも海抜が173㍍しかありません。14・


15頁・これ以外高い山はないのです。この国土の特徴は、ユトランド半島の成り立ちに原因しています。現在のユトランド半島のほとんどは、ウエシェル氷河期約(200万年前から現在に至る時代)の終わり頃(11万5000年から1万年前)出来上がったと言われています。ユトランド半島になぅった太一は厚い氷の下にあったため、氷河が溶け去った後も、氷河によって運搬され堆積した岩くず(氷水石=ひょうたいせき)に覆われました。14・


15頁・

ユトランド半島は、西南部と西北部に分けて考えることができます。西南部では約10万年前、氷河が溶け始めてヒースの丘と平野が広がりました。氷河の消えた後には氷堆石が残りましたが、現在でも、中部から西南部にかけては地表から20センチ下の地層は氷堆石(砂利上あるいは砂状)からできています。西北部では、これより遅れて約1万年前(1万2000年前という説もある)から氷河が溶け始めたと言われています。


現在、デンマークの国土の約63%(269万ヘクタール)がのうちですが、わずか20センチの表土の上で作物を作っています。この耕土をデンマーク人は営々として養ってきたのです。この耕土の下は、氷河の置き土産、砂利の層です。氷堆石という貧栄養状態の土壌しか持たなかったデンマークは現在、肉類や酪農(らくのう)製品を世界に供給する農業国になっています。また、「北欧の福祉国家」と呼ばれ、「自然エネルギー先進国」とも呼ばれるようになっています。

なぜ、このような「国のかたち」が出来上がったのか、駆け足でデンマーク人が歩んだ近代史を紹介してみたいと思います。


15・平成28年2月9日 火曜日

「デンマークを育てた最良の息子」15頁・平成28年2月9日 火曜日・

デンマークの近代史と言っても、ほとんど日本人にはなじみがないと思います。デンマーク人で日本を知られている人物と言えば何と言ってもアンデルセン童話で知られる、ハンス・クリスチャン・アンゼルセン、実存主義哲学の思想家と言われるソーレン・キルケゴール、音楽家のカール・ニールセン、物理学者のニルス・ボーアと言ったところでしょうか。15・


16頁・

しかし、この本ではデンマークの近現代史を語るうえで欠かすことのできないE・M・ダルガスを紹介しましょう。ダルガスと言っても、日本では知る人もいないでしょうが、彼はデンマーク近現代史における傑出した人物、「デンマークを育てた最良の息子」と称されています、このエンリコ・ムリオス・ダルガスの生涯をたどるだけで、今日のデンマークの国あり方が分かるほど、デンマークにとっては象徴的な人物なのです。

ダルガスは1828年にイタリアで生まれ、66歳でデンマークで生涯を終えています。ダルガスの父方の先祖はフランス人で、南フランスに住んでいましたが、曾祖父(アントニエ・ダルガス)がスイスのローザンヌに移住し、1756年にダルガスの祖父(ジェーン・マック・ダルガスが生まれています。

スイスで生まれたるガスの祖父は、牧師になりますが、フレデリシアの教会に牧師の口があったため、1782年妻のマリエッタとともにデンマークに移住します。マリエッタは三人の男子を生み(長男カール、次男ジーン、三男クリスチャン・アウグスト、次男のジーンが長じてダルガスの父親になります。16・


17頁・


ダルガスの父親、ジーン・アントニエ・ダルガスは、イギリスで商人になる教育を受け、イタリアのナポリで商店を経営していましたが、デンマーク女性のヨハナ・ステボルトと結婚し、彼女は1828年にダルガスをイタリアで生みます。しかし、47歳の若さで夫が死亡したため、ヨハナは七歳のダルガスを連れて祖国デンマークに戻ります。デンマークで学校教育を受けたダルガスは、長じて軍人を志望し1846年夏、18歳で陸軍士官学校の入学試験に合格しました。

余談ですが、ダルガスの直系をたどっただけでもその足跡は、フランス、スイス、デンマーク、イタリア、イギリスとヨーロッパ各地に印されており、ヨーロッパ人の国を超えた交流の強さが分かります。デンマーク人の家系の,三代を遡ると必ずその家系の中にヨーロッパ各国からの移民がいますし、後で触れますが、現在の人口構成でも難民・移民が約七・四%を占めています。ちなみに日本に住む外国人の数は約160万人、人口比で約一・三%ですから、デンマークに住む外国人の数がどれほど多いかわかると思います。なぜ、デンマークに住む、住むことを希望する外国人が多いのかと言うと、「安心して生活できる生活環境があるため」だと私は考えています。その生活環境については折に触れて紹介しましょう。


ここまえ・平成28年2月9日 火曜日


ドイツとの「三年戦争」・17頁・さて、ダルガスが陸軍士官学校を卒業して軍人になった当時、デンマークではドイツとの間で戦争が起こっています。17・


一八頁・地図で分かるように、デンマークはその南側をドイツと接し、1800年頃ドイツとの国境をめぐって紛争が絶えませんでした。1848年、デンマーク政府が学校や官庁でデンマーク語の使用を強制したことから、ドイツ系住民が大半を占めていたホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州でドイツへの帰属を掲げた独立戦争が勃発します。

この独立戦争は1848年から50年まで三年間続いたことから、デンマークでは「三年戦争」と呼ばれています。デンマークはこの「三年戦争」には勝利し、ホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州の住民のドイツに帰属する希望は実現されませんでした。ダルガスは、根「三年戦争」に砲兵将校として従軍しています。


1853年、陸軍士官学校を卒業したダルガスは、工兵隊中尉に昇進し翌年五月には工兵隊道路局へ配属され、ユトランド半島中部のヴィボー市に駐在しました。ダルガスは要塞工事や堡塁工事に携わる一方、ランダース市からリンクービン市に至る道路の工事監督を務め、この道路工事を通してユトランド半島中部から西部にわたる広大なヒースの原野が未開拓であるという祖国に現状を知ります。

「三年戦争」はデンマークの勝利に終わりますが、その後もホルスタイン州などドイツ系住民による抵抗・独立運動は収まらず、その抵抗運動に疲れたデンマーク国家は1863年11月、ユトランド半島南部のアイダー川を新たな国教として、ホルスタイン州をドイツに割譲するという政策(アイダー政策)を決定します(地図のB参照)。


しかし、翌年1864年1月、この新国境設定をデンマーク政府の弱気の現れと判断したプロイセン首相(害相兼任)のオットー・ビスマルク(1815年~98)は、ホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州を占領する好機ととらえ、アイダー政策の撤回をデンマーク政府に迫るとともに、ホルスタイン州に軍隊を送り込みました。18・


戦争開始からわずか三ヵ月、四月18日の未明、デンマークの最後の砦、デューブル要塞はドイツ軍の一斉攻撃を受けます。優れた銃器で装備された一万人のドイツ歩兵隊に堡塁を攻撃され、8000発を超える砲弾を浴びせられ、デューブル要塞は陥落します。

その後、デンマークにとっては困難な和平交渉が続き、10月30日にはホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州をドイツに割譲するという内容の「ウイーン和平条約」が締結されました(地図C参照)。19・


20頁・この結果、デンマークは国土面積の三分の一(5万8000㌔平方メートルから3万9000キロ平方メートル)を失い、人口も250万人から170万人に減少しました。ちなみに1920年には、シュレスヴィヒ州で住民投票が行われ、このときドイツ領に編入されたシュレスヴィヒ州の北部は再びデンマークに帰属します。シュレスヴィヒ州が現在のデンマークとドイツの国教になっています。20・っここまで

19頁・


 

 

 

 

 


「デンマークを育てた最良の息子」15頁・

ドイツとの「三年戦争」・17頁・

ダルガスの原野開発会社・20頁・

農地を増やす・22頁・

酪農「らくのう」への生産転換と協同組合方式・23頁・

グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁・

学校はほぼ100%公立・29頁・

キリスト教が国教・29頁・

デンマーク王国である・31頁・

200年前、アンデルセンが生まれた・32頁・

アンデルセンの作品の世界・36頁・

讃美歌をかいたアンデス線・39頁・

アンデルセンの生きた時代の国家予算・40頁・

世界で一番後進国を援助している・42頁・

教育費は無料・43頁・

「扶養法」の精神・44頁・

入院費・出産費用はすべて公的負担・45頁・

住宅所有のすすめ・48頁・

高い税金・48頁・

15歳から所得を自己申告・49頁・

「個人番号制度」の導入・50頁・

女性の社会進出・51頁・

税負担と「共生への責任感」・53頁・

2/9/2016 5:31:06 AM


教育の機会均等・

143頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークでは資格と能力に基づいて職業選択が行われますが、国民が資格と能力を身につける機会が平等に保証されなければ何の意味もありません。

例えば、新たな資格を得たい人、転職のために別な資格を得たい人たちは、職業訓練所、夜間に開校している大学に入ります。製造業の中堅幹部あるいは経営陣の学歴を見ると、工業大学で機械技師、電気技師の資格を取得した後、数年してから夜間開校している商業大学で、五年間、経済学の勉強をしている人が多数います。エンジニアとしての学歴の上に商学士の卒業資格を取得するものです。143・

一四四頁・私かもこの種の大学では、教科書の半分以上が英語の本を使うため、彼らは自国語以外に英語ともう一ヵ国語を仕事で通用する水準でマスターしています。

私が最後に学んだ中部ユトランド商科大学は、現在、経営と工業を一緒にした商工だが国生まれ変わりましたが、その背景には産業界が必要とする経済面・技術面が同時にわかる幹部の要請があったのだろうと思います。企業の中堅幹部、経営陣になるための学校には、オーフス商大、コペンハーゲン商大、南ユトランド大学などがあり、IT産業に就きたい人たちのためにはコペンハーゲンIT大学があり、学士レベルかマスターレベルかが選択できるようになっています。

この種の大学に編入するには、その学部が要求する「基礎資格」を持っていることが条件になりますが。年齢の制限はありません。例えば、経済学部で勉強した人が工業大学に編入するためには「基礎資格」とそして高等学校卒業レベルの数学、物理、化学などの資格を要求されますが、その「基礎資格」を習得できる教育機関(たとえば、成人教育センター、略称VUCと呼ばれる学校)が別途あります。

このように新しい資格を得るために、多くの人が夜間の大学に通っていますが卒業資格はデンマーク国内だけではなく、ノルウェーとスウェーデンでも通用します。この種の大学は国立と公立の二種類ですが、義務教育とは違って授業料は自己負担になります。たとえば、ヘアニング市のある商工大学は基礎課程二年間と専門課程二年間に分かれていますが、二〇〇二年現在、四年間の授業料は約55万円です。

大学の授業は夕方六時から夜九時半ごろまでですが、サラリーマンが夜間の大学に通学できるのは、デンマークの労働時間が週三七時間で、午前八時からの勤務の人は午後四時には退社できるからです。144・

145頁・残業手当が高額なため、ほとんど残業がないことも背景にあります。また、多くの経営者は通学する従業員に交通費を補助したり教科書代を支給したりして、就学を進めています。

社員が転職するための資格を得るのを援助するのは、日本の企業社会の常識では理解できないかもしれませんが、国民が学ぶことが回り回って企業にとってもプラスになることを経営者は理解しているため、さまざまな優遇を与えているのです。


企業家が生まれる仕組み・145頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークの教育の成果は、年間約1万6000人と言われている企業家となって現れます。大学を卒業して、企業に頼らず自ら起業する若者が多いことがデンマーク社会の特徴です。若い企業家の存在は使える学問と行動力を身につけて社会に出ていくことの一つの証左だと私は考えています。もちろん起業しても、何年も事業を継続できないで挫折するケースも多いのですが、失敗しても諦めず、再起をはかる人が多いのも特徴と言ってよいでしょう。


事業に失敗した経験がある事業家と、失敗をしたことのない事業家がいた場合、あなたならどちらに投資をしますか?日本ではあの人は事業に失敗したというレッテルがいつまでも付いて回り、そのことが事業化としての再起を妨げることが往々にしてあるのですが、デンマーク社会では、事業の失敗であっても、事業化として再起できる事業を起こせば良いのであって、失敗した人間へのレッテルではないということです。145・


企業家が生まれる仕組み・


145頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークの教育の成果は、年間約1万6000人と言われている企業家となって現れます。大学を卒業して、企業に頼らず自ら起業する若者が多いことがデンマーク社会の特徴です。若い企業家の存在は使える学問と行動力を身につけて社会に出ていくことの一つの証左だと私は考えています。もちろん起業しても、何年も事業を継続できないで挫折するケースも多いのですが、失敗しても諦めず、再起をはかる人が多いのも特徴と言ってよいでしょう。

事業に失敗した経験がある事業家と、失敗をしたことのない事業家がいた場合、あなたならどちらに投資をしますか?日本ではあの人は事業に失敗したというレッテルがいつまでも付いて回り、そのことが事業化としての再起を妨げることが往々にしてあるのですが、デンマーク社会では、事業の失敗であっても、事業化として再起できる事業を起こせば良いのであって、失敗した人間へのレッテルではないということです。145・


146頁・

実際、事業に失敗しても彼には再起の道が開かれています。国家が国民の生活を守るという手厚い社会保障制度によってたとえ事業に失敗しても、生活保護を受けることによって日常生活を支障なく送ることができ、日本のように銀行融資の条件に個人補償や第三者の連帯保証を求めることによって、事業に失敗すると本人はもとより家族や親せき、知人有人までその累が及び、社会的にも大きな指弾を受けるということはないのです。

たとえば、私が住んでいるツアイハイとう町は人口1万人ですが、とりわけサラリーマンから独立する企業家が多く出ています。床張専門店の従業員から独立し床張りの会社を設立した30歳のミケル・ハンセンさん20年間大工として勤務していた会社を辞め、独立した41歳のベンタ・ソーレンセンさん、機械職人をやめ、蜂蜜製造業をスタートさせた40代のヨーン・ミッケルセンさんの例などたくさんあります。


もちろん事業は成功するかどうかやってみないとわかりませんが、それぞれが失敗したらやり直せばいいという気持ちで、悲壮感はありません。そのことが彼らの活力になっているように私は思えます。彼らの事業が軌道に乗ることによって新たな雇用が生まれ、町の人口が毎年増加しています。146・


 

「風のがっこう」開設までの顛末・


146頁・平成二十八年二月七日・

私の住んでいる町のことに触れたついでに、この町にたどり着くまでの経緯と現在私が運営している「風のがっこう」についても紹介しましょう。

初めに書きましたが1967年にデンマークに渡り、最初の約一年半はデンマーク語を勉強するために多くの時間を使いました。146・


147頁・農業学校の校長先生の紹介でビリビアの村の農場に住まわせてもらい、町内の小学校に通学しました。日本人の大学三年生がにわか小学生になったわけです。

翌68年9月には、コペンハーゲン大学政治経済学部の一年生に入学しますが、外国人としての私の入学試験はデンマーク語で簡単な日常会話ができるかどうかを確かめる程度の簡単なものでした。無事試験に合格して大学に通い始めましたが、外国人は私とイスラエルから留学してきた男性一人、残りは全員デンマーク人でした。

コペンハーゲン大学での勉強、デンマーク大使館勤務などのため約10年間ビリビアの町を離れましたが、1979年、農業を購入したため、またこの村に戻ってきました。この村はその後四つの村と合併し、ツアイハイと言う町になっていました。この辺りはもともと農業が主体の農村地帯でしたが、製造業とサービス業が増え、特に製造業に従事する人口の流入が著しく、全国の人口平均が1・1%減(1983年から1994年)に対して、37・9%も増加しています。全国平均の人口増加率が7・4%(1970年~1997年)に対し、この町では37・5%も増加しています。


