民間活力・役人の発想では勝てない
奄美大島の自然を大切に
奄美大島の自然を大切に、自然をいたわり共存しましょう!
引用
ヤマトホールディングス・木川眞社長に聞く(前篇)
ヤマトはなぜ革新的であり続けるのか
挫折経験が生んだ常時革新の風土
きがわ まこと/1973年富士銀行入行、2002年みずほコーポレート銀行常務執行役員、04年同行常務取締役、05年3月退社、同年4月ヤマト運輸入社、6月同社常務取締役、11月(純粋持株会社体制に移行)ヤマト運輸取締役、06年4月ヤマトホールディングス代表取締役 常務執行役員、07年3月ヤマト運輸 代表取締役社長、11年4月ヤマトホールディングス代表取締役 社長執行役員 兼 ヤマト運輸株式会社 取締役会長、 現在に至る Photo by Toshiaki Usami
ヤマトホールディングスの創業は、大正8年(1919年)であることをご存じだろうか。齢(よわい)はすでに90年を超す古い会社なのである。にもかかわらず、元ヤマト運輸会長の故・小倉昌男氏が「宅急便」を開発して以来、現在に至るまで、宅配市場ではトップの座を守り続けている。
それを可能にしたのは、今や日常の一部となったスキー宅急便、ゴルフ宅急便、そしてクール宅急便といった絶え間ざる商品・サービスの革新であった。なぜ、ヤマトグループは革新的な企業であり続けることができるのか。2回にわたってヤマトホールディングスの木川眞社長に、ヤマトグループのDNAについて聞く。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン 編集長・原英次郎、小尾拓也 撮影/宇佐見利明)
規制の強い銀行業界と
自由な運輸業界の違い
――木川さんは2005年にみずほコーポレート銀行から、ヤマト運輸に入社されましたね。みずほフィナンシャルグループとヤマトグループでは何が一番違うとお感じなりましたか。
みずほとヤマトの違い云々という以前に、個々の銀行の違いはあまりありません。やはり金融業は非常に規制が強い。そういうがんじがらめになっている業態に対して、今の運輸業は基本的に規制の束縛から解き放たれていて、自由な競争が出来る。このような業界としての違いがあります。
したがって、ヤマトグループに来て、仕事のやり方は大きく変わりました。ある意味でやりたいと思ったことがすぐ形にできる。もちろん、大きな投資案件であれば当然、何年もかかる。それでも自分がやりたいと考える戦略を具体的に前に進めることができるということでは、銀行から来た人間から言えば開放感があります。
金融、特に銀行界の場合は何かを商品化しようとしても、手取り足取りこれはいいとかいけないとか、ステップを踏まなければいけないことが多くて時間がかかる。当局と調整をしながらやっていくのに時間がかかり過ぎて、独自性が長期間にわたって確保出来るような差別化商品というものがなかなか作れない。
そういうところが僕が運輸業界に来て、一番感じるところですね。
――そういう事業環境の違いが、やはり社風とか、考え方に影響を与えるんでしょうね。
小倉さんが宅急便のネットワークを拡充する時に、当時の運輸省と路線免許に関わる領域で闘って、規制緩和を勝ち取っていったわけですが、いまはそういう許認可がらみの縛りは、もうあまり多くは残っていません。そういう意味では自由です。
ただし、自由な分だけ競争は厳しい。昔風の言い方になってしまいますが、銀行業界のような「護送船団」方式(経営効率悪い銀行を保護するために規制を行う)においては、個々に独自性は出しにくいが、同じような流れで歩を進めていける、そういう業界とは全く違っている。いろいろな環境変化が起こったら、それに対して自分のリスクでどんなチャレンジをするかも自由です。ということは、まさにそこで出す知恵がちゃんとしたものであれば、そこで生まれる商品あるいはサービスがお客様に評価をされ、差別化できるということです。
潜在化しているニーズを
小倉氏の洞察力が掘り起こした
――ヤマトグループは顧客が欲しているもの、あるいは困りごとを解決するサービスを提供するという意識が強い会社だと思うのですが、入り口は顧客が何に困っているのか、何を欲しがっているかを見つけることですよね。それは言うが易くで、実際はすごく難しいことではありませんか。
なぜ宅急便がこんなに伸びたのか。元々宅急便が生まれた1976年当時は、CtoCつまり
