永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) 単行本 – 2013/3/8
引用
永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) 単行本 – 2013/3/8
白井 聡 (著) 内容紹介朝日新聞書評(2013/6/16)で大絶賛された、必読の日本論。読んだあと、顔面に強烈なパンチを見舞われ、あっけなくマットに仰向けに倒れこむ心境になった。こんな読後感は初めてだ。――水野和夫
1945年以来、われわれはずっと「敗戦」状態にある。「侮辱のなかに生きる」ことを拒絶せよ。 「永続敗戦」それは戦後日本のレジームの核心的本質であり、「敗戦の否認」を意味する。国内およびアジアに対しては敗北を否認することによって「神州不滅」の神話を維持しながら、自らを容認し支えてくれる米国に対しては盲従を続ける。敗戦を否認するがゆえに敗北が際限なく続く――それが「永続敗戦」という概念の指し示す構造である。今日、この構造は明らかな破綻に瀕している。
「永続敗戦」それは戦後日本のレジームの核心的本質であり、「敗戦の否認」を意味する。国内およびアジアに対しては敗北を否認することによって「神州不滅」の神話を維持しながら、自らを容認し支えてくれる米国に対しては盲従を続ける。敗戦を否認するがゆえに敗北が際限なく続く―それが「永続敗戦」という概念の指し示す構造である。今日、この構造は明らかな破綻に瀕している。1945年以来、われわれはずっと「敗戦」状態にある。「侮辱のなかに生きる」ことを拒絶せよ。
単行本: 224ページ出版社: 太田出版 (2013/3/8)
言語: 日本語発売日: 2013/3/8
目次
第一章 「戦後」の終わり
第一節 「私らは侮辱のなかに生きている」――ポスト3・11の経験
第二節 「戦後」の終わり
第三節 永続敗戦
第二章 「戦後の終わり」を告げるもの――対外関係の諸問題
第一節 領土問題の本質
第二節 北朝鮮問題に見る永続敗戦
第三章 戦後の「国体」としての永続敗戦
第一節 アメリカの影
第二節 何が勝利してきたのか?
エピローグ――三つの光景
著者の主張は明確であり、その言葉は快刀乱麻である
本書のテーマに関しては31頁で著者は以下の通り端的に断言している。「本書が取り組むのは『戦後』を認識の上で終わらせることである」「終わらせる」とは、少なくとも現段階では「終わっていない」ということを意味する。表題の「永続敗戦」という言葉はまさにその「終わっていない」状況を表している。
「もはや戦後ではない」という言葉は1956年の経済白書に記載された有名な言葉だ。そこで宣言された戦後終了とは要は経済力に非常に重きを置いた歴史観であったということであろう。事実日本は高度成長を経て、世界有数の経済大国となっていったことがその後の歴史だ。
観念的過ぎる議論は危険である
戦後日本の風景をどのように知的に解釈するか様々な議論があっても良い。ただ現実の政治というものの正面には民衆が必ず存在し、実際に血が流れることもあれば傷つくこともあるのである。著者は観念的な側面からのみ政治を理解しようとしており、様々な利害の集合体としての国民には向き合っていない。驚いたのは日本は先の大戦で敗戦したことを受け入れていないという著者の主張である。
著者の主張は明確であり、その言葉は快刀乱麻である, 2013/9/16
永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) (単行本)
本書のテーマに関しては31頁で著者は以下の通り端的に断言している。
「本書が取り組むのは『戦後』を認識の上で終わらせることである」「終わらせる」とは、少なくとも現段階では「終わっていない」ということを意味する。表題の「永続敗戦」という言葉はまさにその「終わっていない」状況を表している。
「もはや戦後ではない」という言葉は1956年の経済白書に記載された有名な言葉だ。そこで宣言された戦後終了とは要は経済力に非常に重きを置いた歴史観であったということであろう。事実日本は高度成長を経て、世界有数の経済大国となっていったことがその後の歴史だ。