こうした町の発展は、町民の総意で実現したと言ってもよいでしょう。議員が「将来町のビジョン」を持っており、それを実行する町役場の職員がいます。「風のがっこう」の誕生の経緯にもそれが遺憾なく発揮されました。

私は1991年1月から風力発電機の対日輸出業を始めますが、1995年頃から日本からの風力発電の視察に来る方々が増え始め、その人たちの研修の場が必要になってきました。147・


148頁・

遠く日本から来た方々を歓迎し、くつろいでいただいた上で、3,4日間の日程でデンマークの事情をレクチャーしたり、近郊の風力発電所やバイオプラントを見学する基地になるような、研修と宿泊を兼ねた施設がほしいと考えていました。すると1996年の秋、隣の家が売りに出ました。新築の母屋(総面積450平方メートル)と多目的に使える建物数棟が付属した農地を含めた土地面積約6・5㌶(約2万坪)の売り物でした。

私が構想していた「小規模な研修センター」にぴったりの物件でした。しかし、農地に立っている建物を農業以外の目的で使用する場合、町議会の審査・許可と県の許可を得る必要がありましたが。私から許可申請願いに対し、町議会は約2週間で許可を出し、しかも町は県に対して「許可推薦状」を添付してくれました。148・


149頁・県は、受理後何と八日後に許可を下ろしました。私が町議会に許可申請したのは、1996年11月18日、そして12月19日にはもう県の許可が出たのです。


企業家にとって必要なことは、行政の行動力です。行政の書類審査の時間が短いほど、次の手立てが打てるためです。私の町の人口が増える背景にはこのような行政の行動力があると思っています。

私が町議会に対して提出した申請書はわずかA四判一枚で、「不動産さんを購入し研修センターと事務所として使用したい旨の理由と許可願い」と自由なスタイルで書いたものでした。

しばらくして、町長に会う機会があり、尾根意を言うとともに許可が早く下りたので驚いていると伝えたところ、「この町を守るのは我々であり、中央政府の役人でも県庁の役人でもありません。149・

150頁・法律は拡大解釈しても、町民のために利用します」という返事が返ってきました。

町長の近発言に強烈な自治意識を感じました。日本の地方行政でこれだけの覚悟をして街づくりに当たっている町長が幾人あるだろうかと考え込んでしまいました。

さて、建坪136坪の新築母屋と数棟の付属建物、総面積約2万坪の農家の売買価格は約4000万円でした。手持ちの購入資金はゼロ、全額を融資で購入したいというもういでに、この不動産を担保にしたとはいえ、銀行は何の注文を付けることなく全額を融資してくれました。町内にある銀行員の理解、開校に必要な改造工事に当たってくれた業者を含め、地域住民が全面的に協力してくれました。


こんな経緯で1997年6月に研修センターとして開校しましたが、開校八年で研修者は約1300名に達しようとしています。「風のがっこう」の開校で、町内のバス会社、ホテルの食堂、商店などに観光収入が生まれています。また、「風のがっこう」が日本のテレビ、雑誌、新聞によって紹介されることで、この田舎町は日本にも紹介され、デンマークでも話題になっています。150・

平成28年2月7日 日曜日


 

 

企業家が生まれる仕組み・145頁・

「風のがっこう」開設までの顛末・146頁・

 

 


デンマークの教育目標と試験制度・139頁


平成28年2月6日 土曜日・


デンマークの義務教育は、幼稚園クラスから九年生(子供の事情に合わせて10年生まで)の義務教育を受けることができます。デンマークでは義務教育を受ける場所をフォルケスコール・国民学校)と呼んでいます。


国民学校の教育目標は、「保護者と協力し、生徒が知識、技能、作業要領、自公表現の方法を習得し個人として、全人格的発達を養成する、フォルケスコールでは、生徒の認識力、創造力、向学心を伸ばし、経験の場及び勤労の場として熱中できる機会を与えるよう努める。それによって、自己の可能性に自信を持たせ、自己判断力と自己決定力を涵養する。フォルケスコールでは、生徒がデンマークの文化に親しみ、他文化及び人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする。

フォルケスコールは生徒が社会への積極的参加、共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務を学び、準備する場である。そのため、学校での教育や日常生活は自由な精神・平等・民主主義の上に成り立つものである。」(P仮要約)と定められています。139・


140頁・私なりにデンマークの教育目標を要約すると、デンマークの義務教育では、子供たち個人の人格を発達させ、「自己の可能性に自信を持たせ」「人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする」、さらに簡略すると「自己の能力に合わせ、人間と自然のため行動(貢献)を起こしなさい」とも読めます。そして行動を起こす場合「社会への共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務」「他文化及び人間と自然の相互関係の理解」を持って行動を起こすことを教えています。

また、デンマークの環境教育の目標では、「生態系における人間社会の問題として捉え、環境教育の中では、環境破壊、資源の分配と利用、人口増加、動植物の根絶問題に対して熟知した行動力のあり市民の教育を目標にします。」(5仮要約)と宣言し、ここでも「行動力」を説いています。

こうした目標は掲げたものの、実際に行動を起こすための国民を育てる教育とはどんなものかが問題になります。この問題に答える手掛かりが、デンマークの試験制度にあると私は思っています。140・


卒業資格を厳しく審査する・

140頁・平成28年2月6日・


デンマークでは、義務教育(九年生あるいは10年間)から高等学校(三年間)あるいは職業学校に進む際は入学試験が無く、また高等学校から大学(五年間から七年間)に入学する際にも入学試験はありません。大学の学部の資格は、高等学校の成績に応じて与えられるのです。

義務教育八年生(日本の中学二年生に当たる)から高校入学資格を得るための試験が始まります。140・


141頁・

試験は筆記試験と口頭試問の二つで、筆記試験は通常四時間、教科書、参考書などの持ち込みが認められ応用問題をレポート形式で回答していきます。口頭試問は普通二〇分で、教科書の内容を理解しているかどうかの暗記試験が中心になります。再転換は、担任の先生とその教化を教えている他の学校の先生が当たります。

このようにし義務教育八年生から、教科ごとに徹底して筆記試験と暗記試験を繰り返して行い、義務教育を終了するまでに社会に出て必要な知識を身につけさせていきます。


普通高校の数理学科を卒業するためには、一五教科の筆記試験と口頭試問において全教科平均で13万点のうち六点以上の成績を採り、三年間を通じて提出する約一五〇本のレポート全部に六点以上の平均点を取る必要があります。高等学校の卒業資格試験で、13万点のうち平均点が10点あれば、どこの大学のどの学部にも無条件では入学できます。高校卒業試験の成績がそのまま大学入学資格になり、大学卒業資格は確実な国家資格でもあるわけです。

私がコペンハーゲン大学の政治経済学部で学んでいた時、会計学の筆記試験を受けましたが、試験時間は八時間にも及びました。また、1990年、再び中部ユトランド商業大学会計学科で学んだ時には、20分の口頭試問で五教化を対象にした厳しい試験を経験しました。大学の卒業論文の採点には担任教授以外、他の大学の教授、業界からの学識者を含め、、六名が当たります。

外部から採点官を起用する制度は、合格基準の全国的な均一性を保証し、卒業資格が国家資格になる質を担保します。担任だけが採点に当たるわけではないので、日頃の情実が要りこまないという。141・


142頁・また、ノルウェー、スウェーデンと卒業資格を同一レベルにしているため、例えば、博士号を取る場合は三つの国から試験官が集まり、審査を受けることになっています。


職に就くには資格が必要・

142頁・平成28年2月7日・


デンマークでは、どこの大学を出たという学歴が問われるのではなく、大学で何を学んだかの学習履歴が問われます。例えば、求人広告では、雇用先が求める具体的な資格が明記され、製造業では、機械技師、電気技師、あるいは事務員と言う職種で求人が出されます。142・


143頁・

応募にはその職種に該当する「資格書」を添付する必要があります。


製造業で経営陣に上り詰めるのには、機械技師、電気技師の資格だけではせいぜいラインのスタッフ止まりで、よほどのことがないと経営には参画できません。技術的な資格に併せて、組織論、経営理論、会計学、会社設立法、税法、商法など、会社の経営に必要な科目を大学で履修し、その「卒業資格」を得る必要があるのです。

デンマークでは資格と能力に基づいて職業選択が行われるという例は、転職が一般的に行なわれていることからも分かります。その転職は社長職にまで及び、オーナー会社は別としてほとんどの株式会社の社長は会社内から選択するのではなく、求人広告を出し、応募者の中から経営者にふさわしい資格と能力を持つと思われる人物を選任する仕組みになっています。ここまで・


ここまで・平成28年2月7日 

引用

教育の機会均等・143頁・例えば、新たな資格を得たい人、転職のために別な資格を得たい人たちは、職業訓練所、夜間に開校している大学に入ります。製造業の中堅幹部あるいは経営陣の学歴を見ると、工業大学で機械技師、電気技師の資格を取得した後、数年してから夜間開校している商業大学で四、五年間、経済学の勉強をしている人が多数います。エンジニアとしての学歴の上に商学士の卒業資格を取得するものです。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/143-e5fc.html

9:07 2016/02/07

 

普通高校の数理学科を卒業するためには、一五教科の筆記試験と口頭試問において全教科平均で13万点のうち六点以上の成績を採り、三年間を通じて提出する約一五〇本のレポート全部に六点以上の平均点を取る必要があります。高等学校の卒業資格試験で、13万点のうち平均点が10点あれば、どこの大学のどの学部にも無条件では入学できます。高校卒業試験の成績がそのまま大学入学資格になり、大学卒業資格は確実な国家資格でもあるわけです。140,

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/140-49aa.html

5:59 2016/02/07

宮脇 昭氏×山田 英生対談・地球温暖化、森林破壊、砂漠化・・・。地球規模で広がる環境破壊の影が、私たちの周辺にも忍び寄っています。 経済効率優先の自然開発と都市型ライフスタイルが招いた地球の危機。 「ミツバチの飛び交う自然が失われたら人間は、もう生きて行けません」と語る山田代表、一方、「生態系学的な脚本で緑復活を」と呼びかける宮脇さん。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-dd59.html

10:13 2016/02/06

第7章・国民を育てる教育・起業家を育てる社会・平成28年2月6日 土曜日・市民が育ててきた環境産業・136頁・再生可能エネルギー源について、とりわけデンマークで取り組まれている風力発電の歴史と現状、バイオ学の利用、廃棄物発電のステムを紹介してきましたが、この章では北海道の約半分の国土面積しかなく、近年になって北海の石油の採掘が可能になったとしても

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/72826-7048.html

9:53 2016/02/06

みちのりホールディングス・松本順・路線バス運賃値下げ・混乗・混載・バス・みちのりホールディングス|メッセージ公共交通ネットワークの最適化 地域の観光産業への参画と貢献 環境適応型の新しい交通システムの確立 公共交通ネットワークの最適化

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-1850.html

16:09 2016/02/05

 

第10章・日本はデンマークから学ぶものがあるか・第10章・・「家庭における両親の役割は子供を育てて、その生活を守るために働くのだとすれば、政治家、役人は国を守り、国民を守る義務がある」と言う教授の信念は、国家観、行政に携わるものへの期待感を端的に表すものでした。平成28年2月4日

17:02 2016/02/05平成28年2月4日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/2824-95e9.html

15:13 2016/02/04

 

2016年の内外情勢を展望する~東京財団研究員討論会(国内問題)

https://www.youtube.com/watch?v=mYjNsIZ7-ik&utm_source=mailmaga_20160204&utm_medium=email

14:59 2016/02/04

 

ほめることで、すべてが好転するという成果があらわれたことを、同志社大学・政策学部教授の太田肇教授に共同研究して頂いていますが、「ほめ達!」理論もきちんと、後付けで証明されているのです。見習おう。  GDP4%の日本農業は自動車産業を超える (講談社+α新書) 新書 –

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/02/gdp4-5e99.html

17:52 2016/02/03

 

第8章・デンマークという国の政治・国政選挙、地方自治地選挙におけるこの高投票率は日本では考えられないものでしょう。この投票率の高さは、国民と政治の距離が極めて接近していることの一つの現れだと思います。この国民性は学校教育、とくに歴史教育の成果、家庭で政治が語られる機会の多さ、つねに国全体の問題を取り上げて国民的な論議を促しているマスコミなどが作り上げてきたものだと思います。平成28年2月3日 水曜日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/82823-0abe.html

17:45 2016/02/03

 

デンマークという国 自然エネルギー先進国―「風のがっこう」からのレポート 単行本  – 2006/2 ケンジステファンスズキ (著) 資源の持たないデンマークでどうしてこんなに水準の高い、教育、医療、福祉社会を実現出来たのか?人が生きるために必要な水と空気を汚染から守り、食料とエネルギーの国内自給に努力し、「弱い者を助ける」という政治の愛情が感じられる社会。デンマークから学ぶものがあるとすれば、国民の生活を守る政治のありかただ。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/20062-a299.html

15:42 2016/02/03

 

第10章・借金の残さないデンマーク・ツケを残す日本・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/post-cced.html

6:22 2016/01/30

 

ここまでいれた・2016年1月30日 (土)?「名古屋地域委員会」 名古屋地域委員会 ・・・・・   内田 良子(うちだ りょうこ、1942年 - )は、日本の心理カウンセラー

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/1942---0848.html

http://www.city.nagoya.jp/

http://www.city.nagoya.jp/mayor/category/359-0-0-0-0-0-0-0-0-0.html

5:17 2016/01/30

 

河村たかし 名古屋市長 2010.4.14

https://www.youtube.com/watch?v=0AqrDtHdLh0

15:34 2016/01/29

河村たかし名古屋市長報道番組出演3/3

https://www.youtube.com/watch?v=GsBz8t6BArs

15:13 2016/01/29

下條村 自治体はこうやって運営する 河村市長も同意? 1/2

https://www.youtube.com/watch?v=z8PwWydCDMQ

11:15 2016/01/29

 

2016年1月29日 (金)この例のようにデンマークと言う国では国民の意思が政治に直接反映するシステムが出来上がっています。「国家運営」に国民1人一人が参加しているという実感が持てる国になっています。こうした意識の形成に学校教育が大きな役割を果たしています。166・第9章 教育の目標は「国家運営」に参加する国民をつくること・平成28年1月29日・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/9-28129-72e2.html

8:27 2016/01/29

 

2016年1月28日 (木)第7章 福祉制度をつくり出したデンマーク・福祉を考えなかった日本・平成28年1月28日 木曜日・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/7-28128-deb6.html

11:09 2016/01/28

 

2016年1月28日 (木)行政官僚と産業界との癒着は封建制度時代から引き継がれている国のかたちと・・・・・デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか 単行本–2008・2 ケンジステファンスズキ (著)

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/20082-e7ed.html

8:51 2016/01/28

 

・2・地方自治無くして民主主義国家はあり得ない・84頁・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/post-46fe.html

10:11 2016/01/27

3年前に自然養鶏を始めた・・・らの遺言 新書 – 2015129 倉本 聰 (著) 数多くの演劇やドラマ作品を通じて、自然環境の破壊や社会秩序の乱れについて警鐘を鳴らし続けている著者の最新エッセイ。貧しくはあったが光と幸せに満ちていた昭和の時代を、80歳になったのを機に自らの体験と独特の切り口でふりかえる。日本人は今後どのように生きていくべきかを考える上での指針となる一冊。全国自然養鶏会は中島正氏の著書「自然卵養鶏法」に共感し、循環農業の一環としての自然養鶏を確立すべく、情報交換や交流会を行っています。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/2015129-80-c9dc.html

