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2015年8月 3日 (月)

・・・石田秀輝・沖永良部シンポジウム・7:39 2015/08/03


地方分権一括法で・地元の市町村が行政サービスをしないといけないのに・遠い鹿児島県の人にやってもらえば税金が高くなるか?サービスを受けられなくなるのは当然だ奄美大島人目覚めて下さい・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2015/08/3-b4e6.html


引用


来賓挨拶  沖永良部 知名町長 平安正盛氏 

来賓挨拶  沖永良部 和泊町長 伊地知実利氏 

7:50 2015/08/03


 『地方が豊かであるということを考える』 Emileのコラム138 

2015-07-10 09:03:26

テーマ:コラム

台風9号がどんどん島に近づいている7月9日朝、欠航かと思っていた9時50分沖永良部発のフライトが予定通り出発することに・・・・風はすでに10m/secを超え、海は半分くらい真っ白。定期船はすでに全便欠航、フライトも恐らくこれ以降は欠航の予定とのこと。安全を考えれば、8日に上京すべきだとは思うものの、島に居ると自然の中での運試しをどうしてもやってみたくなる。きっと回りの皆さんはハラハラドキドキかな・・・・・

 

島から鹿児島へのフライトの中、奄美大島を超えるあたりから急激に天気が回復、真っ青の海が広がる。本土に居るとなかなか実感がないものの、こうやって島から鹿児島までの約570㎞を頻繁に通っていると前線の手前と向うで天候が激変することをよく経験する、自然の凄味さえ感じる時でもある。奄美大島から100㎞程北東になるのだろうか、ハートの形をした宝島がくっきり、その隣には小宝島そして小島が・・・・あまりの美しさに思わずカメラを取り出してパチリ。さらに北東へ、噴火が続いている昨日の口永良部島は、噴煙は見えないけれど森が雲をどんどん生み出していることが良く解る。これが雨になりまた森を豊かにしてくれる、本当に自然の営みとは考え尽され、未知に溢れている気もしてくる。

 ハートのかたちの宝島 雲をどんどん生み出す口永良部島 庭に自生しているバナナ!台風の風にも耐えたようです! もうすぐ甘酸っぱい島バナナを楽しめます。

5月の平均気温は1880年の観測開始以来最も高かったそうだ。国内でも前線はちっとも北へ移動できず、九州は水浸しの状況が続いている。ローマ法王は気候変動に異例の警鐘を鳴らし、温暖化だけではなく、地球環境問題が生活の中に明らかに忍び寄ってきている。

一方では、合いも変わらず、経済成長だけが豊かな国つくりと信じている政府は、ノーベル賞候補にもなっている日本国憲法9条を曲解して米国の下部になることを世界発信しようとしている。多くの良識ある個人や組織が違憲と明確に示しているものが、政治の意思で合憲と判断されるようなことがもしあるなら、三権分立はこの国には最早存在しないことになり、困ったものだ…を通り越して、空恐ろしくなる。この国のトップたちは次の世代、さらに次の世代のことにどこまで責任を取ろうとしているのか、不安にそして、情けなく、恥ずかしく思えてくる。

昨年5月、日本創成会議は、2040年に全国市区町村の約半分896自治体が消滅する可能性のあることを発表した。そのうち、人口1万人を切る593自治体はその可能性がさらに高くなるという。今暮らしている沖永良部島は両町合わせても1万人を切り、若年女性人口は現在の約半分の610人となり、このままでは、間違いなく危機的状況にある。

では、地方は何を考えるべきなのだろうか。少なくとも『人口減少と東京一極集中』への解を出せと言うが、アベノミクスの競争原理や成長戦略を取り込めば、救いの道があるのだろうか。総務省は、高度な自治体機能を有する地方中枢拠点都市(61市)を指定したが、これに縋り付けばよいのか。東京圏では、2025年に75歳以上の高齢者が175万人増え、13万人の介護難民が生まれるという。このため全国41地域を高齢者移住先候補地として発表したが、これによって地方が本当に豊かになるのだろうか? こういう話を聞いていると、地方が東京の受け皿としてしか見られていないという気がしてならない。いや、事実、そうとしか見ていないというのが本当のところだろう。

