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2015年8月30日 (日)

従属国家論 (PHP新書) 新書 – 2015516 佐伯 啓思 (著) われわれの置かれている「今」を理解するためにも、少なくとも「あの戦争」、そして「あの戦争の残したもの」から始めなければどうにもならないだろうと思うのだ


引用

 

従属国家論 (PHP新書) 新書  – 2015516 佐伯 啓思 (著)

われわれの置かれている「今」を理解するためにも、少なくとも「あの戦争」、そして「あの戦争の残したもの」から始めなければどうにもならないだろうと思うのだ。(「あとがき」より)

昨今メディアを賑わせている集団的自衛権、憲法改正論議には、現代日本をつくった「戦後の初発」という視点がすっぽりと抜け落ちている。日本の「戦後」とはいかにして始まったのか。実はそこには、大いなる欺瞞(ぎまん)が隠されていた。それを直視しない限り、ほんとうの憲法改正論議などできないのだ。

 

本書では、戦後の始まりから平和憲法、構造改革からTPPに至るまで「戦後日本」を規定してきた「日米の非対称的な二重構造」を丹念に描き出す。なぜ、保守も革新も自ら進んでアメリカに追従してきたのか。

なぜ、沖縄の基地はいつまでもやめられないのか。

なぜ、TPPなど規制緩和の大合唱が起きるのか。

それはわれわれが、意識している、いないにかかわらず、外交から政治・経済政策、言論に至るまで常にかの国の顔色を窺わなければならない「従属国家」だからである。

だが、覇権争いとでも称すべき冷戦後の世界において、こうした「意識的/無意識的なアメリカ追従」はもはや最良の道ではなくなった。戦後70年間日本人が抱え続けてきたディレンマを鮮やかに切り取り、これから我々が進むべき方向を指し示す。

 現代を代表する思想家が放つ、待望の戦後論!

 

 第1章 漂流する日本人

 第2章 「戦後レジーム」が抱えるふたつのディレンマ

第3章 「あの戦争」とは何だったのか

第4章 憲法を制定するのは誰か

第5章 「戦後レジーム」はこうして成立した

第6章 「ガラスでできた鏡張りの部屋」の中で

第7章 「ごっこの世界」の中にある日本

 第8章 日本を縛る「非対称的な二重構造」

 第9章 「近代日本」という悲劇

 

内容(「BOOK」データベースより)

戦後70年間、日本人は2つの大きなディレンマを抱え続けてきた。1つは、民主主義と経済成長を至上命題とするアメリカ的価値観と伝統的な日本的価値観との軋轢。もう1つは、平和憲法を謳いながら日米同盟を結び米軍基地を置く、自己矛盾した「国のかたち」である。本書では、こうした「戦後日本」という特異な空間を読みとくために「日米の非対称的な二重構造」という「補助線」をひく。なぜ保守も革新も、自ら進んでアメリカに追従してきたのか。戦後日本を規定する構造を鮮やかに描き出し、我々が進むべき方向を指し示す。日本を代表する思想家が放つ待望の戦後論!

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新書: 253ページ出版社: PHP研究所 (2015/5/16)

言語: 日本語発売日: 2015/5/16

目次

第1章 漂流する日本人(ニヒリズムの時代人間中心主義という思い上がり ほか)

第2章 「戦後レジーム」が抱えるふたつのディレンマ(「文明の衝突」に巻き込まれた日本日本とイスラムの対立は必然 ほか)

第3章 「あの戦争」とは何だったのか(「戦後」はいつから始まったのか事実の隠蔽によるごまかしの「戦後意識」 ほか)

第4章 憲法を制定するのは誰か(日本国憲法は「違反憲法」である憲法公布の二重構造 ほか)

第5章 「戦後レジーム」はこうして成立した(ホッブスが示した民主主義の原則憲法の「平和主義」が胡散臭いわけ ほか)

第6章 「ガラスでできた鏡張りの部屋」の中で(「アメリカによる日本の構造的障害除去プログラム」再びの「国民総転向」 ほか)