8:40 2016/01/27

 




引用宮脇 昭氏×山田 英生対談・地球温暖化、森林破壊、砂漠化・・・。地球規模で広がる環境破壊の影が、私たちの周辺にも忍び寄っています。 経済効率優先の自然開発と都市型ライフスタイルが招いた地球の危機。 「ミツバチの飛び交う自然が失われたら人間は、もう生きて行けません」と語る山田代表、一方、「生態系学的な脚本で緑復活を」と呼びかける宮脇さん。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-dd59.html

10:13 2016/02/06


第7章・国民を育てる教育・起業家を育てる社会・平成28年2月6日 土曜日・


市民が育ててきた環境産業・136頁・

前章まで再生可能エネルギー源について、とりわけデンマークで取り組まれている風力発電の歴史と現状、バイオ学の利用、廃棄物発電のステムを紹介してきましたが、この章では北海道の約半分の国土面積しかなく、近年になって北海の石油の採掘が可能になったとしても、とくに資源を持たないデンマークが世界の中でも生活レベルの高い生活と社会福祉を築き上げてきた理由をデンマーク社会の国民教育のあり方から探っていきたいと思います。

デンマーク人の「共生の精神」については初めに紹介しましたが、理想主義と人道主義が無ければ、デンマークの再生可能エネルギーの導入とその根づきはあり得なかったと私は考えています。

風力発電は「風まかせ」であり、バイオ学は、糞尿と言う臭い物を原料にします。廃棄物のリサイクルにしても「汚い」物相手です。それにもかかわらず、デンマーク人は、「風力発電」施設をすでに約6500基も建設し通常の都市で電力消費量の約15%に当たる約50億kW時の伝記を発電させています。136・

137頁・デンマークの世論調査会社ソナーは、2001年6月18日、17歳以上の1258名を対象に「デンマークは継続して新規の風力発電を増設し、風力発電による発電量の割合を増やすべきか」と伊アンケート調査をしています・(表1・参照)。

2001年11月20日の総選挙で社会民主党と社会自由党の連立政権が破れ、保守党、自由党の連立政権に交替しましたが、この世論調査で見る限り、現在設置された風力発電が多すぎると思っている国民はわずか7%しかいません。もし、保守党、自由党の新政権が風力発電所への規制を厳しくしたのなら、次期総選挙で敗退する可能背も充分あります。

なぜなら、今日のデンマーク環境産業を育てた背景には市民の力が大きく働いているのです。例えば1975年、オレラップ教員学校の四人の学生が物理学のレポートで、デンマークの再生可能エネルギーの実態調査を行いましたが、このレポートは翌年、全国の学校に回覧されたばかりでなく政府のエネルギー広報委員会の資料として使われ、再生可能エネルギーの存在を知らしめるのに大きな役割を果たしました。137・


138頁・平成28年2月6日 土曜日・ここまえ

また、学生と教員が一緒になって小型の風力発電機を製作し、学校の電力供給用して稼働させている国民高等学校も数多くあります。

今日、世界最大の風力発電機メーカーに成長したベスタス社の前身は農耕器具メーカーでした。このメーカーが風力発電機の開発を始めた当初(1977年頃)は風力発電に関する知識を持ったエンジニアは一人もおらず、ツビンド風力発電機を完成させた開発関係者や市民の協力を得てきました。また、デンマークで三大風力発電機メーカーに成長したボーナス風力発電機も1983年までは農地への水撒き機械を製造していた会社で、開発当初、ツビンド風力発電機を参考にしたり、フォルケセンター(「再生可能エネルギーに関する北西ユトランド国民センター」)のアドバイスを得てスタートを切っています。風力発電機を開発するために当初から専門技術者がいた会社は、現在NEGミーコン社と呼ばれているメーカーだけでした。


関係者や市民の協力を得て開発がスタートしたのは風力発電機だけではありません。バイオガスプラントも農民が手掛けたものでした。1973年には、バイオガスで100立方㍍の住宅暖房を実現した農民が現れ、1980年後半にはバイオ学プラントの失敗が続出して開発の灯りが消えるかに見えた中で研究を支え続けた農場主がいました。これらの人々は特にエンジニアの資格を持っていたわけではなく普通の農民、市民でした。


私はデンマーク市民のこの伝統を「理想主義と人道主義をもとにした行動力」と呼びたいと思っています。138・


139頁・デンマーク人の理想主義(人生の意義を、理想を実現するための努力に置く思想)、人道主義(人間愛を根本におき人類全体の福祉の実現を目指す立場。「広辞苑」の解説)の精神はどこから生まれてきたものなのでしょうか。これに答えるためには、デンマークの学校教育の目標と制度を語らなければならないと思います。


デンマークの教育目標と試験制度・

139頁・平成28年2月6日 土曜日・


デンマークの義務教育は、幼稚園クラスから九年生(子供の事情に合わせて10年生まで)の義務教育を受けることができます。デンマークでは義務教育を受ける場所をフォルケスコール・国民学校)と呼んでいます。


国民学校の教育目標は、「保護者と協力し、生徒が知識、技能、作業要領、自公表現の方法を習得し個人として、全人格的発達を養成する、フォルケスコールでは、生徒の認識力、創造力、向学心を伸ばし、経験の場及び勤労の場として熱中できる機会を与えるよう努める。それによって、自己の可能性に自信を持たせ、自己判断力と自己決定力を涵養する。フォルケスコールでは、生徒がデンマークの文化に親しみ、他文化及び人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする。


フォルケスコールは生徒が社会への積極的参加、共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務を学び、準備する場である。そのため、学校での教育や日常生活は自由な精神・平等・民主主義の上に成り立つものである。」(P仮要約)と定められています。139・


140頁・私なりにデンマークの教育目標を要約すると、デンマークの義務教育では、子供たち個人の人格を発達させ、「自己の可能性に自信を持たせ」「人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする」、さらに簡略すると「自己の能力に合わせ、人間と自然のため行動(貢献)を起こしなさい」とも読めます。そして行動を起こす場合「社会への共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務」「他文化及び人間と自然の相互関係の理解」を持って行動を起こすことを教えています。


また、デンマークの環境教育の目標では、「生態系における人間社会の問題として捉え、環境教育の中では、環境破壊、資源の分配と利用、人口増加、動植物の根絶問題に対して熟知した行動力のあり市民の教育を目標にします。」(5仮要約)と宣言し、ここでも「行動力」を説いています。

こうした目標は掲げたものの、実際に行動を起こすための国民を育てる教育とはどんなものかが問題になります。この問題に答える手掛かりが、デンマークの試験制度にあると私は思っています。140・


ここまで

 

 

 

 

 

デンマークの教育目標と試験制度・139頁・

卒業資格を厳しく審査する・140頁・

職に就くには資格が必要・142頁・

教育の機会均等・143頁・

企業家が生まれる仕組み・145頁・

「風のがっこう」開設までの顛末・146頁・

 


第1章・デンマークという国・国土は氷河の置き土産・ダルガスの原野開発会社・20頁・26頁・・



グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁から平成28年2月9日・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/262829-9a82.html

16:00 2016/02/09


引用


ダルガスの原野開発会社・20頁・

このようにダルガスの20歳から36歳の青壮年期は、ドイツと領土を争った激動の時代で、彼は軍人としてその渦中にいました。デンマークはドイツとの国土争奪戦争に敗北し、酪農に適した肥沃な平地が続くシュレスヴィヒ州とホルスタイン州を失うことで、実に国土の三分の一、人口の30%以上が減少します。これは国家存亡に危機です。

1865年3月、ダルガスはシルケボー市で開かれた「南ユトランドの母国との関係」と言う講演会に視聴者として参加しましたが、話を聞くだけでは収まらず、視聴者相手に「外に失ったものは内で取り戻す」、つまり、気持ちがあるのなら行動に移すべきだという有名な演説をしています。南の肥沃なとぢをドイツに取られてしまったが、嘆いても始まらない、その身持ちを胸に、国力回復の行動を起こすことを人々に説いたのです。これを記域に、ダルガスは国土開発を生涯のテーマに定め、邁進していきます。20・


21頁・翌1866年3月28日には早くも、ヒールの原野を開拓するために「デンマーク原野開発会社」をヴィボー市に設立しています。彼の計画に賛同し、率先して協力を申し出た人もわずかにいましたが、ダルガスは一人で各地の農民のもとを訪れ、ヒースの原野を開墾するように説得して回りました。ダルガスの行動力は今なおデンマーク人を突き動かしているようです。


「原野開発会社」の事業の中で重要な位置を占めたのが開墾地を乾燥と砂嵐から守るために防風林を植林する事業でした。ダルガスの植林事業は政府の補助金制度も導入されたことによって急速に拡大しました(表1参照)。


ダルガスの植林事業を始める以前、1860年のデンマークの国土面積に占める山林の割合は4・7%でしたが、1907年には8・3%に増えています。1907年当時、ヨーロッパ各地の山林面積の割合は、ドイツで26・2%、イギリスで3・7%、ヨーロッパ諸国の平均は33%でしたから、デンマークの山林面積はまだ低位なのですが、短期間のうちに山林の割合を増やしたダルガスの事業はデンマークでは、高く評価されています。21・


1995年におけるデンマークの山林・防風林の面積は約44万5000㌶で、国土面積の約10・3%を占めています。

1866年にダルガスが設立し、140年になろうとする「原野開発会社」は現在でも活動していて、国内の防風林の保全事業だけではなく、海外のでの植林事業、森林管理あるいは最終処分場から出るメタンガスの真央像量のチェックなど国内外において土を守る事業


農地を増やす・


22頁・平成28年2月9日 火曜日・

ダルガスが「原野開発会社」を設立し、ヒースの原野を開墾してのうちの拡大を図った結果、デンマークの農地面積は1861年に約245㌶から、20年後の1881年には約286㌶と約40万㌶の農地が増加しました。

1830年頃から1870年代の中頃までの約50年間、デンマークの農業は繁栄の時代を享受します。西ヨーロッパ諸国の人口増加と工業化の影響で、各国の食料需要が拡大し、農産物価格が高騰したため、ヨーロッパ諸国への農産物供給地になっていたデンマークの農業が発展したわけです。22・


23頁・しかし、それも長続きはしませんでした。鉄道と船舶による輸送のネットワークが整備され始めると、東ヨーロッパ諸国やアメリカからの安い穀物が西ヨーロッパ諸国へ大量に供給され始め、上昇を続けていた穀類価格が低下してきました。また、西ヨーロッパの各国政府は海外からの穀類に高率の関税を掛けて自国の農業を守る政策を採用し始め、これによってデンマークの農業は大きな打撃を蒙りました。23・


酪農「らくのう」への生産転換と協同組合方式・23頁・平成28年2月9日

このような農業の危機に直面して、農民たちは自らの利益を守るため、協同組合方式による酪農製品の加工工場や食肉解体工場を設立していきます。これが今日の酪農王国デンマークの基礎を築き上げていきます。

付加価値の高い畜産製品の輸出価格は穀類に比べて高値で安定していたこともあって、デンマーク農業の畜産への転換は軌道に乗っていきます。図1のように1876年から下がり始めた家畜、麦の生産者価格は、それぞれ91年、1901年から増勢に転換しています。23・


24頁・

表2は、協同組合数の推移ですが、穀類価格が暴落し始めた1880年代以降、たくさんの協同組合組織が設立されていることが分かります。

現在、規模拡大によって統廃合によって絶対数は減ったとはいえ、デンマークの酪農製品の加工工場や食肉解体工場は、今でも農民たちが共同所有する事業協同組合であり、株式会社ではありません。デンマークの農民たちが造り上げた協同組合とその精神が、今日のデンマーク国民の国を守る精神を創り上げたと言っても過言ではないと思います。

私も約10年間、養豚と穀類生産などの農場を経営していましたが、そこでつい愛のあった農民や農業関係の行政マンたちは時代の流れをよく読み、農業経営のあり方を巧みに変化させていました。また、農産品の研究開発にも常に怠らない熱心な農業経営者たちでした。例えば、1967年における豆類の耕作面積はわずか6500㌶に過ぎませんでしたが、30年後の1998年には10万㌶を超えています。

たしかに、デンマークの農家戸数と農業人口は毎年減少し、1971年には約13万5000戸あった農家戸数が、29年後の2000年には約5万4000戸に減り、農業人口も約20万人から約8万人に激減しています。(表3参照)。この30年の間にデンマークでも就業構造に大きな変化があったのです。しかし、デンマーク農業の特徴は、耕地面積が約300万㌶から約265万㌶と余り減少していない点です。24・ここまで・


25頁・

・農家戸数、農業人口が大きく減少しているにもかかわらず、耕地面積が余り減少していない背景には、国内外の状況に合わせて常に機械化と合理化、農業従事者の教育を通じて農業の改善を図ってきた、一貫した農業政策の存在がうかがえます。


よく知られているように日本の食料自給率はカロリーベースで約40%、そのあまりに低い自給率を高めることがやっと政府の政策課題に上ってきたようですが、日本と同様、農業人口が激減し、農家戸数が減少すると言いう社会現象が起こったデンマークの食料自給率は、動物性たんぱく質だけで見ると約300%を確保しています。デンマーク国民535万人の約3倍に当たる1500万人分の農産品を生産するという「農産物輸出大国」なのです。


農業部門の輸出額は農業人口の構成比からすれば膨大な額になり、例えば2000年における肉類と酪農製品(鶏卵含む)の輸出額は約377億クローネ(約5700億円)にも上っています。


とりわけ、デンマークは肉類の輸出国です。1999年の数値で見ますと、自給率はそれぞれ豚肉で490%鶏肉で214%、牛肉で115%、ミルクは100%です。自給率が大きく豚肉、鶏肉の輸出によって、寒冷の地では栽培できない農産品の輸入が可能になっています。日本との関係で見ますと、2001年の日本向け輸出豚肉の販売額は64億クローネ(約1000億円)で、日本人一人当たり約790円の豚肉を買った計算になります。ちなみに、2001年の対日輸出総額は148億クローネで、このうち豚肉の占める割合が約43%、衣料品26クローネ、略農製品・魚介類9億クローネになっています。25・


26頁・

デンマークの政治は、国民が安心して食べられる食料自給率体制の構築を一貫した農業・食料政策をとってきました。その成果が今日のデンマーク農業の自給率になって現れているのだと思います。


では、日本農業のたどった止めどのない自給率低下の道とデンマーク農業がたどった政策の分岐点は何だったのでしょうか?私には、日本国民の食料自給に対する考え方とデンマーク国民のそれの違いから来ているように思えてなりません。ヨーロッパの先進国ではドイツ、イギリス、フランスなど、デンマーク以外にも食料自給率が100%超えている国があります。


食料は空気、水と同様国民の生命を守るうえで不可欠なもので、これを確保することが国家の第一義的な義務であり、食料を国外に依存することの危険性を度重なる戦争の経験からヨーロッパ人は骨身に滲みて知っているのだろうと思います。つまるところ、戦争は食料とエネルギーに対して国境を境にして行う争奪戦だと彼らが理解しているからでしょう。26・


ここまで



引用


第1章・デンマークという国・国土は氷河の置き土産・13頁・

平成28年2月9日 火曜日・


デンマークの人口は約535万人です。北海道より約35万人少ない。北欧の小さな国です。国土面積は、九州より少し広い程度の約4万3000キロ法㍍で、地図でおわかり戴けるように、国土の大半が北海に突き出た半島からできています。この半島はドイツの北に位置して、スウェーデンと面しています。この半島、ユトランドは、デンマーク語でユーラン、男と言う意味です。