そもそも、地方はなぜ劣化するのか? 一つには『地方の都会化』である。日本の高度経済成長とともに、地方から多くの人たちが都会へ移動していった。そこでは農村型のコミュニティー形態を都会型に変えた。都会型コミュニティーは会社と家族であり、そのコミュニティーの外側とは関連を持たない新しい形を創った。さらにコミュニティーの成熟(?)は会社というコミュニティーを劣化させ、個人化あるいは極めて近い人たちだけで構成するコミュニティー、個人主義化という形態を通ってしまった。そして今、この個人主義化のかたちを地方へ持ち込もうとしており、地方の個人主義化による農村型コミュニティーの喪失(社会的協働起基盤の劣化)と社会システムの基本を市場経済に担わせた結果生まれた、生活の物差しをお金にすることによる、生活基盤の劣化である。均一化された情報や教育にも責任は大きいが、都会と同様、お金が無ければ生きて行けないと信じ込んだ結果、島を離れたり、あるいは、お金を儲けるために借金をし、高価な農機具を買い続け、結局お金を外に流し続けてしまうのである。沖永良部島の平均年収はおよそ190万円である。日本のサラリーマンの平均年収が414万円であることを思えば、半分以下である。それでも毎日酒を飲み、笑顔が溢れ、生活に困窮している人がそれほど多いとは思えない。お金以外の暮らしの物差しがこの島にはあるのだが、それを誇ることも無く、本土と同じようにお金の物差しで自分を測り、この先光輝く未来などここには無いと思ってしまうのではないのだろうか。もう一つ、島に住み始めて強く感じるのは、地域の肯定的自己認識の劣化である。メディアの影響も大きいのだろうが、島のすばらしさを自慢できない人が圧倒的に多いことも先の話と繋がるように思う。

日本全体を見ても、自然資本、社会関係資本がこの70年の間に、稼ぎだけを追い求めた結果失われてしまったことは明白であり、経済合理性が機能ごとに場所を、職種ごとに人を分断し、世代や世帯間の役割まで分断した。それが島にまでより色濃く浮き彫りになっているのであれば、島にとっての地方創成の視座とは、単に人口を増やすとか企業を誘致するとか、東京の受け皿になることではなく、『地方の地方化』(伝統的自然共生社会のリノベーション)を徹底的に進めることが最も重要な視点であるように思える。地域の特性(自然資本)に根差した産業や政策の創成が、お金を払ってでも出掛けたくなったり、住みたくなったりする島を生みだすのではないのだろうか。それは、島の外へじゃぶじゃぶお金を垂れ流さないことを基本原理として、自然の中で島が培ってきた文化的価値を懐古的ではなく、将来世代が使える形に翻訳し直し、具体的なビジネスや政策に反映させるということだと思う。

今、沖永良部島では『酔庵塾』を通して、島の『5つのち・か・ら』(失ってはならない価値)を見つけ出した。90歳ヒアリング手法を使って、32人の90歳前後の方のヒアリングを行い、その結果を分析することで得られた、この島を形作ってる文化的な価値である。今この価値を、各々バックキャスト思考で見つめ、20年後のライフスタイルを描き、それを構成する要素を抽出し、そこからこの島に必要なビジネスや政策を見つけ出そうというものである。これが、どのような具体的な形になるかは、まだ未知数であるが、8月末の沖永良部島シンポジウム(http://i-d-sol.com/erabushinpo/

)には、まだまだ稚拙かもしれないが何らかの形になるのではないかと期待している。地方創成は国の戦略ではあるが、それを上手く使って『地方の地方化』を徹底して進めることが今強く求められているのだと思う。

http://ameblo.jp/emileishida/entry-12048720905.html

7:45 2015/08/03

拝啓

石田先生の・論題を楽しく拝見しております、私も父の故郷へ定年で平成7年から移住しております・自然豊かな島を破壊されており、私たち夫婦妻は海岸の清掃をやっております・ひとり一人が意識を持てば世界の宝になると思います・

父の故郷の山林を手入れして、ある程度自然を回復しております。

 

奄美群島広域組合がありますが・奄美群島の5つに島の連帯感は感じません・ネットの社会ですので民間の交流をお願いします。

鹿児島県大島郡龍郷町大勝3113-1

滝田 好治

0997-69-3195

平成27年8月3日

 

プロフィール

ニックネーム:石田秀輝

性別:男性お住まいの地域:鹿児島県 職業:自営業 職業詳細:合同会社 地球村研究室代表 東北大学名誉教授

7:41 2015/08/03

2014-12-16 14:35:44

テーマ:コラム

1.島にも豊かな秋がやって来た

 