「経済」だけが物事を切り取る切り口であって良いかどうか。これは僕のような歴史ないし経済の素人にとっても疑問である。但し、敗戦した日本が心の拠り所にしたものが経済であったということは事実ではないかと思う。実際敗戦当時の状況を考えると日本経済の回復は「奇跡的」に見えたとしてもおかしくない。但し、日本人はそれを自らの能力と勤勉に帰したかもしれない。一方、歴史家は朝鮮戦争等の特殊に有利な状況があったことに帰してもおかしくない。素人の僕としてはどちらも真実だろうと思う程度だ。
但し、その間にきちんと「敗戦したことを咀嚼し腹の底まで落とし込まなかった」のが日本であるということが著者のいう「永続敗戦」なのだと読んだ。「対米追従」と「アジア諸国(ロシアを含む)に対する排外的なナショナリズム」という二面性を著者は強く主張している。
著者の主張は明確であり、その言葉は快刀乱麻である。著者の断言調が本書の大きな特徴だ。明快な断言は時として耳に心地よい。内容が心地よくなくても口調によっては聞いていて納得させられてしまうということは良くあることだ。その意味で僕として著者の語っていることが本当に正しいのかどうかに関しては留保を付けたい。
しかしながら、「戦後は、若しくは敗戦は、まだ終わっていない」という主張に関しては皮膚感覚で同意出来るものがあった。取りあえず今回の読後感はそこまでなのだが、今後色々と考えるヒントになったと思う。
68年間の眠りから目覚めるために, 2014/1/18
レビュー対象商品: 永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) (単行昭和39年に日本政府は、東京大空襲及び広島、長崎への原爆投下の指令官であるカーチス・ルメイに勲一等旭日大褒章を授与した。そして現在の安倍政権は言うまでもなく当時の政府の嫡子であり、我々国民が紛れもなく民主的な手続きを経て選んだ政権である。また本書で著者は元外務事務次官谷内正太郎が米日の関係を「騎士と馬」に擬えたことをひいて次のように言う。「完全に家畜化され白人崇拝を植え付けられた日本人・・『家畜人ヤプー』・・は作中世界において生ける便器へと肉体改造され、白人の排泄物を嬉々として飲み込み、排泄器官を口で清める」「ここまで来ると彼らの姿はSF小説の『家畜人ヤプー』そのものである」と。
さて、ルメイへの叙勲は本書の読者及び当レビューの読者にとっては常識に属することであろう。しかし、多くの国民にとってもはたして同様であるのか。また、常識と喝破する当の者達は、この異常な事態を十全に説明する術を持っているのか。そして引用した上述のグロテスクな白人崇拝について、これを他人事と笑って済ませられる者がどれほどいるのか。
本書はこの倒錯した異常性について、我々の敗戦の否認が原因と断ずる。エリート層は、アメリカに対しては徹底的に媚びへつらう一方で中国、韓国、北朝鮮に対しては傲慢に振舞い続け、国民の快哉を得ることにより自らの正当性の確立を図る。右翼は現行憲法改正を叫ぶものの上述のアメリカに対する屈辱的事態には目をつぶり、逆に左翼は反米を叫ぶものの、自分達が当のアメリカの核の傘によって庇護されている現実には向き合おうとせず、しかしアメリカの都合により押し付けられた現行憲法だけは金科玉条のものとして奉る。つまり、何のことはない我々は皆、意識的、無意識的にダブルスタンダードを使い続け、60年間流され続けてきただけのことなのだ。
ただしこれが単なる主張でしかないのであれば、ネットのブログでさえも散見できる程度のものであろう。本書及び著者が類書に勝る点は、その徹底したリアリズムである。それは恐らく国家を相対化できる視点を持つマルクス主義、レーニン研究者という著者の専門によるところと、また著者自身が語るとおり、著者が時事評論家ではなく政治哲学、社会思想研究者であることによっていると思われる。そのため、主張には根拠又は資料が当然の如く伴われることとなり、それが主張の説得力を増すこととなる。したがって、本書第二章で著者は尖閣、竹島、北方四島の領土問題を論じるが、主張の根拠、引用及び出展が明示されていることから、左右どちらにとっても役立つ内容となっており、この部分を読むだけでも本書には価値があると思われる。
敗戦、というアメリカに対する服従を受け入れる代わりに、支配層は国体という名の、天皇をはじめとする支配層の延命を手に入れた。では国民は何を手に入れ、そして本当に失ったものは何だったのか。手に入れたものはやはりアメリカという(かつての)超大国による庇護、そしてそれを元にした経済的繁栄だっただろう。そして著者によれば代わりに我々が失ったものは、なんと革命の機会だという。
