ニュース・政治経済

2013年8月 8日 (木)

NPO法人がそれまでの町行政を受託

引用

 

【第74回】 2013730日 著者・コラム紹介バックナンバー

 

 相川俊英  首長も行政運営も談合で決まる無風地帯に「待った」松阪市に“民意反映”の楔を打ち込む若き市長の気骨

 

地方自治の取材を20年以上、続けている。全国各地の自治体を訪ね歩き、様々な行政現場に触れてきた。自治体トップへの直接取材も重ねており、これまで色々なタイプの首長に出会ってきた。

 

たとえば、職員・市民に大号令を発するトップダウン型や、役所の論理を最優先させる内部調整型だ。また、パフォーマンスに傾注するお祭りタイプや、単なるお飾りの神輿のような人もいる。いまだに特定の組織や業界の代表者として首長権限を振るう、利権型も存在する。

 

これまで数多くの首長にインタビューしてきたが、もの静かで奥ゆかしいというタイプは少なく、よく喋る自信家がほとんどだ。それも当然かもしれない。他人を押しのけて「オレがオレが」と前へ出てくるような人でないと、選挙になかなか勝てないからだ。

 

 

 

なぜ首長は民意を反映できないのか?

 

 選ぶ側と選ばれる側の双方にある問題

 

住民から直接選ばれる首長の最大の役割は、住民代表として行政組織のトップに就任し、民意を反映させた行政運営を行うことにある。自治体や自分を世の中に売り込むことがメインではない。民意をしっかり汲み取り、それを具現化するために行政組織を動かしていくことが、首長の使命だ。政策立案とその実行の最終責任者である(政策決定は議会の役割)。

 

しかし、首長の役割をきちんと果たすことは、容易なことではない。むしろ、民意ではなく、行政組織の論理や都合を優先して行政運営する首長の方が圧倒的に多い。こうした民意を反映しない行政運営に異を唱え、改革を標榜して当選する人も生まれている。

 

だが、そうした改革派首長も行政組織の中に入った直後に変節してしまったり、未熟さゆえに挫折してしまうケースがほとんどだ。民意に基づく行政運営は残念ながら、言葉だけの絵空事になっているのが悲しい現実だ。

 

ではなぜ、そうした現象が広がってしまったのか。その要因は、選ぶ側と選ばれる側の双方にある。選挙によって民意が示されるという固定観念がある

 

首長も行政運営も談合で決まる無風地帯に「待った」松阪市に“民意反映”の楔を打ち込む若き市長の気骨

 

確かにその通りだが、民意は4年に1度の選挙によってのみ示されるべきものでもない。なぜなら、政治・行政が取り組むべき課題は多種多様で、しかも常に流動・変化しているからだ。4年に1度の選挙であらゆる課題に対する民意を示せるはずがない。そもそも不可能なのだ。

 

そうであるからと言って、4年間を誰かに白紙委任しなければならないというものでもない。選んだだけで「後は全てお任せ」というのでは、主権者とは言えない。民意を示す不断の努力が必要で、選ばれた側も民意を汲み取る不断の努力が不可欠となる。

 

現実は、その双方が不足している。お任せしてしまう住民と民意を丁寧に汲み取ろうとしない政治と行政である。「面倒だ」と双方ともに手を抜いてしまっているのである。

 

選挙以外の民意を問う仕組みが確立していないことも、要因の1つだ。その結果が、民意を反映しない行政運営となって現れている。では、民意を反映する行政運営を構築するのはどうしたらよいのだろうか。

 

 

 

決定前にまずは住民の意見を聞く市民との直接対話を続ける松阪市長

 

先週の金曜日(726日)、ある地方都市の市長さんに同行取材した。今年2月に再選を果たした三重県松阪市の山中光茂市長。現在、最も注目すべき首長の1人である。

 

「これまでのように(行政がものごとを)決定してから説明するのではなくて、決める前に皆さんのご意見をうかがい、話し合いを重ねて決めていきます。市民の方々にも、役割と責任を果たしていただきたいと考えます」

 

松阪市の山中市長は、お年寄りにソフトな口調で語りかけた。朝見公民館で開かれた地域の高齢者学級での一幕だ。狭い会議室に60人ほどが詰めかけ、山中市長の肉声に耳を傾けた。

 

原稿を読み上げたり、行政用語が飛び交う場面などはなく、予定の1時間はあっという間に過ぎ去った。山中市長は「皆さんも一緒になって街づくりに汗を流しましょう。その方が楽しいですよ」と、何度も語りかけた。

 

山中市長が目指しているのは、市民と職員が一体となって「役割と責任」を果たしていくまちづくりの実現である。そのための手法として市民との直接対話を重視し、徹底的に行っている。

 

その1つが、課題ごとの「ワークショップ」や「意見聴取会」である。市政全般に関わる重要案件については、政策を決定する前に必ずワークショップや意見聴取会を開き、市民にあらゆる情報を示した上で議論を重ね、政策決定につなげることにしている。住民に政策の形成過程に加わってもらうのである。

 

もう1つが、「市民懇談会」や「このまちミーティング」と呼ばれる地域ごとの住民との対話集会である。こうした対話を通じて、地域のまちづくりを担う組織「住民協議会」を小学校区ごとに設置し、域内分権を進めている。

 

山中市長は就任以来、平日の夜は地域に入って対話集会を行い、土日は課題ごとの意見聴取会などに臨むといった毎日を送っている。そうした対話重視を貫くのは、従来の行政運営への不信・不満・怒りがあったからだ。

 

各党相乗りの首長が続く特異な松阪市 民意不在の「うなずくだけの議会」に

 

山中市長が松阪市長選に初当選したのは、20092月のこと。3期目を目指す現職候補を大差で退け、33歳の若さで市長に就任した。誰もが仰天した番狂わせであった。

 

人口約17万人の松阪市は、政争が表面化しない、やや特異な地域だった。他の地方都市同様に各種業界団体や労働組合が隠然たる力を持っていたが、市長選挙となると互いに手を結ぶことが常態化していた。国政で激しい足の引っ張り合いを続ける自民・公明と民主、社民も、市長選となると話は別。当然のように同じ候補を仲良く擁立し、手を組むのだった。各党相乗りである。

 

その結果、市長選は無投票となることが常態化した。2009年以前の10回の市長選(合併前の旧・松阪市長選を含む)のうち、何と7回が無投票。しかも、選挙となった3回は無風選挙という始末だ。選挙前の水面下の談合で、実質的に市長が決められていたのである。

 

市長すら選ぶことができない松阪市民が、市の政策や各種事業の決定過程に関われるはずもない。事前の説明や民意の確認などなされぬまま、色々な重要事項が行政によって粛々と決められた。市議会も、これに唯唯諾諾と従うだけだった。執行部提案に否決も修正もしたことのない「うなずくだけの議会」になっていた。市民は、上から決定したことを伝達されるだけの存在に過ぎなかった。

 

こうした市民不在の行政運営に疑問や不満を抱きながらも、「仕方ない」「こんなもんだ」と、多くの市民が諦めていた。20091月の市長選挙も、市幹部OBの現職市長が3度目の無投票当選を果たすはずだった。

 

「オール松阪」を打ち破り改革に着手 市民が役割と責任を負う自治体を構想

 

 

 

これに待ったをかけたのが、当時、民主党所属の県会議員だった山中氏だ。党の反対を押し切って出馬し、巨大な「オール松阪」を相手に闘いを挑むことになった。「このままの松阪市ではいけない」という危機感と「市民の意思を反映させる市政に変えたい」という使命感からだ。

 

 

 

組織やカネ、しがらみのない山中氏は選挙戦で、「市民全員が役割と責任を負っていく松阪市を目指していこう」と訴えた。そのため、有権者に「よろしくお願いします」という言葉ではなく、「みんなで一緒に頑張りましょう」と呼びかけて回った。そして、オール松阪を打ち破る結果を勝ち取った。

 

山中市長は就任直後から、市の重要事業の見直しに取りかかった。行政が一方的に決めていた事業をいったん白紙にし、市民に情報を公開し、議論を重ねながら見直しを進めて行った。

 

その1つが、市庁舎の整備問題だった。前市長時代に耐震強度不足の市庁舎を建て替える方針が固まっていた。

 

当時の市の試算では、耐震補強に約333000万円かかるとされた。これに対し、新庁舎建設は約80億円にのぼるが、合併特例債を活用できるので、市の負担分は耐震補強より安くつくとされた。それで新庁舎建設となったのだが、これに山中市長が待ったをかけた。民間企業が持つ技術力を活用して、耐震補強する道を選択したのである。最終的に耐震補強の事業費は約4億円で済んだ。

 

 

 

山中市長は、いわば市民を巻き込む形の新しい行政運営を続けている。その14年間の評価を市民に問う市長選が、今年1月に実施された。失地回復を図る各政党は相乗りで、有力県議を対抗馬に担ぎ出した。業界団体や労働組合など多くの有力組織も支援に回り、またしても「オール松阪」との一騎打ちとなった。

 

築き上げてきた強固な土着権力構造を守るため、何としても連敗を阻止しなければならない。相手陣営は前回以上のエネルギーを選挙戦に投じた。

 

「別の人を選ぶのも市民の判断」 選挙活動なしで再選した信頼感

 

一方、挑戦を受ける立場になった山中市長は、選挙期間中も市役所に日参して公務に専念した。結果は、8000票近くの差で山中市長の再選となった。なぜ、選挙活動に力を入れなかったのかと問うと、山中市長は「別な人が選ばれたら、それはそれ。市民の判断ですからね」と、さらりと語るのである。

 

山中市長は市民との直接対話を続け、休みなしで市域全域を歩き回っている。そんな市長と共に対話の場に加わり、市民と接する職員の意識に変化が生まれていると山中市長は語る。

 

職員の多くが当初、市民との対話に及び腰だったが、回数を重ねるうちに自分の言葉で喋るようになり、市民の前に出ることを怖がらなくなったという。確かに市民の声を聞いて政策をまとめるプロセスは大変だが、決まった後は市民からの反発がなく、スムースに進むという。

 

松阪市議会も少しずつ、変わりつつある。議会改革の検討が重ねられ、議会基本条例が制定された。議員間討議や首長の反問権、反論権などが制度化され、議論する議会を目指す方向になりつつある。

 