島の気温も21-23℃くらいになってきた。やっと秋の気配を楽しめる季節になった気がして、少し嬉しい・・・・ この時期は虫たちの活動もひと段落なのか、畑に植えたニンニクが元気よく芽を出し始め、冬の定番料理であるヒルアギ炒め(ニンニクの茎と豚バラ肉の炒め物)が楽しみになってきた。庭のジャングルに自生しているシークヮーサーも大きく身が膨らみ、パパイアもたくさんの実をつけている。青パパイヤは野菜サラダやピクルスにして、少し熟して黄色くなったものは鳥たちの御馳走である。島バナナも、夏のものほどの風味はないものの酸味のきいた味を提供してくれる。春は虫たちにやられてしまって、トマトもナスビもキュウリも全滅してしまい、夏の暑さの中では、人も野菜もみんな元気はなく、やっと迎えた秋ではあるが、この時期なら、素人の僕でもなんとか野菜つくりが出来そうな気もしてくる。有難いことに、我が家の庭に自生しているパパイヤは台風18号の強風の中でも、というか強風をうまく避けられるところにあったのか、たくさんの実をつけているものの、島のパパイヤは大半がやられてしまったようで、何人かの方から、種を分けてほしいとの話を頂いた。今まで、何も生産できず、笑顔を振りまくだけで、日々の糧を皆さんから頂いて来た身としては、ほんの少しではあるもののやっと貢献できる嬉しい話ではある。

 

 

2.賞味期限の切れた『環境と経済成長の両立』

 

持続可能な社会とは、『環境と経済成長の両立』と定義されてきたが、これはすでに賞味期限切れのように思う。先のコラムにも書かせて頂いたが、今求められている持続可能な社会とは、『環境と人が心豊かに生きるという成長の両立』であり、それが実現できて初めて経済的な価値も生まれるのだろう。それこそが、21世紀に求められる持続可能な社会なのである。さらに、そんな新しい環境と成長の両立を地方から考えることが今特に求められている。それは、消滅可能性都市などと揶揄される地方が、実は環境と成長の両立を考えるに必要な自然観を今なお色濃く持ち、さらには、心豊かに生きるための失ってはならない価値を数多く持ち続け、少子高齢化の最前線にあるという健全な危機感を有し、真に持続可能であることを根底から考え直すには最適な環境にあるとも言えるからである。

 

 今月、12月22-23日の2日間、消滅可能性都市のひとつである奄美群島・沖永良部島の知名町で、島人と本土の人たちが、90歳ヒアリングで見つけた、島の失ってはならない価値についてじっくりと考えるシンポジウムを開催予定である。(http://i-d-sol.com/erabu/) どんな議論が生まれ、どんな方向が出てくるのか、心から楽しみにしている。

3.社会は自立型の暮らしを求めているのに・・・・

先回のコラムで、心豊かな暮らしの構造を提案させて頂いた。昨年12月に上梓した“Nature Technology”(Springer 2014)に、その基本的な概念を発表し、それ以降、多くの方から色々なご意見を頂いたが、本質的には、この構造が受け入れられたものと考えている。

さて、この心豊かな暮らし方の構造をライフスタイルという視点で見れば、A領域は依存型、B-C領域は自立型のライフスタイルであり、多くの生活者が自立型のライフスタイルを求めているのだと、前回のコラムで書いた。

 

しかし実際には、自立型のライフスタイルを社会が求めていることが明らかであるのに対し、依存型のライフスタイルを助長するテクノロジーやサービスばかりが市場に投入されてるのも事実である。ブレーキを踏まないでも停まる車、全自動洗濯機、全自動・・・ テクノロジーもサービスも『お客様は神様です』を勝手に解釈して、『お客様は何もしなくて結構です、テクノロジーやサービスがすべてを代行させて頂きます』という利便性のみを煽る方向にどんどん流れている。この状態が極端になれば、依存型のライフスタイルはさらに助長されて、極端な場合、完全介護型のライフスタイルを生み出すことになる。これは、健康な人をベッドに縛り付けるようなものである。確かに、初日は驚くほどの快適性を感じることだろう。何もしなくてもすべてが、あなたのために奉仕されるのだから… 王様の気分にも浸れるのかもしれない。でも、一週間もすればどうなるだろうか、一か月もすれば間違いなく猛烈なストレスに悩まされることになる。どんな我儘も聞いてくれるものの、自分は一切手出しできない・・・・常に受け身の暮らしを強いられるのである。あなたのためのテクノロジーやサービスがどんなに素晴らしいものであれ、さらにそれが進歩すればするほど、受け身の立場はさらに際立ち、ストレスが増すという悪循環に陥ることになる。今、企業には猛烈なクレームが押し寄せているが、その多くは間違いなくこのストレスの結果であるように思う。

 

