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2015年7月 2日 (木)

日米地位協定って何ですか?・16・ひとことでいえば、「戦後日本」のパンドラの箱」です。「はじめに」にも書いたとおり、現在日本で起きている様々な出来事、・原発事故と再稼働問題・不況下での大増税問題・・オスプレイ配備問題・・TPP参加問題・・検察の調書ねつ造問題・などの多くが、この日米地位協定を源流としているからです。ただし、パンドラの箱と同じく、わずかですが私たちには「希望」も残されています。これからこの本の中で、そのことを説明していきたいと思います。

引用


PART1 日米地位協定Q&A(17問)


1: 日米地位協定って何ですか?・16・ひとことでいえば、「戦後日本」のパンドラの箱」です。「はじめに」にも書いたとおり、現在日本で起きている様々な出来事、・原発事故と再稼働問題・不況下での大増税問題・・オスプレイ配備問題・・TPP参加問題・・検察の調書ねつ造問題・などの多くが、この日米地位協定を源流としているからです。ただし、パンドラの箱と同じく、わずかですが私たちには「希望」も残されています。これからこの本の中で、そのことを説明していきたいと思います。


17頁・でも、「パンドラの箱」と聞いて、「そんな抽象的な言い方弱、もっと具体的に説明してくれ』と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

わかりました。それでは抽象的じゃない、もっとはっきりした言い方で日米地位協定を定義すると、こうなります。

「アメリカが占領期と同じように日本に軍隊を配備し続けるための取り決め」

皆さんもよくご存じのとおり、1945年の敗戦から約六年半、日本は占領されており、占領軍(その実態は米軍)は日本国内で好きなように行動することができました。1952年4月に講和条約が発効し、日本は独立を果たしましたが、占領軍は新たに結ばれた日米安保条約の下、在日米軍と名前を変え、日本に駐留し続けることになりました。

その在日米軍が独立から60年たった今でもなお、占領期とまったく変わらず行動するための取り決め、それが「日米地位協定」なのです(「地位というのは「在日米軍の法的地位」ということですので、本当は「米軍地位協定」と呼ぶべきでしょう。

18頁・


18頁・正式名称は14頁・参照・

もちろんそれはアメリカ側が一方的に押し付けたものではありません。いくらアメリカでも、そんなことはできません。このあと本書をお読みになればわかるとおり、それはさまざまな歴史的経緯の結果、日米の合意のもとに取り決められたものなのです。

もっと露骨に言うと、こう言えるのかもしれません。

「日本における、米軍の偉大な権益についての取り決め」


ここで「米軍の強大な権益」などという、少し大げさな、耳慣れない言葉を使ったのには理由があります。一般に日米地位協定は、1960年に日本とアメリカという主権国家同士が結んだ安全保障条約(日米安保条約)の細則(=細かな規則)だと考えられています。


しかしこれから本書を読んでいただければわかるとおり、そうではないのです。日米地位協定の本質は、そうした主権国家同士が結んだ対等な条約の細則という側面にはなく、1945年、太平洋戦争の勝利によって米軍が日本国内に獲得した強大な権益が、戦後70年たった今でも維持されているという点にあるのです。

019頁・こういうと、「また何を大げさなことを言っているんだ」と思われるかもしれません。しかし、よく聞いてください。


日米地位協定は、1952年に旧安保条約と同時に発効した「日米行政協定」を前身としています。その日米行政協定を結ぶにあたってアメリカ側が最も重視した目的が、


1・日本全土基地化・

2・在日米軍基地の自由使用・


だったことが、豊下楢彦・関西大学院大学教授や、三浦陽一・中部大学教授の精緻な研究によって明らかになっています。

日本全土基地化とは、日本国内のどの場所でも米軍基地にできるということ。言いかえれば、日本全土を米軍にとっての「潜在的基地」にするということです。

一方、在日米軍基地の自由使用とは、占領期と同じように、日本の法律に拘束されず自由に日本国内の基地を使用できることを意味します。


020頁・日米安保条約におけるアメリカ側の交渉担当者だったジョン・フォスター・ダレス(当時、国務省顧問)の有名なセリフを借りれば、日本の独立(占領終結)に際してアメリカ側が最大の目的としたのは、「我々が望む兵力を(日本国内の)望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保すること」48頁・だったのです。


そしてアメリカの政治学者マイケル・シャラーの研究によって、1951年1月末に始まった占領終結に向けての交渉の中で、アメリカ側代表は2月中旬までにこの条件を日本側に認めさせたことがわかっています。このとき、日本国民には絶対知られたくない基地や米軍についての具体的な取り決めは、「秘密の了解として合意することも決められました(60頁・)。それこそが「日米地位協定」の前身である「日米行政協定」だったのです。