日本との距離は、成田空港から首都コペンハーゲンまで、シベリア廻りで11時間、直線距離で約9000㌔あります。デンマーク人はスウェーデン、のるうぃーと同じスカンジナビア人です。また、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語は兄弟語で、ひどい方言くらいの相違しかありません。デンマークは今では世界で28か国しかないと言われる王制がしかれ、一院制の議会内閣制をとっています。

デンマークの国土の特徴は何と言っても、平坦な土地と低い丘がどこまでも続くことです。一番高いヒルメルビアーと言う場所でも海抜が173㍍しかありません。14・


15頁・これ以外高い山はないのです。この国土の特徴は、ユトランド半島の成り立ちに原因しています。現在のユトランド半島のほとんどは、ウエシェル氷河期約(200万年前から現在に至る時代)の終わり頃(11万5000年から1万年前)出来上がったと言われています。ユトランド半島になぅった太一は厚い氷の下にあったため、氷河が溶け去った後も、氷河によって運搬され堆積した岩くず(氷水石=ひょうたいせき)に覆われました。14・


15頁・

ユトランド半島は、西南部と西北部に分けて考えることができます。西南部では約10万年前、氷河が溶け始めてヒースの丘と平野が広がりました。氷河の消えた後には氷堆石が残りましたが、現在でも、中部から西南部にかけては地表から20センチ下の地層は氷堆石(砂利上あるいは砂状)からできています。西北部では、これより遅れて約1万年前(1万2000年前という説もある)から氷河が溶け始めたと言われています。


現在、デンマークの国土の約63%(269万ヘクタール)がのうちですが、わずか20センチの表土の上で作物を作っています。この耕土をデンマーク人は営々として養ってきたのです。この耕土の下は、氷河の置き土産、砂利の層です。氷堆石という貧栄養状態の土壌しか持たなかったデンマークは現在、肉類や酪農(らくのう)製品を世界に供給する農業国になっています。また、「北欧の福祉国家」と呼ばれ、「自然エネルギー先進国」とも呼ばれるようになっています。

なぜ、このような「国のかたち」が出来上がったのか、駆け足でデンマーク人が歩んだ近代史を紹介してみたいと思います。


15・平成28年2月9日 火曜日

「デンマークを育てた最良の息子」15頁・平成28年2月9日 火曜日・

デンマークの近代史と言っても、ほとんど日本人にはなじみがないと思います。デンマーク人で日本を知られている人物と言えば何と言ってもアンデルセン童話で知られる、ハンス・クリスチャン・アンゼルセン、実存主義哲学の思想家と言われるソーレン・キルケゴール、音楽家のカール・ニールセン、物理学者のニルス・ボーアと言ったところでしょうか。15・


16頁・

しかし、この本ではデンマークの近現代史を語るうえで欠かすことのできないE・M・ダルガスを紹介しましょう。ダルガスと言っても、日本では知る人もいないでしょうが、彼はデンマーク近現代史における傑出した人物、「デンマークを育てた最良の息子」と称されています、このエンリコ・ムリオス・ダルガスの生涯をたどるだけで、今日のデンマークの国あり方が分かるほど、デンマークにとっては象徴的な人物なのです。

ダルガスは1828年にイタリアで生まれ、66歳でデンマークで生涯を終えています。ダルガスの父方の先祖はフランス人で、南フランスに住んでいましたが、曾祖父(アントニエ・ダルガス)がスイスのローザンヌに移住し、1756年にダルガスの祖父(ジェーン・マック・ダルガスが生まれています。

スイスで生まれたるガスの祖父は、牧師になりますが、フレデリシアの教会に牧師の口があったため、1782年妻のマリエッタとともにデンマークに移住します。マリエッタは三人の男子を生み(長男カール、次男ジーン、三男クリスチャン・アウグスト、次男のジーンが長じてダルガスの父親になります。16・


17頁・


ダルガスの父親、ジーン・アントニエ・ダルガスは、イギリスで商人になる教育を受け、イタリアのナポリで商店を経営していましたが、デンマーク女性のヨハナ・ステボルトと結婚し、彼女は1828年にダルガスをイタリアで生みます。しかし、47歳の若さで夫が死亡したため、ヨハナは七歳のダルガスを連れて祖国デンマークに戻ります。デンマークで学校教育を受けたダルガスは、長じて軍人を志望し1846年夏、18歳で陸軍士官学校の入学試験に合格しました。

余談ですが、ダルガスの直系をたどっただけでもその足跡は、フランス、スイス、デンマーク、イタリア、イギリスとヨーロッパ各地に印されており、ヨーロッパ人の国を超えた交流の強さが分かります。デンマーク人の家系の,三代を遡ると必ずその家系の中にヨーロッパ各国からの移民がいますし、後で触れますが、現在の人口構成でも難民・移民が約七・四%を占めています。ちなみに日本に住む外国人の数は約160万人、人口比で約一・三%ですから、デンマークに住む外国人の数がどれほど多いかわかると思います。なぜ、デンマークに住む、住むことを希望する外国人が多いのかと言うと、「安心して生活できる生活環境があるため」だと私は考えています。その生活環境については折に触れて紹介しましょう。


ここまえ・平成28年2月9日 火曜日


ドイツとの「三年戦争」・17頁・さて、ダルガスが陸軍士官学校を卒業して軍人になった当時、デンマークではドイツとの間で戦争が起こっています。17・


一八頁・地図で分かるように、デンマークはその南側をドイツと接し、1800年頃ドイツとの国境をめぐって紛争が絶えませんでした。1848年、デンマーク政府が学校や官庁でデンマーク語の使用を強制したことから、ドイツ系住民が大半を占めていたホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州でドイツへの帰属を掲げた独立戦争が勃発します。

この独立戦争は1848年から50年まで三年間続いたことから、デンマークでは「三年戦争」と呼ばれています。デンマークはこの「三年戦争」には勝利し、ホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州の住民のドイツに帰属する希望は実現されませんでした。ダルガスは、根「三年戦争」に砲兵将校として従軍しています。


1853年、陸軍士官学校を卒業したダルガスは、工兵隊中尉に昇進し翌年五月には工兵隊道路局へ配属され、ユトランド半島中部のヴィボー市に駐在しました。ダルガスは要塞工事や堡塁工事に携わる一方、ランダース市からリンクービン市に至る道路の工事監督を務め、この道路工事を通してユトランド半島中部から西部にわたる広大なヒースの原野が未開拓であるという祖国に現状を知ります。

「三年戦争」はデンマークの勝利に終わりますが、その後もホルスタイン州などドイツ系住民による抵抗・独立運動は収まらず、その抵抗運動に疲れたデンマーク国家は1863年11月、ユトランド半島南部のアイダー川を新たな国教として、ホルスタイン州をドイツに割譲するという政策(アイダー政策)を決定します(地図のB参照)。


しかし、翌年1864年1月、この新国境設定をデンマーク政府の弱気の現れと判断したプロイセン首相(害相兼任)のオットー・ビスマルク(1815年~98)は、ホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州を占領する好機ととらえ、アイダー政策の撤回をデンマーク政府に迫るとともに、ホルスタイン州に軍隊を送り込みました。18・


戦争開始からわずか三ヵ月、四月18日の未明、デンマークの最後の砦、デューブル要塞はドイツ軍の一斉攻撃を受けます。優れた銃器で装備された一万人のドイツ歩兵隊に堡塁を攻撃され、8000発を超える砲弾を浴びせられ、デューブル要塞は陥落します。

その後、デンマークにとっては困難な和平交渉が続き、10月30日にはホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州をドイツに割譲するという内容の「ウイーン和平条約」が締結されました(地図C参照)。19・


20頁・この結果、デンマークは国土面積の三分の一(5万8000㌔平方メートルから3万9000キロ平方メートル)を失い、人口も250万人から170万人に減少しました。ちなみに1920年には、シュレスヴィヒ州で住民投票が行われ、このときドイツ領に編入されたシュレスヴィヒ州の北部は再びデンマークに帰属します。シュレスヴィヒ州が現在のデンマークとドイツの国教になっています。20・っここまで

19頁・


 

 

 

 

 


「デンマークを育てた最良の息子」15頁・

ドイツとの「三年戦争」・17頁・

ダルガスの原野開発会社・20頁・

農地を増やす・22頁・

酪農「らくのう」への生産転換と協同組合方式・23頁・

グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁・

学校はほぼ100%公立・29頁・

キリスト教が国教・29頁・

デンマーク王国である・31頁・

200年前、アンデルセンが生まれた・32頁・

アンデルセンの作品の世界・36頁・

讃美歌をかいたアンデス線・39頁・

アンデルセンの生きた時代の国家予算・40頁・

世界で一番後進国を援助している・42頁・

教育費は無料・43頁・

「扶養法」の精神・44頁・

入院費・出産費用はすべて公的負担・45頁・

住宅所有のすすめ・48頁・

高い税金・48頁・

15歳から所得を自己申告・49頁・

「個人番号制度」の導入・50頁・

女性の社会進出・51頁・

税負担と「共生への責任感」・53頁・

2/9/2016 5:31:06 AM


教育の機会均等・

143頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークでは資格と能力に基づいて職業選択が行われますが、国民が資格と能力を身につける機会が平等に保証されなければ何の意味もありません。

例えば、新たな資格を得たい人、転職のために別な資格を得たい人たちは、職業訓練所、夜間に開校している大学に入ります。製造業の中堅幹部あるいは経営陣の学歴を見ると、工業大学で機械技師、電気技師の資格を取得した後、数年してから夜間開校している商業大学で、五年間、経済学の勉強をしている人が多数います。エンジニアとしての学歴の上に商学士の卒業資格を取得するものです。143・

一四四頁・私かもこの種の大学では、教科書の半分以上が英語の本を使うため、彼らは自国語以外に英語ともう一ヵ国語を仕事で通用する水準でマスターしています。

私が最後に学んだ中部ユトランド商科大学は、現在、経営と工業を一緒にした商工だが国生まれ変わりましたが、その背景には産業界が必要とする経済面・技術面が同時にわかる幹部の要請があったのだろうと思います。企業の中堅幹部、経営陣になるための学校には、オーフス商大、コペンハーゲン商大、南ユトランド大学などがあり、IT産業に就きたい人たちのためにはコペンハーゲンIT大学があり、学士レベルかマスターレベルかが選択できるようになっています。

この種の大学に編入するには、その学部が要求する「基礎資格」を持っていることが条件になりますが。年齢の制限はありません。例えば、経済学部で勉強した人が工業大学に編入するためには「基礎資格」とそして高等学校卒業レベルの数学、物理、化学などの資格を要求されますが、その「基礎資格」を習得できる教育機関(たとえば、成人教育センター、略称VUCと呼ばれる学校)が別途あります。

このように新しい資格を得るために、多くの人が夜間の大学に通っていますが卒業資格はデンマーク国内だけではなく、ノルウェーとスウェーデンでも通用します。この種の大学は国立と公立の二種類ですが、義務教育とは違って授業料は自己負担になります。たとえば、ヘアニング市のある商工大学は基礎課程二年間と専門課程二年間に分かれていますが、二〇〇二年現在、四年間の授業料は約55万円です。

大学の授業は夕方六時から夜九時半ごろまでですが、サラリーマンが夜間の大学に通学できるのは、デンマークの労働時間が週三七時間で、午前八時からの勤務の人は午後四時には退社できるからです。144・

145頁・残業手当が高額なため、ほとんど残業がないことも背景にあります。また、多くの経営者は通学する従業員に交通費を補助したり教科書代を支給したりして、就学を進めています。

社員が転職するための資格を得るのを援助するのは、日本の企業社会の常識では理解できないかもしれませんが、国民が学ぶことが回り回って企業にとってもプラスになることを経営者は理解しているため、さまざまな優遇を与えているのです。


企業家が生まれる仕組み・145頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークの教育の成果は、年間約1万6000人と言われている企業家となって現れます。大学を卒業して、企業に頼らず自ら起業する若者が多いことがデンマーク社会の特徴です。若い企業家の存在は使える学問と行動力を身につけて社会に出ていくことの一つの証左だと私は考えています。もちろん起業しても、何年も事業を継続できないで挫折するケースも多いのですが、失敗しても諦めず、再起をはかる人が多いのも特徴と言ってよいでしょう。


事業に失敗した経験がある事業家と、失敗をしたことのない事業家がいた場合、あなたならどちらに投資をしますか?日本ではあの人は事業に失敗したというレッテルがいつまでも付いて回り、そのことが事業化としての再起を妨げることが往々にしてあるのですが、デンマーク社会では、事業の失敗であっても、事業化として再起できる事業を起こせば良いのであって、失敗した人間へのレッテルではないということです。145・


企業家が生まれる仕組み・


145頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークの教育の成果は、年間約1万6000人と言われている企業家となって現れます。大学を卒業して、企業に頼らず自ら起業する若者が多いことがデンマーク社会の特徴です。若い企業家の存在は使える学問と行動力を身につけて社会に出ていくことの一つの証左だと私は考えています。もちろん起業しても、何年も事業を継続できないで挫折するケースも多いのですが、失敗しても諦めず、再起をはかる人が多いのも特徴と言ってよいでしょう。

事業に失敗した経験がある事業家と、失敗をしたことのない事業家がいた場合、あなたならどちらに投資をしますか?日本ではあの人は事業に失敗したというレッテルがいつまでも付いて回り、そのことが事業化としての再起を妨げることが往々にしてあるのですが、デンマーク社会では、事業の失敗であっても、事業化として再起できる事業を起こせば良いのであって、失敗した人間へのレッテルではないということです。145・


146頁・

実際、事業に失敗しても彼には再起の道が開かれています。国家が国民の生活を守るという手厚い社会保障制度によってたとえ事業に失敗しても、生活保護を受けることによって日常生活を支障なく送ることができ、日本のように銀行融資の条件に個人補償や第三者の連帯保証を求めることによって、事業に失敗すると本人はもとより家族や親せき、知人有人までその累が及び、社会的にも大きな指弾を受けるということはないのです。

たとえば、私が住んでいるツアイハイとう町は人口1万人ですが、とりわけサラリーマンから独立する企業家が多く出ています。床張専門店の従業員から独立し床張りの会社を設立した30歳のミケル・ハンセンさん20年間大工として勤務していた会社を辞め、独立した41歳のベンタ・ソーレンセンさん、機械職人をやめ、蜂蜜製造業をスタートさせた40代のヨーン・ミッケルセンさんの例などたくさんあります。


もちろん事業は成功するかどうかやってみないとわかりませんが、それぞれが失敗したらやり直せばいいという気持ちで、悲壮感はありません。そのことが彼らの活力になっているように私は思えます。彼らの事業が軌道に乗ることによって新たな雇用が生まれ、町の人口が毎年増加しています。146・


 

「風のがっこう」開設までの顛末・


146頁・平成二十八年二月七日・

私の住んでいる町のことに触れたついでに、この町にたどり着くまでの経緯と現在私が運営している「風のがっこう」についても紹介しましょう。

初めに書きましたが1967年にデンマークに渡り、最初の約一年半はデンマーク語を勉強するために多くの時間を使いました。146・


147頁・農業学校の校長先生の紹介でビリビアの村の農場に住まわせてもらい、町内の小学校に通学しました。日本人の大学三年生がにわか小学生になったわけです。

翌68年9月には、コペンハーゲン大学政治経済学部の一年生に入学しますが、外国人としての私の入学試験はデンマーク語で簡単な日常会話ができるかどうかを確かめる程度の簡単なものでした。無事試験に合格して大学に通い始めましたが、外国人は私とイスラエルから留学してきた男性一人、残りは全員デンマーク人でした。