現在も山中市長を毛嫌いする議員はいるものの、市民と直接対話する市長の姿勢を評価する議員もいる。当選4回(旧松阪市時代も含む)の海住恒幸市議(一人会派)は、「市民との直接対話をより積極的に進めるべきだと考えています。意見聴取会などを条例化し、市民が意見聴取会の開催を希望する場合どうするかなど、ルール化すべきだと思います」と語る。

 

16:30 2013/08/07

 

 

 

 

 

自治体あすへの胎動

 

13/8/4 84414秒、

 

合併後もNPO法人がまちの個性を残す・・・岐阜県山岡町長・・・山内章祐・・・・87ページ、

 

第一部・・胎動が始まった・・山内章裕・・合併後もNPO法人がまちの個性を残す・・

 

山内章裕プロフィール・・山岡町出身。岐阜県立岩村高校卒業後、山岡町役場に入り、産業、総務、企画開発課長を務めた1994年10月、山岡町長に就任。現在3期目。

 

国の施策を先取りして、次々に対応策を打ち出してきた。95年4月、女性を室長とする女性政策室を設置。96年8月には「新教育の町」を宣言。99年8月、介護保険制度に対応するため、医療の専門家にも福祉行政に関わってもらおうと保健福祉包括医療推進局を設置。さらに2002年4月の学校週5日制スタート合わせて、山岡親子学校を開校。自ら理事長、教授を務める。

 

http://www.city.ena.lg.jp/

 

 

 

200410月、恵那市など6市町村で合併する予定(合併協議会副会長)。合併を前提に、町の行政を住民自治政府にバトンタッチするため、03年9月にNPO法人「まちづくり山岡」を設置した。合併後の受け皿として、全国の注目を集めている。

 

89頁、13/8/4 15549秒、

 

山岡町は木曽山脈の南端の盆地にある、人口5,412人の町。明治時代に98村が集まって出来た町で、昭和30年に2つの村が合併した後も、8区のまとまりが強い中で、まちづくりを行ってきた。

 

NPO法人「まちづくりの山岡」がなぜ生まれ、これからどういう活動をしてゆくか。町長に就任してからほぼ10年間の取り組みと関係している。

 

自治体というと、住民と離れた組織に見える。自治体を、町を住民にもっともっと近い形にしたい、と全国の自治体は思っている。

 

NPO法人をつくったのは、合併がきっかけだが、ずっと突き詰めてゆくと、次のようなことになろう。どこの自治体の首長も、あなたが主役だとか、住民総参加とか、住民主権だとかいうのが、本当にその手法でやっているか。選挙などが終わったら、それまでになっている。どうしたら、あなたが主役になれるのか、どうしたら住民総参加ができるのか。それが出発点だ。

 

90頁、

 

女性の力

 

目標を実現させるために、女性の力を借りようと思った。住民の半分は女性だからだ。真っ先に取り組んだのが、女性政策室という女性ばかりの課の設置だった。足元からやらなければいけない。女性はパワーを持っている。そして実際に働いてくれる。そうした女性の意見、批判を、行政が聞かなければいけない。

 

そして次は女性の登用だ。うちの町は役場を始め町中が、女性の登用に取り組んでいる。公的役職など全役職の36%を女性が占める。例えば、選挙管理委員会は半分が女性、農業員会、民生委員にも女性がいる。

 

女性の力を借りてきた政策の延長戦にあるのが、地域の副区長ポスト。8つ集落があるが、副区長は、全員女性が務めている。

 

行政や関連する分野に女性が入ると、行政が大変だな、とか、こういうふうにしたらどうかとか、前向きの意見が出てくる。そういうところから、徐々に行政の女性応援団が出てきた。

 

今考えてみても、男社会の発想だけでは、全員参加のNPO法人設立という決論につながらなかった。

 

九一ページ、http://npo-ya.enat.jp/

 

 

 

万全の準備期間

 

どうしても「まちづくり山岡」を合併1年前に発足させたかった。準備期間がいるからだ。合併の枠組みなんかあまり考えなかった。

 

平成2584

 

まだどこの市町村とも枠組みが決まっていない段階で、集落ごとの座談会に出席して「合併は避けて通れない」と話した。その理由に町の行政問題を上げた。

 

例えば地方交付税が少なくなるからとか、補助金が減らされるとかの話から、町の借金増えている実情を説明した。これからどの市町特務か話が進むが、これからも我々は、ここに住んでここに暮らしてゆく。

 

行政の枠組みがどうなるかということは、行財政の問題から出発している。しかし住民が日々、どこで誰と生活してゆくかということとは違う。その2つを切り離すよう強調したり、住民がだんだんと理解してくれるようになった。

 

92頁、13/8/5 183411秒、

 

合併は避けられない

 

なぜ合併が避けられないか。これは山岡町だけの現象ではない。財政力の弱い自治体には共通した問題だということを、指摘しておきたい。

 

毎年、予算編成するとき、だんだん編成が難しくなる。各部から予算要求が出てくる。財政課が算盤を入れてみる。町にいくら収入があるか、財政が掴んでいる。自分の町の町税収入など自主財源、それから国の地方交付税と補助金で賄う。

 

例えば10億円の収入しかないのに、13億円の要望が出てくれば、3億円を切らなければならない。ところが、それが3億円だったのが、4億円になり、5億円になりだんだん差額が増えてきた。収入も少なくなったが、要望も経費も増えてくる。仕方がないので、補助金の裏の起債で仕事をする。ところが職員の給与支払いだけで、もう自主財源を越えている。

 

色々な施設、いわゆる箱物の電気代、水道代など経常経費は交付税で払わないといけなくなり、交付税で払うと、もう事業は何もできない。

 

しかし、そこの首長は選挙で公約しているから何かをやらないといけない。なにをやるか。補助金を貰ってきても、補助金の裏負担でさえ払えないから、起債を借りて、むりやりそれを引っ付けてやるだけ。

 

93、

 

一方、補助金を取れない首長は仕事をやらない。補助金を取れても、記載の比率がいっぱいのパンパンになっている。返せなくなると、再建団体になるしかない。

 

財政課に削れといっても、削れないという。ここ3年くらいは事業費を切ってしのいでいる。継続事業も半分に削らないといけない。

 

かつては役場職員が国の事業や補助金要項などをいろいろ調べて、補助金を取ってくると、町長は「腕がいい」と喜んでくれた。議会にもいい顔ができる。その頃はまだ補助金の自己負担分ぐらいはあった。

 

 

 

今は補助金をとっても喜べない時代になった。自己負担が3割負担でなく、2割で済んだと喜べる時代までは良かった。今は手を上げられない。100%補助の金なら褒めてもらえるが、厳しくなった。

 

そうすると何の仕事をしたらいいのか。単純に職員の首を切るわけにも行かない。静かに机に座って、終業の5時15分を待っているようでは、職員も意欲を失う。仕事もなくなる。そういうことに早く気がつかないといけない。

 

94頁、13/8/5 185646秒、

 

8人の区長が全町民を掌握

 

 

 

山岡町は、明治の時の村が8つあった。それが合併して8つの集落になった。1区平均200戸単位の区を8人の区長がいる。

 

各区ごとに区議会があり、地区行政を進めている。これを。これを「ムラ行政」といっている。

 

 

 

例えば非農家であっても、農業構造事業の推進委員長を区長が務めたり、国・県・町道整備事業の計画立案、用地交渉を区長が取りまとめている。

 

1つ区に組みが6~7つある。組みは各30戸くらい。この口調制度が充実している。「まちづくり山岡」に全戸が加入し、全員参加が実現したのは、この区長制度の存在が大きい

 

町政は執行部と、議会で成り立っているが、執行部は幅広く、住民の中まで入っている。8人の区長は執行部と同列に位置づけている。毎月区長会を開き、自分の集落に戻り区議会を開く。22日が区長会、24~25日が区議会、28日に組合議で全員集会が開かれる。

 

区長会には町役場の全課長が出席する。そして町行政全般を話す。区長には、その区出身の役場職員を交代で、秘書として付けている。区議会で区長が説明できないときは、代役を務める。役場職員も現場を知り、住民も行政に詳しくなる。町政の方針が末端まで徹底して、伝わる。そこまでやってきているので、8人の区長は全町民を掌握している。この区長の力があったからこそ、それがなければ、全員参加のNPOはできなかった。

 

95頁、13/8/6 52036秒、

 

仲良しこよしではできない

 

 

 

なぜ全世帯か、よく全員が参加したものだ、とよく質問される。

 

我々は仲良しクラブでやっているわけではない。行政の代わりを務めるNPOを作るときには全世帯、町民全員が入らないとダメだ。そしてそれには、あらかじめ、区長会のような組織を作るのが重要だ。

 

まずは区長会や区議会の参加率を上げるためには、役場の情報を全部話す必要がある。建前の議論も本音の議論も一緒に話す。裏も表も話していると、出席率がよくなる。山岡町には情報公開条例はないが、全部話しているので、必要がないとも言える。

 

例えば、区長会議で示されたレジメは、区長がメモを書き込み、そのメモごと今度は組長が全戸にそれを配る。町民全員が、区長会議で何が話し合われ、どうなったかを知ることができる。このシステムを作っておかないと、全員参加は実現しない。

 

 

 

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派閥を作らず、集落単位で

 

 

 

例えばNPOをなかよしこよしのグループで作ると、中心になる人たちへの反発や、派閥ができる。町長室に陳情が来たら、「区長と相談して欲しい」と帰す。そのうち区長が町議、場合によっては住民を伴ってまた来る。一緒に陳情してもらったら、公平な判断ができる。

 

「選挙でお世話になったから」と町長などトップが、内緒で個別に住民の陳情を受け、それが実現すれば、今度はそれを聞いた別の住民が反発する。全体がおかしくなる。トップが強い意志を持って3ヶ月も区長、町議中心を続ければ、間違いなく要望ルートが定着してくる。ガラス張りとは、そういうことだ。

 

だから山岡には派閥がない。口調は1年交代で、その集落の人たちが選考会を開き、就任をお願いしにゆく。お願いしているから、任期中、口調の足を引っ張る人はいない。区長は任意制度で、ほとんどバランティア状態。しかし区長任期中、ちゃんと仕事をしないと町会議員に推薦してもらえない。区長の推薦を貰わないと出馬できない場合もある。

 

町会議員の任期は4年。区長は1年交代だから4人いる。その中から、町議が選ばれることが多い。

 

 

 