恐らくこの主張が突拍子もないものに聞こえるのは、無論共産主義のプロジェクトがほぼ惨憺たる有様で終焉し、現在の世界には共産主義国家等存在しないに等しい状況となっているからであろう。しかしもしかすると、60年の長きにわたり、あまりにも惰眠をむさぼっていたが故に我々が現実を正しく見ることができなくなっている、それが革命という言葉にリアリティを感じない理由かもしれない。なお本書で著者はこの革命を共産主義革命ではなく、本来の民主主義を確立するという意味で使用しているように思われる。
本書を読むことにより、所謂戦後というものが事実空虚であるという認識、したがって敗戦後まもなくの状況と現在との、時空を超えた直接的な接合とそれによる革命の可能性というものが、少なくともそれまでの夢想というレベルから、現実的可能性の一端ではあるというレベルに自らの認識が変化した。60年間の眠りを覚ますための一手段としてまずは本書を一読されることを勧めたい、
敗戦を終戦と言い変えてきた日本の欺瞞, 2014/8/20
永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) (単行本)
戦後の日本社会の歩みを総括する上で非常に重要な点を指摘しています。
敗戦を終戦と言い変えることによって日本人は、神州不滅とだ言って傲慢に振舞ってきた日本が、戦争に負けたのだという現実と正面から向き合ってこなかった。本書を読むと、そこに戦後日本の最大の欺瞞があることが良く分かります。そのため戦後日本は、戦勝国である米国には今日に至るまで敗戦国として従属しながらも、敗戦を終戦と言い変えることによって、アジア近隣諸国に対しては、戦争責任を十分認めず、尊大に振舞ってきた。著者は、こうした米国とアジアに対する日本人、特に保守派の人々のダブルスタンダードにこそ、最大の欺瞞があると指摘する。敗戦と真摯に向き合わないが故に、今だ日本は敗戦の問題を引きずっているのです。そこに著者が言う「永続敗戦論」があります。
著者が指摘しているように、様々な経済的、政治的要因から今まではそうしたダブルスタンダードが許されてきたが、これからはそうは行きません。護憲派であれ、改憲派であれ、敗戦の現実に真摯に向き合うことが今こそ求められていると強く感じました。
対米従属と敗戦の否認, 2014/6/17
レビュー対象商品: 永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) (単行本著は「永続敗戦」という概念で戦後処理の失敗に起因する今日的な問題を日本の現在として俯瞰的にとらえかえすもので、第一章「戦後」の終わり、第二章「戦後の終わり」を告げるもの、第三章戦後の「国体」としての永続敗戦、そして最後のエピローグで構成する戦後レジームの核心とその本質を明解な理路であざやかに描きだす「敗戦後」論である。
冒頭、「私らは侮辱の中に生きている」として読み手の関心をひきつける。とりわけ、福一原発事故によって次々と明るみにされてきた事実をふまえ、これを「侮辱」と呼ぶほかないとしている。けだし、原子力の安全神話を含めSPEEDIの公開や不都合な被爆の実態はすべて隠蔽され、何一つとして責任の所在が明かされることもない。
根拠なき楽観、批判的合理精神の欠如、権威と「空気」への盲従、その一つ一つが東京裁判での「・・・何となく戦争に入っていかざるを得なくなったのだ」という戦争指導者たちの言動とやりきれない気持ちで重なってくる。
著者はいまあらためて歴史に向き合わなければならないとして、「戦後」=「平和と繁栄」という物語を批判的に再検証しなければならないという。
「永続敗戦」とは何か。それは敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、国内およびアジアに対しては敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽し否認するという日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の二重化された構造にあるという。つまり、敗戦を否認するがゆえに、際限のない対米従属を続ける。すなわち、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。著者はこの状況を「永続敗戦」と名付け、「戦後」の根本レジームになったとしている。