コペンハーゲン大学での勉強、デンマーク大使館勤務などのため約10年間ビリビアの町を離れましたが、1979年、農業を購入したため、またこの村に戻ってきました。この村はその後四つの村と合併し、ツアイハイと言う町になっていました。この辺りはもともと農業が主体の農村地帯でしたが、製造業とサービス業が増え、特に製造業に従事する人口の流入が著しく、全国の人口平均が1・1%減(1983年から1994年)に対して、37・9%も増加しています。全国平均の人口増加率が7・4%(1970年~1997年)に対し、この町では37・5%も増加しています。


こうした町の発展は、町民の総意で実現したと言ってもよいでしょう。議員が「将来町のビジョン」を持っており、それを実行する町役場の職員がいます。「風のがっこう」の誕生の経緯にもそれが遺憾なく発揮されました。

私は1991年1月から風力発電機の対日輸出業を始めますが、1995年頃から日本からの風力発電の視察に来る方々が増え始め、その人たちの研修の場が必要になってきました。147・


148頁・

遠く日本から来た方々を歓迎し、くつろいでいただいた上で、3,4日間の日程でデンマークの事情をレクチャーしたり、近郊の風力発電所やバイオプラントを見学する基地になるような、研修と宿泊を兼ねた施設がほしいと考えていました。すると1996年の秋、隣の家が売りに出ました。新築の母屋(総面積450平方メートル)と多目的に使える建物数棟が付属した農地を含めた土地面積約6・5㌶(約2万坪)の売り物でした。

私が構想していた「小規模な研修センター」にぴったりの物件でした。しかし、農地に立っている建物を農業以外の目的で使用する場合、町議会の審査・許可と県の許可を得る必要がありましたが。私から許可申請願いに対し、町議会は約2週間で許可を出し、しかも町は県に対して「許可推薦状」を添付してくれました。148・


149頁・県は、受理後何と八日後に許可を下ろしました。私が町議会に許可申請したのは、1996年11月18日、そして12月19日にはもう県の許可が出たのです。


企業家にとって必要なことは、行政の行動力です。行政の書類審査の時間が短いほど、次の手立てが打てるためです。私の町の人口が増える背景にはこのような行政の行動力があると思っています。

私が町議会に対して提出した申請書はわずかA四判一枚で、「不動産さんを購入し研修センターと事務所として使用したい旨の理由と許可願い」と自由なスタイルで書いたものでした。

しばらくして、町長に会う機会があり、尾根意を言うとともに許可が早く下りたので驚いていると伝えたところ、「この町を守るのは我々であり、中央政府の役人でも県庁の役人でもありません。149・

150頁・法律は拡大解釈しても、町民のために利用します」という返事が返ってきました。

町長の近発言に強烈な自治意識を感じました。日本の地方行政でこれだけの覚悟をして街づくりに当たっている町長が幾人あるだろうかと考え込んでしまいました。

さて、建坪136坪の新築母屋と数棟の付属建物、総面積約2万坪の農家の売買価格は約4000万円でした。手持ちの購入資金はゼロ、全額を融資で購入したいというもういでに、この不動産を担保にしたとはいえ、銀行は何の注文を付けることなく全額を融資してくれました。町内にある銀行員の理解、開校に必要な改造工事に当たってくれた業者を含め、地域住民が全面的に協力してくれました。


こんな経緯で1997年6月に研修センターとして開校しましたが、開校八年で研修者は約1300名に達しようとしています。「風のがっこう」の開校で、町内のバス会社、ホテルの食堂、商店などに観光収入が生まれています。また、「風のがっこう」が日本のテレビ、雑誌、新聞によって紹介されることで、この田舎町は日本にも紹介され、デンマークでも話題になっています。150・

平成28年2月7日 日曜日


 

 

企業家が生まれる仕組み・145頁・

「風のがっこう」開設までの顛末・146頁・

 

 


デンマークの教育目標と試験制度・139頁


平成28年2月6日 土曜日・


デンマークの義務教育は、幼稚園クラスから九年生(子供の事情に合わせて10年生まで)の義務教育を受けることができます。デンマークでは義務教育を受ける場所をフォルケスコール・国民学校)と呼んでいます。


国民学校の教育目標は、「保護者と協力し、生徒が知識、技能、作業要領、自公表現の方法を習得し個人として、全人格的発達を養成する、フォルケスコールでは、生徒の認識力、創造力、向学心を伸ばし、経験の場及び勤労の場として熱中できる機会を与えるよう努める。それによって、自己の可能性に自信を持たせ、自己判断力と自己決定力を涵養する。フォルケスコールでは、生徒がデンマークの文化に親しみ、他文化及び人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする。

フォルケスコールは生徒が社会への積極的参加、共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務を学び、準備する場である。そのため、学校での教育や日常生活は自由な精神・平等・民主主義の上に成り立つものである。」(P仮要約)と定められています。139・


140頁・私なりにデンマークの教育目標を要約すると、デンマークの義務教育では、子供たち個人の人格を発達させ、「自己の可能性に自信を持たせ」「人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする」、さらに簡略すると「自己の能力に合わせ、人間と自然のため行動(貢献)を起こしなさい」とも読めます。そして行動を起こす場合「社会への共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務」「他文化及び人間と自然の相互関係の理解」を持って行動を起こすことを教えています。

また、デンマークの環境教育の目標では、「生態系における人間社会の問題として捉え、環境教育の中では、環境破壊、資源の分配と利用、人口増加、動植物の根絶問題に対して熟知した行動力のあり市民の教育を目標にします。」(5仮要約)と宣言し、ここでも「行動力」を説いています。

こうした目標は掲げたものの、実際に行動を起こすための国民を育てる教育とはどんなものかが問題になります。この問題に答える手掛かりが、デンマークの試験制度にあると私は思っています。140・


卒業資格を厳しく審査する・

140頁・平成28年2月6日・


デンマークでは、義務教育(九年生あるいは10年間)から高等学校(三年間)あるいは職業学校に進む際は入学試験が無く、また高等学校から大学(五年間から七年間)に入学する際にも入学試験はありません。大学の学部の資格は、高等学校の成績に応じて与えられるのです。

義務教育八年生(日本の中学二年生に当たる)から高校入学資格を得るための試験が始まります。140・


141頁・

試験は筆記試験と口頭試問の二つで、筆記試験は通常四時間、教科書、参考書などの持ち込みが認められ応用問題をレポート形式で回答していきます。口頭試問は普通二〇分で、教科書の内容を理解しているかどうかの暗記試験が中心になります。再転換は、担任の先生とその教化を教えている他の学校の先生が当たります。

このようにし義務教育八年生から、教科ごとに徹底して筆記試験と暗記試験を繰り返して行い、義務教育を終了するまでに社会に出て必要な知識を身につけさせていきます。


普通高校の数理学科を卒業するためには、一五教科の筆記試験と口頭試問において全教科平均で13万点のうち六点以上の成績を採り、三年間を通じて提出する約一五〇本のレポート全部に六点以上の平均点を取る必要があります。高等学校の卒業資格試験で、13万点のうち平均点が10点あれば、どこの大学のどの学部にも無条件では入学できます。高校卒業試験の成績がそのまま大学入学資格になり、大学卒業資格は確実な国家資格でもあるわけです。

私がコペンハーゲン大学の政治経済学部で学んでいた時、会計学の筆記試験を受けましたが、試験時間は八時間にも及びました。また、1990年、再び中部ユトランド商業大学会計学科で学んだ時には、20分の口頭試問で五教化を対象にした厳しい試験を経験しました。大学の卒業論文の採点には担任教授以外、他の大学の教授、業界からの学識者を含め、、六名が当たります。

外部から採点官を起用する制度は、合格基準の全国的な均一性を保証し、卒業資格が国家資格になる質を担保します。担任だけが採点に当たるわけではないので、日頃の情実が要りこまないという。141・


142頁・また、ノルウェー、スウェーデンと卒業資格を同一レベルにしているため、例えば、博士号を取る場合は三つの国から試験官が集まり、審査を受けることになっています。


職に就くには資格が必要・

142頁・平成28年2月7日・


デンマークでは、どこの大学を出たという学歴が問われるのではなく、大学で何を学んだかの学習履歴が問われます。例えば、求人広告では、雇用先が求める具体的な資格が明記され、製造業では、機械技師、電気技師、あるいは事務員と言う職種で求人が出されます。142・


143頁・

応募にはその職種に該当する「資格書」を添付する必要があります。


製造業で経営陣に上り詰めるのには、機械技師、電気技師の資格だけではせいぜいラインのスタッフ止まりで、よほどのことがないと経営には参画できません。技術的な資格に併せて、組織論、経営理論、会計学、会社設立法、税法、商法など、会社の経営に必要な科目を大学で履修し、その「卒業資格」を得る必要があるのです。

デンマークでは資格と能力に基づいて職業選択が行われるという例は、転職が一般的に行なわれていることからも分かります。その転職は社長職にまで及び、オーナー会社は別としてほとんどの株式会社の社長は会社内から選択するのではなく、求人広告を出し、応募者の中から経営者にふさわしい資格と能力を持つと思われる人物を選任する仕組みになっています。ここまで・


ここまで・平成28年2月7日 

引用

教育の機会均等・143頁・例えば、新たな資格を得たい人、転職のために別な資格を得たい人たちは、職業訓練所、夜間に開校している大学に入ります。製造業の中堅幹部あるいは経営陣の学歴を見ると、工業大学で機械技師、電気技師の資格を取得した後、数年してから夜間開校している商業大学で四、五年間、経済学の勉強をしている人が多数います。エンジニアとしての学歴の上に商学士の卒業資格を取得するものです。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/143-e5fc.html

9:07 2016/02/07

 

普通高校の数理学科を卒業するためには、一五教科の筆記試験と口頭試問において全教科平均で13万点のうち六点以上の成績を採り、三年間を通じて提出する約一五〇本のレポート全部に六点以上の平均点を取る必要があります。高等学校の卒業資格試験で、13万点のうち平均点が10点あれば、どこの大学のどの学部にも無条件では入学できます。高校卒業試験の成績がそのまま大学入学資格になり、大学卒業資格は確実な国家資格でもあるわけです。140,

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/140-49aa.html

5:59 2016/02/07

宮脇 昭氏×山田 英生対談・地球温暖化、森林破壊、砂漠化・・・。地球規模で広がる環境破壊の影が、私たちの周辺にも忍び寄っています。 経済効率優先の自然開発と都市型ライフスタイルが招いた地球の危機。 「ミツバチの飛び交う自然が失われたら人間は、もう生きて行けません」と語る山田代表、一方、「生態系学的な脚本で緑復活を」と呼びかける宮脇さん。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-dd59.html

10:13 2016/02/06

第7章・国民を育てる教育・起業家を育てる社会・平成28年2月6日 土曜日・市民が育ててきた環境産業・136頁・再生可能エネルギー源について、とりわけデンマークで取り組まれている風力発電の歴史と現状、バイオ学の利用、廃棄物発電のステムを紹介してきましたが、この章では北海道の約半分の国土面積しかなく、近年になって北海の石油の採掘が可能になったとしても

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/72826-7048.html

9:53 2016/02/06

みちのりホールディングス・松本順・路線バス運賃値下げ・混乗・混載・バス・みちのりホールディングス|メッセージ公共交通ネットワークの最適化 地域の観光産業への参画と貢献 環境適応型の新しい交通システムの確立 公共交通ネットワークの最適化

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-1850.html

16:09 2016/02/05

 

第10章・日本はデンマークから学ぶものがあるか・第10章・・「家庭における両親の役割は子供を育てて、その生活を守るために働くのだとすれば、政治家、役人は国を守り、国民を守る義務がある」と言う教授の信念は、国家観、行政に携わるものへの期待感を端的に表すものでした。平成28年2月4日

17:02 2016/02/05平成28年2月4日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/2824-95e9.html

15:13 2016/02/04

 

2016年の内外情勢を展望する~東京財団研究員討論会(国内問題)

https://www.youtube.com/watch?v=mYjNsIZ7-ik&utm_source=mailmaga_20160204&utm_medium=email

14:59 2016/02/04

 

ほめることで、すべてが好転するという成果があらわれたことを、同志社大学・政策学部教授の太田肇教授に共同研究して頂いていますが、「ほめ達!」理論もきちんと、後付けで証明されているのです。見習おう。  GDP4%の日本農業は自動車産業を超える (講談社+α新書) 新書 –

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/02/gdp4-5e99.html

17:52 2016/02/03

 

第8章・デンマークという国の政治・国政選挙、地方自治地選挙におけるこの高投票率は日本では考えられないものでしょう。この投票率の高さは、国民と政治の距離が極めて接近していることの一つの現れだと思います。この国民性は学校教育、とくに歴史教育の成果、家庭で政治が語られる機会の多さ、つねに国全体の問題を取り上げて国民的な論議を促しているマスコミなどが作り上げてきたものだと思います。平成28年2月3日 水曜日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/82823-0abe.html

17:45 2016/02/03

 

デンマークという国 自然エネルギー先進国―「風のがっこう」からのレポート 単行本  – 2006/2 ケンジステファンスズキ (著) 資源の持たないデンマークでどうしてこんなに水準の高い、教育、医療、福祉社会を実現出来たのか?人が生きるために必要な水と空気を汚染から守り、食料とエネルギーの国内自給に努力し、「弱い者を助ける」という政治の愛情が感じられる社会。デンマークから学ぶものがあるとすれば、国民の生活を守る政治のありかただ。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/20062-a299.html

15:42 2016/02/03

 

第10章・借金の残さないデンマーク・ツケを残す日本・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/post-cced.html

6:22 2016/01/30

 

ここまでいれた・2016年1月30日 (土)?「名古屋地域委員会」 名古屋地域委員会 ・・・・・   内田 良子(うちだ りょうこ、1942年 - )は、日本の心理カウンセラー

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/1942---0848.html

http://www.city.nagoya.jp/

http://www.city.nagoya.jp/mayor/category/359-0-0-0-0-0-0-0-0-0.html

5:17 2016/01/30

 

河村たかし 名古屋市長 2010.4.14

https://www.youtube.com/watch?v=0AqrDtHdLh0

15:34 2016/01/29

河村たかし名古屋市長報道番組出演3/3

https://www.youtube.com/watch?v=GsBz8t6BArs

15:13 2016/01/29

下條村 自治体はこうやって運営する 河村市長も同意? 1/2

https://www.youtube.com/watch?v=z8PwWydCDMQ

11:15 2016/01/29

 

2016年1月29日 (金)この例のようにデンマークと言う国では国民の意思が政治に直接反映するシステムが出来上がっています。「国家運営」に国民1人一人が参加しているという実感が持てる国になっています。こうした意識の形成に学校教育が大きな役割を果たしています。166・第9章 教育の目標は「国家運営」に参加する国民をつくること・平成28年1月29日・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/9-28129-72e2.html

8:27 2016/01/29

 

2016年1月28日 (木)第7章 福祉制度をつくり出したデンマーク・福祉を考えなかった日本・平成28年1月28日 木曜日・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/7-28128-deb6.html

11:09 2016/01/28

 

2016年1月28日 (木)行政官僚と産業界との癒着は封建制度時代から引き継がれている国のかたちと・・・・・デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか 単行本–2008・2 ケンジステファンスズキ (著)

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/20082-e7ed.html

8:51 2016/01/28

 

・2・地方自治無くして民主主義国家はあり得ない・84頁・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/post-46fe.html