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まちづくり山岡の理事会は、区長会役員会と同じ。理事長は区長会長がなる。8人の区長が理事だから、それにつながる全世帯が加入することになる。町長は顧問。町議は12人は参与だ。

 

理事会の下に総務企画委員会、財務委員会、産業経済委員会、保健福祉委員会、まちづくり委員会、防災・交通委員会、文化芸術委員会など16委員会がある。旧役場の組織図と重なる。

 

2003年9月12日に設立総会をした。まちづくり山岡の初仕事は秋の3大祭りの実施だった。体育祭、文化祭、産業祭を街から、NPO法人の主催に切り替えて、初めて開いた。町長は顧問なので、主催者側の高い席ではなく、来賓席に座り、来賓挨拶をした。その時町民もNPO法人になるということが、どういうことかを本当に分かってくれたのではないか。

 

98頁、13/8/6 6728秒、

 

NPO法人がそれまでの町行政を受託

 

 

 

来年4月から社会福祉施設などの運営も、NPO法人が8つの地区から業務を受託する。介護保険のディサービス、ショートスティにも事業者として参入する。そのほか公園管理、体育館、公民館、文化センター運営も行う。

 

 

 

例えば現在、5人の町職員が仕事をしているとする。

 

1人は責任者。残りの4人がボーナスをもらい、1ヶ月30日間フルに働いている。それをNPO法人の「まちづくり山岡」が職員の3倍の12人の町民で受託する。ボランティアではないが、1人の町民は最低賃金で一ヶ月に10日間働く。そのローテーションで回せば、1人あたりの人件費が抑えられ、しかも町民がワークシェアリングもできる。

 

経費面だけではない。効率化も図れる。

 

役場職員が直接仕事をすると、勤務時間中、利用者がなくても働き、時間外は帰宅する。利用者が自ら管理運営すれば、祝祭日、朝や夜の時間帯も含めて効率的に利用できるようになる。スポーツクラブが運営し、自分たちが使う場合、大会が迫ると練習のために利用時間を延ばすこともできる。

 

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合併後の職員はスリム化

 

合併すると、役場職員はスリムにせざるを得ない。

 

新しい合併市(恵那市と周辺5町村)は2004年10月に発足する。だからNPO法人を1年前に作り、準備をしてきた。

 

新市になる自治体の職員が全体で779人(03年12月現在)いる。新市ではそれを545人にする計画だ。

 

例えば毎年退職すると、3分の1ずつ新規採用する。10年後には目標を達成できることになっている。計画は立てても、それまでの仕事の中身を変えないとうまく移行できない。

 

「うちの町は住民政府を作り、住民が仕事をする。新市の職員に指導してもらってもいいが、管理的なことは自分たちで一切をやる」と言っている。

 

山岡町が新市の運営を、助けてやらないといけない。

 

合併後の仕事を受託するNPO法人の会員と、役場の職員の能力に差がないかとよく聞かれる。答えは言いにくいが、「ない」。

 

現在の職場の職員もNPO法人の会員になる。町長も顧問だ。行政のノウハウは持ち込める。いずれ町役場を退職すると、出身の地域に戻り、NPO法人を助ける。

 

100頁、13/8/6 7036秒、

 

 

 

町の個性を守る

 

山岡町の施策で、合併すると他の自治体がやっていない独自事業が45ある。広域的課題を解決する21世紀委員会、親子学園、ふれあいサロンなどだ。

 

町の個性は大きな橋や道路を作りたいということじゃない。一つひとつの取り組みを住民とともに行っていることが個性になる。合併後もこの個性を引きつくために、住民に問いかけなければならなかった。

 

素晴いい事業をやっていたので、合併後も、新しい市で続けなければならない。しかし合併後に廃止になる恐れもある。その個性を守っていくためには、組織を作って、続けていかなければならない。いろいろな組織を考えた。その時たまたまNPO法人に行き当たった。NPOは住民が行政をやる組織だなと思った。それが「まちづくり山岡」の結成につながる。

 

 

 

家族でできるものは地域にまかせない。地域でできることは市町村にまかせない。市町村でできることは都道府県にまかせない。どうしてもできないものを都道府県とか、国にやってもらう。自分たちでできるものは、自分たちでやるんだよ、と言い続けている。

 

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商売ではないから、民間政府というのもおかしい。本当は山岡町自治政府と言いたいが、合併するほかの自治体に悪いので、隣近所の近隣を使い、近隣自治体政府だと言っている。

 

外国の制度とか、全国市長会の研究会が近隣政府という考え方を打ち出していることなど何も知らない。自分でそう思っただけだ。

 

 

 

教育、福祉の全員参加ボランティア

 

独自施策を紹介したい。

 

21世紀委員会は住民がまちづくりを検討する唯一の組織。町が検討テーマを設定し、住民が集まって自由に意見交換する。結果を取りまとめ、町執行部、議会に提言する。

 

 

 

山岡親子学園は19968月の「新教育の町」宣言により、99年8月に開講した2002年4月から学校週5日制が完全実施。公立の小中学校はゆとり教育で毎週土日が休みになった。

 

山岡町は土曜日も日曜日も、春、夏、冬休みも親子学園を開いている。子供たちの出席は自由。教団の先生が違うだけ201人の地域のボランティア先生がいる。キノコの先生は食べられるものと、食べられないキノコを教える。

 

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町長が小学校4年生と、中学の2年生を教えている。この町の文化、産業を教えている。合併のこともみんなよく知っている。英語の勉強もグレードによって選べる。

 

ふれあいサロンは介護保険拠点整備関連事業として行っている。

 

2000年4月以降、8つの全集落に11のふれあいサロン(宅老所)があり、「痴呆や寝たきりにならない」「要介護者を作らない」ために、介護予防策を展開している。送り迎えからケアまで全員ボランティア。

 

バリアフリーにした公民館を利用している。行政は直接タッチしていないが、地域の住民が全員参加で企画段階から運営している。有志が参加するだけでは、なかなかうまくいかない。これも自治区住民の全員参加に意義がある。

 

 

 

町役場職員の時代から組織つくり

 

 

 

町役場の職員の時代から、組織づくりを心がけてきた。改めて強調したいのは、仲良しこよしのグループ作りはダメ。後から入ってくる人が続かない。何かやろうと発想したら、その地区でやってくれないかと、あるいは小さな班でやってほしい。それを外したら、続かない。グループで旅行に行くとか、楽しむことは仲良しこよしでいい。嫌いな人と言って、同じ部屋で寝るより仲のいい人のほうがそれはいい。しかし、行政として考えるときはそれではうまくいかない。

 

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都市部でももちろん全員参加は実現できる。視察に来られて、とてもできないという頭からできません、というのはおかしい。

 

それでは1つの町内会から始めてみなさいと言っている。そこが始めると、隣の集落がいいことしているなとな、と私のところもやろうと広がる。はじめから全体でやろうとしてもできない小さいところからはじめる。都会でも、田舎でもできる。

 

例えば山岡町のふれあいサロンの場合も、ある集落が始めて、と何の集落が続いた。2年間で全集落に広がっていった。55歳から65歳くらいの人たちが中心のこの人たちに第2の働き場所を作る。行政が少しサポートすると、どんどん広がってゆく。

 

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2004年4月から婦人会も全世帯加入の婦人会に切り替える。入らない人はいない。小さな地域で、空き缶を山ほどふてられていたらどうするか。これまでは役場に電話して、片づけに来い、と言っていた。

 

役場にはお金がない。人を雇うと、その税金は跳ね返ってくる。地域でみんなで集まって、片づける。それがこれからの原則になる。

 

近所の人が、自分の家の前の空き缶を片づけてくれているのに、黙って家の中に引っ込んでいるわけにはいかない。婦人会に入る入らないとか以前に、そういう行動を引き出すことが重要だ。

 

 

 

寒天と陶土の町

 

 

 

山岡町は農業と寒天、陶土の町、

 

ここは山間部にあるが、寒天は寒暖の差があるところで、テングサを干して乾燥させる。天草を煮て、布で絞る。その液を一昼夜おいて、ところてんのように突き出す。これを田に並べると、夜は凍り、昼間溶けて水分が落ちる。自然を使った凍結乾燥をしている。

 

主に和菓子のようかん原料に使われた。夜は気温がマイナスで、昼間は温かい。しかし雪は降らない。雪が少ないから、真冬でも作業ができる。3つの条件がそろい、さらに田んぼや畑があり、農家が農繁期に出稼ぎに行くより、副業で作業をでき、収益が安定している。大正末期の不作の時期に、国が奨励してくれた。

 

105頁、13/8/6 84652秒、

 

 

 

 

点滴灌漑(英語:もしくはTrickle irrigation)とは、配水管、チューブやエミッタ、弁などからなる施設を用い、土壌表面や根群域に直接ゆっくり灌漑水を与えることにより、水や肥料の消費量を最小限にする灌漑方式であり、トリクル灌漑やマイクロ灌漑ともよばれる

引用

 

http://www.everweb.biz/plastro/shohin.htm

 

 

 

点滴灌漑

 

点滴灌漑で栽培されるブドウ

 

点滴灌漑(英語:Drip irrigation、もしくはTrickle irrigation)とは、配水管、チューブやエミッタ、弁などからなる施設を用い、土壌表面や根群域に直接ゆっくり灌漑水を与えることにより、水や肥料の消費量を最小限にする灌漑方式であり、トリクル灌漑やマイクロ灌漑ともよばれる。

 

 

 

近代的な点滴灌漑は農業において、1930年代に発明され、それまでの無駄の多い湛水灌漑に取って代わったスプリンクラー以来のもっとも大きな技術革新となったといわれている。点滴灌漑には点滴エミッタの代わりに、微量スプレーヘッドとよばれる小面積へ散水するための装置を用いるものもある。これらは主に樹木や果樹など、比較的根群域の広い植物への灌漑に用いられる。永続的もしくは一時的に滴下管や点滴灌漑テープを作物根群域やその下方へ埋設するものは地中点滴灌漑とよばれている。地中点滴灌漑は、水資源の限られている地域や、下水処理水を利用しているような地域における列作物への灌漑に広く使われるようになった。個々の導入にあたり、もっとも適切な点滴灌漑システムや部品の選択には、地形や土壌、水、作物、耕地の微気象などの条件を慎重に調べなければならない。

 

目次

 

 [非表示] 1 概要

 

2 歴史

 

3 部品と操作

 

4 点滴灌漑の利点と欠点

 