個人が個人に荷物を送る手段というのは、郵便小包か鉄道小荷物(当時の国鉄)くらいしかなかった。それは両方ともいわゆる官、公営企業が担っていました。それに対して民間はBtoBつまり 企業間の荷物の輸送をやる。
なぜならば個人からは、いつどんな荷物が出てきて、どこに届けるのかが全然分からないという状況なので、これは民間がやるには非常にリスクが大きすぎる。一方、国民も本当はそんなに困っていない、という思い込みもあったわけです。確かにあの時代は、いわゆる消費者から「もう郵便小包がどうしようもないから新しいサービスが欲しい」という声が世の中に蔓延していたかというと、そういう声は無いに等しかった。つまりは「こんなもんなんだ」と。
「小倉さんのすごいところは、そこに潜在的な需要があるということを見抜いた洞察力です」
Photo by TU そこに宅急便という「電話1本で集荷にうかがい翌日に配達」というコンセプトで、個人の荷物を運ぶという会社が現れたわけですよ。だからみんな最初は半信半疑だったと思うんですね。同業者も民間がやるには、あまりにもリスクが大きい事業領域なので、「ヤマト運輸は本気なのか」、「ヘタすると会社潰れちゃうぞ」と、そういう見方をされたと僕は聞いています。しかしながら、結局、何が起こったかというと、個人のお客さまが半信半疑で荷物を出してみたら、本当に翌日届いた。そしてお客様の支持を得て、順調に事業は成長しました。
これはある意味でサプライズですね。宅急便の歴史の入り口は、ニーズが見えたから始まったということではなかった。小倉さんのすごいところは、そこに潜在的な需要があるということを見抜いた洞察力です。個人が荷物を送る時にもっともっと便利な手段が出れば、間違いなく市場が生まれるぞ、と。それにチャレンジしたわけです。我が社は1919年に創業ですから、宅急便を始めるまでに、すでに56年経っていた。
オンリーワンから
ナンバーワン持続への道
――社歴で言うと、ヤマト運輸は実はとても古い会社ですね。
国内の民間の運輸会社としては、最古の会社のひとつです。その会社が創業10年目に路線事業を始めたというのも、実はすごいことなのです。今の運輸業においては、当たり前の事業だけれども、定時定刻にいろんなお客さまの荷物を混載して運ぶというビジネスモデルは、当時は極めて革新的だったわけです。
これがヤマトの第一のイノベーションだとしたら、第二のイノベーションが1976年の宅急便です。宅急便は路線事業と違って、お客さまがCtoCでしたので、確かに生みの苦しみはあったと思います。けれども、それ以上に電話1本で集荷に来てくれて翌日配達してくれて、かつ値段もそんなに高くない。これが消費者であるお客様の心をぐっとつかんだおかげで、本当に短期間に損益分岐点を越える大ヒットになるわけです。
当初の苦労を乗り越えて成功した。流れが出来た。始めは宅急便というオンリーワンのサービスでしたが、需要がどんどん拡大していくことを予想して、一斉に他の会社が宅配というビジネス領域に入ってくる。そういう状況の中で、僕は小倉さんがすごいと思うのは、宅配便の先駆者であるからということだけではなく、オンリーワンがいつまでもオンリーワンでいられるはずがないからと、今度は激しい競争の中でナンバーワンになるために、次から次へと商品開発をしたことです。
類似のサービスは限られたエリアではあったと思いますが、小倉さんは宅配を自ら事業として創出し、それを全国レベルまで広げるというビジネスモデルを作り上げて、宅急便を始めてからずっと今に至るまでナンバーワンであり続けた。38年間ずっとトップ企業であり続けている。こういう会社は少ないと思います。その原点は次から次へとお客様のニーズにあった商品を間断なく開発していったこと。それが小倉さんが我々に残した最大の功績だと思います。
挫折から生まれた
常時革新を求める風土
――しかし、どの企業も、顧客視点に立つ、とか、顧客のニーズをくみ取って、というようなことを言いますよね。
どの企業もみんな同じようなお題目は唱えているんです。お客様第一とか。だけれども、ヤマトグループの場合は、それを実践して形にしてしまう。例えば小倉さんの有名な言葉に「サービスが先、利益は後」というのがあります。現場の社員はお客さまに対するサービスを、徹底してやればいいんだ。最初からもうけようとするなという意味ですね。