まことに明解で見事なまでにこの国の戦後の欺瞞と事実を隠蔽し歴史修正へと向かう体質を明るみにする。その一々が腑に落ちてくるから痛快でもあり説得力もある。
だが、永続敗戦がもつ構造的問題はかつて国家を戦争と破滅へと追いやった勢力の後継者たち、戦前的価値への共感を隠さない政治勢力が、面々と権力を独占し「戦後を終わらせる」ことを実行しないという事実であり、対内的にも対外的にも敗戦の責任をほとんど取れないという無能で「恥ずかしい」政府しか持てなかったということにある。そのことがわれわれの物質的な日常生活をも直接的に破壊するに至ったという現実(福島原発事故)でもあった。しかしながら、今日その構造は限界に来ているとして、世界的経済危機は日米間の従属の構造を再編し、互恵的なものから収奪の構造へと改変されつつあるという。
日本が直面する今日的諸問題(グローバル化、TPP、靖国参拝、領土領有、拉致、国防軍事、歴史認識など)に向き合う前提となるヒントがこの一冊から滲み出ているように思えてならない。「敗戦後」を考える渾身の一冊、さすがに読み応えがあります。
敗戦の意味, 2014/9/1
後日本の核心 (atプラス叢書04) (単行本)
敗戦を終戦と言い換えているところに全てが表れているようだ・・1945年以降の日本の歩んできた道をもう一度考えるヒントを与える「貴重な本」だと思う。昭和天皇個人のお考えか、側近を中心とした周りの考えかは定かではないがあの戦争の責任の取り方に 大きな問題があったのだろうか???
共産革命と軍のク-デタ-を恐れた「天皇陛下」が 米軍の駐留を望み不平等安保条約に繋がっているという記述は、驚きであった・・・
一読の価値ありと思う。
戦後を思想的に克服しようとの試み, 2013/8/12
レビュー対象商品: 永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) (単行永続的敗戦とは、第二次世界大戦に敗北したことを日本人が認識において否認することと、日米安全保障体制をはじめとする戦後の政治、経済、軍事体制の下で日本が対米従属を続けてきた(今も続けている)ことが、相互に補完し合うという状況を指し示す概念である。自民党の政治家が歴史発言や靖国神社への参拝によって中国や韓国との外交関係を損なう例を我々はこれまでしばしば目にしてきたが、これは、日米安保条約がある限り、東アジアの中で孤立しても、アメリカとの関係は維持される(アメリカは日本を見捨てない)という安心感によるものである。この安心感には、冷戦体制下の東アジアで日本が唯一の民主主義国であり、経済大国である限り、ある程度現実的な根拠があった(アメリカにとって日本は東アジアで最も重要な同盟国であった)。だから、アメリカも、日本の政治家が極東裁判を否定したり、戦後民主主義を乗り越えようとしても、それが言説のレベルに止まり現実に乗り越えようとしない限り、不問に付してきた。ところが、冷戦が終了し、韓国や台湾が民主化され、中国が経済大国化すると、東アジアの地政学が大きく変化し、日本はアメリカにとって東アジアで最も重要なパートナーという構図が崩れる。日本の政治家の発言や行動によって中国や韓国との外交関係が毀損されると、アメリカとしてもこれを放置しておくことができなくなり、堪忍袋の緒が切れる状況も出てくる(「傀儡の分際でツケ上がるな」)。こうして、日本が対米従属を続けることによって敗戦を否認するという永続的敗戦の構造が成立し難くなる。このような状況の中で、戦後という時代概念を吟味し、これを認識の上で終わらせることで、永続的敗戦を思想的に克服しようと試みたのが本書である。