5 注釈

 

6 出典

 

7 外部リンク

 

 

 

概要[編集]

 

 

 

点滴灌漑は灌漑の一種であり、農地に張り巡らしたチューブ内に水を流し、チューブの所々に開けられた穴[注釈 1]から水を作物の周囲の土壌に滴下することによって灌漑する。従来の灌漑と比べて水の節約になると言われており、また液体肥料や薬を水に混ぜて散布することも可能であることから、乾燥地のみならず、ハウス栽培などでも植物の効率的な栽培として利用されている。

 

歴史[編集]

 

点滴灌漑の原型。根の近くに設置されたチューブに水を流し込んで根の周囲だけを灌漑する

 

土中に埋めた土器を水で満たし、水が土中へじわじわと浸み出るタイプの点滴灌漑が古代から用いられてきた。近代的な点滴灌漑の開発は、ドイツで研究者たちが土管で作った灌漑兼排水システムを用いた地中灌漑の実験を行った1860年に始まった。1913年、E.B.Houseがコロラド州立大学で地下水位を上げずに植物の根群域への水の供給に成功した。1920年代にドイツで穴が空いたパイプが売り出され、1934年にO.E.Robeyがミシガン州立大学で多孔質帆布ホースを通して灌漑実験を行った。第二次世界大戦中及びその後、近代的なプラスチックが出現したため、点滴灌漑の大幅な改善が可能になった。プラスチック製マイクロチューブや様々なタイプのエミッターがヨーロッパや米国の温室で使われ始めた。

 

 

 

近代的な点滴灌漑の技術はイスラエルでSimcha Blassと彼の息子Yeshayahuによって発明された。微粒子による目づまりが起こりやすい小さな孔からの水の滴下の代わりに、より大きい、より長い水路を通して摩擦を利用してプラスチックエミッターの中の水の流れを遅くした。このタイプの初めての実験的システムは、当時Hatzerim キブツの組合員であったBlassNetafimという会社を設立した1959年に確立された。彼らは初めての実用的な地表面点滴エミッターを開発し、特許を取った。この方式は非常に成功し、その後1960年代末にはオーストラリア、北米と南米へ広がった。

 

 

 

 米国で1960年代の初めに、Dew Hoseという初めての点滴テープがChapin Watermatics(最初のシステムが1964年に確立された)のRichard Chapinによって開発された。

 

 

 

部品と操作[編集]

 

点滴灌漑装置の概観

 

部品(水源からの順序で)

 

ポンプ、高い位置にあるタンク

 

浄水器-濾過器:砂分離装置、サイクロン、スクリーンフィルター、多孔質フィルター

 

液肥混入装置(ベンチュリ管の注入器)と化学薬品添加装置(必要に応じて)

 

逆流防止装置

 

主配管(大口径管とパイプ取り付け用具)

 

手動、電子制御または油圧制御弁と安全弁

 

小直径ポリチューブ

 

接続用部品

 

植物への滴下装置(例.点滴孔、マイクロ噴霧器、直列型点滴孔 )

 

点滴灌漑装置のポンプとバルブは、手動で制御される場合と自動的に制御される場合がある。

 

 

 

大抵の大型点滴灌漑装置には、小さな水中の粒子で狭い流出経路が詰まるのを防ぐためにいくつかの種類のフィルターが取り付けられている。現在、目詰まりを最小限にする技術が提供されている。飲料水は、水処理工場で既に濾過されているので、いくつかの住宅用システムでは、フィルターなしで設置されている。とは言え、ほとんどすべての点滴灌漑装置では、フィルターを用いることが推奨され、フィルターが取り付けられていない場合は保証を受けられない。

 

 

 

点滴灌漑と地中点滴灌漑は、下水処理水を使用する場合にもっぱら使われている。たいてい規制により、飲料水基準を満たしていない水を空気中に散布することが禁止されている。

 

 

 

点滴灌漑装置で水を与える方法をとる場合、表面に散布し徐々に溶解させる伝統的な施肥方法は、効果的でないことがある。そのため、点滴灌漑装置では、しばしば灌漑水に液肥を混入させる。これは、液肥混入灌漑法と呼ばれる。液肥混入灌漑法と薬品混入灌漑法(chemigation)(農薬の添加と装置の掃除のために周期的に塩素や硫酸のような化学物質を添加すること)は、隔膜ポンプやピストンポンプ、ベンチュリーポンプのような注入装置を使用する。薬品は、装置が灌漑しているときに常に混入し続ける場合もあれば、断続的に与えられる場合もある。最近の大学のフィールド調査から、ゆっくりとした給水速度で液肥混入灌漑を行った場合、伝統的な施肥法と小型スプレーヘッドによる灌漑の組み合わせに比べて、最大で95%の肥料を節約できたことが報告されている。

 

 

 

適切に設計・管理されれば、植物根に水がより適切に与えられるため、地表灌漑やスプリンクラーに比べて、点滴灌漑は蒸発と深部への排水を減らすことで水の節約を促進する。加えて、点滴灌漑は水が葉に触れることで広がる多くの病気を防ぐことができる。水の供給が非常に限られている地域では、最終的に水消費量の削減には結びつかないかもしれないが、以前と同量の水でより多くの収量を得ることができる。非常に乾燥した地域や砂地では、できるだけゆっくり灌漑水を与えることが重要である。

 

 

 

流出や深部への浸透を減らすことで、一度に植物に与えられる水量を減らすパルス灌漑が行われることがある。パルス装置は、一般的に高価で頻繁なメンテナンスを必要とする。これらの理由から、エミッター製造業者の間では、1 L/hrのような超低速で灌漑水を運搬する新技術の開発に努力が注がれている。ゆっくりかつ均一に送水すれば、高価で複雑なパルス運送装置を使用しなくても水利用効率をより改善することができる。

 

 

 

点滴灌漑は畑、ビニールハウス、住宅の庭に使用されている。点滴灌漑は、深刻な水不足に悩む地域やココナッツ、コンテナ栽培の庭木、葡萄、バナナ、ナツメ、ナス、シトラス、イチゴ、サトウキビ、綿、トウモロコシ、トマトのような作物に広く適用されている。 庭点滴灌漑キットは、庭を持つ人々の間で人気であり、タイマー、ホース、点滴孔で構成されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

点滴灌漑の利点と欠点[編集]

 

 

 

点滴灌漑の利点としては以下のようなものが挙げられる。

 

局部的な潅水とリーチングを抑えることによる肥料と栄養分の損失の最小化

 

高い水分配効率

 

土地の均平化が不必要。

 

再利用水の安全な利用を可能にする。

 

根群域の水分を圃場容水量に保つことができる。

 

灌漑の頻度を、それほど土性に拘束されずに決定できる。

 

土壌浸食の最小化

 

水の高い均一分配性。それぞれのノズルで制御できるものもある。

 

低い労働コスト

 

潅水強度はバルブとドリッパーで制御できる。

 

最小限の肥料の無駄で施肥灌漑を簡単に行うことができる。

 

早熟と多収(時期毎に、年毎に)

 

 

 

点滴灌漑の欠点としては以下のようなものが挙げられる。

 

高価。初期投資がスプリンクラーシステムを上回る場合がある。

 

廃棄物。太陽が点滴灌漑に使われているチューブに影響を与え、そうでなかった場合に比べ持続性を低下させる。寿命は可変である。

 

目詰まり。水が適切に濾過されなかったり、装置が適切に維持管理されなかったりすると、目詰まりすることがある。

 

除草剤や地表面に散布された肥料が有効になるためにスプリンクラー灌漑を必要とするとき、点滴灌漑ではうまくいかない。

 

収穫後、点滴チューブは追加の撤去費用を発生させる。ドリップテープの巻取り、処分、リサイクルやリユースの計画をたてることが必要になるだろう。

 

根系が浅くなる。特に点滴チューブを地表に設置した場合は顕著である。チューブを地中に埋め込むとある程度改善する[1]

 

 

 

適切に導入されないと、水や時間や収穫の無駄が生じる。地形、土、水、作物、生物気候的な条件、点滴灌漑システムとその構成要素の持続可能性といった全ての関連要素の注意深い検討が必要とされる。

 

 

 

注釈[編集]

 

1.^ emmiter dripper と呼ばれる

 

 

 

出典[編集]

 

1.^ 森田茂紀(編)(2003)根のデザイン ―根が作る食糧と環境―. 養賢堂, 東京.

 

 

 

外部リンク[編集]

 

 

 

 ウィキメディア・コモンズには、点滴灌漑に関連するカテゴリがあります。

 

Irragation Association

 

Irragation Training & Research Center

 

Chapter 6 Drip Irragation - 国際連合食糧農業機関(FAO)の点滴灌漑のページ

 

18:19 2013/08/07

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 
 

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イスラエル農業の研究開発

 

各画像クリック、擴大出来ます

 

点滴養液栽培

 

http://www.everweb.biz/img/israel/newsystem.JPG

 

点滴養液栽培潅水システム

 

http://www.everweb.biz/img/israel/DSC00928.JPG

 

栽培箱

 

http://www.everweb.biz/img/israel/pearlite.JPG

 

土なしのパーライト培地 点滴養液栽培

 
 

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イスラエル

 

農業部門の研究はほとんどすべて、農民と研究者との協力による研究開発に根ざしている。整備された普及サービスシステムのおかげで、研究結果は素早く実地に実験され、何か問題があれば解決のために直接科学者のところへ持ちこまれる。農業の研究開発はまず、農業省に属する農業研究機関が行なう。
 
 
イスラエルの農業研究機関は、国連の食料農業機構と密接な連絡を取りながら、外国とも情報交換をはかっている。乏しい水、荒れた土地、限界のある労働力を効果的に利用することで、農業の方法に革新をもたらした。
 
 
水資源の節約の諸技術は、数多くのコンピューターに制御された灌漑システムの開発を促した。 主なものとして、水の流れを直接植物の根のある部分に向ける点滴灌漑システムがある。また、集中的な研究の結果、西部ネゲブにある、塩分を含む水の巨大な地下貯水池の利用に成功した。これによってヨーロッパや冬場のアメリカ向けに最上質のトマトなどの作物が生産されている。
 
 
その他、動物の健康を増進させ、作物の収穫を上げるために水を電磁的に処理する技術の開発もある。実験によれば、磁気処理された水を飲む牛はミルク産出量が上昇し、この水を与えられた子牛は、適正条件下で育てられた子牛より成長が12%早かったそうだ。
 