第7章 「ごっこの世界」の中にある日本(アメリカ的価値への無意識の従属「悪の帝国」と戦う「正義の共和国」 ほか)

第8章 日本を縛る「非対称的な二重構造」(日米関係の質的変化「日米の価値観の共有」という幻想 ほか)

第9章 「近代日本」という悲劇(高校野球と日本の開国維新の精神から文明開化へ ほか)

我々は「ごっこの世界」に生き続けるのか? 保守も革新も本質的には変わらない。

いわゆる保守は、戦後「日本国憲法」に定められた普遍的自由や民主主義といった思想に基づき行動するものの、9条だけは改正し、アメリカと一緒に戦争ができるようになればよいと考えている。この路線の延長上に、国際社会を脅かす危険な勢力を積極的に排除するという積極的平和主義はある。アメリカから守ってもらうだけでなく、一緒に戦うというところまで格上げしなければならない。それでこそ双務的な同盟関係だと。

一方、いわゆる革新は、戦後の平和は「日本国憲法(平和憲法)」により実現された。憲法を変えることは許されない。現行の憲法を守っていくことが平和への道だと考える。

多少バリエーションはあるものの、保守と革新の紋切り型の社会感は、だいたいこんな感じだろう。

保守と革新、どちらにも決定的に欠けていること、それは、思考の大前提に日本の国益を置かないこと。共通点は、意識的・無意識的にの度合いの違いはあるにしろ、アメリカの庇護を前提として、アメリカの立場・思想で思考していることだ。

保守は、対米追従という前提があり、その前提に従うことが日本の国益にかなうと考えている。日本の国益のために、アメリカを戦略的パートナーとして選ぶのではなく、アメリカとの同盟が如何に大事かという前提から、基本的な議論が進められる。

一方で革新は、アメリカの軍事力による平和という現実を認めない。アメリカが定めた「日本国憲法」の遵守こそが、永続的な平和を持たらすということであり、この「平和憲法」を守り続けることこそが平和であり、正義だ。

現実主義的、理想主義的という差はある。しかしながら、両者ともに戦後のアメリカに与えられたスキームの中で思考し、政治ごっこ、言論ごっこを続けているという点では同じだ。

果たして、我々は「ごっこの世界」(戦後レジーム)に生き続けることが正しいのだろうか。真の意味での自主性もなく、独立心もないとは言え、生きるということはそんなものだと、開き直るのも一つの方法だ。

しかし、著者はほぼ上記のような議論を展開したうえで、「ごっこの世界」から抜け出すべき、少なくとも「ごっこの世界」を最低限認識すべきだということを指摘する。

真の意味での「自主性」を取り戻すための特効薬はない。それ以前に我々は、我々が日米関係について語ることについて「自己検閲」をしてしまっているのではないか。本当の問題は、我々が国家の自主性を取り戻すことを、恐れていることなのかもしれない。

結局日本の諸問題の根本的な原因は、アメリカではなくて日本人自身の中にある

全体的には、著者がこれまで言ってきたことの総括的な内容であり、特に目新しさがない感じなのは、残念でした。一言で言うと、もう日本人全体の無意識レベルにまで刷り込まれてしまっている、とにかく何でもアメリカの方針を真似ていけばいい。

そしてアメリカに逆らったら日本はやっていけないと、率先してアメリカへの追従・同調を、ありとあらゆる人々が、ほぼ強迫観念的にいつまで経っても止められないことが、一番の問題であるということです。日本人の誰の中にも、外交だけに留まらず、日本独自の諸々の価値観がいまだに確立できておらず、それを確立できない限り、当の日本人達は、自らの遺志や考えでそうしていると思っていても、潜在的には依然として、どこまでもアメリカの影響を、受け続けるしかないということですねそして相変わらず「国民主権」という概念が、いまひとつ理解できず、政治に対しても無責任・無関心な国民が大勢です。