その「日米行政協定」と現在の「日米地位協定」は、本質的には何も変わっていないのです。一見、条文上は改定時に米国側が譲歩したように見えますが、重要な権利については付属文書や非公開の密約という形できちんと担保されているからです。(166頁)


021頁・平成27年7月3日 金曜日・

・ウラとオモテのストーリー・

物事には何でも、ウラとオモテがあります。とくに外交や国際政治の世界はそうでしょう。しかしこの日米安保条約と日米地位協定をめぐる物語ほど、オモテ側(建前)のストーリーとウラ側(真実)のストーリーが乖離した問題はありません。しかもそれが旧安保条約から数えてもう60年も続いているのですから、まさにギネス級の粉飾だといってよいでしょう。

オモテ側(建前)のストーリーでは、こうなっています。

・第二次大戦で無残に敗北した日本は、その深刻な反省から、新しく平和憲法を作って戦争を放棄することにした。そのため自分たちでは国を守れなくなったので、1952年に国際社会に復帰するにあたり、アメリカと安全保障条約(旧安保条約)を結んで米軍に守ってもらうことにした。具体的には、旧安保条約によって米軍の日本への駐留を認め、その駐留の形については日米行政協定で定めることにした。

ところが1952年に発行した旧安保条約に日本に不利な面があったので、1960年に新たに新安保条約を結びなおした。条約の細則である日米行政協定も、より平等な形での日米地位協定として新たに合意した。

022頁・この1960年に結ばれた新安保条約の第6条(383頁)にもとづき、現在、日本に駐留する在日米軍は、日本国内の基地や海域、空域を使用する権利を認められています。また米兵や米軍関係者、その家族にも、日本の国内法を逸脱した大きな特権が認められていることになっているのです。

しかしその実態を分かりやすく言えば、日本における米軍と米兵は、かつての占領期と同じく、日本の法律に拘束されず自由に行動することができるということなのです。

・なぜ戦後70年たっても、米軍はまだ日本にいるのか・

先にも話したとおり、日本は1945年、第二次世界大戦で敗北し、アメリカ軍によって占領されました。8月30日にコーンパイプをくわえて厚木基地に降り立ったマッカーサーの写真は、若い読者の方でも一度は目にしたことがあるはずです。彼の正式な肩書は連合国最高司令官となっていましたが、実態はほとんどアメリカ軍による単独占領でした。

首都圏をはじめとする各地に、強大な米軍基地がつくられ、数十万人の米兵が常駐し、GHQ(連合国総司令部)によって戦前の政治・経済体制が大幅な変更を強いられました。

023頁・

日本の軍隊は解体され、武力・軍事力の保持は禁止され、交戦権も剥奪されました。財閥の解体、農地の開放、戦犯政治家の断罪など、占領軍による国家改造の嵐が吹き荒れたのです。

その後、敗戦から6年8ヵ月たった1952年4月、前年九月に調印したサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復します。しかしこの時国民の目から見えないところで、とんでもないトリックが仕掛けられていたのです。

占領が終わり、講和条約が結ばれると、通常、占領軍は撤退していきます。講和条約(=平和条約)とは戦争を正式に終了し、平和が回復されたことを宣言するための条約だからです。もちろんサンフランシスコ講和条約にも、第二次大戦の末期(1945年7月)に日本に降伏を求めたポツダム宣言にも、そのことは明記されていました(以下、条文について太字部分だけを読んでも意味が分かるようにしてあります)。

「サンフランシスコ講和条約 第6条(A)前半・

連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生後、なるべく速やかに、かつ、いかなる場合にもその後90日以内に、日本国から撤退をしなければならない

(後略)」

024頁・平成27年7月3日 金曜日

「ポッダム宣言第12項・以上に列挙した占領の目的が達成され、さらに日本国国民の自由に表明された意思に従って、平和的な傾向を持つ責任ある政府が樹立された時は、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤退する」

・このように、占領が終われば占領軍が撤退するのは常識中の常識です。もし占領終了後に条約や協定を結んで外国軍が駐留するにしても、一度完全に撤退してから、新たに条約や協定を結ぶのが当然です。

ところが日本の場合、占領終結時に占領軍(=米軍)の基地だったところは、すべてそのまま基地として残されることになりました。GHQは解散しましたが、26万人(1952年4月)の米兵もそのまま駐留をつづけました。ただ名前だけが、占領軍は「在日米軍」に、占領軍の基地は「在日米軍基地」と変わっただけ。基地の使い方も、米軍兵士や基地で働く人たちの権利もそのままでした。

いったいなぜ、そんなことが起こったのでしょうか。

それは先程紹介した「すべての占領軍は、講和条約発効後はいかなる場合も90日以内に日本から撤退しなければならない」とした「サンフランシスコ講和条約第六条(A)」の後半に、こう書かれていたのです。


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