 
また、磁気発生装置を通過した水で灌漑された土壌は、通常の土壌より栄養物質を多く含んでいる。イスラエルで開発されたバーミキュライトという物質からなる土を、摂氏1000度に加熱すると通気性がよくなり、その重量の何倍もの水分を貯蓄できる。これを通常の土壌に12割混ぜると、トマトは30%、キュウリは45%も収穫量が増えるのである。
 
 
 
 イスラエルでデザインされたコンピューターが、日常の複雑な農業活動の調整に利用されている。例えば、すべての環境要因をモニターしながらの肥料注入、最小限のコストで最大の収穫量を期待できる家畜飼料の混合、養鶏のために適切な温度、湿度設定などがコンピューターで管理されている。    加えて耕作、種蒔き、植え付け、収穫、仕分け、梱包のための様々な農業機器も開発、製造している。 農業もまた一般科学研究や研究開発の発展による恩恵に浴している。例えば、自動組織培養装置、生物学的殺虫剤、疾病に強い品種の開発や生物的肥料などがある。

 
 

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砂漠のなかで育つトマト

 

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砂漠のなかのハウス群れ

 

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砂漠のなかで育つ 9色 カラーピーマン

 

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砂漠のなかで育つ花

 
 

点滴養液栽培コスト安い資材の開発

 

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イスラエルの農業

 

主は水と肥料一緒送るの点滴チューブ潅水の利用

 
 

砂漠の真なかで土耕点滴養液栽培

 

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http://www.everweb.biz/img/israel/nasubi2.JPG

 
 

イスラエルは、乏しい水と砂漠という不利な条件を克服し、多年に及ぶ苦闘の末に世界の先端をいく農業を育てあげた。

 

19世紀後半、ユダヤ人たちが父祖の地に再定着を開始したとき、まず初めに不毛の荒野に開拓のクワをおろすことから着手しなければならなかった。   イスラエルが独立してから、耕作地は110万エーカーとなり、潅漑地も60万エーカーに増えた。

 

この間農業共同体(キブツ、モシャブなど)の数は400から750に増えたが、都市化現象のため農村人口は12%から6%ほどに滅っている。現在イスラエルは食糧のほとんどを自給している。

 

一部輸入に依存しているのは、穀物、オイルシード、肉、コーヒー、ココア、砂糖であるが、農産物輸出のほうがずっと多い。農産物は、乳製品、鶏肉、各種切花、果物、野菜などが主力である。

 

冬期には、温暖地域の特性を利用して、輸出用のバラ、カーネーション、メロン、トマト、キュウリ、胡椒、いちご、キウイ、アボカドなどが生産されている。イスラエルの農業が発展した背景には、生産者である農家と研究機関との密接な協力関係がある。

 

潅漑技術、新しい品種、革新的な機械化技術などの分野で、応用側と研究開発側との交流が盛んである。GNPに占める農業の割合は、11%(1950年)から4%(1991年)に減少している。

 

一方、輸出に占める農業製品輸出の割合は、60%から4%となった。もっとも、新しい農業分野の導入によって多様化したおかげで、絶対額は2000万ドルから6億ドルと、30倍に拡大している。

 

 

点滴灌漑

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

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http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6b/VineyardDrip.JPG/500px-VineyardDrip.JPG

 

http://bits.wikimedia.org/static-1.22wmf11/skins/common/images/magnify-clip.png

 

点滴灌漑で栽培されるブドウ

 

点滴灌漑(英語:Drip irrigation、もしくはTrickle irrigation)とは、配水管、チューブやエミッタ、などからなる施設を用い、土壌表面や群域に直接ゆっくり灌漑水を与えることにより、肥料の消費量を最小限にする灌漑方式であり、トリクル灌漑やマイクロ灌漑ともよばれる。

 

近代的な点滴灌漑は農業において、1930年代に発明され、それまでの無駄の多い湛水灌漑に取って代わったスプリンクラー以来のもっとも大きな技術革新となったといわれている。点滴灌漑には点滴エミッタの代わりに、微量スプレーヘッドとよばれる小面積へ散水するための装置を用いるものもある。これらは主に樹木果樹など、比較的根群域の広い植物への灌漑に用いられる。永続的もしくは一時的に滴下管や点滴灌漑テープを作物根群域やその下方へ埋設するものは地中点滴灌漑とよばれている。地中点滴灌漑は、水資源の限られている地域や、下水処理水を利用しているような地域における列作物への灌漑に広く使われるようになった。個々の導入にあたり、もっとも適切な点滴灌漑システムや部品の選択には、地形や土壌、水、作物、耕地の微気象などの条件を慎重に調べなければならない。

 

目次

 

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概要[編集]

 

点滴灌漑は灌漑の一種であり、農地に張り巡らしたチューブ内に水を流し、チューブの所々に開けられた穴[注釈 1]から水を作物の周囲の土壌に滴下することによって灌漑する。従来の灌漑と比べて水の節約になると言われており、また液体肥料や薬を水に混ぜて散布することも可能であることから、乾燥地のみならず、ハウス栽培などでも植物の効率的な栽培として利用されている。

 

歴史[編集]

 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/Bottle_irrigation.jpg/500px-Bottle_irrigation.jpg

 

http://bits.wikimedia.org/static-1.22wmf11/skins/common/images/magnify-clip.png

 

点滴灌漑の原型。根の近くに設置されたチューブに水を流し込んで根の周囲だけを灌漑する

 

土中に埋めた土器を水で満たし、水が土中へじわじわと浸み出るタイプの点滴灌漑が古代から用いられてきた。近代的な点滴灌漑の開発は、ドイツで研究者たちが土管で作った灌漑兼排水システムを用いた地中灌漑の実験を行った1860年に始まった。1913年、E.B.Houseがコロラド州立大学で地下水位を上げずに植物の根群域への水の供給に成功した。1920年代にドイツで穴が空いたパイプが売り出され、1934年にO.E.Robeyがミシガン州立大学で多孔質帆布ホースを通して灌漑実験を行った。第二次世界大戦中及びその後、近代的なプラスチックが出現したため、点滴灌漑の大幅な改善が可能になった。プラスチック製マイクロチューブや様々なタイプのエミッターがヨーロッパや米国の温室で使われ始めた。

 

近代的な点滴灌漑の技術はイスラエルでSimcha Blassと彼の息子Yeshayahuによって発明された。微粒子による目づまりが起こりやすい小さな孔からの水の滴下の代わりに、より大きい、より長い水路を通して摩擦を利用してプラスチックエミッターの中の水の流れを遅くした。このタイプの初めての実験的システムは、当時Hatzerim キブツの組合員であったBlassNetafimという会社を設立した1959年に確立された。彼らは初めての実用的な地表面点滴エミッターを開発し、特許を取った。この方式は非常に成功し、その後1960年代末にはオーストラリア、北米と南米へ広がった。

 

 米国で1960年代の初めに、Dew Hoseという初めての点滴テープがChapin Watermatics(最初のシステムが1964年に確立された)のRichard Chapinによって開発された。

 

部品と操作[編集]http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e8/Dripirrigation.gif/700px-Dripirrigation.gif

 

http://bits.wikimedia.org/static-1.22wmf11/skins/common/images/magnify-clip.png

 

点滴灌漑装置の概観

 

部品(水源からの順序で)

 

     

  • ポンプ、高い位置にあるタンク
  •  

  • 浄水器-濾過器:砂分離装置、サイクロン、スクリーンフィルター、多孔質フィルター
  •  

  • 液肥混入装置(ベンチュリ管の注入器)と化学薬品添加装置(必要に応じて)
  •  

  • 逆流防止装置
  •  

  • 主配管(大口径管とパイプ取り付け用具)
  •  

  • 手動、電子制御または油圧制御弁と安全弁
  •  

  • 小直径ポリチューブ
  •  

  • 接続用部品
  •  

  • 植物への滴下装置(例.点滴孔、マイクロ噴霧器、直列型点滴孔 )
  •  

  • 点滴灌漑装置のポンプとバルブは、手動で制御される場合と自動的に制御される場合がある。
  •  

 

大抵の大型点滴灌漑装置には、小さな水中の粒子で狭い流出経路が詰まるのを防ぐためにいくつかの種類のフィルターが取り付けられている。現在、目詰まりを最小限にする技術が提供されている。飲料水は、水処理工場で既に濾過されているので、いくつかの住宅用システムでは、フィルターなしで設置されている。とは言え、ほとんどすべての点滴灌漑装置では、フィルターを用いることが推奨され、フィルターが取り付けられていない場合は保証を受けられない。

 

点滴灌漑と地中点滴灌漑は、下水処理水を使用する場合にもっぱら使われている。たいてい規制により、飲料水基準を満たしていない水を空気中に散布することが禁止されている。

 

点滴灌漑装置で水を与える方法をとる場合、表面に散布し徐々に溶解させる伝統的な施肥方法は、効果的でないことがある。そのため、点滴灌漑装置では、しばしば灌漑水に液肥を混入させる。これは、液肥混入灌漑法と呼ばれる。液肥混入灌漑法と薬品混入灌漑法(chemigation)(農薬の添加と装置の掃除のために周期的に塩素や硫酸のような化学物質を添加すること)は、隔膜ポンプやピストンポンプ、ベンチュリーポンプのような注入装置を使用する。薬品は、装置が灌漑しているときに常に混入し続ける場合もあれば、断続的に与えられる場合もある。最近の大学のフィールド調査から、ゆっくりとした給水速度で液肥混入灌漑を行った場合、伝統的な施肥法と小型スプレーヘッドによる灌漑の組み合わせに比べて、最大で95%の肥料を節約できたことが報告されている。

 

適切に設計・管理されれば、植物根に水がより適切に与えられるため、地表灌漑やスプリンクラーに比べて、点滴灌漑は蒸発と深部への排水を減らすことで水の節約を促進する。加えて、点滴灌漑は水が葉に触れることで広がる多くの病気を防ぐことができる。水の供給が非常に限られている地域では、最終的に水消費量の削減には結びつかないかもしれないが、以前と同量の水でより多くの収量を得ることができる。非常に乾燥した地域や砂地では、できるだけゆっくり灌漑水を与えることが重要である。

 