一向に政治についての主体性や参加意欲を持たず、何だかんだ文句を言いながらも、結局は政治家達にお任せのままでも、まだ日本の政治が何とかなると思っている。本書で著者も指摘している「だから、一方で、われわれは、政治家はすべからく国民のいうことを聞かなければならない、いわば国民の召使いででもあるように見なしておき、他方では、もっぱら政府が万事うまくやってくれることを期待している。このように政府に依存して任せておきながら、上手くいかないと、政府に文句を言う。まるで子供が親に甘えているようなもの」。まさにその通りの指摘だと思います。

 

このように、政治は一切政治家達に丸投げしているくせに、何かあった時だけ文句を言う、平気で矛盾したことを当時に要求し続け、そしてそのことにいまだに無自覚な国民達。約一世紀近くにも渡る、いつまでもなかなか変わらない悪しき日本のお任せ・受身民主主義の弊害でしょう。

少し本書の内容とはずれてしまいますが、何かこの国の政治家って、自民党は国民から遠過ぎ、また民主党などの他の野党は近過ぎて、国民達との間に、適切な距離が保てていないような気がします。独善的で、一方的にいろいろな問題ある法案などを次々と決定していってしまう自民党、そして民意に耳を傾けるという意味を何か勘違いし、往々にして無責任で気まぐれで無定見な国民達にすり寄り過ぎて、結果掲げる政策も、所帯の家計レベルのささやかな政策になりがち、そして世論調査などという、あてにならない気まぐれなその気その時の国民の気分に振り回され、その結果に一喜一憂して頻繁に代表や首相を取り替えて、何とかその場を凌ごうとばかりしている民主党。

そして国民達の方も、政治家というと、ふだんは遠巻きに冷ややかに見ているくせに、何か一旦、衆目を惹くような、小泉純一郎や橋下徹などの存在が現われると、一気に変に近寄り過ぎ、依存心丸出しで何とかしてくれと頼む。

日本の場合、政治家と国民、お互いに適切な距離が取れていない印象を、強く受けます。

そしてそれが、現在の日本の政治において、いろいろな問題を引き起こしていると感じます。やはり、こういったことも、日本の政治の未熟さの表れなのでしょうね。それから、著者はあくまでも学校でのひどいいじめは例外的で個別的な事態としていますが、これには反対です。

マスコミが報道しないだけで、実際にはいじめ自殺も、もっと相当数あると思います。日本は何しろ、アメリカやイギリスなどと並んで、学校でのいじめが多い国です。内藤朝雄氏の「いじめ加害者を厳罰にせよ」などで触れられている、各いじめに関するデータにも、現われています。

この年代の保守の人も、いじめについては、いまだにこの程度の認識しかないのかと、がっかりしましたが。

いじめ自殺報道の時だけ、一過性に世間が盛り上がって、たちまち忘れ去られてしまうのも、しかたないのかもしれませんね。

それから、私は別に「産経新聞」や「表現者」の購読者という訳でもありません。

こういう媒体からは、また離れた所で佐伯氏個人として評価している者です。

我々は「ごっこの世界」に生き続けるのか?保守も革新も本質的には変わらない。

いわゆる保守は、戦後「日本国憲法」に定められた普遍的自由や民主主義といった思想に基づき行動するものの、9条だけは改正し、アメリカと一緒に戦争ができるようになればよいと考えている。この路線の延長上に、国際社会を脅かす危険な勢力を積極的に排除するという積極的平和主義はある。アメリカから守ってもらうだけでなく、一緒に戦うというところまで格上げしなければならない。それでこそ双務的な同盟関係だと。

一方、いわゆる革新は、戦後の平和は「日本国憲法(平和憲法)」により実現された。憲法を変えることは許されない。現行の憲法を守っていくことが平和への道だと考える。

多少バリエーションはあるものの、保守と革新の紋切り型の社会感は、だいたいこんな感じだろう。

保守と革新、どちらにも決定的に欠けていること、それは、思考の大前提に日本の国益を置かないこと。共通点は、意識的・無意識的にの度合いの違いはあるにしろ、アメリカの庇護を前提として、アメリカの立場・思想で思考していることだ。