戦後の終わりを告げるものとして領土問題と北朝鮮問題が取り上げられる(第2章)。領土問題については、現在日本が抱えている三つの領土問題(北方領土、尖閣諸島、竹島)はどれも第二次世界大戦の戦後処理に関わっているため、ポツダム宣言とサンフランシスコ講和条約の内容に正面から向きあうことが求められるが、敗戦を否認し「日本固有の領土」という論理で領土問題に取り組もうとしている日本政府にそれを期待することはできず、したがって領土問題の解決に向けて前進することはできないと論じられる。北朝鮮問題については、日本と同様に北朝鮮による拉致の被害を受けている韓国や中国が、対北朝鮮においては拉致問題よりも核兵器とミサイル問題を優先しているにもかかわらず、日本だけが拉致問題を優先していることを取り上げ、これも敗戦を否認しているためであると論じられる。
そして永続敗戦を概念的に吟味し、その克服に向けた指針を提示しているのが本書の白眉とも言える第3章「戦後の「国体」としての永続敗戦」である。米国の核の傘に下にあり、核密約を米国と取り交わしながら、他方で非核三原則を国是とし、平和主義を戦後日本の中核的価値観に据えるというシニシズムの放置に対しては、主流派政治勢力もこれを批判する左派リベラル勢力も共犯関係にあること、戦前の国体は第二次世界大戦における敗戦を永続敗戦という代償を払って乗り越えた、つまり永続敗戦が戦後の国体であること、戦争末期の日本の指導部に戦争終結の決断をさせたのは、戦争継続が国体を危険に晒す恐れだったこと(「革命よりは敗戦がまし」)、戦争終結による惨禍拡大を回避できた代償として日本人は自主的に決めること、自分の命を賭けても護るべきものを見出すことを体験し損ねたこと、逆に今、日本人が命を賭けても護るべきものを見出し、それを合理的思考によって裏付けられた確信へ高めることができれば、永続敗戦を克服できる、と論じられる。
永続敗戦という概念によって戦後日本のある本質を抉りだすことに著者は成功している。また、東アジアの地政学の変化や日本の経済力の相対的低下により戦後の永続敗戦というレジームが耐用年数を終えたという認識もおそらく正しいだろう。しかし、永続敗戦を克服するために著者が提示している「各人が自らの命をかけても護るべきものを真に見出しこれを合理的思考によって裏付けられた確信へと高める」という思想的処方箋は、あまりにも主知的に思われ、腑に落ちなかった。それでも、敗戦を思想の問題として提起し、その克服を試みたことは、それ自体で高く評価できよう。また、中国や韓国との外交関係を悪化させ、東アジアの中での日本の孤立を齎しつつある一方で、日米関係を最優先させようとする現自民党政権の外交政策が破綻を運命づけられていることを戦後史の文脈の中で深く理解するために、本書は格好のテキストである。なお、東アジアにおける地政学的変化を外的要因として領土、外交を主題に戦後の思想的克服を試みた本書では経済問題が主題的には論じられていない。これについては、本書を朝日新聞で高く評価した水野和夫氏の一連の著作が本書を補完する。
観念的過ぎる議論は危険である, 2014/9/12
レビュー対象商品: 永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) (単行本)
戦後日本の風景をどのように知的に解釈するか様々な議論があっても良い。
ただ現実の政治というものの正面には民衆が必ず存在し、実際に血が流れることもあれば傷つくこともあるのである。
著者は観念的な側面からのみ政治を理解しようとしており、様々な利害の集合体としての国民には向き合っていない。
驚いたのは日本は先の大戦で敗戦したことを受け入れていないという著者の主張である。
昭和40年前後に生まれた私と幼少の頃に戦争を経験した親の世代しか知らないが、少なくとも我々の世代までは日本は戦争で米軍の物量と技術力に徹底的にやられて終戦と呼ぼうと何と呼ぼうと戦争に負けた事は厳然たる事実として存在し、それに対して意義を申し立てるような言論はなかったと思う。もしいたとしてもちょっと変わった人物として世間から孤立し受け入れられることはなかったであろう。
石原某とか田母神某とかかなり右よりと思われる人士からも先の戦争で日本は負けていないなという極論は出てきていないし、著者はいったい何を見てそんなことを思っているのか理解に苦しむし、精神状態はまともなのかとも心配するのである。