10:11 2016/01/27

3年前に自然養鶏を始めた・・・らの遺言 新書 – 2015129 倉本 聰 (著) 数多くの演劇やドラマ作品を通じて、自然環境の破壊や社会秩序の乱れについて警鐘を鳴らし続けている著者の最新エッセイ。貧しくはあったが光と幸せに満ちていた昭和の時代を、80歳になったのを機に自らの体験と独特の切り口でふりかえる。日本人は今後どのように生きていくべきかを考える上での指針となる一冊。全国自然養鶏会は中島正氏の著書「自然卵養鶏法」に共感し、循環農業の一環としての自然養鶏を確立すべく、情報交換や交流会を行っています。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/2015129-80-c9dc.html

8:40 2016/01/27

 




引用宮脇 昭氏×山田 英生対談・地球温暖化、森林破壊、砂漠化・・・。地球規模で広がる環境破壊の影が、私たちの周辺にも忍び寄っています。 経済効率優先の自然開発と都市型ライフスタイルが招いた地球の危機。 「ミツバチの飛び交う自然が失われたら人間は、もう生きて行けません」と語る山田代表、一方、「生態系学的な脚本で緑復活を」と呼びかける宮脇さん。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-dd59.html

10:13 2016/02/06


第7章・国民を育てる教育・起業家を育てる社会・平成28年2月6日 土曜日・


市民が育ててきた環境産業・136頁・

前章まで再生可能エネルギー源について、とりわけデンマークで取り組まれている風力発電の歴史と現状、バイオ学の利用、廃棄物発電のステムを紹介してきましたが、この章では北海道の約半分の国土面積しかなく、近年になって北海の石油の採掘が可能になったとしても、とくに資源を持たないデンマークが世界の中でも生活レベルの高い生活と社会福祉を築き上げてきた理由をデンマーク社会の国民教育のあり方から探っていきたいと思います。

デンマーク人の「共生の精神」については初めに紹介しましたが、理想主義と人道主義が無ければ、デンマークの再生可能エネルギーの導入とその根づきはあり得なかったと私は考えています。

風力発電は「風まかせ」であり、バイオ学は、糞尿と言う臭い物を原料にします。廃棄物のリサイクルにしても「汚い」物相手です。それにもかかわらず、デンマーク人は、「風力発電」施設をすでに約6500基も建設し通常の都市で電力消費量の約15%に当たる約50億kW時の伝記を発電させています。136・

137頁・デンマークの世論調査会社ソナーは、2001年6月18日、17歳以上の1258名を対象に「デンマークは継続して新規の風力発電を増設し、風力発電による発電量の割合を増やすべきか」と伊アンケート調査をしています・(表1・参照)。

2001年11月20日の総選挙で社会民主党と社会自由党の連立政権が破れ、保守党、自由党の連立政権に交替しましたが、この世論調査で見る限り、現在設置された風力発電が多すぎると思っている国民はわずか7%しかいません。もし、保守党、自由党の新政権が風力発電所への規制を厳しくしたのなら、次期総選挙で敗退する可能背も充分あります。

なぜなら、今日のデンマーク環境産業を育てた背景には市民の力が大きく働いているのです。例えば1975年、オレラップ教員学校の四人の学生が物理学のレポートで、デンマークの再生可能エネルギーの実態調査を行いましたが、このレポートは翌年、全国の学校に回覧されたばかりでなく政府のエネルギー広報委員会の資料として使われ、再生可能エネルギーの存在を知らしめるのに大きな役割を果たしました。137・


138頁・平成28年2月6日 土曜日・ここまえ

また、学生と教員が一緒になって小型の風力発電機を製作し、学校の電力供給用して稼働させている国民高等学校も数多くあります。

今日、世界最大の風力発電機メーカーに成長したベスタス社の前身は農耕器具メーカーでした。このメーカーが風力発電機の開発を始めた当初(1977年頃)は風力発電に関する知識を持ったエンジニアは一人もおらず、ツビンド風力発電機を完成させた開発関係者や市民の協力を得てきました。また、デンマークで三大風力発電機メーカーに成長したボーナス風力発電機も1983年までは農地への水撒き機械を製造していた会社で、開発当初、ツビンド風力発電機を参考にしたり、フォルケセンター(「再生可能エネルギーに関する北西ユトランド国民センター」)のアドバイスを得てスタートを切っています。風力発電機を開発するために当初から専門技術者がいた会社は、現在NEGミーコン社と呼ばれているメーカーだけでした。


関係者や市民の協力を得て開発がスタートしたのは風力発電機だけではありません。バイオガスプラントも農民が手掛けたものでした。1973年には、バイオガスで100立方㍍の住宅暖房を実現した農民が現れ、1980年後半にはバイオ学プラントの失敗が続出して開発の灯りが消えるかに見えた中で研究を支え続けた農場主がいました。これらの人々は特にエンジニアの資格を持っていたわけではなく普通の農民、市民でした。


私はデンマーク市民のこの伝統を「理想主義と人道主義をもとにした行動力」と呼びたいと思っています。138・


139頁・デンマーク人の理想主義(人生の意義を、理想を実現するための努力に置く思想)、人道主義(人間愛を根本におき人類全体の福祉の実現を目指す立場。「広辞苑」の解説)の精神はどこから生まれてきたものなのでしょうか。これに答えるためには、デンマークの学校教育の目標と制度を語らなければならないと思います。


デンマークの教育目標と試験制度・

139頁・平成28年2月6日 土曜日・


デンマークの義務教育は、幼稚園クラスから九年生(子供の事情に合わせて10年生まで)の義務教育を受けることができます。デンマークでは義務教育を受ける場所をフォルケスコール・国民学校)と呼んでいます。


国民学校の教育目標は、「保護者と協力し、生徒が知識、技能、作業要領、自公表現の方法を習得し個人として、全人格的発達を養成する、フォルケスコールでは、生徒の認識力、創造力、向学心を伸ばし、経験の場及び勤労の場として熱中できる機会を与えるよう努める。それによって、自己の可能性に自信を持たせ、自己判断力と自己決定力を涵養する。フォルケスコールでは、生徒がデンマークの文化に親しみ、他文化及び人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする。


フォルケスコールは生徒が社会への積極的参加、共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務を学び、準備する場である。そのため、学校での教育や日常生活は自由な精神・平等・民主主義の上に成り立つものである。」(P仮要約)と定められています。139・


140頁・私なりにデンマークの教育目標を要約すると、デンマークの義務教育では、子供たち個人の人格を発達させ、「自己の可能性に自信を持たせ」「人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする」、さらに簡略すると「自己の能力に合わせ、人間と自然のため行動(貢献)を起こしなさい」とも読めます。そして行動を起こす場合「社会への共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務」「他文化及び人間と自然の相互関係の理解」を持って行動を起こすことを教えています。


また、デンマークの環境教育の目標では、「生態系における人間社会の問題として捉え、環境教育の中では、環境破壊、資源の分配と利用、人口増加、動植物の根絶問題に対して熟知した行動力のあり市民の教育を目標にします。」(5仮要約)と宣言し、ここでも「行動力」を説いています。

こうした目標は掲げたものの、実際に行動を起こすための国民を育てる教育とはどんなものかが問題になります。この問題に答える手掛かりが、デンマークの試験制度にあると私は思っています。140・


ここまで

 

 

 

 

 

デンマークの教育目標と試験制度・139頁・

卒業資格を厳しく審査する・140頁・

職に就くには資格が必要・142頁・

教育の機会均等・143頁・

企業家が生まれる仕組み・145頁・

「風のがっこう」開設までの顛末・146頁・

 


デンマークという国 自然エネルギー先進国―「風のがっこう」・・・第1章・デンマークという国・国土は氷河の置き土産・13頁・19頁・まで




引用


第1章・デンマークという国・国土は氷河の置き土産・13頁・

平成28年2月9日 火曜日・


デンマークの人口は約535万人です。北海道より約35万人少ない。北欧の小さな国です。国土面積は、九州より少し広い程度の約4万3000キロ法㍍で、地図でおわかり戴けるように、国土の大半が北海に突き出た半島からできています。この半島はドイツの北に位置して、スウェーデンと面しています。この半島、ユトランドは、デンマーク語でユーラン、男と言う意味です。

日本との距離は、成田空港から首都コペンハーゲンまで、シベリア廻りで11時間、直線距離で約9000㌔あります。デンマーク人はスウェーデン、のるうぃーと同じスカンジナビア人です。また、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語は兄弟語で、ひどい方言くらいの相違しかありません。デンマークは今では世界で28か国しかないと言われる王制がしかれ、一院制の議会内閣制をとっています。

デンマークの国土の特徴は何と言っても、平坦な土地と低い丘がどこまでも続くことです。一番高いヒルメルビアーと言う場所でも海抜が173㍍しかありません。14・


15頁・これ以外高い山はないのです。この国土の特徴は、ユトランド半島の成り立ちに原因しています。現在のユトランド半島のほとんどは、ウエシェル氷河期約(200万年前から現在に至る時代)の終わり頃(11万5000年から1万年前)出来上がったと言われています。ユトランド半島になぅった太一は厚い氷の下にあったため、氷河が溶け去った後も、氷河によって運搬され堆積した岩くず(氷水石=ひょうたいせき)に覆われました。14・


15頁・

ユトランド半島は、西南部と西北部に分けて考えることができます。西南部では約10万年前、氷河が溶け始めてヒースの丘と平野が広がりました。氷河の消えた後には氷堆石が残りましたが、現在でも、中部から西南部にかけては地表から20センチ下の地層は氷堆石(砂利上あるいは砂状)からできています。西北部では、これより遅れて約1万年前(1万2000年前という説もある)から氷河が溶け始めたと言われています。


現在、デンマークの国土の約63%(269万ヘクタール)がのうちですが、わずか20センチの表土の上で作物を作っています。この耕土をデンマーク人は営々として養ってきたのです。この耕土の下は、氷河の置き土産、砂利の層です。氷堆石という貧栄養状態の土壌しか持たなかったデンマークは現在、肉類や酪農(らくのう)製品を世界に供給する農業国になっています。また、「北欧の福祉国家」と呼ばれ、「自然エネルギー先進国」とも呼ばれるようになっています。

なぜ、このような「国のかたち」が出来上がったのか、駆け足でデンマーク人が歩んだ近代史を紹介してみたいと思います。


15・平成28年2月9日 火曜日

「デンマークを育てた最良の息子」15頁・平成28年2月9日 火曜日・

デンマークの近代史と言っても、ほとんど日本人にはなじみがないと思います。デンマーク人で日本を知られている人物と言えば何と言ってもアンデルセン童話で知られる、ハンス・クリスチャン・アンゼルセン、実存主義哲学の思想家と言われるソーレン・キルケゴール、音楽家のカール・ニールセン、物理学者のニルス・ボーアと言ったところでしょうか。15・


16頁・

しかし、この本ではデンマークの近現代史を語るうえで欠かすことのできないE・M・ダルガスを紹介しましょう。ダルガスと言っても、日本では知る人もいないでしょうが、彼はデンマーク近現代史における傑出した人物、「デンマークを育てた最良の息子」と称されています、このエンリコ・ムリオス・ダルガスの生涯をたどるだけで、今日のデンマークの国あり方が分かるほど、デンマークにとっては象徴的な人物なのです。

ダルガスは1828年にイタリアで生まれ、66歳でデンマークで生涯を終えています。ダルガスの父方の先祖はフランス人で、南フランスに住んでいましたが、曾祖父(アントニエ・ダルガス)がスイスのローザンヌに移住し、1756年にダルガスの祖父(ジェーン・マック・ダルガスが生まれています。

スイスで生まれたるガスの祖父は、牧師になりますが、フレデリシアの教会に牧師の口があったため、1782年妻のマリエッタとともにデンマークに移住します。マリエッタは三人の男子を生み(長男カール、次男ジーン、三男クリスチャン・アウグスト、次男のジーンが長じてダルガスの父親になります。16・


17頁・


ダルガスの父親、ジーン・アントニエ・ダルガスは、イギリスで商人になる教育を受け、イタリアのナポリで商店を経営していましたが、デンマーク女性のヨハナ・ステボルトと結婚し、彼女は1828年にダルガスをイタリアで生みます。しかし、47歳の若さで夫が死亡したため、ヨハナは七歳のダルガスを連れて祖国デンマークに戻ります。デンマークで学校教育を受けたダルガスは、長じて軍人を志望し1846年夏、18歳で陸軍士官学校の入学試験に合格しました。

余談ですが、ダルガスの直系をたどっただけでもその足跡は、フランス、スイス、デンマーク、イタリア、イギリスとヨーロッパ各地に印されており、ヨーロッパ人の国を超えた交流の強さが分かります。デンマーク人の家系の,三代を遡ると必ずその家系の中にヨーロッパ各国からの移民がいますし、後で触れますが、現在の人口構成でも難民・移民が約七・四%を占めています。ちなみに日本に住む外国人の数は約160万人、人口比で約一・三%ですから、デンマークに住む外国人の数がどれほど多いかわかると思います。なぜ、デンマークに住む、住むことを希望する外国人が多いのかと言うと、「安心して生活できる生活環境があるため」だと私は考えています。その生活環境については折に触れて紹介しましょう。


ここまえ・平成28年2月9日 火曜日


ドイツとの「三年戦争」・17頁・さて、ダルガスが陸軍士官学校を卒業して軍人になった当時、デンマークではドイツとの間で戦争が起こっています。17・


一八頁・地図で分かるように、デンマークはその南側をドイツと接し、1800年頃ドイツとの国境をめぐって紛争が絶えませんでした。1848年、デンマーク政府が学校や官庁でデンマーク語の使用を強制したことから、ドイツ系住民が大半を占めていたホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州でドイツへの帰属を掲げた独立戦争が勃発します。

この独立戦争は1848年から50年まで三年間続いたことから、デンマークでは「三年戦争」と呼ばれています。デンマークはこの「三年戦争」には勝利し、ホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州の住民のドイツに帰属する希望は実現されませんでした。ダルガスは、根「三年戦争」に砲兵将校として従軍しています。


1853年、陸軍士官学校を卒業したダルガスは、工兵隊中尉に昇進し翌年五月には工兵隊道路局へ配属され、ユトランド半島中部のヴィボー市に駐在しました。ダルガスは要塞工事や堡塁工事に携わる一方、ランダース市からリンクービン市に至る道路の工事監督を務め、この道路工事を通してユトランド半島中部から西部にわたる広大なヒースの原野が未開拓であるという祖国に現状を知ります。

「三年戦争」はデンマークの勝利に終わりますが、その後もホルスタイン州などドイツ系住民による抵抗・独立運動は収まらず、その抵抗運動に疲れたデンマーク国家は1863年11月、ユトランド半島南部のアイダー川を新たな国教として、ホルスタイン州をドイツに割譲するという政策(アイダー政策)を決定します(地図のB参照)。


しかし、翌年1864年1月、この新国境設定をデンマーク政府の弱気の現れと判断したプロイセン首相(害相兼任)のオットー・ビスマルク(1815年~98)は、ホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州を占領する好機ととらえ、アイダー政策の撤回をデンマーク政府に迫るとともに、ホルスタイン州に軍隊を送り込みました。18・


戦争開始からわずか三ヵ月、四月18日の未明、デンマークの最後の砦、デューブル要塞はドイツ軍の一斉攻撃を受けます。優れた銃器で装備された一万人のドイツ歩兵隊に堡塁を攻撃され、8000発を超える砲弾を浴びせられ、デューブル要塞は陥落します。

その後、デンマークにとっては困難な和平交渉が続き、10月30日にはホルスタイン州、シュレスヴィヒ州、ローエンブルグ州をドイツに割譲するという内容の「ウイーン和平条約」が締結されました(地図C参照)。19・