保守は、対米追従という前提があり、その前提に従うことが日本の国益にかなうと考えている。日本の国益のために、アメリカを戦略的パートナーとして選ぶのではなく、アメリカとの同盟が如何に大事かという前提から、基本的な議論が進められる。

一方で革新は、アメリカの軍事力による平和という現実を認めない。アメリカが定めた「日本国憲法」の遵守こそが、永続的な平和を持たらすということであり、この「平和憲法」を守り続けることこそが平和であり、正義だ。

現実主義的、理想主義的という差はある。しかしながら、両者ともに戦後のアメリカに与えられたスキームの中で思考し、政治ごっこ、言論ごっこを続けているという点では同じだ。

果たして、我々は「ごっこの世界」(戦後レジーム)に生き続けることが正しいのだろうか。真の意味での自主性もなく、独立心もないとは言え、生きるということはそんなものだと、開き直るのも一つの方法だ。

しかし、著者はほぼ上記のような議論を展開したうえで、「ごっこの世界」から抜け出すべき、少なくとも「ごっこの世界」を最低限認識すべきだということを指摘する。

真の意味での「自主性」を取り戻すための特効薬はない。それ以前に我々は、我々が日米関係について語ることについて「自己検閲」をしてしまっているのではないか。本当の問題は、我々が国家の自主性を取り戻すことを、恐れていることなのかもしれない。

 

戦後の欺瞞を平易な文章で暴き出す

『産経新聞』や雑誌『表現者』の読者にはおなじみである佐伯啓思さんの新刊である。

本書の内容の中の「戦後」はいつ始まったのかに関してはこの前の朝日の氏の月一のコラムでも取り上げられていた。どういうことかと言えば1945年8月15日のポツダム宣言受諾を持って我々は「戦後」と捉えているが、GHQの占領の7年間を経た1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約をもって「戦後」と捉える考えもあるということだ。氏はそうしなければ占領期間がベールに覆われてしまうと指摘している。「戦後レジーム」を形作ったのは、まさにあの7年間であったのである。

 

そして、氏は「非対称的な二重構造」というキーワードによって戦後の日米関係を表そうとしている。ここでいう「非対称」であるのは日米のことであるのだが、

どういうことかというと、アメリカは日本に民主主義や市場経済等の普遍的価値を教化してやったという物語をもっているのに対し、日本はあくまで敗戦という衝撃によって目覚め、自発的にアメリカ的な民主主義や市場経済等の普遍的価値を導入したという物語をもっている、この両国間のギャップのことである。これはGHQのいわゆるWGIPの賜物であるのだが、氏はこの「非対称的な二重構造」は1990年代の年次改革要求にも現れていると述べている。

 

安倍総理は「戦後レジームからの脱却」を主張しているが、集団的安全保障の解釈変更によってますますアメリカと緊密になりつつある。氏によればこれも「戦後レジーム」の強化だという。アメリカのプレゼンスが低下する中、徐々に日本の軍事的プレゼンスを高め、アメリカの軛から脱却することにつなげ得るか。息の長い歩みであるが、我々の先祖の明治人が経験した不平等条約解消の歩みを想い起こせばそれは不可能ではないと確信する。

結局日本の諸問題の根本的な原因は、アメリカではなくて日本人自身の中にある

全体的には、著者がこれまで言ってきたことの総括的な内容であり、特に目新しさがない感じなのは、残念でした。

一言で言うと、もう日本人全体の無意識レベルにまで刷り込まれてしまっている、とにかく何でもアメリカの方針を真似ていけばいい。

そしてアメリカに逆らったら日本はやっていけないと、率先してアメリカへの追従・同調を、ありとあらゆる人々が、ほぼ強迫観念的にいつまで経っても止められないことが、一番の問題であるということです。日本人の誰の中にも、外交だけに留まらず、日本独自の諸々の価値観がいまだに確立できておらず、それを確立できない限り、当の日本人達は、自らの遺志や考えでそうしていると思っていても、潜在的には依然として、どこまでもアメリカの影響を、受け続けるしかないということですねそして相変わらず「国民主権」という概念が、いまひとつ理解できず、政治に対しても無責任・無関心な国民が大勢です。