流出や深部への浸透を減らすことで、一度に植物に与えられる水量を減らすパルス灌漑が行われることがある。パルス装置は、一般的に高価で頻繁なメンテナンスを必要とする。これらの理由から、エミッター製造業者の間では、1 L/hrのような超低速で灌漑水を運搬する新技術の開発に努力が注がれている。ゆっくりかつ均一に送水すれば、高価で複雑なパルス運送装置を使用しなくても水利用効率をより改善することができる。

 

点滴灌漑は畑、ビニールハウス、住宅の庭に使用されている。点滴灌漑は、深刻な水不足に悩む地域やココナッツ、コンテナ栽培の庭木、葡萄バナナナツメナスシトラスイチゴサトウキビ綿トウモロコシトマトのような作物に広く適用されている。 庭点滴灌漑キットは、庭を持つ人々の間で人気であり、タイマー、ホース、点滴孔で構成されている。

 

 

 

点滴灌漑の利点と欠点[編集]

 

点滴灌漑の利点としては以下のようなものが挙げられる。

 

     

  • 局部的な潅水とリーチングを抑えることによる肥料と栄養分の損失の最小化
  •  

  • 高い水分配効率
  •  

  • 土地の均平化が不必要。
  •  

  • 再利用水の安全な利用を可能にする。
  •  

  • 根群域の水分を圃場容水量に保つことができる。
  •  

  • 灌漑の頻度を、それほど土性に拘束されずに決定できる。
  •  

  • 土壌浸食の最小化
  •  

  • 水の高い均一分配性。それぞれのノズルで制御できるものもある。
  •  

  • 低い労働コスト
  •  

  • 潅水強度はバルブとドリッパーで制御できる。
  •  

  • 最小限の肥料の無駄で施肥灌漑を簡単に行うことができる。
  •  

  • 早熟と多収(時期毎に、年毎に)
  •  

 

点滴灌漑の欠点としては以下のようなものが挙げられる。

 

     

  • 高価。初期投資がスプリンクラーシステムを上回る場合がある。
  •  

  • 廃棄物。太陽が点滴灌漑に使われているチューブに影響を与え、そうでなかった場合に比べ持続性を低下させる。寿命は可変である。
  •  

  • 目詰まり。水が適切に濾過されなかったり、装置が適切に維持管理されなかったりすると、目詰まりすることがある。
  •  

  • 除草剤や地表面に散布された肥料が有効になるためにスプリンクラー灌漑を必要とするとき、点滴灌漑ではうまくいかない。
  •  

  • 収穫後、点滴チューブは追加の撤去費用を発生させる。ドリップテープの巻取り、処分、リサイクルやリユースの計画をたてることが必要になるだろう。
  •  

  • 根系が浅くなる。特に点滴チューブを地表に設置した場合は顕著である。チューブを地中に埋め込むとある程度改善する[1]
  •  

 

適切に導入されないと、水や時間や収穫の無駄が生じる。地形、土、水、作物、生物気候的な条件、点滴灌漑システムとその構成要素の持続可能性といった全ての関連要素の注意深い検討が必要とされる。

 

注釈[編集]

 

     

  1. ^ emmiter      dripper と呼ばれる
  2.  

 

出典[編集]

 

     

  1. ^ 森田茂紀(編)(2003)根のデザイン      ―根が作る食糧と環境―. 養賢堂, 東京.
  2.  

 

外部リンク[編集]

 

 

 

 

 

 

 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Commons-logo.svg/59px-Commons-logo.svg.png

 
 

ウィキメディア・コモンズには、点滴灌漑に関連するカテゴリがあります。

 

 

 

平成2587

 

奄美大島を一つに・・行政をNPO法人で・・失業率ゼロにできる

引用

 

自治体あすへの胎動

 

13/8/4 84414秒、

 

合併後もNPO法人がまちの個性を残す・・・岐阜県山岡町長・・・山内章祐・・・・87ページ、

 

第一部・・胎動が始まった・・山内章裕・・合併後もNPO法人がまちの個性を残す・・

 

山内章裕プロフィール・・山岡町出身。岐阜県立岩村高校卒業後、山岡町役場に入り、産業、総務、企画開発課長を務めた1994年10月、山岡町長に就任。現在3期目。

 

国の施策を先取りして、次々に対応策を打ち出してきた。95年4月、女性を室長とする女性政策室を設置。96年8月には「新教育の町」を宣言。99年8月、介護保険制度に対応するため、医療の専門家にも福祉行政に関わってもらおうと保健福祉包括医療推進局を設置。さらに2002年4月の学校週5日制スタート合わせて、山岡親子学校を開校。自ら理事長、教授を務める。

 

http://www.city.ena.lg.jp/

 

 

 

200410月、恵那市など6市町村で合併する予定(合併協議会副会長)。合併を前提に、町の行政を住民自治政府にバトンタッチするため、03年9月にNPO法人「まちづくり山岡」を設置した。合併後の受け皿として、全国の注目を集めている。

 

89頁、13/8/4 15549秒、

 

山岡町は木曽山脈の南端の盆地にある、人口5,412人の町。明治時代に98村が集まって出来た町で、昭和30年に2つの村が合併した後も、8区のまとまりが強い中で、まちづくりを行ってきた。

 

NPO法人「まちづくりの山岡」がなぜ生まれ、これからどういう活動をしてゆくか。町長に就任してからほぼ10年間の取り組みと関係している。

 

自治体というと、住民と離れた組織に見える。自治体を、町を住民にもっともっと近い形にしたい、と全国の自治体は思っている。

 

NPO法人をつくったのは、合併がきっかけだが、ずっと突き詰めてゆくと、次のようなことになろう。どこの自治体の首長も、あなたが主役だとか、住民総参加とか、住民主権だとかいうのが、本当にその手法でやっているか。選挙などが終わったら、それまでになっている。どうしたら、あなたが主役になれるのか、どうしたら住民総参加ができるのか。それが出発点だ。

 

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女性の力

 

目標を実現させるために、女性の力を借りようと思った。住民の半分は女性だからだ。真っ先に取り組んだのが、女性政策室という女性ばかりの課の設置だった。足元からやらなければいけない。女性はパワーを持っている。そして実際に働いてくれる。そうした女性の意見、批判を、行政が聞かなければいけない。

 

そして次は女性の登用だ。うちの町は役場を始め町中が、女性の登用に取り組んでいる。公的役職など全役職の36%を女性が占める。例えば、選挙管理委員会は半分が女性、農業員会、民生委員にも女性がいる。

 

女性の力を借りてきた政策の延長戦にあるのが、地域の副区長ポスト。8つ集落があるが、副区長は、全員女性が務めている。

 

行政や関連する分野に女性が入ると、行政が大変だな、とか、こういうふうにしたらどうかとか、前向きの意見が出てくる。そういうところから、徐々に行政の女性応援団が出てきた。

 

今考えてみても、男社会の発想だけでは、全員参加のNPO法人設立という決論につながらなかった。

 

九一ページ、http://npo-ya.enat.jp/

 

 

 

万全の準備期間

 

どうしても「まちづくり山岡」を合併1年前に発足させたかった。準備期間がいるからだ。合併の枠組みなんかあまり考えなかった。

 

平成2584

 

まだどこの市町村とも枠組みが決まっていない段階で、集落ごとの座談会に出席して「合併は避けて通れない」と話した。その理由に町の行政問題を上げた。

 

例えば地方交付税が少なくなるからとか、補助金が減らされるとかの話から、町の借金増えている実情を説明した。これからどの市町と組むか話が進むが、これからも我々は、ここに住んでここに暮らしてゆく。

 

行政の枠組みがどうなるかということは、行財政の問題から出発している。しかし住民が日々、どこで誰と生活してゆくかということとは違う。その2つを切り離すよう強調したり、住民がだんだんと理解してくれるようになった。

 

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合併は避けられない

 

なぜ合併が避けられないか。これは山岡町だけの現象ではない。財政力の弱い自治体には共通した問題だということを、指摘しておきたい。

 

毎年、予算編成するとき、だんだん編成が難しくなる。各部から予算要求が出てくる。財政課が算盤を入れてみる。町にいくら収入があるか、財政が掴んでいる。自分の町の町税収入など自主財源、それから国の地方交付税と補助金で賄う。

 

例えば10億円の収入しかないのに、13億円の要望が出てくれば、3億円を切らなければならない。ところが、それが3億円だったのが、4億円になり、5億円になりだんだん差額が増えてきた。収入も少なくなったが、要望も経費も増えてくる。仕方がないので、補助金の裏の起債で仕事をする。ところが職員の給与支払いだけで、もう自主財源を越えている。

 

色々な施設、いわゆる箱物の電気代、水道代など経常経費は交付税で払わないといけなくなり、交付税で払うと、もう事業は何もできない。

 

しかし、そこの首長は選挙で公約しているから何かをやらないといけない。なにをやるか。補助金を貰ってきても、補助金の裏負担でさえ払えないから、起債を借りて、むりやりそれを引っ付けてやるだけ。

 

93、

 

一方、補助金を取れない首長は仕事をやらない。補助金を取れても、記載の比率がいっぱいのパンパンになっている。返せなくなると、再建団体になるしかない。

 

財政課に削れといっても、削れないという。ここ3年くらいは事業費を切ってしのいでいる。継続事業も半分に削らないといけない。

 

かつては役場職員が国の事業や補助金要項などをいろいろ調べて、補助金を取ってくると、町長は「腕がいい」と喜んでくれた。議会にもいい顔ができる。その頃はまだ補助金の自己負担分ぐらいはあった。

 

 

 

今は補助金をとっても喜べない時代になった。自己負担が3割負担でなく、2割で済んだと喜べる時代までは良かった。今は手を上げられない。100%補助の金なら褒めてもらえるが、厳しくなった。

 

そうすると何の仕事をしたらいいのか。単純に職員の首を切るわけにも行かない。静かに机に座って、終業の5時15分を待っているようでは、職員も意欲を失う。仕事もなくなる。そういうことに早く気がつかないといけない。

 

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8人の区長が全町民を掌握

 

 

 

山岡町は、明治の時の村が8つあった。それが合併して8つの集落になった。1区平均200戸単位の区を8人の区長がいる。

 

各区ごとに区議会があり、地区行政を進めている。これを。これを「ムラ行政」といっている。

 

 

 

例えば非農家であっても、農業構造事業の推進委員長を区長が務めたり、国・県・町道整備事業の計画立案、用地交渉を区長が取りまとめている。

 