20頁・この結果、デンマークは国土面積の三分の一(5万8000㌔平方メートルから3万9000キロ平方メートル)を失い、人口も250万人から170万人に減少しました。ちなみに1920年には、シュレスヴィヒ州で住民投票が行われ、このときドイツ領に編入されたシュレスヴィヒ州の北部は再びデンマークに帰属します。シュレスヴィヒ州が現在のデンマークとドイツの国教になっています。20・

19頁・


リンクされます・

引用第1章・デンマークという国・国土は氷河の置き土産・ダルガスの原野開発会社・20頁・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/120-45cf.html

10:20 2016/02/09

 

 

 

 

 


「デンマークを育てた最良の息子」15頁・

ドイツとの「三年戦争」・17頁・

ダルガスの原野開発会社・20頁・

農地を増やす・22頁・

酪農「らくのう」への生産転換と協同組合方式・23頁・

グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」・26頁・

学校はほぼ100%公立・29頁・

キリスト教が国教・29頁・

デンマーク王国である・31頁・

200年前、アンデルセンが生まれた・32頁・

アンデルセンの作品の世界・36頁・

讃美歌をかいたアンデス線・39頁・

アンデルセンの生きた時代の国家予算・40頁・

世界で一番後進国を援助している・42頁・

教育費は無料・43頁・

「扶養法」の精神・44頁・

入院費・出産費用はすべて公的負担・45頁・

住宅所有のすすめ・48頁・

高い税金・48頁・

15歳から所得を自己申告・49頁・

「個人番号制度」の導入・50頁・

女性の社会進出・51頁・

税負担と「共生への責任感」・53頁・

2/9/2016 5:31:06 AM


教育の機会均等・

143頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークでは資格と能力に基づいて職業選択が行われますが、国民が資格と能力を身につける機会が平等に保証されなければ何の意味もありません。

例えば、新たな資格を得たい人、転職のために別な資格を得たい人たちは、職業訓練所、夜間に開校している大学に入ります。製造業の中堅幹部あるいは経営陣の学歴を見ると、工業大学で機械技師、電気技師の資格を取得した後、数年してから夜間開校している商業大学で、五年間、経済学の勉強をしている人が多数います。エンジニアとしての学歴の上に商学士の卒業資格を取得するものです。143・

一四四頁・私かもこの種の大学では、教科書の半分以上が英語の本を使うため、彼らは自国語以外に英語ともう一ヵ国語を仕事で通用する水準でマスターしています。

私が最後に学んだ中部ユトランド商科大学は、現在、経営と工業を一緒にした商工だが国生まれ変わりましたが、その背景には産業界が必要とする経済面・技術面が同時にわかる幹部の要請があったのだろうと思います。企業の中堅幹部、経営陣になるための学校には、オーフス商大、コペンハーゲン商大、南ユトランド大学などがあり、IT産業に就きたい人たちのためにはコペンハーゲンIT大学があり、学士レベルかマスターレベルかが選択できるようになっています。

この種の大学に編入するには、その学部が要求する「基礎資格」を持っていることが条件になりますが。年齢の制限はありません。例えば、経済学部で勉強した人が工業大学に編入するためには「基礎資格」とそして高等学校卒業レベルの数学、物理、化学などの資格を要求されますが、その「基礎資格」を習得できる教育機関(たとえば、成人教育センター、略称VUCと呼ばれる学校)が別途あります。

このように新しい資格を得るために、多くの人が夜間の大学に通っていますが卒業資格はデンマーク国内だけではなく、ノルウェーとスウェーデンでも通用します。この種の大学は国立と公立の二種類ですが、義務教育とは違って授業料は自己負担になります。たとえば、ヘアニング市のある商工大学は基礎課程二年間と専門課程二年間に分かれていますが、二〇〇二年現在、四年間の授業料は約55万円です。

大学の授業は夕方六時から夜九時半ごろまでですが、サラリーマンが夜間の大学に通学できるのは、デンマークの労働時間が週三七時間で、午前八時からの勤務の人は午後四時には退社できるからです。144・

145頁・残業手当が高額なため、ほとんど残業がないことも背景にあります。また、多くの経営者は通学する従業員に交通費を補助したり教科書代を支給したりして、就学を進めています。

社員が転職するための資格を得るのを援助するのは、日本の企業社会の常識では理解できないかもしれませんが、国民が学ぶことが回り回って企業にとってもプラスになることを経営者は理解しているため、さまざまな優遇を与えているのです。


企業家が生まれる仕組み・145頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークの教育の成果は、年間約1万6000人と言われている企業家となって現れます。大学を卒業して、企業に頼らず自ら起業する若者が多いことがデンマーク社会の特徴です。若い企業家の存在は使える学問と行動力を身につけて社会に出ていくことの一つの証左だと私は考えています。もちろん起業しても、何年も事業を継続できないで挫折するケースも多いのですが、失敗しても諦めず、再起をはかる人が多いのも特徴と言ってよいでしょう。


事業に失敗した経験がある事業家と、失敗をしたことのない事業家がいた場合、あなたならどちらに投資をしますか?日本ではあの人は事業に失敗したというレッテルがいつまでも付いて回り、そのことが事業化としての再起を妨げることが往々にしてあるのですが、デンマーク社会では、事業の失敗であっても、事業化として再起できる事業を起こせば良いのであって、失敗した人間へのレッテルではないということです。145・


企業家が生まれる仕組み・


145頁・平成28年2月7日 日曜日・

デンマークの教育の成果は、年間約1万6000人と言われている企業家となって現れます。大学を卒業して、企業に頼らず自ら起業する若者が多いことがデンマーク社会の特徴です。若い企業家の存在は使える学問と行動力を身につけて社会に出ていくことの一つの証左だと私は考えています。もちろん起業しても、何年も事業を継続できないで挫折するケースも多いのですが、失敗しても諦めず、再起をはかる人が多いのも特徴と言ってよいでしょう。

事業に失敗した経験がある事業家と、失敗をしたことのない事業家がいた場合、あなたならどちらに投資をしますか?日本ではあの人は事業に失敗したというレッテルがいつまでも付いて回り、そのことが事業化としての再起を妨げることが往々にしてあるのですが、デンマーク社会では、事業の失敗であっても、事業化として再起できる事業を起こせば良いのであって、失敗した人間へのレッテルではないということです。145・


146頁・

実際、事業に失敗しても彼には再起の道が開かれています。国家が国民の生活を守るという手厚い社会保障制度によってたとえ事業に失敗しても、生活保護を受けることによって日常生活を支障なく送ることができ、日本のように銀行融資の条件に個人補償や第三者の連帯保証を求めることによって、事業に失敗すると本人はもとより家族や親せき、知人有人までその累が及び、社会的にも大きな指弾を受けるということはないのです。

たとえば、私が住んでいるツアイハイとう町は人口1万人ですが、とりわけサラリーマンから独立する企業家が多く出ています。床張専門店の従業員から独立し床張りの会社を設立した30歳のミケル・ハンセンさん20年間大工として勤務していた会社を辞め、独立した41歳のベンタ・ソーレンセンさん、機械職人をやめ、蜂蜜製造業をスタートさせた40代のヨーン・ミッケルセンさんの例などたくさんあります。


もちろん事業は成功するかどうかやってみないとわかりませんが、それぞれが失敗したらやり直せばいいという気持ちで、悲壮感はありません。そのことが彼らの活力になっているように私は思えます。彼らの事業が軌道に乗ることによって新たな雇用が生まれ、町の人口が毎年増加しています。146・


 

「風のがっこう」開設までの顛末・


146頁・平成二十八年二月七日・

私の住んでいる町のことに触れたついでに、この町にたどり着くまでの経緯と現在私が運営している「風のがっこう」についても紹介しましょう。

初めに書きましたが1967年にデンマークに渡り、最初の約一年半はデンマーク語を勉強するために多くの時間を使いました。146・


147頁・農業学校の校長先生の紹介でビリビアの村の農場に住まわせてもらい、町内の小学校に通学しました。日本人の大学三年生がにわか小学生になったわけです。

翌68年9月には、コペンハーゲン大学政治経済学部の一年生に入学しますが、外国人としての私の入学試験はデンマーク語で簡単な日常会話ができるかどうかを確かめる程度の簡単なものでした。無事試験に合格して大学に通い始めましたが、外国人は私とイスラエルから留学してきた男性一人、残りは全員デンマーク人でした。

コペンハーゲン大学での勉強、デンマーク大使館勤務などのため約10年間ビリビアの町を離れましたが、1979年、農業を購入したため、またこの村に戻ってきました。この村はその後四つの村と合併し、ツアイハイと言う町になっていました。この辺りはもともと農業が主体の農村地帯でしたが、製造業とサービス業が増え、特に製造業に従事する人口の流入が著しく、全国の人口平均が1・1%減(1983年から1994年)に対して、37・9%も増加しています。全国平均の人口増加率が7・4%(1970年~1997年)に対し、この町では37・5%も増加しています。


こうした町の発展は、町民の総意で実現したと言ってもよいでしょう。議員が「将来町のビジョン」を持っており、それを実行する町役場の職員がいます。「風のがっこう」の誕生の経緯にもそれが遺憾なく発揮されました。

私は1991年1月から風力発電機の対日輸出業を始めますが、1995年頃から日本からの風力発電の視察に来る方々が増え始め、その人たちの研修の場が必要になってきました。147・


148頁・

遠く日本から来た方々を歓迎し、くつろいでいただいた上で、3,4日間の日程でデンマークの事情をレクチャーしたり、近郊の風力発電所やバイオプラントを見学する基地になるような、研修と宿泊を兼ねた施設がほしいと考えていました。すると1996年の秋、隣の家が売りに出ました。新築の母屋(総面積450平方メートル)と多目的に使える建物数棟が付属した農地を含めた土地面積約6・5㌶(約2万坪)の売り物でした。

私が構想していた「小規模な研修センター」にぴったりの物件でした。しかし、農地に立っている建物を農業以外の目的で使用する場合、町議会の審査・許可と県の許可を得る必要がありましたが。私から許可申請願いに対し、町議会は約2週間で許可を出し、しかも町は県に対して「許可推薦状」を添付してくれました。148・


149頁・県は、受理後何と八日後に許可を下ろしました。私が町議会に許可申請したのは、1996年11月18日、そして12月19日にはもう県の許可が出たのです。


企業家にとって必要なことは、行政の行動力です。行政の書類審査の時間が短いほど、次の手立てが打てるためです。私の町の人口が増える背景にはこのような行政の行動力があると思っています。

私が町議会に対して提出した申請書はわずかA四判一枚で、「不動産さんを購入し研修センターと事務所として使用したい旨の理由と許可願い」と自由なスタイルで書いたものでした。

しばらくして、町長に会う機会があり、尾根意を言うとともに許可が早く下りたので驚いていると伝えたところ、「この町を守るのは我々であり、中央政府の役人でも県庁の役人でもありません。149・

150頁・法律は拡大解釈しても、町民のために利用します」という返事が返ってきました。

町長の近発言に強烈な自治意識を感じました。日本の地方行政でこれだけの覚悟をして街づくりに当たっている町長が幾人あるだろうかと考え込んでしまいました。

さて、建坪136坪の新築母屋と数棟の付属建物、総面積約2万坪の農家の売買価格は約4000万円でした。手持ちの購入資金はゼロ、全額を融資で購入したいというもういでに、この不動産を担保にしたとはいえ、銀行は何の注文を付けることなく全額を融資してくれました。町内にある銀行員の理解、開校に必要な改造工事に当たってくれた業者を含め、地域住民が全面的に協力してくれました。


こんな経緯で1997年6月に研修センターとして開校しましたが、開校八年で研修者は約1300名に達しようとしています。「風のがっこう」の開校で、町内のバス会社、ホテルの食堂、商店などに観光収入が生まれています。また、「風のがっこう」が日本のテレビ、雑誌、新聞によって紹介されることで、この田舎町は日本にも紹介され、デンマークでも話題になっています。150・

平成28年2月7日 日曜日


 

 

企業家が生まれる仕組み・145頁・

「風のがっこう」開設までの顛末・146頁・

 

 


デンマークの教育目標と試験制度・139頁


平成28年2月6日 土曜日・


デンマークの義務教育は、幼稚園クラスから九年生(子供の事情に合わせて10年生まで)の義務教育を受けることができます。デンマークでは義務教育を受ける場所をフォルケスコール・国民学校)と呼んでいます。


国民学校の教育目標は、「保護者と協力し、生徒が知識、技能、作業要領、自公表現の方法を習得し個人として、全人格的発達を養成する、フォルケスコールでは、生徒の認識力、創造力、向学心を伸ばし、経験の場及び勤労の場として熱中できる機会を与えるよう努める。それによって、自己の可能性に自信を持たせ、自己判断力と自己決定力を涵養する。フォルケスコールでは、生徒がデンマークの文化に親しみ、他文化及び人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする。

フォルケスコールは生徒が社会への積極的参加、共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務を学び、準備する場である。そのため、学校での教育や日常生活は自由な精神・平等・民主主義の上に成り立つものである。」(P仮要約)と定められています。139・


140頁・私なりにデンマークの教育目標を要約すると、デンマークの義務教育では、子供たち個人の人格を発達させ、「自己の可能性に自信を持たせ」「人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする」、さらに簡略すると「自己の能力に合わせ、人間と自然のため行動(貢献)を起こしなさい」とも読めます。そして行動を起こす場合「社会への共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務」「他文化及び人間と自然の相互関係の理解」を持って行動を起こすことを教えています。

また、デンマークの環境教育の目標では、「生態系における人間社会の問題として捉え、環境教育の中では、環境破壊、資源の分配と利用、人口増加、動植物の根絶問題に対して熟知した行動力のあり市民の教育を目標にします。」(5仮要約)と宣言し、ここでも「行動力」を説いています。

こうした目標は掲げたものの、実際に行動を起こすための国民を育てる教育とはどんなものかが問題になります。この問題に答える手掛かりが、デンマークの試験制度にあると私は思っています。140・


卒業資格を厳しく審査する・

140頁・平成28年2月6日・


デンマークでは、義務教育(九年生あるいは10年間)から高等学校(三年間)あるいは職業学校に進む際は入学試験が無く、また高等学校から大学(五年間から七年間)に入学する際にも入学試験はありません。大学の学部の資格は、高等学校の成績に応じて与えられるのです。

義務教育八年生(日本の中学二年生に当たる)から高校入学資格を得るための試験が始まります。140・


141頁・

試験は筆記試験と口頭試問の二つで、筆記試験は通常四時間、教科書、参考書などの持ち込みが認められ応用問題をレポート形式で回答していきます。口頭試問は普通二〇分で、教科書の内容を理解しているかどうかの暗記試験が中心になります。再転換は、担任の先生とその教化を教えている他の学校の先生が当たります。

このようにし義務教育八年生から、教科ごとに徹底して筆記試験と暗記試験を繰り返して行い、義務教育を終了するまでに社会に出て必要な知識を身につけさせていきます。


普通高校の数理学科を卒業するためには、一五教科の筆記試験と口頭試問において全教科平均で13万点のうち六点以上の成績を採り、三年間を通じて提出する約一五〇本のレポート全部に六点以上の平均点を取る必要があります。高等学校の卒業資格試験で、13万点のうち平均点が10点あれば、どこの大学のどの学部にも無条件では入学できます。高校卒業試験の成績がそのまま大学入学資格になり、大学卒業資格は確実な国家資格でもあるわけです。

私がコペンハーゲン大学の政治経済学部で学んでいた時、会計学の筆記試験を受けましたが、試験時間は八時間にも及びました。また、1990年、再び中部ユトランド商業大学会計学科で学んだ時には、20分の口頭試問で五教化を対象にした厳しい試験を経験しました。大学の卒業論文の採点には担任教授以外、他の大学の教授、業界からの学識者を含め、、六名が当たります。