それから今ではヤマトグループの社員ならば当たり前のことですが、「世のため人のため」という考えが浸透している。「本当にこれは世の中に求められているものですか」、「役に立つんですか」、「押し売りになっていませんか」という考え方で、商品を常にブラッシュアップをする。このような企業風土というか理念を形にして、それで必ずお客様の評価を聞きながらどんどん進化させていく。これが実践できている企業は意外に少ないと思います。それができているから、ヤマトグループはオンリーワンの商品を生み出しただけでなく、その後38年間ずっとトップシェアを維持し続けている。
「ある意味での挫折体験ですね、会社としての。挫折しそれを乗り越えたら成長するんです、人間も企業も」
Photo by TU 創業したときに新しいものを自ら生み出してまずは成功した。しかしながらその成功に安住して次のイノベーションに出遅れ、結果的に衰退してしまうという企業は山ほどある。我が社の歴史の中でも、実はそういう経験があります。創業から10年目に路線事業に進出した。最初に路線事業というビジネスモデルを開発して成功したのですが、それを全国に広げる段階において、後発の企業にどんどん追い抜かれた。追い抜いていったのが、西濃運輸であったり、福山通運であったり、あるいは元々は公営の会社だった日本通運でした。
その間、ヤマト運輸は関東を中心とした中堅の路線会社に留まっていた。50年間以上、次のイノベーションを起こせなかったわけですね。この反省がたぶん小倉さんの頭の中にはあったし、当時の社員は全員それを感じ取っていたと思います。業績も停滞していたところに、1970年代にオイルショックが起きて、財務的にも非常に厳しい状況になり倒産の危機に瀕する。その段階で宅急便事業を始めた。だから、もう後ろに逃げ道はないわけです。逃げ道が無いが故に、労働組合も含めて、労使全員がこの事業にかけようということで一斉に動き出した。
後がないという強さはあったけれども、出来れば二度とこんな経験はしたくないと思われたはずです、小倉さんは。追い込まれて新しいイノベーションをするのではなく、勢いがある時に次から次へと前に進む、その状況に安住しない、と。この体験が、ヤマトグループに常時イノベーションを起こす、あるいは新しいもの、オンリーワンを探し出しては、それにチャレンジするという風土を作るうえで、原点になったと思います。ある意味での挫折体験ですね、会社としての。挫折しそれを乗り越えたら成長するんです、人間も企業も。
5年後に没落するぞと
社内に危機感を煽る
こうした風土がずっとあったが故に、宅急便は伸び続けてきたのですが、さはさりながら30年以上もやっていたら、放っておくとそのサービスや企業は成熟してきて勢いが落ちる。そのころ(2005年)ですね、僕がちょうどヤマト運輸に入社したのは。あの時の社内で行われていた議論は、元気なうちに宅急便だけの一本足打法を脱却して、10年後、20年後にも成長力を持った企業にするためには、何をするかということでした。追い込まれてやるのではなくて、元気なうちに次のイノベーションを、という議論をものすごくやっていました。
元気なうちに次の一手をどう打ち続けるか。それは商品開発においても、業態としても。宅急便とメール便がデリバリー事業とすると、そうでない事業のウエイトをいかに高めることができるか、その領域の事業をいかに増やすかというのが、その当時ものすごく真剣に議論されていた。そのためにネットワークをどう作り変えればいいか、あるいは経営資源をどう配分すればいいか、と。ものすごく健全な議論ですが、その健全な議論は、企業の中に危機感がなかったらできないんです。
勝っている時に危機感を煽るというのは、これはなかなかのもんなのですよ。
――今、JAL(日本航空)の再建が注目を集めていますが、あのケースでは、倒産したことによって、始めて危機感が会社全体に浸透したといえますね。
JALさんの場合には、相当人員整理もおやりになり、給与や賞与カットもやっている。だから痛みを本当に感じるどころか血を流したわけです。普通の企業は再生するために、そういうプロセスを経るのだろうと思います。ところが我々はそうならないように、元気なうちにやる。ということは、社員に「いや大丈夫だよ。うちの会社こんなに元気だし。マーケットシェアもこれだけある。負けることもないし」という気持ちが蔓延していたら、変えるということに関して勢いがつかないのです。