1つ区に組みが6~7つある。組みは各30戸くらい。この口調制度が充実している。「まちづくり山岡」に全戸が加入し、全員参加が実現したのは、この区長制度の存在が大きい

 

町政は執行部と、議会で成り立っているが、執行部は幅広く、住民の中まで入っている。8人の区長は執行部と同列に位置づけている。毎月区長会を開き、自分の集落に戻り区議会を開く。22日が区長会、24~25日が区議会、28日に組合議で全員集会が開かれる。

 

区長会には町役場の全課長が出席する。そして町行政全般を話す。区長には、その区出身の役場職員を交代で、秘書として付けている。区議会で区長が説明できないときは、代役を務める。役場職員も現場を知り、住民も行政に詳しくなる。町政の方針が末端まで徹底して、伝わる。そこまでやってきているので、8人の区長は全町民を掌握している。この区長の力があったからこそ、それがなければ、全員参加のNPOはできなかった。

 

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仲良しこよしではできない

 

 

 

なぜ全世帯か、よく全員が参加したものだ、とよく質問される。

 

我々は仲良しクラブでやっているわけではない。行政の代わりを務めるNPOを作るときには全世帯、町民全員が入らないとダメだ。そしてそれには、あらかじめ、区長会のような組織を作るのが重要だ。

 

まずは区長会や区議会の参加率を上げるためには、役場の情報を全部話す必要がある。建前の議論も本音の議論も一緒に話す。裏も表も話していると、出席率がよくなる。山岡町には情報公開条例はないが、全部話しているので、必要がないとも言える。

 

例えば、区長会議で示されたレジメは、区長がメモを書き込み、そのメモごと今度は組長が全戸にそれを配る。町民全員が、区長会議で何が話し合われ、どうなったかを知ることができる。このシステムを作っておかないと、全員参加は実現しない。

 

 

 

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派閥を作らず、集落単位で

 

 

 

例えばNPOをなかよしこよしのグループで作ると、中心になる人たちへの反発や、派閥ができる。町長室に陳情が来たら、「区長と相談して欲しい」と帰す。そのうち区長が町議、場合によっては住民を伴ってまた来る。一緒に陳情してもらったら、公平な判断ができる。

 

「選挙でお世話になったから」と町長などトップが、内緒で個別に住民の陳情を受け、それが実現すれば、今度はそれを聞いた別の住民が反発する。全体がおかしくなる。トップが強い意志を持って3ヶ月も区長、町議中心を続ければ、間違いなく要望ルートが定着してくる。ガラス張りとは、そういうことだ。

 

だから山岡には派閥がない。口調は1年交代で、その集落の人たちが選考会を開き、就任をお願いしにゆく。お願いしているから、任期中、口調の足を引っ張る人はいない。区長は任意制度で、ほとんどバランティア状態。しかし区長任期中、ちゃんと仕事をしないと町会議員に推薦してもらえない。区長の推薦を貰わないと出馬できない場合もある。

 

町会議員の任期は4年。区長は1年交代だから4人いる。その中から、町議が選ばれることが多い。

 

 

 

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まちづくり山岡の理事会は、区長会役員会と同じ。理事長は区長会長がなる。8人の区長が理事だから、それにつながる全世帯が加入することになる。町長は顧問。町議は12人は参与だ。

 

理事会の下に総務企画委員会、財務委員会、産業経済委員会、保健福祉委員会、まちづくり委員会、防災・交通委員会、文化芸術委員会など16委員会がある。旧役場の組織図と重なる。

 

2003年9月12日に設立総会をした。まちづくり山岡の初仕事は秋の3大祭りの実施だった。体育祭、文化祭、産業祭を街から、NPO法人の主催に切り替えて、初めて開いた。町長は顧問なので、主催者側の高い席ではなく、来賓席に座り、来賓挨拶をした。その時町民もNPO法人になるということが、どういうことかを本当に分かってくれたのではないか。

 

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NPO法人がそれまでの町行政を受託

 

 

 

来年4月から社会福祉施設などの運営も、NPO法人が8つの地区から業務を受託する。介護保険のディサービス、ショートスティにも事業者として参入する。そのほか公園管理、体育館、公民館、文化センター運営も行う。

 

 

 

例えば現在、5人の町職員が仕事をしているとする。

 

1人は責任者。残りの4人がボーナスをもらい、1ヶ月30日間フルに働いている。それをNPO法人の「まちづくり山岡」が職員の3倍の12人の町民で受託する。ボランティアではないが、1人の町民は最低賃金で一ヶ月に10日間働く。そのローテーションで回せば、1人あたりの人件費が抑えられ、しかも町民がワークシェアリングもできる。

 

経費面だけではない。効率化も図れる。

 

役場職員が直接仕事をすると、勤務時間中、利用者がなくても働き、時間外は帰宅する。利用者が自ら管理運営すれば、祝祭日、朝や夜の時間帯も含めて効率的に利用できるようになる。スポーツクラブが運営し、自分たちが使う場合、大会が迫ると練習のために利用時間を延ばすこともできる。

 

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合併後の職員はスリム化

 

合併すると、役場職員はスリムにせざるを得ない。

 

新しい合併市(恵那市と周辺5町村)は2004年10月に発足する。だからNPO法人を1年前に作り、準備をしてきた。

 

新市になる自治体の職員が全体で779人(03年12月現在)いる。新市ではそれを545人にする計画だ。

 

例えば毎年退職すると、3分の1ずつ新規採用する。10年後には目標を達成できることになっている。計画は立てても、それまでの仕事の中身を変えないとうまく移行できない。

 

「うちの町は住民政府を作り、住民が仕事をする。新市の職員に指導してもらってもいいが、管理的なことは自分たちで一切をやる」と言っている。

 

山岡町が新市の運営を、助けてやらないといけない。

 

合併後の仕事を受託するNPO法人の会員と、役場の職員の能力に差がないかとよく聞かれる。答えは言いにくいが、「ない」。

 

現在の職場の職員もNPO法人の会員になる。町長も顧問だ。行政のノウハウは持ち込める。いずれ町役場を退職すると、出身の地域に戻り、NPO法人を助ける。

 

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町の個性を守る

 

山岡町の施策で、合併すると他の自治体がやっていない独自事業が45ある。広域的課題を解決する21世紀委員会、親子学園、ふれあいサロンなどだ。

 

町の個性は大きな橋や道路を作りたいということじゃない。一つひとつの取り組みを住民とともに行っていることが個性になる。合併後もこの個性を引きつくために、住民に問いかけなければならなかった。

 

素晴いい事業をやっていたので、合併後も、新しい市で続けなければならない。しかし合併後に廃止になる恐れもある。その個性を守っていくためには、組織を作って、続けていかなければならない。いろいろな組織を考えた。その時たまたまNPO法人に行き当たった。NPOは住民が行政をやる組織だなと思った。それが「まちづくり山岡」の結成につながる。

 

 

 

家族でできるものは地域にまかせない。地域でできることは市町村にまかせない。市町村でできることは都道府県にまかせない。どうしてもできないものを都道府県とか、国にやってもらう。自分たちでできるものは、自分たちでやるんだよ、と言い続けている。

 

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商売ではないから、民間政府というのもおかしい。本当は山岡町自治政府と言いたいが、合併するほかの自治体に悪いので、隣近所の近隣を使い、近隣自治体政府だと言っている。

 

外国の制度とか、全国市長会の研究会が近隣政府という考え方を打ち出していることなど何も知らない。自分でそう思っただけだ。

 

 

 

教育、福祉の全員参加ボランティア

 

独自施策を紹介したい。

 

21世紀委員会は住民がまちづくりを検討する唯一の組織。町が検討テーマを設定し、住民が集まって自由に意見交換する。結果を取りまとめ、町執行部、議会に提言する。

 

 

 

山岡親子学園は19968月の「新教育の町」宣言により、99年8月に開講した2002年4月から学校週5日制が完全実施。公立の小中学校はゆとり教育で毎週土日が休みになった。

 

山岡町は土曜日も日曜日も、春、夏、冬休みも親子学園を開いている。子供たちの出席は自由。教団の先生が違うだけ201人の地域のボランティア先生がいる。キノコの先生は食べられるものと、食べられないキノコを教える。

 

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町長が小学校4年生と、中学の2年生を教えている。この町の文化、産業を教えている。合併のこともみんなよく知っている。英語の勉強もグレードによって選べる。

 

ふれあいサロンは介護保険拠点整備関連事業として行っている。

 

2000年4月以降、8つの全集落に11のふれあいサロン(宅老所)があり、「痴呆や寝たきりにならない」「要介護者を作らない」ために、介護予防策を展開している。送り迎えからケアまで全員ボランティア。

 

バリアフリーにした公民館を利用している。行政は直接タッチしていないが、地域の住民が全員参加で企画段階から運営している。有志が参加するだけでは、なかなかうまくいかない。これも自治区住民の全員参加に意義がある。

 

 

 

町役場職員の時代から組織つくり

 

 

 

町役場の職員の時代から、組織づくりを心がけてきた。改めて強調したいのは、仲良しこよしのグループ作りはダメ。後から入ってくる人が続かない。何かやろうと発想したら、その地区でやってくれないかと、あるいは小さな班でやってほしい。それを外したら、続かない。グループで旅行に行くとか、楽しむことは仲良しこよしでいい。嫌いな人と言って、同じ部屋で寝るより仲のいい人のほうがそれはいい。しかし、行政として考えるときはそれではうまくいかない。

 

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都市部でももちろん全員参加は実現できる。視察に来られて、とてもできないという頭からできません、というのはおかしい。

 

それでは1つの町内会から始めてみなさいと言っている。そこが始めると、隣の集落がいいことしているなとな、と私のところもやろうと広がる。はじめから全体でやろうとしてもできない小さいところからはじめる。都会でも、田舎でもできる。

 

例えば山岡町のふれあいサロンの場合も、ある集落が始めて、と何の集落が続いた。2年間で全集落に広がっていった。55歳から65歳くらいの人たちが中心のこの人たちに第2の働き場所を作る。行政が少しサポートすると、どんどん広がってゆく。

 

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2004年4月から婦人会も全世帯加入の婦人会に切り替える。入らない人はいない。小さな地域で、空き缶を山ほどふてられていたらどうするか。これまでは役場に電話して、片づけに来い、と言っていた。

 

役場にはお金がない。人を雇うと、その税金は跳ね返ってくる。地域でみんなで集まって、片づける。それがこれからの原則になる。

 