次に違和感を感じるのは対米従属が悪いという認識であるが、確かに安全保障の根っこの部分をアメリカに押さえられているので最終的にNoをいえない立場であることは事実である。しかし、衰えたりとは言えども世界は今でもアメリカ幕府が牛耳っているのであり、日本に限らずアメリカの考えをまったく無視して我を通すことができる国は存在しない。あえて言えば中国とロシアはアメリカに正面から逆らってものを言うし本当の意味で独立しているのだろうが、それらの国の言行が立派かといえばそれはまた別問題だ。日本は経済的利益と政治的利益が得られる限りにおいてはアメリカについて行くだろうが、日本の近海で地政学的な変化が生じれば、それも近い将来どうなるか分からないであろう。
侮辱の中で生きる事を拒絶せよという著者の主張は危険だ。戦後の民衆は地べたの上を這いずり回って侮辱の中を生き抜いて今日の日本があるのであり、著者は本当の意味での人生を経験していないのではないか。革命を夢想しているようだが、リセットしてゼロからやり直せば何かいろいろなことがうまくいくというような幻想を持っている人間がいまだに居るということ自体も驚きだった。世界の言論の主流にそのような議論は存在しないだろう。
歴史を美化してはならない。受け入れることから前進が始まる。, 2014/8/11
レビュー対象商品: 永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) (単行本)
3.11の震災、福島の原発事故、自民党政権の復活…ここ数年ずっと抱き続けてきた怒り、苛立ちを、理路整然と説明してくれた本だった。「同感」の一言に尽きる。やはり歴史を清算し、過去の受け入れ難い敗北を認めない限り、前には進めない。それが現実だと思う。 だが、だからといってここまで事なかれ主義が染み付いた日本という土壌で、国体を覆すほどの市民運動が起るとはとても思えないのが歯がゆくもあり、それこそが日本の恥だと思う。
そんなに共感できる論ではない, 2014/7/18
永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) (単行本)
筆者は、日本という国が戦後アメリカべったりで、それが原因で様々な欺瞞を引き起こしてきたと言って日本のあり方を非難している。
だが、筆者も127pで「国家の政策は、ましてや外国に対する占領政策は、道徳とは根本的に無縁である。」と言っている。日本はカッコ悪いのだろう。しかし当時の世界主要各国を敵に回して負けた中規模な日本に似合った境遇だと私は思う。この論は大きな世界を見ず小さな世界の中で騒いでるようにしか見えない。
将来的にアメリカが頼れないとしても、にっちもさっちも行かなくなったら直すしかなくなるだけの話だ。無理に変えて自滅することだってある。最近はいろいろナショナリスティックなのでちょっと冷水を浴びせるのがいいかもしれないが、なにもこれに同調して興奮しなくてもよかろう。
私たち日本人は「人間あつかい」されていない。 2014/7/9
レビュー対象商品: 永続敗戦論――戦後日本の核心 (atプラス叢書04) (単行本)
買う価値のある本。定価以上の値打ちはあると思います。2011福島第一原発事故で露呈したのは、まさに書かれているとおり。この国を実行支配し、権力をほしいままにし、しかも責任を取ることのない社会階層の存在『政治家、パワーエリート(高級官僚)の存在』を明らかにした。その存在は一朝一夕でうまれたわけではなく、明治以降生まれ、太平洋戦争を引き起こして、滅びたようで、戦後、アメリカの下で権力を掴み、自分隊の支配力を高めてきた存在だ。
間違いを犯さない存在だから、「敗戦」と言わず、「終戦」となる。全滅が玉砕に、撤退が転進になる。絶対安全が、想定外、になる。
本書は、本来彼らが引き受けるべき責任を国民に押し付けて無謬(間違いを犯さない)の存在として生き続ける妖怪のような存在=その生態について書かれていると思う。この連中は日本という国に巣食って抜き差しならないほどにはびこり、我々の心を踏みにじり続けることをやめない。
それは、小学校の運営から、政府にまで日本のありとあらゆる場所におよんでいる。
そのことを意識するためには好都合な1冊。
この連中が、この連中の萌芽が明治維新、太政官政治時代であったこと。明治の元勲が死にたえて以降。昭和に軍部と。戦後はアメリカと。つながることによって今日まで権力を強めて来たこと。その辺のことまで書いてほしかった。
私たちは、昔から、そして今も、「侮辱」され、人間あつかいされていない。そのことを思い知る必要がある。
10:28 2014/09/24
コメント