私事で恐縮であるが、私は車好きであった。過去形にしたのは、今まで色々な車を乗り継ぎ、もちろん、地球環境という世界に足を踏み入れてしまったこともあるが、今乗りたいと思う車がなくなってしまったからである。随分前の話になるが、イタリアの車を手に入れたとき最初から少し雨漏りがあった。国産車と比べてもかなり高価な車なのに雨漏り… その車をディーラーに持ち込んだ時、担当のメカニックが言ったのは『手創りの車ですから、この程度の雨漏りはこの車では当たり前で、程度としては極上の部類ですよ、気になるようなら、雨の日は乗らない方が車にとってもベストです。』こんな言葉に妙に納得して、クレームどころか『手作りなんで、多少は雨漏りしますよ』なぞと、さりげなく自慢にしていたのを思い出す。これが、大量生産の車なら、恐らくディーラーの責任者が代車を持って飛んできて、頭を下げ、直ちにクレーム処理になっただろう。ものの価値というものが如何に曖昧であるのかという一つの例である。本来、クレームの対象である雨漏りが、メカニックの言った『手作り』、『極上の部類』という言葉で、一挙に『制約の中で育てる』(前コラムの図を参照) 愛着の湧く商材に確固たる変身をしたのである。

無論、雨漏りする車を奨励しているのではない、今求められているのは、完全介護型のテクノロジーやサービスではなく、愛着を生み出すテクノロジーやサービスなのであり、ライフスタイルで言えば、それは自立型のライフスタイルである。ところが、世の中の多くの商材は依存型のライフスタイルを煽るものばかりで、自立型のライフスタイルを煽るものはほとんどない。それどころか、自立型のライフスタイル=自給自足型のライフスタイルという極端な世界ばかりが紹介されているのも事実である。究極の田舎暮らし、五右衛門風呂、畑で野菜を作り・・・・さらには、セルフビルトの家・・・・ こんなことが、どっぷり利便性の海に浸かってきた都会暮らしの、例えば私に突然のように出来るわけがない。

実は、依存型と自立型のライフスタイルの間には『間』が存在するのである。そこには、自らのスキルや知恵で制約を乗り越え、ライフスタイルに達成感を覚えたり、商材に愛着を生み出す世界がある。そして、そのスキルや知恵には、依存型のライフスタイルに近い、例えばネジを締めるというような初歩的なものから、自立型のライフスタイルに近い、畑で野菜をつくるとか自分で家を建てるというようなものまで、色々な制約が存在する。その制約を自分のスキルを上げて行くことにより、例えば、初歩的なもので考えれば、のこぎりで木を切る・釘を打つというレベルから、鉋で削る、臍を組むという高いレベルまで進歩してゆくことで、乗り越え、それを繰り返すことで、より高い達成感や愛着の湧く世界を創り出すことが出来、自立型のライフスタイルにどんどん近づいて行く、どんな変化を多くの人が望んでいるのである。それこそが、『間』を埋めるテクノロジーやサービスが生み出す、新しいライフスタイルのかたちなのである。

しかしながら、現実的には、多くのテクノロジーやサービスは、依存型のライフスタイルの方ばかりに向き、『間』が抜けているのである。この『間』を埋める領域はテクノロジーやサービスの宝庫でもあるにもかかわらず、少子高齢化でどんどん小さくなる市場の中で相変わらず依存型のライフスタイル創出のための利便性ばかりを追った商材に多くの企業が目を向け、結果としてコスト競争に明け暮れ疲弊して行くのは、ある意味聊か情けなく、滑稽にも見えてくる。

昨年、いくつかの新聞に『ものを欲しがらない若者』という見出しが躍った。昨今の若者は車をはじめ、ものを欲しがらない、それはなぜか?という問いかけに、多くの評論家の色々な意見や提言があった。その多くはそれなりに納得のゆくものではあるが、私の意見は、そもそも、ものを欲しがらない若者など本当に存在するのか?という疑問であり、一方、そんな若者がもし存在するなら、その若者は世捨て人か仙人くらいだろうと思っている。ものを欲しがらない若者などきっと存在しない、そうではなく、欲しいものが市場に投入されていないのである。若者が欲しいのは、まさに間を埋める商材であり、フォーキャスト視点では見えにくかった、新しいテクノロジーやサービスのかたちなのである。

 

http://ameblo.jp/emileishida/entry-11965285444.html

7:39 2015/08/03


石田秀輝・沖永良部シンポジウム・

http://i-d-sol.com/erabu-symposium/


8/3/2015

http://yoshiya.amamin.jp/e485908.html

平成27年8月3日 月曜日


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