近所の人が、自分の家の前の空き缶を片づけてくれているのに、黙って家の中に引っ込んでいるわけにはいかない。婦人会に入る入らないとか以前に、そういう行動を引き出すことが重要だ。

 

 

 

寒天と陶土の町

 

 

 

山岡町は農業と寒天、陶土の町、

 

ここは山間部にあるが、寒天は寒暖の差があるところで、テングサを干して乾燥させる。天草を煮て、布で絞る。その液を一昼夜おいて、ところてんのように突き出す。これを田に並べると、夜は凍り、昼間溶けて水分が落ちる。自然を使った凍結乾燥をしている。

 

主に和菓子のようかん原料に使われた。夜は気温がマイナスで、昼間は温かい。しかし雪は降らない。雪が少ないから、真冬でも作業ができる。3つの条件がそろい、さらに田んぼや畑があり、農家が農繁期に出稼ぎに行くより、副業で作業をでき、収益が安定している。大正末期の不作の時期に、国が奨励してくれた。

 

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戦後の一時期、和菓子がいい時はこの町は羽織袴で羽振りが良かった。東京や大阪の買い付け商人がたくさん来た。品薄になると相場が上がる。問屋が売ってもらうと、農家を接待する。米の売上と、寒天の売上で年に2回も現金収入が入る。

 

もうひとつ陶土も、露天掘りだから、農家がひまなときに掘っていた。ガラス原料、陶器の陶土になる。

 

歴代の町長は企業誘致や観光開発でまちづくりを、などといったら、「地場産業の寒天があるじゃないか」と言われる。ゴルフ場も断ったことがある。観光協会を作ったのも、岐阜県で最後だった。外部からの移住者が少なく、経済的にも恵まれた時代が続いた。

 

寒天や陶土の塊を媒介に、住民が一緒に生活をしてゆこうという連帯感が培われたといえよう。

 

その後、寒天の製造が3割近く落ち地場産業が昔ほどの勢いがないから、観光にも力を入れている。ゴルフ場も進出している。寒天は食物繊維が多く健康、ダイエット食品として最近、人気が出ている寒天料理をまちおこしの柱に据えている。

 

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町が隣の市の駅前に駐車場

 

 

 

山岡町はJR中央線の快速電車などを使えば、ぎりぎり名古屋市の通勤園に入る。しかし駅まで山間部が広がり、車で約20分近くかかる。若い人が、仕事のある名古屋市などに出かけていけるように道路整備にも力を入れた。JR中央線で名古屋に通勤できるように、瑞浪市みずなみし、恵那市の駅前に町営駐車場を借りた。

 

若い人はマイカーで、駅まで行き、沿線の都市に通勤する。夜はまた町に帰ってきてもらう。

 

名古屋に移転した人には、駐車場の月極料金を半額にして、街に帰ってきてもらう。町に住めば住民税が入るから、町は損をしない。給料が上がってゆけば、住民税も増えてゆく。その結果、2年間で40人が帰ってきてくれた。

 

退職すると、さらに帰ってくる人が増える町にとどまった中高年とともに、そうした人たちの働き場所を作ることも大切だ。

 

NPO活動でワーシェアリングを図るということに力を入れているのは、そう言う意味もある。遠くまで行けない高齢者には、近くに仕事を作る。里山の原風景の中に住む「多自然居住型」の町を目指している。

 

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周辺部でも合併後の中心地域になれる

 

 

 

合併すると、町長の座を降りる。合併の前の日までは、町長として頑張り、旧山岡町の集大成を図りたい。

 

全世帯ケーブルで結び、2005年4月にCATV(山岡放送センター)が開局する。交通の道路整備が終わり、情報道路の整備も進む。ダムが完成し、8階建てのビルに匹敵する木造水車が完成する。

 

観光の呼び物にしたい。

 

合併したら、中心市がにぎやかになり、端に位置する周辺が寂れるという人もいる。

 

人口が密集しているところに、合併後の市の本拠があるかもしれない。

 

しかしそこに暮らしている人にとって、中心とか、端だとかをどんな基準で決められるのか。人口の多さや、便利さ、地理的な位置などによって決められない。

 

例えば福祉を例に取ると、山岡町では都会にない福祉が備わっている。隣に誰が住んでいるかわからないような町に本当の福祉はあるのか。独居の高齢者がいる家の玄関が開いていなかったら、すぐに見回りに行ってくる。それが本当の福祉であり、そういう町は寂れるはずがない。

 

108頁、13/8/8 55615秒、

 

現在の山岡町のように、ネットワークを組んで、見回りもしてくれる。独居老人のところにも訪問してくれる。そう言うところの、どこが端なのか。

 

 

 

路線バスがなくなっても自分たちで走らせればいい。民間のバス路線は廃止になったので、真知の足として、9人の高齢者が交代で2代の巡回バスを走らせている。

 

行政ニーズはますます高度化・多様化する。行政がこれ以上、職員を増やせない。合併はこの矛盾を解決する方策の一つだ。

 

NPO法人「まちづくり山岡」は行政ができないことを委託事業として展開し、みんなに認められた行政型NPOとして、やってきたい。近隣自治体政府がこれからの行政の方向性を示している。人間社会だから、町という行政の単位がなくなっても、きちんと組織、受け入れるシステムを作って、手をつないで、行政から話があれば、いいことだからみんなで協力して活動できる。そういうところが、これからの地域の中心になる、と考えたい。

 

108頁、平成2588日、

 

109頁、

 

山内章裕インタビューレビュー

 

 

 

全町民参加のNPO法人を設立したーこの話を初めて聞いたとき、一人の脱楽もなくそんなことが現実に出来るのだろうか、と思った。何か、秘策があるのなら、それを知りたいと思った。

 

新幹線で名古屋からJR中央線のライナーに乗り恵那駅で、さらに第三セクターの明智鉄道に乗り継ぎ約1時間半で木曽山脈の南端の盆地にある、人口約5,400人の山岡町に着いた。

 

恵那市と周辺5町村は2004年10月に合併する予定。昨年9月12日、山岡町全町民が参加したNPO法人「まちづくり山岡」が設立された。合併後の旧山岡町行政組織とサービスを受け継ぐ。旧行政単位で1世帯の漏れもなく、全世帯が加入したNPO法人はもちろん初めて。

 

「町民全員参加のNPO法人を設立したのは、市町村合併のデメリットを補うため。合併後の自治体ではできない、なら町民自身でやればいい」。山内町長が庁舎でインタビューに答えてくれた。

 

山内町長は山岡町出身の64歳。町役場に就職後、総務、企画開発課長などを務めた。1994年に町長に就任後、現在3期目。

 

市町村合併特例法が成立し、山内町長は行財政の現状から、合併を「避けられないもの」と受け止めた。山岡町は、合併される側の基礎的自治体に該当する。合併後の受け皿になる地域自治組織をどういう形にするか。たどり着いた決論は、全員参加のNPO法人設立。

 

110頁、13/8/8 62954秒、

 

NPO法人は98年12月に施行されたNPO法(特定非営利活動法人法)により、当道府県が認証すれば設立できる。現在、1万5,000団体近くが認証されている。活動分野は保健・福祉、まちづくりなど17分野が定められている。地域で市民ボランティアが介護保険の事業者に参入したり、国際交流のNGO活動をしたり、各方面で活躍している。

 

しかし合併を機に、行政単位である町の住民がそっくり加入したNPO法人を設立し、旧行政単位のサービスを引き継ぐNPO法人の出現を、予想していた人はほとんどいないだろう。私も福祉NPOに早くから関心を持って取材を続けてきたが、正直、驚いた。ところがいざ設立されてみると、業務の範囲など以外にもピタリとはまるではないか。NPOの活動者の中には異論もあるだろうが、新たな可能性を広げる試みと肯定的に受け取ってもいいのではないだろうか。

 

ただ住民全員参加というハードルは、他の自治体には相当高く感じられるだろう。山内町長が強調するように、長年培われてきた区長会という独自の町民活動が全員参加実現の背景にある。

 

山岡町は明治時代に旧8日村が合併して発足。耐火粘土を産出する一方、昭和初期から農繁期の副業として寒天製造が発展。農業以外に年間を通じ、安定した産業があったため、人口の流出も比較的少なく、まとまりがいいのが特徴だ。旧8ケ村は、それぞれ200戸単位の区が有り、さらに区に下に戸単位の6~7つの組みがある。

 

111頁、

 

区長は1年交代で選出、区長会には全世帯が入っている。この組織がNPO法人「まちづくり山岡」と重なる。福祉、まちづくり、財務、産業経済など設置された16の委員会は町民の生活全般をカバーしている。NPO法人の理事長は区長会長。理事も各区の区長が務める。

 

町政と、区長会はまさに2人3脚で運営されている。それも徹底している。

 

毎月定例的に開かれる区長会では、町の課長が施策の現状や課題を説明する。区長はそれを持ち帰り、区議会で説明。区長にはその地域出身の町役場職員が交代で「秘書」として付いており、サポートする。組長はさらに会合を開き、ほぼ全員出席。それを繰り返すことで、町の現状がどうなっているか、町民全員に徹底して、伝わるシステムになっている。

 

町議会議員は全員区長の経験者。区長の任務を果たさなければ、実質、町議選にもなかなか立候補しにくいという。

 

「しんNPO法人は行政サービスを引きつくのだから、仲良しクラブではいけない。だから全員参加する」と山内町長は強調する。

 

合併予定の他の市町村で実施していない山岡町の独自事業は、45あるという。合併後の新市では旧自治体の職員が削減される。新市が独自事業を引き継げないなら、町民自身でやる、というのが基本コンセプト。

 

11213/8/8 7752秒、

 

4月1日からは、独自事業だけでなく、町の委託を受けて社会福祉施設、公園、文化センターの管理の運営、介護保険事業のデイサービスなどを実施する。それまで町職員らが担当していた仕事を、利用者である新NPO法人の会員が、1人分の人件費よりさらに抑えて何人かで担当することで、利用者の多い夜間運営など効率化と、地域住民のワークシェアリングが図られるという。

 

山岡町には他の自治体から視察が相次いでいる。

 

都市部で同じようにできるのか、NPOに運営能力はあるのか?などの質問に対しては「リーダーにやる気があればできる。役場職員もNPOの会員なんだから、全く問題ない」と語った。斬新な試みに注目したい。

 

(渋川智明)112ページ、

 

平成2588

 

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