外部から採点官を起用する制度は、合格基準の全国的な均一性を保証し、卒業資格が国家資格になる質を担保します。担任だけが採点に当たるわけではないので、日頃の情実が要りこまないという。141・


142頁・また、ノルウェー、スウェーデンと卒業資格を同一レベルにしているため、例えば、博士号を取る場合は三つの国から試験官が集まり、審査を受けることになっています。


職に就くには資格が必要・

142頁・平成28年2月7日・


デンマークでは、どこの大学を出たという学歴が問われるのではなく、大学で何を学んだかの学習履歴が問われます。例えば、求人広告では、雇用先が求める具体的な資格が明記され、製造業では、機械技師、電気技師、あるいは事務員と言う職種で求人が出されます。142・


143頁・

応募にはその職種に該当する「資格書」を添付する必要があります。


製造業で経営陣に上り詰めるのには、機械技師、電気技師の資格だけではせいぜいラインのスタッフ止まりで、よほどのことがないと経営には参画できません。技術的な資格に併せて、組織論、経営理論、会計学、会社設立法、税法、商法など、会社の経営に必要な科目を大学で履修し、その「卒業資格」を得る必要があるのです。

デンマークでは資格と能力に基づいて職業選択が行われるという例は、転職が一般的に行なわれていることからも分かります。その転職は社長職にまで及び、オーナー会社は別としてほとんどの株式会社の社長は会社内から選択するのではなく、求人広告を出し、応募者の中から経営者にふさわしい資格と能力を持つと思われる人物を選任する仕組みになっています。ここまで・


ここまで・平成28年2月7日 

引用

教育の機会均等・143頁・例えば、新たな資格を得たい人、転職のために別な資格を得たい人たちは、職業訓練所、夜間に開校している大学に入ります。製造業の中堅幹部あるいは経営陣の学歴を見ると、工業大学で機械技師、電気技師の資格を取得した後、数年してから夜間開校している商業大学で四、五年間、経済学の勉強をしている人が多数います。エンジニアとしての学歴の上に商学士の卒業資格を取得するものです。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/143-e5fc.html

9:07 2016/02/07

 

普通高校の数理学科を卒業するためには、一五教科の筆記試験と口頭試問において全教科平均で13万点のうち六点以上の成績を採り、三年間を通じて提出する約一五〇本のレポート全部に六点以上の平均点を取る必要があります。高等学校の卒業資格試験で、13万点のうち平均点が10点あれば、どこの大学のどの学部にも無条件では入学できます。高校卒業試験の成績がそのまま大学入学資格になり、大学卒業資格は確実な国家資格でもあるわけです。140,

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/140-49aa.html

5:59 2016/02/07

宮脇 昭氏×山田 英生対談・地球温暖化、森林破壊、砂漠化・・・。地球規模で広がる環境破壊の影が、私たちの周辺にも忍び寄っています。 経済効率優先の自然開発と都市型ライフスタイルが招いた地球の危機。 「ミツバチの飛び交う自然が失われたら人間は、もう生きて行けません」と語る山田代表、一方、「生態系学的な脚本で緑復活を」と呼びかける宮脇さん。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-dd59.html

10:13 2016/02/06

第7章・国民を育てる教育・起業家を育てる社会・平成28年2月6日 土曜日・市民が育ててきた環境産業・136頁・再生可能エネルギー源について、とりわけデンマークで取り組まれている風力発電の歴史と現状、バイオ学の利用、廃棄物発電のステムを紹介してきましたが、この章では北海道の約半分の国土面積しかなく、近年になって北海の石油の採掘が可能になったとしても

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/72826-7048.html

9:53 2016/02/06

みちのりホールディングス・松本順・路線バス運賃値下げ・混乗・混載・バス・みちのりホールディングス|メッセージ公共交通ネットワークの最適化 地域の観光産業への参画と貢献 環境適応型の新しい交通システムの確立 公共交通ネットワークの最適化

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-1850.html

16:09 2016/02/05

 

第10章・日本はデンマークから学ぶものがあるか・第10章・・「家庭における両親の役割は子供を育てて、その生活を守るために働くのだとすれば、政治家、役人は国を守り、国民を守る義務がある」と言う教授の信念は、国家観、行政に携わるものへの期待感を端的に表すものでした。平成28年2月4日

17:02 2016/02/05平成28年2月4日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/2824-95e9.html

15:13 2016/02/04

 

2016年の内外情勢を展望する~東京財団研究員討論会(国内問題)

https://www.youtube.com/watch?v=mYjNsIZ7-ik&utm_source=mailmaga_20160204&utm_medium=email

14:59 2016/02/04

 

ほめることで、すべてが好転するという成果があらわれたことを、同志社大学・政策学部教授の太田肇教授に共同研究して頂いていますが、「ほめ達!」理論もきちんと、後付けで証明されているのです。見習おう。  GDP4%の日本農業は自動車産業を超える (講談社+α新書) 新書 –

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/02/gdp4-5e99.html

17:52 2016/02/03

 

第8章・デンマークという国の政治・国政選挙、地方自治地選挙におけるこの高投票率は日本では考えられないものでしょう。この投票率の高さは、国民と政治の距離が極めて接近していることの一つの現れだと思います。この国民性は学校教育、とくに歴史教育の成果、家庭で政治が語られる機会の多さ、つねに国全体の問題を取り上げて国民的な論議を促しているマスコミなどが作り上げてきたものだと思います。平成28年2月3日 水曜日

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/82823-0abe.html

17:45 2016/02/03

 

デンマークという国 自然エネルギー先進国―「風のがっこう」からのレポート 単行本  – 2006/2 ケンジステファンスズキ (著) 資源の持たないデンマークでどうしてこんなに水準の高い、教育、医療、福祉社会を実現出来たのか?人が生きるために必要な水と空気を汚染から守り、食料とエネルギーの国内自給に努力し、「弱い者を助ける」という政治の愛情が感じられる社会。デンマークから学ぶものがあるとすれば、国民の生活を守る政治のありかただ。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/20062-a299.html

15:42 2016/02/03

 

第10章・借金の残さないデンマーク・ツケを残す日本・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/post-cced.html

6:22 2016/01/30

 

ここまでいれた・2016年1月30日 (土)?「名古屋地域委員会」 名古屋地域委員会 ・・・・・   内田 良子(うちだ りょうこ、1942年 - )は、日本の心理カウンセラー

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/1942---0848.html

http://www.city.nagoya.jp/

http://www.city.nagoya.jp/mayor/category/359-0-0-0-0-0-0-0-0-0.html

5:17 2016/01/30

 

河村たかし 名古屋市長 2010.4.14

https://www.youtube.com/watch?v=0AqrDtHdLh0

15:34 2016/01/29

河村たかし名古屋市長報道番組出演3/3

https://www.youtube.com/watch?v=GsBz8t6BArs

15:13 2016/01/29

下條村 自治体はこうやって運営する 河村市長も同意? 1/2

https://www.youtube.com/watch?v=z8PwWydCDMQ

11:15 2016/01/29

 

2016年1月29日 (金)この例のようにデンマークと言う国では国民の意思が政治に直接反映するシステムが出来上がっています。「国家運営」に国民1人一人が参加しているという実感が持てる国になっています。こうした意識の形成に学校教育が大きな役割を果たしています。166・第9章 教育の目標は「国家運営」に参加する国民をつくること・平成28年1月29日・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/9-28129-72e2.html

8:27 2016/01/29

 

2016年1月28日 (木)第7章 福祉制度をつくり出したデンマーク・福祉を考えなかった日本・平成28年1月28日 木曜日・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/7-28128-deb6.html

11:09 2016/01/28

 

2016年1月28日 (木)行政官僚と産業界との癒着は封建制度時代から引き継がれている国のかたちと・・・・・デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか 単行本–2008・2 ケンジステファンスズキ (著)

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/20082-e7ed.html

8:51 2016/01/28

 

・2・地方自治無くして民主主義国家はあり得ない・84頁・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/post-46fe.html

10:11 2016/01/27

3年前に自然養鶏を始めた・・・らの遺言 新書 – 2015129 倉本 聰 (著) 数多くの演劇やドラマ作品を通じて、自然環境の破壊や社会秩序の乱れについて警鐘を鳴らし続けている著者の最新エッセイ。貧しくはあったが光と幸せに満ちていた昭和の時代を、80歳になったのを機に自らの体験と独特の切り口でふりかえる。日本人は今後どのように生きていくべきかを考える上での指針となる一冊。全国自然養鶏会は中島正氏の著書「自然卵養鶏法」に共感し、循環農業の一環としての自然養鶏を確立すべく、情報交換や交流会を行っています。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/2015129-80-c9dc.html

8:40 2016/01/27

 




引用宮脇 昭氏×山田 英生対談・地球温暖化、森林破壊、砂漠化・・・。地球規模で広がる環境破壊の影が、私たちの周辺にも忍び寄っています。 経済効率優先の自然開発と都市型ライフスタイルが招いた地球の危機。 「ミツバチの飛び交う自然が失われたら人間は、もう生きて行けません」と語る山田代表、一方、「生態系学的な脚本で緑復活を」と呼びかける宮脇さん。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/02/post-dd59.html

10:13 2016/02/06


第7章・国民を育てる教育・起業家を育てる社会・平成28年2月6日 土曜日・


市民が育ててきた環境産業・136頁・

前章まで再生可能エネルギー源について、とりわけデンマークで取り組まれている風力発電の歴史と現状、バイオ学の利用、廃棄物発電のステムを紹介してきましたが、この章では北海道の約半分の国土面積しかなく、近年になって北海の石油の採掘が可能になったとしても、とくに資源を持たないデンマークが世界の中でも生活レベルの高い生活と社会福祉を築き上げてきた理由をデンマーク社会の国民教育のあり方から探っていきたいと思います。

デンマーク人の「共生の精神」については初めに紹介しましたが、理想主義と人道主義が無ければ、デンマークの再生可能エネルギーの導入とその根づきはあり得なかったと私は考えています。

風力発電は「風まかせ」であり、バイオ学は、糞尿と言う臭い物を原料にします。廃棄物のリサイクルにしても「汚い」物相手です。それにもかかわらず、デンマーク人は、「風力発電」施設をすでに約6500基も建設し通常の都市で電力消費量の約15%に当たる約50億kW時の伝記を発電させています。136・

137頁・デンマークの世論調査会社ソナーは、2001年6月18日、17歳以上の1258名を対象に「デンマークは継続して新規の風力発電を増設し、風力発電による発電量の割合を増やすべきか」と伊アンケート調査をしています・(表1・参照)。

2001年11月20日の総選挙で社会民主党と社会自由党の連立政権が破れ、保守党、自由党の連立政権に交替しましたが、この世論調査で見る限り、現在設置された風力発電が多すぎると思っている国民はわずか7%しかいません。もし、保守党、自由党の新政権が風力発電所への規制を厳しくしたのなら、次期総選挙で敗退する可能背も充分あります。

なぜなら、今日のデンマーク環境産業を育てた背景には市民の力が大きく働いているのです。例えば1975年、オレラップ教員学校の四人の学生が物理学のレポートで、デンマークの再生可能エネルギーの実態調査を行いましたが、このレポートは翌年、全国の学校に回覧されたばかりでなく政府のエネルギー広報委員会の資料として使われ、再生可能エネルギーの存在を知らしめるのに大きな役割を果たしました。137・


138頁・平成28年2月6日 土曜日・ここまえ

また、学生と教員が一緒になって小型の風力発電機を製作し、学校の電力供給用して稼働させている国民高等学校も数多くあります。

今日、世界最大の風力発電機メーカーに成長したベスタス社の前身は農耕器具メーカーでした。このメーカーが風力発電機の開発を始めた当初(1977年頃)は風力発電に関する知識を持ったエンジニアは一人もおらず、ツビンド風力発電機を完成させた開発関係者や市民の協力を得てきました。また、デンマークで三大風力発電機メーカーに成長したボーナス風力発電機も1983年までは農地への水撒き機械を製造していた会社で、開発当初、ツビンド風力発電機を参考にしたり、フォルケセンター(「再生可能エネルギーに関する北西ユトランド国民センター」)のアドバイスを得てスタートを切っています。風力発電機を開発するために当初から専門技術者がいた会社は、現在NEGミーコン社と呼ばれているメーカーだけでした。


関係者や市民の協力を得て開発がスタートしたのは風力発電機だけではありません。バイオガスプラントも農民が手掛けたものでした。1973年には、バイオガスで100立方㍍の住宅暖房を実現した農民が現れ、1980年後半にはバイオ学プラントの失敗が続出して開発の灯りが消えるかに見えた中で研究を支え続けた農場主がいました。これらの人々は特にエンジニアの資格を持っていたわけではなく普通の農民、市民でした。


私はデンマーク市民のこの伝統を「理想主義と人道主義をもとにした行動力」と呼びたいと思っています。138・


139頁・デンマーク人の理想主義(人生の意義を、理想を実現するための努力に置く思想)、人道主義(人間愛を根本におき人類全体の福祉の実現を目指す立場。「広辞苑」の解説)の精神はどこから生まれてきたものなのでしょうか。これに答えるためには、デンマークの学校教育の目標と制度を語らなければならないと思います。


デンマークの教育目標と試験制度・

139頁・平成28年2月6日 土曜日・


デンマークの義務教育は、幼稚園クラスから九年生(子供の事情に合わせて10年生まで)の義務教育を受けることができます。デンマークでは義務教育を受ける場所をフォルケスコール・国民学校)と呼んでいます。


国民学校の教育目標は、「保護者と協力し、生徒が知識、技能、作業要領、自公表現の方法を習得し個人として、全人格的発達を養成する、フォルケスコールでは、生徒の認識力、創造力、向学心を伸ばし、経験の場及び勤労の場として熱中できる機会を与えるよう努める。それによって、自己の可能性に自信を持たせ、自己判断力と自己決定力を涵養する。フォルケスコールでは、生徒がデンマークの文化に親しみ、他文化及び人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする。


フォルケスコールは生徒が社会への積極的参加、共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務を学び、準備する場である。そのため、学校での教育や日常生活は自由な精神・平等・民主主義の上に成り立つものである。」(P仮要約)と定められています。139・


140頁・私なりにデンマークの教育目標を要約すると、デンマークの義務教育では、子供たち個人の人格を発達させ、「自己の可能性に自信を持たせ」「人間と自然の相互関係を理解しそれに貢献できるようにする」、さらに簡略すると「自己の能力に合わせ、人間と自然のため行動(貢献)を起こしなさい」とも読めます。そして行動を起こす場合「社会への共同責任、自由と民主主義における社会での権利と義務」「他文化及び人間と自然の相互関係の理解」を持って行動を起こすことを教えています。


また、デンマークの環境教育の目標では、「生態系における人間社会の問題として捉え、環境教育の中では、環境破壊、資源の分配と利用、人口増加、動植物の根絶問題に対して熟知した行動力のあり市民の教育を目標にします。」(5仮要約)と宣言し、ここでも「行動力」を説いています。

こうした目標は掲げたものの、実際に行動を起こすための国民を育てる教育とはどんなものかが問題になります。この問題に答える手掛かりが、デンマークの試験制度にあると私は思っています。140・


ここまで

 

 

 

 

 

デンマークの教育目標と試験制度・139頁・

卒業資格を厳しく審査する・140頁・

職に就くには資格が必要・142頁・

教育の機会均等・143頁・

企業家が生まれる仕組み・145頁・

「風のがっこう」開設までの顛末・146頁・

 


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