だからその当時の有富社長をはじめ経営トップが、ものすごい危機感を煽ったわけです。「このままだと5年後ヤマト運輸は本当に没落するぞ」という風に。実際にそういう言葉を幹部社員に発して、そうならないために、今我々は何するべきなのかと、煽ったわけです。
8:57 2013/06/03
宅急便開始から伸び続けた30年間は、ユーザー目線での商品サービス開発の歴史です。商品開発でいうと、運ぶという機能に関しては、例えばスキー宅急便(83年)をやり、ゴルフ宅急便(84年)、そして、クール宅急便(88年)と、サービス自体がどんどん進化していく。それに決済サービスも加わる。
それがある程度一巡してくると、今度はサービス品質に関わる領域で、例えば時間帯お届けサービス(98年)とか、お客様の利便性をあげるということに関して、サービスレベルをどんどんブラッシュアップするという段階に入って来くる。それを支えるためにITもどんどん使うという流れですね。それでも、こうして需要を生み出し続けた宅急便も、成熟期に入り徐々に停滞する気配があったわけです。
伸び率がどんどん落ち、そしてついに2008年のリーマンショックの時に、初めて宅急便の取扱い個数が前年割れをする。ここまで来ると、危機感が醸成をされてくるのですが、リーマンショックが起きる前からその警鐘を鳴らし続けていた。
――なるほど。リーマンショック以前から、そういう問題意識があったわけですね。
そう。だから問題意識をあえて煽りながら、業態転換とは言わないけれども、次のイノベーションを起こそうという気運が盛り上がっていった。これも経営手法としてはなかなかおもしろいところです。我々はみんな、そういう流れを受け継いでいるわけです。だから僕も経営を担う立場になった時には、当然その流れの中で考えるし、それが自然だったということですね。
売上げ1兆円を超えても、変化し続けるヤマトグループの原動力は、小倉氏が打ち立てた行動原理の存在だ。それによって、例えば、商品開発においても、何がまず優先されるべきかが明確となる。もう一つが挫折経験だ。今や経営危機を知る経営陣や従業員は、ほとんど第一線を退いているにもかかわらず、脈々とその危機感が受け継がれている。それが、元気な時にこそ革新をという行動を生み出していると言えるだろう。
次回はこの革新性をサポートする仕組みを中心に話を聞く
6/3/2013 9:01:33 AM
インフレ目標2%は達成不可能
インタビュー:野口悠紀雄氏(早稲田大学大学院ファイナンス研究科顧問)
インフレターゲットに対して批判的なことで知られる早稲田大学大学院顧問の野口悠紀雄氏は、先に安倍政権と日銀が合意した年率2%のインフレ目標について「達成は不可能」と語り、あらためて金融政策では経済の活性化はできないとの考え方を強調する。
野口氏は過去10年の日本の金融緩和策がインフレにはつながらなかったことを指摘した上で、日銀が2%のインフレが達成されるまで国債を買い続けることになれば、日銀による財政ファイナンスによって公共事業などのばらまきが横行する危険性があるとの懸念を表明する。アベノミクスがはらむリスクについてジャーナリストの神保哲生が野口氏に訊いた。
17:53 2013/06/02
アベノミクスは浦島太郎の経済学だ
インタビュー:浜 矩子氏(同志社大学大学院ビジネス研究科教授)
「浦島太郎の経済学」。同志社大学大学院の浜矩子教授はアベノミクスをそう評する。
アベノミクスではインフレターゲットなどの金融政策が前面に出てきているが、その実態はばらまき型公共事業や円安による輸出企業の救済であり、これは50~60年前の「浦島太郎」の経済戦略だと浜氏は言う。
その上で浜氏は、既に成熟している日本経済に今必要なのは、インフレターゲットでも成長戦略でもなく成熟戦略であるとして、今日本は既に積み上げた国富を国民全体でどう分かち合っていくのか考えなければならない段階にあるとの考えを示す。
ジャーナリストの神保哲生が浜氏にアベノミクスの評価と懸念点を訊いた。
関連番組17:51
2013/06/02
引用終わり
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