一向に政治についての主体性や参加意欲を持たず、何だかんだ文句を言いながらも、結局は政治家達にお任せのままでも、まだ日本の政治が何とかなると思っている。本書で著者も指摘している「だから、一方で、われわれは、政治家はすべからく国民のいうことを聞かなければならない、いわば国民の召使いででもあるように見なしておき、他方では、もっぱら政府が万事うまくやってくれることを期待している。このように政府に依存して任せておきながら、上手くいかないと、政府に文句を言う。まるで子供が親に甘えているようなもの」。まさにその通りの指摘だと思います。

 

このように、政治は一切政治家達に丸投げしているくせに、何かあった時だけ文句を言う、平気で矛盾したことを当時に要求し続け、そしてそのことにいまだに無自覚な国民達。約一世紀近くにも渡る、いつまでもなかなか変わらない悪しき日本のお任せ・受身民主主義の弊害でしょう。

少し本書の内容とはずれてしまいますが、何かこの国の政治家って、自民党は国民から遠過ぎ、また民主党などの他の野党は近過ぎて、国民達との間に、適切な距離が保てていないような気がします。独善的で、一方的にいろいろな問題ある法案などを次々と決定していってしまう自民党、そして民意に耳を傾けるという意味を何か勘違いし、往々にして無責任で気まぐれで無定見な国民達にすり寄り過ぎて、結果掲げる政策も、所帯の家計レベルのささやかな政策になりがち、そして世論調査などという、あてにならない気まぐれなその気その時の国民の気分に振り回され、その結果に一喜一憂して頻繁に代表や首相を取り替えて、何とかその場を凌ごうとばかりしている民主党。

そして国民達の方も、政治家というと、ふだんは遠巻きに冷ややかに見ているくせに、何か一旦、衆目を惹くような、小泉純一郎や橋下徹などの存在が現われると、一気に変に近寄り過ぎ、依存心丸出しで何とかしてくれと頼む。

日本の場合、政治家と国民、お互いに適切な距離が取れていない印象を、強く受けます。

そしてそれが、現在の日本の政治において、いろいろな問題を引き起こしていると感じます。やはり、こういったことも、日本の政治の未熟さの表れなのでしょうね。それから、著者はあくまでも学校でのひどいいじめは例外的で個別的な事態としていますが、これには反対です。

マスコミが報道しないだけで、実際にはいじめ自殺も、もっと相当数あると思います。日本は何しろ、アメリカやイギリスなどと並んで、学校でのいじめが多い国です。内藤朝雄氏の「いじめ加害者を厳罰にせよ」などで触れられている、各いじめに関するデータにも、現われています。

この年代の保守の人も、いじめについては、いまだにこの程度の認識しかないのかと、がっかりしましたが。

いじめ自殺報道の時だけ、一過性に世間が盛り上がって、たちまち忘れ去られてしまうのも、しかたないのかもしれませんね。

それから、私は別に「産経新聞」や「表現者」の購読者という訳でもありません。

こういう媒体からは、また離れた所で佐伯氏個人として評価している者です。

日本の戦後従属体制について

アメリカの日本支配を容易化する戦略としての「非対称的な二重構造」が戦後日本に「無意識の自発的従属」を生み、「戦後レジーム」を形成したとする指摘は鋭い論点で社会経済学、社会思想史の専門家としての著者の慧眼といえよう。

傾聴に値する歴史観

本著は昨今はやりの「永続配線論」とはまた違ったアプローチであるが、どちらも戦後日本の敗戦総括が消化不良である、と言う点では同じであろう。

現在国会で審議中の「安保法制」を論ずるにあたり、与野党の議員は本著作を読んで討論して欲しい。

先を示していない

日本がアメリカと戦争をして負け、その負けを受け入れたのは事実。今さらアメリカに負けた事実をなかったことにしてパラレルワールドでも築けとでもいうのか?

9:08 2015/08/30


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